第506話 これで戦争は本当に終わった
カリカリとペンが文字を産む音が聞こえる。そんなかすかな音だけがこだまする部屋にふわりと風が舞い込んだ。すると男はペンを動かす手を止め、一息つくためにグラスへ手を伸ばす。グラスは氷に冷やされたコーヒーの影響で表面に水滴をつけている。
冷えたコーヒーは冷たさとカフェインにより男の思考をはっきりとさせた。これでもう一踏ん張りできると意気込む男の手からグラスに付いていた水滴がポツリと落ちた。その水滴は見事男が書き込んでいた紙面に染み渡った。
「あちゃぁ…文字が滲んじゃったよ。…まあこのくらいなら平気か。それよりも手が濡れたから拭かないと。タオルタオル…」
濡れた手を乾かすためのタオルを探すが手頃なものが身近にない。仕方なく服で手とグラスを拭くと、そこでタイミング悪く扉が開かれた。
『ポチ・あ!また服で拭いてる。良い服なんだから大切に使ってよ。』
「ごめんごめん。拭くものなかったもんだからついね。あ、もうすぐこっちの書類書き終わるよ。」
『ポチ・それは良かった。それじゃあ新しい仕事ね。こっちも片付けちゃって。』
「げぇ…また随分ときたな。…ダンジョン関連の報告書もあるのか。」
ポチから届けられた書類に目を通す。また随分と多くの書類が来たが、報告書が半分以上を占めている。これならすぐに片付きそうだ。それにチラッと目を通したが悪い報告書ではなさそうだ。
「9大ダンジョンの攻略は順調だな。」
『ポチ・むしろ予定よりも早く進んでいるよ。極寒のニヴルヘイムは最終階層到達。最低でも半月以内に踏破完了するよ。悪戯のアルヴヘイムと魍魎のヘルヘイムも二ヶ月以内には踏破できそう。龍巣のヨルムンガンドと深海のアトランティスは若干時間がかかっている。けど半年以内にはなんとかなるかな?煉獄のムスプルヘイムは他と比べてもだいぶ遅れているね。でも近々ナイトに龍巣のヨルムンガンドから一度こっちに移ってもらう予定。そこでだいぶ巻き返せるかな?』
「よしよし。なんとか後1年以内には9大ダンジョン全て完全開放できそうだな。しかし…もうあれから4年経ったのか……」
ミチナガは遠くを見つめる。ミチナガの言う通り戦争集結から4年の歳月が経過した。あの戦争からわずか4年。たったの4年で世界は様変わりした。
各国の復興はすでに終わり、今ではどこの国でも高層ビルの建設が始まっている。ちまたには数多くのダンジョンアイテムが並び、生活を豊かにしている。さらにそのダンジョンアイテムを研究し、世界の魔法学の平均水準は大きく引き上げられた。
9大ダンジョンのどれか一つがもたらす経済効果は年間金貨数兆枚と言う研究結果も出ており、各国の魔神達はその恩恵にあやかるために自らダンジョン攻略に乗り出した。
極寒のニヴルヘイムでは氷神。悪戯のアルヴヘイムでは妖精神。魍魎のヘルヘイムには神魔。深海のアトランティスには海神。龍巣のヨルムンガンドと煉獄のムスプルヘイムでは神剣。
ただ龍巣のヨルムンガンドと煉獄のムスプルヘイムは神剣であるイッシンが気の向いた時しか出向かない。そのため基本的にはイッシンの妻が当主をしているロクショウ流の門下生が稽古のために出向くことが多い。
さらに龍巣のヨルムンガンドには各国から猛者が集まり、少数精鋭で攻略に当たっている。煉獄のムスプルヘイムはセキヤ国とシェイクス国から共同でダンジョン攻略隊が出されているが、両国ともに火の国の領土を改革するためにも人材を必要としており、人員不足でなかなかダンジョンへ手が回らない。
ただそれでもミチナガが多額の投資をしているおかげで後1年以内にはなんとか全てのダンジョンを解放できる算段が整った。だがその影響でミチナガはここ最近書類仕事ばかりでまともな休みが取れていない。
しかしこんな仕事に忙殺される毎日とももうすぐおさらばかもしれない。今ポチが運んできた書類のほとんどは報告書ばかり。ミチナガの手が必要な書類は先月と比べればほんのわずかな量だ。
「もうだいぶ落ち着いてきたのかな。」
『ポチ・復興の日々は完全に終わりだよ。食糧問題も解決したし、流通問題もかなり良くなった。久々に部屋でゴロゴロして休む?』
「そうだな……それも良いけど…久しぶりに旅がしたいな。」
ミチナガは目を閉じて思い出す。楽しかった旅の日々を。大量の金貨を消費するスマホの影響でせわしなかった。トラブルに巻き込まれ命の危険が度々あった。辛い思い出だってたくさんある。しかしそれでもそんな日々はとても楽しかったのだと感じている。
そんな思い出に浸るミチナガの表情を見たポチも、旅の思い出を思い出すと無性に旅に出たくなって来た。
『ポチ・旅となるとまとまった休みが必要だね。でも今後半年間はダンジョン解放で色々と忙しくなりそうなんだよなぁ…小旅行くらいならなんとかなると思うけど?』
「いや、仕事を忘れておもいっきり羽を伸ばしたい。後半年間は頑張るとするよ。その間に俺が働かなくても平気な仕事のシステムを作り上げる。もうしばらくは社畜な日々を過ごすよ。」
『ポチ・了解。社畜といえば…例の研究うまくいってるみたい。今実証実験しててその次に動物実験と色々経ていけば完成するよ。半年か…最高でも1年以内には完成すると思う。』
「社畜のやつやるじゃんか。そうか…それは良かった。あいつには色々助けられたな。最初の頃は金食い虫だしわがままでひどかったが今では欠かせない優秀な人材だな。……いい加減あいつの名前ちゃんとしたのに変えてやるか?」
『ポチ・その必要はないと思うよ。社畜って名前も随分長くなっているから本人ももう嫌だなんて思ってないみたい。』
「そっか。そいつは良かった。」
色々あったが使い魔たちも今ではミチナガには欠かせない頼りになるやつらだ。最初の頃はまともに仕事ができるようになるまで大変であったが、家族のように大切な存在であった。一人で心細くなるようなことがなかったのは彼らのおかげだ。
「さて、それじゃあもう一踏ん張りするかな。っと、いてて…身体が凝っちゃったよ。今日もマッサージ頼める?」
『ポチ・はいはい。けどもう歳なんだから無理しないでよ。明日くらいはゆっくり体休めたら?』
「う〜〜ん…仕事も落ち着いたしそうするかな。」
ミチナガは一度席から立ち上がり体を伸ばす。ここ最近急激に年をとったと感じさせられる。この世界に来てから随分歳をとった。特に9大ダンジョン神域のヴァルハラでの時間の歪みによる数年間の日々は随分体にこたえた。
すでにミチナガの肉体年齢は四十を超え、五十近くまで来ている。この世界換算で行くと後20年かよくて30年で寿命を迎えることになるだろう。日々周囲の人々との年齢の差を感じ始めた。
しかしそんなものに気を取られていては余計に身体に悪い。だから周りを気にしないように仕事に打ち込む。まだヨボヨボになる程弱っていないのだからなんとでもなる。
それから半年後、ミチナガは全ての仕事を片付け目標であった久しぶりの旅を始めることになる。
そしてそれは関谷道長の最後の旅の始まりであった。
とうとう最終章始まります。それから次回はお休みです。