第525話 別れの時
ミチナガは路地に入り、人気のない場所へ行く。治安維持にも力を入れているユグドラシル国ならば裏路地でも命の危険はない。
「さて、ここなら良いか。ポチ、頼めるか?」
『ポチ・りょーかい。』
ポチはエヴォルヴに搭乗し、ミチナガをお姫様抱っこした。なんともシュールな状態だが、ミチナガはなんの意見を言うこともなくされるがままだ。するとポチは空を駆け上がった。
魔力で足場を構築し、周囲からの風を遮りながらあっという間に世界樹の枝葉の上に止まった。上空300mを優に超している。だがまだここは世界樹の高さの半分も来ていない。ミチナガはさらに上へ行くようにポチに指示を出した。
そしてさらに300m上空へと上がるとそこは別世界であった。世界樹の巨大な枝の上にいくつもの植物が自生している。それにそこまで寒くない。世界樹の上に独自の生態系が築かれている。
「この辺りの植物を採取してやったら学者達は大喜びしそうだな。君はどう思うリリー。」
「ちゃんと来てくれたね。ありがとうミチナガくん。」
ミチナガが地上で感じた気配の正体。それはリリーであった。リリーはミチナガならば気がつくとここで待っていたのだ。
「あんな視線感じたらね。ちょっとおしゃべりするのも良いんだけど…夕食がまだなんだ。どうせなら一緒にどうだい?」
「えへへへ。実はあらかじめ作って来たんだ。夜のピクニック。食べてくれる?」
「ああ、リリーが作って来てくれたならなんでも喜んで食べるよ。」
ミチナガはリリーと共に世界樹の枝に腰掛ける。目の前に広がる絶景はなんとも素晴らしいものだ。ただし決して下を見ては行けない。一度でも下を見れば恐怖で足がすくみ、声が震えてしまうことだろう。
「シェフくんに教えてもらったの。だから美味しくできていると思うんだけど…どうかな?」
「ん…美味しいよ。シェフの味とはまたちょっと違うな。これがリリーの作った味なんだね。」
シェフのようなプロの味とは違った家庭の味だ。心安らぐような味だ。ミチナガが美味しそうに食べる様子を見たリリーは頬を染めて喜んだ。
そしてしばらく食べ進めながら他愛もない会話をしていく。そして腹がある程度膨れて来たところでリリーから切り出した。
「もう…行っちゃうの?」
「ああ、少し長居しすぎた。あとの予定のことを考えるとそろそろ行かなくちゃならない。」
「そうなんだ…付いて行きたいけどこの国のこと、世界樹のことがあるから離れられないなぁ。」
残念そうにするリリー。だがわがままを言ってはいけないこともわかっている。今の幼い世界樹にはリリーが必要だ。ミチナガに同行すれば世界樹に異常が出るかもしれない。リリーは自身の役目がわかっているからこそ、その役目のためにこの地に残る。
そして二人の間に沈黙が流れた。風と葉の擦れる音だけが聞こえる。そんな中でリリーは緊張しているのか呼吸が荒くなっている。そしてわずかに風の止んだ無音の瞬間、リリーは口を開いた。
「ねぇミチナガくん。」
「ん?」
「私あなたのことが好き。」
突然の告白。しかしリリーがミチナガを好きと言ったことはこれまでも何度かある。周囲にも周知の事実だ。しかし今の言葉は軽いものではない。本気の告白だ。ミチナガもそれをすぐに感じ取ったが何も言葉を発さない。いや、発せない。そしてリリーの気持ちは爆発した。
「好き…あなたがいれば他の何もいらない。大好きなのミチナガくん…あなたのことが好き…」
「…………ああ、知ってる。俺も好きだよ、リリー。」
溢れる気持ちを抑えようとし始めたリリーに対するミチナガの返答。それは今までの子供扱いではない。ミチナガから初めての男としての返答。その言葉を聞いたリリーは溢れた気持ちが抑えきれなくなり、泣きじゃくりながらミチナガに抱きついた。
「好き…大好き……愛してるわミチナガ…」
「ああ…俺も愛してるよリリー。」
リリーは抱きついたまま離さない。ミチナガも優しくリリーを抱きしめる。リリーはようやく念願がかなった。初恋の相手と結ばれた。そして泣き止んだリリーはミチナガを離した。だがそんなリリーの表情は喜びではなく、失意のものであった。
「…それでも……行っちゃうのね。もう…会えないの?」
「…ごめん。最後に君と会えてよかった。俺のことは忘れてくれ。俺はもうおじさんだ。このままじゃ寿命も幾ばくもない。君は新しい人を探してくれ…」
「寿命なんて関係ない。…もう私は…死ぬことはない……」
リリーは自分の体に置きた異変を知っている。あの戦争の時、ゴディアンから世界樹の核が抜けて世界樹へと戻った。それにより若木だった世界樹は再び復活したのだ。しかしゴディアンの持つ世界樹の核は成熟しきった世界樹のもの。その内包する力は膨大なものだ。
そんな膨大な力を若い世界樹の苗が受け止めきれるはずがない。そこで世界樹は受け止めきれない分を世界樹にもっとも親和性のあるリリーに授けたのだ。リリーは世界樹に愛された乙女ではない。リリーそのものが世界樹となったのだ。
リリーの持つ世界樹の力は本来9つの世界を有する世界樹の世界の2つ分の力に匹敵する。もうリリーの寿命はこの星が滅ぶその時まで伸びてしまった。もうこの世界の誰とも同じ時間を共有しない。
「私はあなたと生きた時間だけを思い出に生きて行く。もう誰も愛することはない。ねぇ…ミチナガくん…お願い……」
「…すまない。それでも俺にはやらなくちゃならないことがあるんだ。…これはもう俺一人の願いじゃないんだ。この願いには…大勢の想いが、命が込められているんだ。」
ミチナガはそれでもリリーを拒んだ。しかしリリーの表情にショックはない。こうなることを予期していた。きっとミチナガならこう答えると。それがリリーの愛したミチナガという男だと。だから既にリリーは覚悟ができている。
「わかった。わかったわミチナガくん。じゃあせめて…せめて今日だけでも…太陽が再び登ってくるその時までは…私をあなたのものにして…」
「ああ、わかった。今日だけは俺は君だけのものだ……」
ミチナガとリリーは顔を寄せ合い、唇を重ねる。ほんのわずかにしか触れ合わぬ唇は震えていた。緊張か喜びか、はたまた恐怖か。そして再び離れた二人は目を開いて相手の表情を見る。
リリーは泣いていた。そしてミチナガも泣いていた。肩を震わせ、声を出さずにミチナガは泣いていた。そんなミチナガを強く、そして優しく抱きしめたリリーは再びミチナガと唇を重ねる。
『ポチ・…これ以上はお邪魔だね。退散退散っと。』
ポチはその場からすぐさま立ち去る。今だけは二人だけの世界だ。誰にも邪魔はできない。