第十一話・葉奈子の結婚
葉奈子の父、公男の親戚とは交流がない。公男の生母は、公夫が三才の時に、妹の敏子の出産時の失血により亡くなった。幼子と乳児を抱えた祖父の幸太郎は子守に雇った女と仲良くなり、そのまま後妻に迎える。後妻は公男の異母弟を次々に産み、幸太郎に隠れて幼い公男を虐待していたという。公男のどもりや内気さ、自信のなさはすべてそこから来ている。
卦配家は豆島家よりは家柄がよかった。幸太郎は先の戦争の折、海外に配属されず皇居内の護衛に当たっていた近衛兵だ。戦前は家柄も体格もよくなければ近衛兵になれない。その祖父も禁裏の警護をしていたという。そんな家は大阪市内でも数少ない。
豆島家は春子に卦配家の公男との縁談があったとき、とても喜んだという。公男は工業高校の電気科卒業で関西電力に勤務している。年齢が八才違う上に、意地の悪い後妻がいると聞いていても取り合わなかった。当時は元気だった夕子は特に熱心に話をすすめたという。
「多少の傷はどこの家でもある。後妻は邪魔だが公男さんもまじめでおとなしくお酒やたばこを飲まない人らしい。卦配家と縁組したら、豆島家の価値もあがる。ぜひお嫁にもらっていただきなさい」
時に昭和三十年代。
葉奈子はそうして生まれた娘だ。中高一貫の素通学園、次いで付属の短大の卒業後に私立病院の医療事務員となる。ほどなく、同じく補聴器使用者の事務員、白糸昇と恋愛する。ただ補聴器使用者との恋愛は春子が許さないだろうという推測があり、交際を隠していた。
十年後、三十才の時にプロポーズされた。葉奈子は迷わず、大阪を出て昇の出身地の鳥取まで行くことにした。葉奈子は昇が好きだった。はじめて恋愛した人と結婚できてこんなに幸福なことはないと思う。昇も結婚相手は葉奈子以外には考えられないと思っている。二人は幸せだ。白糸家の義父母となる人々も祝福してくれる。
しかし春子は反対だ。なんと美富子まで出てきてあの人はやめときなさいと反対される。理由は、四つもある。
昇が大阪出身でないこと、
補聴器使用者であること、
実家が農家の長男であること、
高卒であること。
春子は昇の存在自体が気に入らず葉奈子に金切り声で別れるように諭す。
「もっとええ人がいるはずや。白糸さんは耳が悪い。大阪もんやない。大卒やない。農家の長男。ええとこないやんか。みっともない。しかも鳥取で暮らすて。そんなこと許さへん。さっさと別れなさい」
過去葉奈子は春子の人形であったが、今は意思を持っている。結婚の意思が固いことを告げると春子は絶叫する。
「あかんて。あんたは、あたしを捨てる気やな。絶対に許さへん。この親不孝者が」
春子にはしわが目立ち、不摂生な食生活の為たるんだ体を揺すって泣き叫ぶ。公男がなぐさめても無駄だ。どうにもならぬ。
「葉奈子があたしを捨てる気やあ、こんなに可愛がって育ててあげたのに、大阪を出て鳥取の人なんかと暮らす気やあ。育てた甲斐がないとはこういうこっちゃあぁ」
春子は電話で美富子や継彦夫婦を呼び出してまで葉奈子を説得する。芳江の運転で三人はすぐに新毛東町の卦配家まで来た。久々に見た美富子はあいかわらず美しい。老けていない。そして葉奈子に対する嫌悪感を隠さない。
「相手は鳥取の人やてな。あんたは大阪生まれの大阪育ちやのになんでや。しかも高卒。そんなのと十年もつきあってたって? ほかにいい相手がなかったんか。卦配家どころか豆島の家まで傷つける気? あかんがな。あたしが誰かに頼んでもっとええ人を紹介したげるさかい、そんな人と結婚するのやめとき」
「お断りします」
葉奈子はにべもなく言う。ここまでくると春子はもちろん、美富子も継彦も芳江も嫌いだ。みんなして、糖尿病がすすみ、やせ細った公男を田畑こき使う人々だ。春子も動かないくせに米や野菜を無料でもらいたいがために公男を使い走りにしてはばからない。おまけに甘いもの好きな春子はカレーにすら、大量の砂糖を入れる。幼いころはわからなかった。成人して外食して、カレーライスがこんなにもおいしいものだと感動した。長期にわたりそんな調理法では、公男が糖尿病になるのは当たり前だ。多少は控えめに味付けしているとはいうが、まだ甘辛い。何度言っても自説を曲げないのは豆島家の血統か。幼いころから豆島の顔ではないと言われ哀しかったが、今では似なくてよかったと思っているぐらいだ。葉奈子は春子にきっぱりと告げる。
「私は昇さんと結婚して幸せになります。もちろん私は一人娘なので時折大阪に帰って両親の面倒は見るつもりです」
春子は泣きわめく。
「せめて大阪の人と結婚してや。あんな人、あかんて」
「昇さんと会ってもいないくせにそういうのね。それで今まで会わせられなかった。聴力に障碍があってもまじめに働いている。私はあの人と結婚して、幸せになります」
「あかん、鳥取に行ったらあんたは絶対に不幸になる。田舎で高卒で補聴器を使う人と暮らしたら絶対に不幸になるて」
美富子も仁王立ちになって葉奈子に怒鳴る。
「春ちゃんがこないに泣いてる。あんた、そんなにしてまで結婚したいんか。うちらと絶縁になってもええんか」
そこへ急に公男が割って入る。
「み、み、みみ、みっちゃん。こ、ここ、この子のじ人生や、すす好きなようにさ、ささささせてやり」
公男が会話に入ってくるのは初めてのことだ。美富子は驚いて黙った。春子はまだ泣きじゃくっている。葉奈子は公男の手元を見る。大きな紙を広げて大事そうにもっている。
「お父さん、それは」
「こ、こ、これはと鳥取県の地図や。ししし白糸くんと言ったか。湯梨浜出身と言ったか。え、ええ、ええとこや。湯梨浜は海に近いとこやな。は、は、葉奈子がみみみ見つけた人やさかい、ま、ま、間違いない」
「お父さん……あの、今まで黙っていてごめんなさい」
継彦が両腕を組んだまま肩をすくめた。
「ま、春ちゃんは、はあちゃんをかわいがりすぎたんや。はっきりいって人形扱いにしてたがな。遅すぎた反抗期やろ」
芳江も後を継ぐ。
「白糸さんとやらが農家なら土地はあるな。でも鳥取は大阪と違って不動産価格に関しては月とすっぽんや。どうせ安いところやろ。土地はあってもお金がなくて苦労するのが目に見えている。だから春子姉さんも心配しているんやで、そこをわかってやりぃな」
美富子もいう。
「そんな条件の悪い相手でも結婚したいんやったら勝手にしいや。せやけど、あんたは長女や。この卦配の家をどうするかもちゃんと考えなあかんがな」
美富子の話しぶりはさすがでいろいろな人の家庭内の話、それにまつわるお金の預け先の相談をされている自信にあふれている。しかし葉奈子は取り合わない。葉奈子は来てくれたことには礼をいい、詳細が決まれば二人であいさつに伺うという話をした。美富子はまた怒鳴る。
「ほんまに結婚して春ちゃんを置いて鳥取に行くんやったら、挨拶なんか来んでええ」
葉奈子は「そうですか」 と言う。美富子は「あんたのそういうところが嫌いや」 と言い捨てて出ていく。継彦夫婦も軽蔑の視線をよこして出ていく。春子だけがひいひいと泣いている。公男は頷くだけだ。
「きき気にするな。は、は、葉奈子を幸せにしてくれるあ、あ、相手やったら、え、え、えええねんで」
「お父さん、ほんまにありがとう」
春子の泣き声を背景に葉奈子は公男にお礼をいう。
「はあちゃん。あんたにはようしてあげたのにぃ、育ててあげたのにぃ、かわいがってあげたのにぃ、ほんまに親不孝者や。この家を出ていくなんてぇ、私を置いていくなんてぇひどすぎやぁ」
春子は葉奈子にとっても唯一無二の母で、確かによくしてもらった。かわいがってもらった。しかし葉奈子の幸福を願うといっておきながら、長期にわたって悪気ない優しい虐待を続けてきた。三十才を過ぎてから葉奈子はやっと己の立ち位置を理解した。
母に似ない不細工な子、メガネをしている、聴力が悪い、補聴器を隠せ、健常なふり、聞こえているふりをしておけ……それが春子の子育てだった。葉奈子はどんなに哀しかったか。社会に出てしかも病院に勤務するようになってわかった。世の中は五体満足の人より、なんらかの障害や苦しみを抱えて生きている人が多いという当たり前のことを。春子は未だそれを知らぬ。親戚や周囲で発言を許さなかったのは、葉奈子が世間知を得ることを本能的に恐れていたのではないか。
もう葉奈子にはわかっている。人前で話すことを禁じたのは耳が悪くて聞き間違いや発音が拙いことを知られたくなかっただけだ。みんな知っていたのに。
白糸昇との出会いは今でも思い出す。出会いの第一声が補聴器の話でどんなに驚いたか。
「卦配葉奈子さんってきみ? 補聴器をしているのだって? ぼくもだよ」
昇は短髪で補聴器はしかも耳かけ式だ。葉奈子よりもずっと聴力が悪いらしく、発音も舌足らずでおかしい。昇と話す時は言葉を大きく区切らないといけなかった。
最初は昇と二人きりの会話は、恥ずかしかった。二人とも聴力が劣っているので内緒話ができない。退勤前は会計係の待ち合わせをしたが、通り過ぎる人が笑っているように思えた。しかし昇は意に介さない。いつも笑顔でいる。葉奈子と話すのが本当に楽しそうだ。葉奈子は昇に問われるままに、補聴器を使い始めたきっかけと、昔は母親に言われた通り隠れて使用し炊いたという。その話を聞いた昇は涙ぐみ「かわいそうに」 と言う。そうか、葉奈子はかわいそうだったのか。
奇妙な発音で朝に夕に笑顔で話しかける昇。医師や看護師、患者に対してもそれは変わらぬ。大阪出身でないのは言葉のイントネーションが違うのでそれはすぐにわかった。昇と話すうちに、葉奈子はだんだんと気負いがとけていくのがわかった。それからは昇の猛アタックだ。職場は医療事務室で昇は同じ事務職でも、部屋が別のデータ管理室。出勤と退勤前には必ず葉奈子のいる場所にあいさつしてくる。すぐに冷やかされるが、昼食も一緒に取るようになると公認になった。実に十年間、春子には内緒でつきあった。
春子が門限を九時までに設定したので遅くまでデートはできない。葉奈子が三十才、昇が三十才。鳥取の生家に連れていかれると山のなかなのに、二階にあがると海の水平線が見えた。新毛東の家の周囲はもう田畑はなくマンションが林立しているベッドタウンだ。環境が全然違う。庭にはにわとりが五羽いる。雑種の犬もいる。裏には畑もある。過疎の田舎だが良い環境だ。昇は田んぼの稲をさらさらと触りながら言った。
「田舎がいやで都会の大阪に出てきたが。やっぱり田舎がいいな。よかったらぼくのところに来ない? ぜいたくはさせてあげられないけど、一緒に楽しく暮らそう」
葉奈子が一番先に考えたのは卦配の家がどうなるかだ。いや、公男が卦配家の長男でありながら祖父の後妻と異母弟に追い出されたことは知っている。それよりも春子が問題だ。春子が葉奈子に執着していることを疎ましく感じていた時期だから渡りに船だ。どんなに縁談があっても難癖をつける春子に嫌気がさしていた。
公男は春子に遠慮して生きており、万事受け身の人と感じている。継母に強圧的にそして異母弟たちと差別を受けて育てられたから意思がないと思っている。
しかし結婚に関しては別人のように春子に言った。
「も、ももう葉奈子は大人やで。み見守ってあげなさい」
春子は「公男さんまでそんなことを言うなんてひどい」 と泣き出したが公男は取り合わない。葉奈子に「幸せになれ」 と告げた。
本当に娘の幸せを祈るなら、年齢と職業と出身地を告げただけで言下に「そんな人あかん」 とは言わぬ。葉奈子は春子と一緒に暮らしていると己の人生が本当にだめになると思っている。公男と葉奈子は似ている。でも葉奈子には未来がある。葉奈子はまず春子抜きで、公男と昇と引き合わせた。
「むむ娘を、よよろしくおおお願いします」
「ありがとうございます。葉奈子さんを必ず幸せにします」
結婚式は簡素なものにした。鳥取の海の見える教会で二人だけで挙げた。昇の両親と同居になるが、何度か会って朴訥でいい人だとわかっている。一緒に暮らして幸せになるつもりだ。そして時折大阪に帰る。春子も見捨てず、具合の悪い時は一緒に過ごすつもりだ。最終的に春子も折れた。




