Souvenir
「聞いたことないな」
ぼくが名乗るとそのひとは小首をかしげて、そのまましばらくぼくの顔を見つめていた。そのひとは左目に眼帯をかけていた。
「亡くなった父の名前をもらったんです」
「お父さん、外国の人?」
たぶん違う。父さんが亡くなったのはぼくが生まれる前なので確かめようがないけど。
「あだ名みたいなものだそうです」
「あだ名? 変なの」
みんなから言われる。ぼく自身がそう思っているくらいだ。
「お母さんは元気なの?」
「母も去年亡くなりました」
「そっか。寂しいね。他に兄弟は?」
「いません」
「あたしには弟がいるよ。まだ8つだけどね。キミはいくつ?」
「ぼくは10歳です」
「へえ! 背が高いからもっと上だと思ってた。何センチ?」
「156センチ」
「なによ、あたしとそんなに変わらないじゃない……ひゃっ!?」
そのひとは車椅子から立ち上がろうとしたものの軽く腰を浮かせただけで前のめりに体勢を崩した。あわてて受け止めたそのひとはひどく軽かった。手足は人形みたいにたよりなくて支えるぼくを不安にさせた。
「手、離します」
ぼくは彼女の背中を慎重に車椅子のもたれへと返す。体を離そうとしてそのひとがぼくの襟元をじっと見ているのに気づいた。
「このネクタイがどうかしましたか?」
「ボロボロじゃない」
そのひとは少し呆れたような顔をする。たしかにそうだ。全体的に毛羽立っているし糸が飛び出しているところさえある。けれどこれは、
「父の形見なんです」
それもこの世にたったひとつの。父さんのものはこのネクタイ以外には何も残っていない。写真もない。ぼくは父の顔を知らない。
「そっか。そりゃ大事にしなきゃだね」
ぼくはうなずいた。
「あのね、あたしもこないだそれとそっくりなのを買ったんだよ」
こないだ? けれどぼくは言葉を飲み込む。
「今、好きなひとがいるんだ。そのひとへのプレゼント」
そのひとは残されたほうの瞳でウィンクをしてみせた。ずっと年上のはずのそのひとがふいにぼくと同じくらいの歳の女の子に見えた。
「そのひとは塾のバイトの先生でね、ちょっと抜けてるとこはあるけど、大きくてとてもやさしいひとで、あたしはずっと憧れてて、あ、実は今日が先生の誕生日でね、これから――」
“今日は”そこで彼女の肩がかくんと落ちた。
「…………」
ぼくは渡されているコールスイッチを押した。すぐにドアが開いてナースが現れた。面会時間の終わりだった。
「大丈夫? マクリントックさん」
「……ん」
いつものようにぼくは彼女が処置を受けるのを見ていた。
――彼女が起きているのは一日のうち15分ほどの間。その15分も終わりに近づくほど意識がおぼろげになり、眠りに落ちるとすべて忘れてしまう。彼女は毎日15分を上書きしながら“その時”にとどまり続けていた。本当の彼女は今年で30歳になる。
このひとの名前はフェイ・マクリントック。この世界を救った英雄のひとり。
「さぁ、お部屋に戻ってお休みしましょう」
ナースは車椅子のハンドルに手をかけ、手馴れた所作で車椅子の向きを変えようとした。
「来て?」
フェイがぼくを手招きした。ぼくは呼ばれるままに車椅子の前にひざまづいた。フェイは細い指を伸ばしてぼくの耳を撫でた。
「あはは。ふさふさしてて気持ちいい」
フェイは楽しそうに笑った。ぼくもうれしかった。
「キミ。名前はなんていうの?」
「ジャック、です」
「聞いたことないな」
ぼくが名乗るとそのひとは小首をかしげて、それからゆっくりとまぶたを閉じた。
「また、明日――」
Souvenir W.W.W.10years after