第十七話 俺の名は
階段を上ると、律儀に外で待つババアを見つけた。だが、何か様子がおかしい。
「やい、ババア! どれが俺様の部屋だよって、おいどうした?」
彼女は手すりに手をついて倒れるようにもたれ掛かっていた。思わず駆け足で部屋の前に向かう。
「ここだよ。この『205号室』があんたの部屋だ、加藤さん」
「おいおい大丈夫かよ、お前そんなぐったりしちまって。冗談抜きで死にそうな顔してんじゃん」
体調でも悪いのだろうか? ひどく弱った様子だ。
「ふふっ、さっきまであんなボロクソ言ってた癖に。加藤さんは他人の心配が出来る人なのかい?」
彼女は口元を少し緩めながら、弱々しく呟いた。
「さすがの俺でも、マジで死にそうな奴がいたらビビルわっ」
「ちょっと立ち眩みがしただけだ、もう大丈夫だよ。それにしても今日は暑いねぇ」
そう言ってハンカチを取り出した相賀は、額に浮かび上がる水滴を二度三度ぬぐった。
このババア、マジで大丈夫なのか?
どう扱ってよいか分からなかった俺はひとまず
「と――とりあえずさっさと部屋に入るぞっ!」
と、彼女を急いで中へと誘導した。
………………
「ほえ~」
部屋の明かりが点けられると、思わず気の抜けた声を出してしまった。
「どうだい、気に入ったかい?」
「お、おう」
思っていたよりもずっと綺麗だった。畳というやつだろこれ? 初めて足を乗せたが、案外しっくりくる。掃除も隅々まで行き届いているのか、埃っぽさも全くない。清潔に保たれているのが感じとれた。ふーん、ババアの癖にやるじゃん。
家具もいくつか既にあった。電気使うやつは名前の知らない物が多い。冷蔵庫は知ってる。ヘラが使ってた。生意気なババアだ。
部屋の真ん中に陣取っている丸いテーブル……ちゃぶ台とかいうやつか? ちんけな作りだが、ないよりマシと言ったところだろうか。
部屋の広さはそこまでないが、悪くない。まっ、及第点かな? 外観と見比べると天と地の差だ。ま、住んでやってもいいよ。
「約八畳のワンルームだね。畳は少し汚れているとこもあるけど、まぁ気になるようならまた言っておくれ。家具は備え付けのものがいくつかあるね」
相賀は説明をしながらカーテンを引くと、窓を開けて空気を入れ替えた。
「一応、毎日掃除はしてるんだけどね。急な申し込みだったから。細かいところで不備があるかもしれないけど、勘弁しておくれ」
「あーオッケーオッケー。ぶっちゃけ寝れればいいさ~。こまけえこたぁ気にしないのが俺様の流儀なんでな。あれ、ここ埃ひどくない?」
「細かいことは気にしないんじゃなかったのかい?」
「何いってんだよババア。神は細部に宿るって言うじゃん。そんな半端な仕事をしてもらっては困りますよ?」
「あんた言ってること無茶苦茶だよ」
「冗談だよw。こんなことでカリカリしてたらすぐにくたばっちまうぞ」
「はぁ」
彼女は呆れた様子だった。
場合によっては野宿も覚悟してたからなぁ。正直、これで一安心だ。今の俺にとってこの新しい住まいは、天より与えられしエデンといっても過言ではなかった。いくら狭くても、吹きさらしのところで寝るよりかは遥かにマシだ。
「いやぁ~外観見たときはまだ豚小屋の方がマシなんじゃねえかってガチで心配したけど、問題なさそうだな! んま~しいて言うならくそせまいのがネックだけどよwww。住めば都って言うしな! なかなか良いんじゃねぇの? うん、気に入ったぜババア!」
「そうかい、それは良かったねぇ。それじゃぁ、詳しくはお兄さんから聞いてるとは思うけど一応説明を――」
「いやっ、とりあえず今日はいいよ。ババア死にそうになってっからよw。まぁ、明日にでも聞かせてもらうわ! いいからてめぇは早く帰れ! シッシッ!!!」
ゼウスは彼女の言葉を遮ると、手を振りながら帰りを促した。
「そしたら、今日は帰ることにするよ。布団は押入れにあるから自由に使っておくれ。それじゃ、おやすみ加藤さん」
「おう、ありがとよ! あっ、永眠すんなよ~ババアwww。おやすみ!」
相賀は申し訳なさそうな顔をすると、ヨボヨボと歩きながら部屋から出て行った。
………………
「フフッ。フフフハハハハアーッハッハハハッッ!! どうなるかと思ったけどよぉ~、拠点が出来たらあとはこっちのもんよっ!! おれっちはこの世界を支配してやる~イヤッフォオオッ!!!!」
夜遅い時間ではあったがゼウスには微塵も関係なかった。彼は大声で笑いだし、畳の上に思いっきり寝っ転がると小指で鼻くそをホジリだす。
「あぁ^~生き返るわぁ~~。うわっ、鼻くそめっちゃついとる! ワロタwwwwゴォ~~シュートッ!!!」
彼は鼻くそを丸めて適当な場所に指で弾き飛ばすと、ニヤリと笑い大の字になった。
「はぁ~」
大きく体を伸ばすと、ゼウスは目を閉じた。
――――静かだ。
ゼウスが黙ると、部屋の中が途端に静かになる。窓の外から時折聞こえてくる虫の音以外は何もなく、物音一つ聞こえてこない。
静寂の中で彼は、今後のことについてあれこれ考えた。
(まずはどうすっかなぁ? 今日は、、、いろいろあったなぁ)
何の計画もせずに右も左も分からぬまま、人間界に降り立ったゼウス。彼は長い一日を振り返ると、自分が無知であるという受け入れがたい事実を認めざるを得なかった。
「やっぱ情報はないときついよな~。そうだっ! ハーデスニキのマニュアルがあったな」
ゼウスはごろごろと袋の方へと体を転がしていき、中にある分厚いマニュアルを取り出した。
(兄貴、いい奴だよな)
ずっしりと重みのあるマニュアルを手にしたゼウスには、ハーデスの自分に対する気持ちの強さがこれでもかと伝わっていた。
(いつか俺も、なんかしてやりてぇな)
ゼウスは、ハーデスの有難みにまたもや気づかされたのであった。
「ふぅ~なになに? 字小さっw! ん~いろいろ書いてんな~~んー)
ゼウスは寝転びながらマニュアルを読んでいたが、徐々に意識が朦朧としてきていた。瞼が重く、目を開けていることが困難であった。
(ん~? ……zzz)
やがて、間もなく彼の瞼は完全に閉じられた。
………………
~翌日の朝~
「ぐご~んがぁ~」
ゼウスは丸々太った腹を豪快にだし、大きないびきをかいていた。
――ピンポーン。
「はっ!!」
部屋にチャイム音が鳴り響くと、ゼウスは目を覚ました。
「いけね、寝ちまったのか? んん”ん~ふあぁ~ん? なんだこれ何も見えない」
大きく背伸びをしたゼウスは、長い欠伸をかくと視界がボヤけてることに気づく。玄関からはチャイムが一定間隔で鳴り続けている。
「ん? 何か鳴ってんな。それより、あっメガネか」
辺りを見渡すと少し離れたところに形が少し歪んだメガネを見つけた。
「あ~、つけたまま寝たからちょっと変形しちまってるな」
「すいませ~ん! お届け物で~すっ!!!」
チャイムと扉を叩く音が交互に部屋に響き渡り、玄関の方から声が聞こえてくる。
「うるっせぇなぁ!! 何だよ外かっ?」
ゼウスはメガネを急いでつけると、立ち上がり玄関のドアを開けた。
「うおおぃっ何だよっうるせえぞ!」
「あっ、すいませ〜ん配達の者ですが」
ドアを開けると、横に茶色い大きな箱を置いたいかにもモテそうな爽やか系の茶髪イケメンがいた。なんだこいつ忌々しい。俺こいつ嫌い。そういやイケメンとツボ売ってくるやつは信用しちゃいけねぇってじいちゃんが言ってたっけな、うん。
「おはようございます~! 田中電機から荷物をお届けに参りましたぁ~。加藤もこみち様でお間違いないですか?」
「は? 人違いです。俺ゼウス、以上」
「ではこちらにサインをって、ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は慌てる配達員に簡潔に意志を伝え、ドアを閉めようとした。
「あっちょ、ちょっと待ってください加藤様!」
配達員の男はとっさにドアを足で抑え、止めた。
「あ、なんだお前。俺様忙しいんだけど?」
「あっ、あのっ! 本当に加藤もこみち様ではないのでしょうかっ?」
「誰だよwww。そいつ誰だよ選手権上位入賞するレベルの誰だよ。知らねえよそんなくそだせえ名前のやつ」
「えっ、貴方ではないのですか?」
「ちげぇよ。まったく気を付けろよほんとに! 俺みたいなガチのイケメンじゃなかったら今頃、裁判沙汰だぞ~これ? あ?? 分かってんの?」
ゼウスの予想外の言葉に驚いた彼は、伝票の住所と名前を何度も確認した。
「す、すみません。ええ~おっかしいなぁ。住所は、、、間違ってないはずなんですけどねぇ? ちなみに送り主はハーデス太郎様になっております、プッw。あっ、ご存じないでしょうか?」
彼は差出人の名前に吹き出しそうになったが、なんとかもちこたえた。
「えっ、ハーデスニキっ!? まじかっ、じゃあそれ俺のもんじゃん! いや~、おれっち『加藤ゼウス』って名前なんで、てっきり人違いかと思ったぞ。なーにやってんだか、あのバカタレはwww」
ゼウスはハーデスからの荷物だと分かると急に手のひらを返し、荷物が自分の物であることを主張しだした。
「加藤ゼウス!!! ぶっふ~っwww」
「は? てんめえぇ〜今笑ったか???」
名前を聞きついに笑いをこらえきれなくなった配達員は、思わず吹き出してしまっていた。そのことにいち早く気が付いたゼウスは、真顔になると男に詰め寄った。彼は自分の名前に自信と誇りを持っており、過敏に反応するめんどくさい性格なのだ。
(や、やっべ。地雷踏んだっぽいな。さっさとサイン貰って帰ろ)
ゼウスのただならぬ名前に対するこだわりを汲み取った彼は、名前の話題に触れないように本題を進めた。
「い、いえいえっ! とんでもない滅相もありません! 素敵な名前だと思いますよ~。ではこちらに、あっ、この丸いところにサインかハンコを頂けますでしょうか?」
「はぁ? 俺様の名前を素敵とかいう普通の言葉で形容してんじゃねえぞカスw。ったくしょうがねぇなぁ~。羽根ペンは?」
「あ、すみません? 何ですか??」
男は羽ペンと言われ、一瞬なんのことか分からずに聞き返した。
「はぁっ!? 羽ペンだよ! ハ・ネ・ペ・ンッ!!! ないのっ!?」
「羽、ペン、ですか? あーすいません今、このペンしかなくて」
「うそだろっ! おいおい、近頃のガキはマナーのなってない奴が多すぎんぞ!! 世も末だなこりゃ。じゃあもうそれでいいからよこせっ!」
「あっ!」
ゼウスは乱暴な手つきで男からペンを奪い取ると、読めない文字でサインした。
「ほらよっ。ありがたく思えよカス」
「あ、はい。ありがとうございます」
嫌な客だなと思ってサインを見た配達員の男は、あまりの字の汚さに目を疑った。
(うわ、なにこれ? 読めないんだけど。きたねぇ字だな~)
不服そうな雰囲気を感じ取ったのか、ゼウスは――
「なんだ? なんか文句でもあんのか? あ??」
と、彼をにらみつけた。
「い、いやいやいや!! 実に『達筆』な字だなぁ~と思ってつい見とれちゃってたんですよ~」
配達員はさわやかな笑顔をゼウスに向けると、咄嗟に嘘を言ってごまかした。
「あっ君、もしかして字分かる人w? そうなんだよね~おれっち幼稚園のとき書道で金賞とってさぁ!!!」
「――――えっ」
予想外の展開に面食らう男。ゼウスが急に笑顔で上機嫌に話をしだしたことが理解出来なかった。
「そもそもねっ! 字っていうのは――――」
ゼウスはペラペラと饒舌に、聞かれてもいない自慢話を語りだした。
………………
「でさ~、あの時俺はこう言ってやったのよ。『お前の母ちゃんマジゴリラ』ってね! はははマジウケるwww」
全く関係のない話を延々と聞かされていた男は、いい加減限界にきていた。
(マジでめんどくさい人のところ来ちゃったなぁ~。でもそろそろ行かないと怒られちゃうし)
男は意を決して、ゼウスの話を遮った。
「あ、あのすいません。お話し中申し訳ないんですけど、僕もうそろそろ行かないと」
「はぁ? おいおい、これからが面白いってのに! やだね~最近の若いもんはすぐ話の腰を折る」
ゼウスはやれやれどうしようもないなこいつは、といった様子で表情を曇らせた。
(この人は一体なんなの? よーく見たらなんかメガネのフレームも曲がってるし、絶対やばい人だー)
配達員は身の危険を感じ、帰ろうとした。
「じゃ、じゃあ失礼します加藤様。また次の機会に続きを聞かせてください」
「あ、おい待て!」
「あ、はい」
「ゼウスでいいぞ。お前はなんかいい奴っぽいから特別に許してやんよ。本当はダメなんだけどよ! ありがたく思えよカスw」
「い、いやそんな。僕なんかじゃ」
「何いってんだよ、遠慮すんなよ。俺たちもう”友達”だろ?」
「は、はぁ」
ゼウスは勝手な思い込みだと知らずに、とても恥ずかしい言葉を口にしていた。自分の話をこんなに聞いてくれた人は、ラーメン屋の店主以外にはいなかった。彼はすっかり男と意気投合したと勘違いをしていた。
(えーっ! この人慣れ慣れしすぎでしょ。友達いなさそう)
男は段々、ゼウスがかわいそうに思えてきていた。
「あっ、おまえ名前なんてんだ? あーわかった! どうせ『田中』とか『鈴木』みてえな普通の名前してんだろw? わかったわかった、友達のよしみだ。俺様がお前の名前を覚えておいてやんよ」
「あっ、僕ですか? いや~名乗るほどのものじゃ」
男はゼウスが名前に敏感なことを感じ取っていたので、名乗ることをためらった。
「はぁ!?? 俺様は言ったのに名乗らないとか、これ戦争勃発不可避かな?」
(まじめんどくせぇ~この人www)
仕方なく彼は、ゼウスの言う通り名乗ることにした。
「え、え~っと天馬岳人っていいます。すいません、普通の名前で」
「――っ!! ふ、ふ~ん。へぇ~、やるじゃん」
その時、ゼウスの体を稲妻の如き衝撃が駆け抜けた。
(な、なにぃいいいぃぃっ!! こ、こいつこのルックスで物語の主人公みたいなかっちょいい名前しやがって!! もしかして俺主人公じゃなかった感じ? ま、マジでゆるさんぞぉっ! くっそ~俺ももっと違う名前にしときゃあよかったわ。加藤ゼウスとか究極にだせぇからなwww。い、いや、まぁゼウスって宇宙一かっこいい名前なんだから変える必要は全くないんだけどねっ! ……ないよね?)
ゼウスはしばらく返答に困ったものの、自分の中で折り合いをつけた。
「ま、まぁ良い名前じゃん。認めてやんよお前のことw。また来いよっ天馬!」
「あっ、はい。あ、ありがとうございました~」
彼は階段を下りて行った。
………………
やっと解放された天馬は、車の中でほっと胸を撫でおろすと日本の未来を案じていた。
「ハーデス太郎に加藤ゼウスって。近頃は日本人離れした非常識な名前が多いなぁ。世も末だなこりゃあ」
彼は車を発進させると、次の配達に向かった。
(でもあの人、悪い人じゃなさそうだよな。友達全然いなさそうでなんか、かわいそうだったな。あるか分からないけど、次来ることがあったらもっといろいろ話とか聞いてあげようかな)
――――天馬はとてもいいやつだった。
………………