第十六話 神々の住み処
「はぁ、はぁ、まだか?」
ゼウスはハーデスと別れた後、夜道を重い袋を携え歩いていた。昼間と比べれば幾分涼しく快適とはいかず、蒸し蒸しとした空気はただでさえ疲弊した彼の気力と体力を容赦なく奪っていく。
「人間てどんだけ体力ないんだ。ポセイドンニキの寝技食らった後並に消耗してるぞこれ? えーっと」
ゼウスは袋を一旦地面に置くと地図を取りだし、自分の現在位置を確認した。
「マジでどこだよここ。秋葉原に近いとか書いてあるけど、全然つかねぇじゃん! んもーっ! 大体さ、俺様地図とか全然使ったことねぇんですけど。ったくあのホモは、配慮が足らなくない? あーあ、すげぇ眠たいんですけど。門限五時のおれっちをこんな夜遅くに歩かせるとか、これもう虐待だよw!」
ゼウスには一日の疲れがどっと押し寄せていた。経験したことのない人間界での初めての連続に、彼は心身ともに相当な負担を強いられていたのだ。
今まで多くの場合において特殊スキルや魔法に頼って生きてきたゼウスは、自分で考えるといった面倒なことから逃げる癖がついてしまっていた。故に能力を失った彼は今、地図を読むのさえ一苦労という有り様であった。
力があればすぐにでも、という考えが頭の中をひっきりなしに駆け巡ってはいるものの、今の自分は人間であり何もかもほっぽりだして逃げることなど到底敵わない。そのことは、いくら頭が朦朧としていても十分に理解できることであり、彼の心の奥底では歯がゆさと苦々しさが交互に入り乱れるような形で渦巻いていた。
「くそっ! あのくそガイコツの地図意味不明すぎw。ってか、そもそもここら辺入り組みすぎっ! あ~もぉほんとわけわかめwww。難し過ぎるよぉ」
人通りのない深夜の住宅街に、彼の愚痴だけが虚しく響き渡る。
「近くに来ているはずなんだけどなぁ。何か目印になるもの、あっ! 宿のすぐ近くに高いマンションがあるのか! 高い建物~高い建物――――あっ!!! もしかしてあれか!?」
ゼウスは1kmほど先にそびえ立つ大きなオブジェクトを見つけると、今までの疲れを吹き飛ばすかのごとく大きな声で叫んでいた。
「やったぜ。間違いなくあれだな! あの近くってことは~俺様の家もなかなかのものなんだろうな~きっと! ん~これは期待大っ!」
ゼウスは先程までの暗く重々しい雰囲気から一転、新居に胸を踊らせながら軽快なステップで目的地へと向かっていった。
………………
「はえ~っ、近くまで来るとデカさが際立つな!」
ゼウスは目の前にそびえ立つ摩天楼を見上げると、感嘆の声を漏らした。
「すっげぇな、あ~首痛くなってきた~。なかなか良さげな建物やんか! んで、おれっちが住むところは、えーっと、、、この向かいか!」
目印となっていたのはこの高層のリッチなマンションだったが、ゼウスのこれから住むところはその向かいにあると地図には書かれていた。
ゼウスが、自分の住むところもきっとこんな風にゴージャスな建物なんだろうな――と、期待して振り返るとその先には、おんぼろな二階建ての古いアパートがあった。
「……は? ん??」
ゼウスは自分の見ている光景が受け入れられず、右手にある高級マンションを再度見た後にもう一度左の古いアパートを見返していた。
「えっ? ――――えぇぇえええええっっ!??!?」
何度見返しても当然景色が変わることはなかった。アパートには築三十年と書かれた看板が脇で異様な存在感を放ち、文字の錆はひどく、かろうじて読める程度である。明らかにそれ以上の年月が経っているであろうことが、誰の目にも明らかであった。
えぇ、、、何ですかーこれ? なんなんすか?? は? ちょっと~嘘でしょ。嘘って言ってお願いだからっ!!! なんなのマヂで~この傷心でお疲れの俺様に、『格差社会の縮図を如実に表した様』を見せて何の意味があるのかしら? あ??
俺はゼウスだぞ! あのゼウスなんだぞっ!? そこら辺の低級ゴッドとは格が違うんだぞ!!! なにゆえ全知全能たるこの俺様が、『現代社会の闇』をまざまざと見せつけられねばならんのか! こわいわ~、下界こわいわぁ~w。これもう民事……いや、もはや刑事訴訟起こしてもいいレベルだよね??
ゼウスは自分の期待から大きく外れた現状に不満の念を抱かずにはいられなかった。なぜこのような仕打ちを自分が受けなければならないのかと怒りにワナワナと震え、真剣に怒っていた。
しかし、それでも彼はこの現実を受け入れざるを得なかった。雨風さえ凌げればもはやどこでもいいと妥協してしまうほどに、今の彼は疲れきっていたのだ。
「屁をこいたら倒壊するレベルの古さだろこれ。もういいや、とにかく入るか」
ゼウスは部屋の番号を調べずに、適当に入り口近くの部屋のレバーハンドルを下ろした。もちろん、ハーデスの用意した部屋ではない。
「とりあえずこの部屋でいいか――あれっ? んっ、ぐっあぁ?」
当然部屋に入ろうとするも、カギがかかっていて中に入れない。
彼はアパート全体が全て自分のものであるという、どえらい勘違いをしていた。自分の部屋がこの中の一つだけなんて、想像すら出来なかったのである。
「んーーっ!!! あっれ~何で開かねぇのこれ? とっとと開けろやぁっ! 俺は全知全能の主たるゼウス様だぞ? 無礼ではないか!」
しばらくの間必死に格闘するもカッチリとハマった金属の鍵をこじ開けることは、力を失った生身の彼には不可能であった。
「くっそっ力を失ってなきゃこんなドアなんかっ! ぐぬぬぬ~、はぁ、はぁ。待てよ、はは~ん。なるほど、ここは物置だな! だから開かないんでしょきっと? さすがおれっちマジ名探偵!」
変な誤解をしたゼウスは、順々に他の部屋も開けようとしたが、やはり案の定どれも鍵がかかっており当然開けることは出来ない。
「んなんでぇっどうなってんのよこれぇっ? 開かないんだけど~www全部俺の部屋じゃないのっ常識的に考えて!?」
一つ一つの部屋の鍵と何回も戦い、諦めてはまた戦いを繰り返したゼウスはついに、一番奥の部屋『105号室』の前まで到達してしまった。
(はぁ~あ、何でこうなるんですかねぇ~? どうせまた開いてないパティーンだろ? ここ開いてなかったらどうしようマジで)
ゼウスは野宿という最悪のシナリオを頭に思い浮かべ、胸が押しつぶされそうな気持ちでハンドルに手をかける。
「あれっ、開いてる?」
彼の予想に反して、ハンドルはほとんど抵抗もなくクルッと簡単に回っていた。
「おぉっ、まじっ!? あいてるじゃないっすかwww」
「はぅ~気持ちよかったぁ――――えっ?」
顔を綻ばせたゼウスがドアを開け中を覗くとそこには、やんわりと常夜灯の照らす中バスタオルを身にまとった女性がいた。
「っきゃああっ!」
「――――うおおぉおおっ女だぁあああっ!!!」
ゼウスは急いで体を隠そうとする彼女からこぼれ出る胸の谷間や、もう少しで見えそうな陰部をガン見すると、雄叫びをあげた。
(こ、これは、ハーデスニキの計らいかっ!? なるほどな~ここが俺様の部屋だったわけだ。あのガイコツなかなかに粋なことするじゃん! うひょ~では早速!)
ゼウスの中の今まで無理矢理抑圧されていた性欲が、女性の裸を見たことで一気に解放されようとしていた。ついに我慢できなくなった彼は、彼女に抱きつこうとした。
「うっひょひょぉ~~~っ!」
「――いやぁっ!!!」
「そこで何をしてるんだい?」
ムラムラしたゼウスがまさに彼女に飛びかかろうとしたその時、背後からのしわがれた声が彼の衝動的行動を引き留めた。
(ん? この展開、昼間と同じような?)
「あっ、管理人さんっ助けてください~っ!」
彼女はゼウスの背後に立つ老婆の姿を見ると、不安と安堵の入り交じった声で助けを求めた。
「せっかくいいとこだったのに~誰だよ? 無粋なやつだなぁっ!」
ゼウスが声のした方を向くと、そこにはひどく腰の曲がった白髪の老婆がいた。彼女の目つきは鋭利な刃物のように鋭く、頬は痩せこけ人を寄せ付けない雰囲気を出していた。
「あ~ん、お前誰?? もしかしてネクロマンサーw?? 俺様今取り込み中なんだけど、邪魔しないでもらえるかな? つーか何なの、おまえのその妖怪みたいな顔はw? あの世から来た地獄の使い魔かなんかかな??」
失礼過ぎるゼウスの言動に、眉をピクッとつり上げる老婆。だがそれもほんの一瞬であり、彼女は
「ふん、どうやら冗談が随分好きな人みたいだね。もしかしてあんたが加藤さんかね?」
と冷静に問いかけた。
「はぁ? 何言ってんのお前??? 誰だよ加藤ってw」
「ん? おや、あんた加藤さんじゃないのかね?」
「んなだせー名前なわけ……あっ、そういえば俺加藤だったわ! いやーめんごめんごw」
ゼウスは否定しようとしたが、自分の今の名前を思い出すと片手を老婆の前に立てて軽く謝罪をした。
「なんだい、やっぱり加藤さんだったのかい。今日はてっきりもう来ないのかと思っていたよ。あたしゃあ、相賀美琴。見ての通り老いぼれで先は長くないと思っとるが、一応ここの管理人をやっとる」
「えっ、あんたが管理人なの? いやいや嘘だろ~おいおい、こんな老いぼれが管理人!?? むしろいつポックリ死んでも大丈夫なように、24時間体制で管理される側じゃねぇすかw?」
「神埼さん。あなたはこの人と知り合いかね?」
相賀は軽くゼウスの煽りをスルーすると、傍らで不安そうに会話を見守っていた半裸の女性――神埼に尋ねた。
「え、えぇ~っ! し、知らないですよぉ!」
神埼は、首を横に振って全力で否定する。相賀はそんな様子の彼女の言葉を聞き、一回頷くとゼウスの方に向きなおった。
「あぁ、そうですか。あのね加藤さん、あたしゃあ何と言われようと別に構わんがね。問題を起こされると、契約解除になって部屋の明け渡しが出来ないことになっとるんだけど、かまわんかね?」
「は? いやいやいや冗談でしょ?? あっ、そうやって俺様を脅そうとしても無駄だかんね? 俺って脅しに決して屈しない鋼の心を持ってるからっ!」
「……」
相賀はゼウスの言葉に対して、無言という形で返答をしていた。それはゼウスに他のどんな言葉よりも大きな威圧感を与えるものであった。
「じょ、冗談だってマジで、、、そんなキレんなよ」
ゼウスは相賀の持つ独特の雰囲気に気圧されると、それ以上冗談を言うことが出来なくなっていた。
(冗談じゃねぇぞ! これくらいのジョークが通じないとか、ポセイドンニキかよwww。このババアただもんじゃねぇぞ)
相賀は
「ついてきな、あんたの部屋は二階だよ。あと、その子にちゃんと謝っときなよ」
というと、よぼよぼと二階に上がっていった。
その後ろ姿を見ていたゼウスは
(はぁ? なんだこのババア偉そうに。お前は俺の保護者かっ! やだね~、俺なんも悪いことしてないもん!)
と、内心思っていた。
だが、怯えながら不安そうに自分を見ている神崎の視線に気づくと、流石の彼も罪悪感を感じずにはいられず、怖がらせてしまったことを反省する。
「あ、、、その、わ、悪かったよ。急に襲いかかっちまって。あんたがその~可愛いかったからついムラムラして襲いかかっちまった。まぁ、許してくれ」
謝り慣れていないゼウスではあったが、彼は不器用ながらも彼女に素直に謝っていた。
そんな彼の謝罪の気持ちが心に届いたのか、彼女も
「あっ、いえいえ。その~私も、鍵をかけ忘れていましたし」
と言い、ゼウスはなんとか彼女に許してもらえた。
しかし彼は彼女の寛大な心を見るや否や、すぐに調子に乗り
「そうだよな~www常識的に考えて! 鍵かけとけよ! ほんとに~なにやってんだよ。もしかしてドジっこ? 俺様の部屋だと思うじゃん普通?」
と急に手のひらを返しだす。
そんなあまりに当然の様に言うゼウスの言葉にすっかり丸め込まれた彼女は、自分に落ち度があったと思い込むようになってしまっていた。
「あっ、はっ、はい! で、ですよね~。あっ、ドジっ子ってよくみんなから言われます。ほんとにすみませんでした、次からは気を付けます!」
なぜか彼女は深々と頭を下げ、ゼウスに謝っていた。
「んもぉ~次からは気を付けとけよ~。じゃあなっ!」
「あっ! あのっ、ちょっと待ってください!」
彼女は何かを思いついたのか、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしたゼウスを引き留めた。
「ん? なんだよ??」
「私、神埼ほのかといいます。これからよろしくお願いしますね!」
神崎は胸に手を当てニコリと可愛らしい笑顔をゼウスに向けると、自己紹介をする。
「おう! おれっちはなぁ、加藤ゼウスって言うんだぜ! 格好いいだろ~惚れるなよ?」
ゼウスは咄嗟に出かけた言葉をいったん飲み込むと、メガネをクイッとあげながらどや顔でそう言い放つ。
「加藤、ゼウスさんですか。すっごく格好良い名前ですねっ! ふふっ、惚れちゃうかもです!! これからよろしくお願いしますね、加藤ゼウスさん!」
「おっ君、良いセンスしてるね~。オッケー包茎ってな感じでよろしく~ほのかちゃん! んじゃっ、バイビ~またね」
「あっはい~おやすみなさい!」
ゼウスはおちゃらけた様子でそう言うと、階段を上がっていった。そんな彼を見送るためしばらくその場にポツンと立っていた神崎は、ある疑問を胸に抱いていた。
(ホウケイってなんだろう? うーん、それにゼウスってどんな漢字なんだろうなぁ? 格好いい名前だなぁ~顔は日本人だと思うけど、もしかして外国の人なのかな? ハーフ??)
――――神崎は天然だった。
………………