114行っちゃった
「怪我、治しましょうか」
「ありがと」
マリ姫様と二人きりの旅が始まった。危険な森と聞いていたけれど、今のところ魔物にも遭遇していないし、困ったことは何も起きていない。やっぱり私達はこの森に歓迎されているのかな?
とは言え、足元の悪い森の中。マリ姫様はすぐに転ぶ。私は、たくさん制限装置が解除されたお陰で、簡単な擦り傷程度なら殺菌して肌を結界で覆うことができるようになっていた。
「やっぱり、マリ姫様に結界かけていい?」
これが一番手っ取り早いと思う。結界の中に入って移動すれば、彼女は怪我をしないし、体力も消耗しないと思うのだ。
「駄目だ。そのようなものがあっては、世界樹の位置が分からなくなる。それに自分で歩かないと、世界樹には辿り着くことができないことになっているから」
「嫌な設定だね」
「この世界の世界樹の思し召しのことは、俺もよく分からない」
マリ姫様はため息をつく。私はふと、日本にいた頃を思い出した。小さな頃、転んだ私に「痛いの痛いの飛んでいけ!」をしてくれたのは衛介だった。なかなか泣き止まない私の頭と背中をポンポンと叩いて、「大丈夫」と繰り返してくれたっけ。今は、すっかり立場が逆転していて変な感じ。
うん、分かってるよ。マリ姫様と衛介は同一人物であって、そうではないのだ。
木の太い根っこの上に腰掛けるマリ姫様。顕になったお膝には血が滲んでいる。私はそこにかがみ込んで、患部に向かって両手を翳した。ふわっと白い光が溢れて、みるみるうちに血が消えていく。若干名残は残るものの、傷はすっかり良くなった。
「いい眺めだなぁ」
こちらを見下ろしてニヤニヤするマリ姫様。私はジロリと彼女を睨む。そうなのだ。今、私は破廉恥な格好をしている。つまり、アレを着ているのである。ビキニアーマー!
私は、旅ではこのレアアイテムを封印しておきたかったので、こっそり騎士寮に置いてきたはずだった。なのに、なぜのここにあるのかというと、原因はミントさんである。あの出発の日、ミントさんは集合時間ギリギリになって現れたのは、私の部屋からビキニアーマーを回収していたのが理由だったのだ。
エルフの里で、「これ、忘れ物よ」と笑顔で差し出された時は、背筋が凍ったわ! 何でも、救世主として世界樹へ向かうにはビキニアーマーが必須アイテムだとか。歴代救世主もこれを着たのかと尋ねると、そうだと答えてくれたのたけれど本当かな? ノリの良さそうな他のエルフさんも、「それが習わしだ」なぁんて言うから、あれよあれよという間に着替えさせられて、この非常に心許ない格好で旅に出されてしまったのである。
だけどこの装備、外見はかなり防御力が薄そうなのに、意外とデキル子だ。マリ姫様は傷だらけになる一方、私は擦り傷一つついていないもの。露出の高さのわりに寒さも全く感じないし、相変わらず不思議なアイテムである。
その時、私はちょっと良いことを思いついた。
「あ、そうだ。マリ姫様がこの装備を着たらいいんじゃない?」
「えー。その前に一回でいいから胸揉ませて」
――パチンっ!
と良い音が森の中に響く。
とりあえず私は、怪しげな動きで差し迫るマリ姫様の手を叩き落としたのだった。
「一回ぐらいいいじゃん」
「だーめっ」
「ケチ」
やっぱり、この人の中身は男の子だわ。私はため息をつくと立ち上がった。森の中の景色は、どこまで歩いても全く変わらない。エルフの里を出発してから、かれこれ丸五日は経った。
ミントさんが話していた通り、標識もないのに、私達には行くべき方向が直感でわかる。見えない何かに導かれるようにして進んでいく。私には、その何かが、かなり近づいてきた気がしていた。マリ姫様の腕にある次期管理人の証も薄い緑に発光し始めている。彼女も同じように、旅の終わりを予感しているのではなかろうか。だからこそ、ふざけたりしているのかな?と思うとちょっと切ない。
私は、ソレルさんからお餞別としてもらった植物辞典みたいな本を開いた。この本、意外と使える。森の中での食事は、今や自給自足。私ったら、白の魔術を駆使すれば暖かいご飯をいくらでも持ってこれたのに、何も特別な準備をせずに森に入ってしまったものだから、自分で食べられる果物などを採取するしかない。そんな時、どの果物が危険か、そうでないのか、本が教えてくれる。
「マリ姫様、朝ご飯にしましょ」
私は、近くの木から薄桃色の丸い実をもぎ取った。これは甘みが強くて水分も多い。種は毒々しい紫だけれど、けっこう美味しいのだ。マリ姫様は、静かに実を受け取ると、そのまま口元に運んでいた。
「姫乃」
「もっとほしいの? 取ってこようか?」
「たぶん、これが最後の食事になる」
私はしばらくの間、桃色の実を齧る彼女をじっと見つめていた。彼女が人として残された時間は後僅か。それを一秒たりとも見逃したくない気がして。
「そっか」
私の返事は素っ気無いものになってしまった。どんな声を出すのが正解なのか、どうしても分からなくて泣きたくなった。
◇
それは、お昼にも至らない時間。朝ご飯を食べた場所からしばらく歩くと、突然視界が開けて、完全に別の場所に辿り着いた。
世界樹。
看板があるわけでも、誰に教えられたでもない。けれど、それなのだと分かってしまった。
ただただ巨大な木。知っている木の中では、楠の木に少し似ているかもしれない。空を隠してしまう程に高く、見渡す限りの地面を覆い尽くすように広くその枝は伸びていて、緑がかった虹色の葉っぱをぎっしり生い茂らせている。その足元にはふわふわの苔が広がっていて、仄かに白く光り輝いていた。
世界の源。
全てが生まれ、還る場所。
そんな気がした。
美しく、圧倒的な存在感。全身に鳥肌が立ち、声も出ない。
見つめていると、それだけで幸せなような、懐かしいような、不思議な気持ちにさせられる。なぜだか焦がれてしまうのだ。
どこからか、柔らかな風が吹いてくる。それに煽られた世界樹の葉っぱが、いくらか枝から離れて宙を舞い、緩やかな弧を描きながら私達の頭上を周回する。
風は、さらに吹き抜けていく。
世界樹の葉っぱ全てがサワサワと揺れて、合唱しているよう。誰かの声みたいに聞こえる。そうだ。お母さんの、声。もちろん、私の本当のお母さんの声ではない。でも、この音には確実に母性があり、聴く者を包み込む暖かさがある。
しばらくすると、頭上の葉っぱが、ふとその動きを止めた。真っ白な光を放ちながら、輪の形になり、やがてそれは冠のようにマリ姫様の頭の上にゆっくりと下りていく。
世界樹が、マリ姫様を迎えに来たのだ。
マリ姫様が、こちらを向く。その顔は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「もう、行くの?」
マリ姫様は、重々しく頷く。
「運命が、それを望んでるから」
私は、何か言い返したいのに、言葉が見つからない。私は。私はここまで来てしまったけれど、それでも――。
「エース……姫乃。皆のことを頼んだよ。母上や父上、一応クレソンのことも。ラベンダーや城の皆にもたくさん世話になった。俺が生きた十八年間は、本当に幸せなものだった」
白い光の冠が、一層強く輝き始める。
マリ姫の身体は、音も無く、ゆっくりと浮上を始めた。私は慌てて手を伸ばす。マリ姫様も、その華奢な手で私の手を握り返してくれる。でも、それもすぐに解かれることとなった。彼女の温もりが、少しずつ遠ざかっていく。その姿も、虹色に溶けていく。
もう、いてもたってもいられない。
「衛介!」
叫んだ。
その瞬間、奇跡が起こる。
そこに浮かんでいたのは、マリ姫様ではなかった。
「衛介?」
紛れもなく、彼は衛介だった。いつも親切で面倒見が良くて、カッコよくて、なかなか本音は言わずに強がってばかりだった、私の大切な大切な幼馴染であり……、好きだった、人。
一緒に通うはずだった高校の制服を纏った衛介は、ちゃんとあの頃と同じ日本人顔で、照れくさそうに笑っている。
「似合ってるよ」
「ありがと」
「もっと一緒に、いたかったよ」
「俺も」
「どうして行っちゃうの?」
「そういうことになってるんだ。それに、俺自身がそう決めた」
「でも、寂しいよ」
「たぶん、俺の方が寂しい。だから、泣くな」
泣かないなんて、無理だ。
あぁ、今の私、すっごく不細工だろうな。こんな時ぐらい、美少女になれたらなぁ。でも、これが私だからな。
「姫乃」
私は目元をゴシゴシ拭って、衛介の方を見上げた。
「姫乃、愛してるよ。誰よりも、誰よりも幸せになってほしい。そのために俺は、世界樹とひとつになる。クレソンと仲良くやれよ。ちゃんと見てるからな。ずっと、ずっと、見守ってるから」
「衛介!!」
風に、色が付き始めた。ありとあらゆる色の風が衛介の周りを吹き抜けていく。衛介の身体が、次第に透明になり始めた。
「最後に、俺を守ってくれないか?」
衛介の眼差しは穏やかだった。
「俺は今から、世界樹と一体になる。これはこの世界と一つになるのと同じ。俺を守るつもりで、交代の瞬間はエースの力で世界を守ってくれ。俺の、最後の、お願いだ」
最後。
という言葉が悲しすぎて。重すぎて。重力が百倍ぐらいに感じる。
だけど、やらなきゃ。このことは、前から衛介に聞いていたから分かってる。交代の瞬間は世界樹の力が一時的に止まってしまい、世界のあらゆるもののバランスが不均衡になるので、それを白の魔術で補強せねばならない。
それに何より、これは衛介の願いだ。
叶えなきゃ。
私にできることは、これしかない。ちっぽけな私が偉大な彼と出会って、これまでもらった幸せの分。精一杯。
『第八十六制限装置解除』
私は両手を天に向かって突き上げた。白の魔術を展開する。なぜだか、いつもと様子が違った。自然と、私の足が地面からどんどん膨大な魔力みたいなものを吸い上げていく。それが体内を駆け抜けて手を通り抜けると、大きな白い光のボールを作り上げていく。その密度はとんでもなく高まっていった。
私は、ずっと前から決めていた言葉を叫ぶ。
「衛介、ありがとう!」
「姫乃、ありがとう!」
次の瞬間、白の魔術の集大成、奥義とも呼べる結晶が臨界に達し、弾け飛ぶ。
轟音と防風。
白く塗りつぶされていく世界。
全てがスローモーションで見える。
その狭間、目を細めてこちらに手を振る衛介がチラリと見えた。
目が、合った。
衛介、私も上手く笑えてるかな?
笑って見送るって、決めてたんだ。
私、衛介と出会えて、嬉しいことがたくさんあったよ。
でも、辛いことの方がたくさんあったよ。
そして、別れは悲しい。
身が千切れそうだよ。
それでもやっぱり。
私、
衛介と出会えて良かったよ。
あなたと私の関係性を表す言葉は、この世には存在しない。ただの衛介と、ただの姫乃。そういう、どこにでもありそうで、どこにも無いような、特別な間柄だったね。
好きでいさせてくれて、ありがとう。
いつも、心配してくれてありがとう。
私の幸せを、いつも一番に願ってくれて、ありがとう。
唯一、見送る権利を与えてくれて、ありがとう。
あなたは、私の唯一無二です。
きっとこの縁は、これからも世界や次元、あらゆる理を超えて、永久に切れることがないでしょう。私はそれを、信じます。
気がついたら、目の前には虹色の葉っぱをたくさんつけた世界樹がそびえていた。ずっと昔からそうだったように。何事も無かったのように。さわさわと葉を揺らめかせて、静かに佇んでいる。
私は倒れていたらしい。起き上がって、その幹に触れようと近づいていくと、よりその巨大さを感じることができる。
たくさん歩いた。
私は、世界樹の幹に触れる。手のひらを押し付けて、次に頬を寄せる。耳も当てた。鼓動のようなものを感じた。
もう、どこにも衛介はいない。
マリ姫様も、いない。
来た方向を振り向くと、青々とした明るい森が見えた。小鳥の声までする。二人で抜けてきた同じ森とは、到底思えなかった。死んだように暗い深淵のジャングルは、どこにも見当たらない。
そっか。
世界樹の管理人は、無事に交代されたということか。
私は、もう一度世界樹を見上げる。
ここに来るのは、きっとこれが最初で最後になるのだろう。だから――。
「さようなら」
それからのことは、ほとんど覚えていない。
次に正気に戻ったのは、ハーヴィー王城だった。
後から聞いた話では、私は猛烈な白い光の渦と共に、突然北門前に現れたという。それも、一人で。髪は、また元の黒髪に戻っていたそうだ。