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後篇

 十日後、昼食の最中に例の歯が取れた。

 持参したおにぎりと卵焼き、それに店舗で買い足した青菜の煮浸しというささやかな弁当を食べ終え、マル美からもらったミカンに取り掛かろうとした時だ。

 噛み合わせが妙だと感じた瞬間に、左の上の奥歯がポロリと落ちた。仮りブタごと綺麗に落ちて、取り出して見れば、歯の根は溶けでもしたのか、ほとんど残っていない。

 取れた跡を舌先で撫でてみる。少しニュルッとして血の味のしょっぱさが広がった。

 が、手洗い場に行き、口をすすいで戻って来る頃にはもう、歯茎の他の部分と変わらない感触に変化している。

 マル美の手鏡を借りて観察する。マンガのように、一箇所だけぽっかり空いていて、かなりおかしい。しかし、まぁ、奥歯なので余程大口を開けない限りはセーフだろう。

 すぐ横ではマル美が興味津々で木田が鏡を使う様子を見上げている。

「どうですか? 生えてます?」

「いや、まだ。うっすら白い物が見えてるような気もするけど、でも、まだはっきりとは……」

 鏡を返し、マル美に向かって口を開けて見せた。

「ろう? わはる?」

「うーん……」

 マル美も嫌がる素振りは見せず、かなり熱心に木田の口を覗き込む。

「上……の、左……ですよね? 抜けた場所はすぐ分かるけど、歯茎しか見えないですねぇ。まぁ、生えるのはもう少し先なんですかねぇ?」

「うん、多分」

 木田も口を閉じ、お茶をすすった。熱い物も冷たい物も、もう頓着なく口にするようになって久しい。

「あぁ……でも、今日は歯医者に行く日だったから丁度よかった。後は生えるだけなら、そろそろ通院も終わりにしてもらえるだろうし」

「よかったですねぇ。最初は本当につらそうでしたもんねぇ……」

 木田は机の上のティッシュを二枚取って、落ちた歯を丁寧に包んだ。持参する必要はないのだろうが、用心にこした事はない。

「うん、まさかこんなにサクサクと回復するとは思わなかったな」

 最初、原口医師を疑ってかかって悪かったと、今では思っている。

 今だって、先入観なく見れば、見るからに胡散臭い外観の医院だったし、医師ではあるのだが、でも、原口先生は確かに名医だ。痛いのが苦手と言えば痛くない方法を考えてくれるし、最新の治療法だって提案してくれる。見た目が胡散臭いのだって、今になってみればご愛嬌だ。今後は、歯のトラブルに悩む人がいたら、積極的に宣伝するつもりでいた。

 そう、相田ナニガシ……とかいう妙な幽霊に遭遇した事もあったが、それだって、待合室で一度、自宅で一度会ったっきりで、それ以降はとんと音沙汰がない。実害はなかったし、幽霊が出たといって、それが原口先生の指図という訳でもないだろうし、彼の評価には関係ない。

「ふぅーん。私ももし、虫歯になっちゃったら、その治療法をしてもらおうっと! 銀歯を埋めるよりか、新しいのに生えかわる方が絶対にいいですよね!」

 木田の湯飲みが空になったのを察して、マル美が急須から新たなお茶を注いでくれた。仲良くなってみれば、よく気が利く子だと分かる。喫煙しないのに、控え室の灰皿の掃除なども率先してやっていたりする。自分が吸い散らかしていた頃には気付きもしなかった。出入りの清掃業者か、パートの誰かがやっているのだとばかり思っていた。それに気付いて、『いつもありがとう』と声をかけてから、より新密度が増した気がする。

 食事中に立てる物音についても、先日、さり気なく指摘してみた。マル美は逆切れする事もなく、実に可愛らしく恥じ入ってみせた。

「やっだ! 音、立ててたんですか!?」

 狼狽して、それ以来、気をつけているようだ。今はもう、ほとんど気にならない。食事以外の仕草も穏やかに、丁寧になった気がする。木田も言ってよかったと思うし、マル美……もとい、ココミも木田に感謝しているようだった。

 不思議なもので、少しの間にすごく可愛らしくなったように木田は感じる。そう言うと、ココミはやはり嬉しそうに笑う。

「そっかなぁ? 変わったのはむしろ木田さんですよぅ」

 そう言って、木田の背中をパンッと叩く。わざとらしい媚びも幾分混じってはいるが、悪い気はしない。

「そっかな? 俺、変わった?」

「変わりましたよぅ」

 ココミが熱心にうなずく。

「最近、自炊してるって言うし、とうとうお弁当まで作るようになってるじゃないですか! 一体どうしちゃったんです?」

「あぁ、そういえばそうだなぁ。でも、自炊ったって、簡単な事しかしてないし。弁当だって、おにぎりと卵焼きだぜ?」

「それが! ちょっと前までは菓子パンとお弁当ばっかりだったじゃないですかー。なんかもう別人ですよ、別人。タバコだってやめちゃったし」

「あぁ……うん……」

 そういえばそうだった、と思い出す。

 しかし、自分はタバコなんて吸っていたっけ?

 そんなに驚かれる程、自炊をしていなかったっけ?

 数日分の野菜スープか豚汁を作り置きして、ゴハンは一食分ずつ小分けして冷凍して、後は主菜をひとつ、焼くか煮るかすれば立派な食事になる。それだけの事が何故、昔は出来なかったのだろう。不思議で仕方ない。いったん始めてみれば、半月たたずにすっかり習慣になってしまった。

「ですよぅ! 物言いや人当たりも優しくなったし、それに少し痩せたんじゃないですか? 精悍さが少し増した感じ!」

 キャラキャラと笑って、ココミがまたパンッと背中を叩く。

「私も頑張って、少し痩せようっと!」

 ぶりっ子な口調で付け足すココミに、笑顔で応える。

「いいんじゃない? 今よりずっと可愛くなると思うよ?」

「やっだぁ! じゃあ、頑張る!」

 机をバンバンと叩くココミを見ながら、木田はスッと眉を寄せた。

 本当に、自分は芯から変わったようだ。

 自分はこんな事を言うキャラではなかったはずだ。

 何だろう、このチャラけたキャラクターは本当に自分なのだろうか?

 そういえば……コーヒーに砂糖とミルクを入れなくなった。

 それ以前に、温かい飲み物を好むようになった。

 バスタオルをこまめに洗うようになった。

 新聞を社会面から読むようになった。

 靴下を左から履くようになった。

 目玉焼きにソースをかけてしまって、それを美味いと感じてしまった。

 母の卵焼きは醤油色していたのに、いつの間にか、甘くて黄色い卵焼きを焼くようになってしまっていた。

 ………………木田さんと呼ばれて、それは誰だと一瞬考えるようになった。


「……?」

 座ったままなのに、立ち眩みのようなクラクラした感覚が襲って来た。

 自覚はなかったが、ごく短時間の内に、自分は自分のキャラクターを見失ってしまっているような気がした。様々な嗜好が、恐ろしい勢いで変わりつつある。

 新聞のチラシに載っていた淡いピンクのシャツをいいなと思ったのは今朝の事だ。

 自分は……ピンクのシャツなどをいいと感じるような人間だったろうか?

「……ださん? 聞いてます? 木田さん?」

 ココミが怪訝そうにこちらを見ている。どの位、考え込んでいたのだろう。

「え、ごめん。何の話だったっけ?」

「もぉっ! その歯の素って、木田さんの細胞で作った物ですか?ってとこまで、ですよぅ」

「……え?」

 全然、意味が分からなかった。

「だから……。iPS細胞っていっても、基になる土台がいる訳じゃないですか。その歯の素がiPS細胞なのかどうかはよく分かんないんですけど……。でも、基になる細胞はあると思うんですよねー。そういうのって、自分の細胞から作ってもらえるのか、それとも一般化した物がどっかにストックされてるのかなーって。結果が同じなら、どっちでもいいんだけど、でも……気分的には、自分の細胞から作ってもらう方が気が楽でしょう? ただ、それだと費用がかかりそうだし、やっぱり汎用があるのかなぁ……って」

 ココミは純粋に好奇心で話しているようだった。

 そうか、基になる細胞か……。

 それが誰のものかなど、考えもしなかった。歯の素を埋め込めば生えて来ると言われ、科学の進歩はすごいなと、そう思ったっきりだった。

「……もしかして」

 誰のものか分からないモノが自分の身体に埋め込まれ、そこに根付き、成長する。自分の身体を苗床にして、新たなモノが生成される。それは、不思議と同時に、妙に怖い事のような気がして来た。

 臓器移植ならば……、それはすでに臓器に分化したモノを身体の一部に取り込むだけの事だ。自分の場合は、あの歯の素は、それと同じ事だと考えてもいいのだろうか?

 未分化の細胞は自分の身体の中で如何様にも変化し得るのではないか?

 変化し、増殖し、根を伸ばし、根を伸ばし、身体の隅々までくまなく根を伸ばし……


「───っ!?」


 急に吐き気が来た。慌てて口を押さえる。

「木田さん?」

 ココミが驚いて半立ちになる。

「いや、何でもない。何でもないけど……。ごめん、早引けするって店長に言っておいて。ちょっと……俺、歯医者に行って来る」

 音を立てて立ち上がり、先程包んだティッシュの塊りをポケットに捻じ込む。

「ごめん、本当にごめんっ!」

 それだけ言い捨てて、木田は控え室を飛び出した。着替える手間を惜しみ、制服のまま店を出る。

 原口歯科までは歩いて二十分余。走れば半分で着くだろうか。

 予約は夕方だが、どうせいつ行ってもヒマな歯医者だ。今から行っても構わないだろう。そう判断して、木田が駆け出す。

 空は今にも降り出しそうな曇天で、夕暮れも近い。

 途中、夜シフトに出勤して来るパートさん達から声をかけられたが、いずれも中途半端に挨拶を返して、振り切るように走り続けた。

 くたびれた住宅街を抜け、キャベツ畑を突っ切り、暗く沈んだ神社の木立ちの前に……半ば廃屋のような、元は小洒落た洋館風だったろう原口歯科医院は、いつものようにそこにあった。

 もう、虫の声は途絶えている。

 何もかもが色褪せる中、塀の鉄柵に絡まるカラスウリだけが鮮やかなオレンジ色を保っていた。カラカラと、枯れた蔓が鳴っている。

 いつものごとく呼び鈴をすっ飛ばしてドアを開ける。

 正面のカウンターでは、赤羽がいつものごとくパソコン作業をしていた。木田の来訪に気付いて顔を上げ、カチャカチャという音が途切れた。

「あら? 予約より随分お早いですけど……。何かありました?」

 にっこり笑う赤羽はいつもと変わらない。そう見える。

「あの……っ」

 言いかけて、止まる。

 待合室に誰かいる。

 痩せていて、俯き加減で、灯りの陰に隠れるようにひっそりと腰掛けていて……。

 あいつだ。

 そうだ、夢に出て来た後で、お前は原口医院に戻れと言い渡した、あいつだ。

 素直に戻ったのはほめてやりたいが、それでも何故、こうも何度も自分の前に現れるのか。

「赤羽さん……」

 駆け通しだったので息が乱れる。

「はい? どうしました?」

 赤羽は待合室の男には目もくれない。見えていないらしい。

「赤羽さん、そこに……そこにいる男が見えますか?」

「……え?」

 赤羽の眉が寄る。立ち上がり、怪訝そうに身を乗り出す。乳がカウンターに乗って、ムニッとひしゃげた。

「いいえぇ? さっき、お二人お帰りになって、それからは誰も……」

「…………」

 やはり、見えているのは自分にだけらしい。

 深く俯いていた男が、ゆっくりと上体を起こす。

 目が、合った。

 男がニッと笑う。

 やっぱりあの男だ。

 こんなにはっきり見えているのに、そこにいるのに、自分以外には見えていないのだ。

「あの、これ……」

 視線を引き剥がすようにして、赤羽に向き直る。自分にしか見えないのであれば、徹底的に無視すればいい。

 ポケットからティッシュを出してカウンターに置く。思い通りに動かない指でもさもさと覚束なく開いて見せた。

「今日、ついさっき歯が取れたんです。それで……」

「あら、よかったですねぇ!」

 赤羽の顔がパッと輝く。

「じゃあ、新しい歯が育って来たんですねぇ。あぁ、綺麗に抜けてるじゃないですか。後はもう、生えて来るのを待てばいいだけですよぅ」

「いえ、聞きたいのはそこじゃなくて……」

 色々な事が渦巻いて、何からどう尋ねていいのかが分からない。そもそも、木田はこの方面に明るくない。ココミを連れて来ればよかったと、少し後悔する。

 問い質したい事はあるのに、それを的確に説明出来ない。

 説明を聞いたとして、自分はそれを理解出来ない。

「ん? どうしました?」

 赤羽がやんわりと微笑む。

「あの……っ! あのぅ……この歯は、これから生えて来る、この、埋めた歯の素は誰なんです?」

「え?」

 赤羽がパチパチと瞬きした。やはり、通じない。

「この歯は……この歯の素になったのは、誰なんですか? そいつが再生するのは本当に歯だけなんですか? 俺の中で増殖して、俺に取って替わるとか、そういう事はないんですか?」

「やだ、何を言い出すかと思ったら……」

 赤羽がクスクスと笑う。胸の前でキュッと腕を組み、白衣のあわせから見える乳の割れ目が深くなった。

「それ、SFですかぁ?」

「いや、SFっていうか……。くだらない妄想かもしれません。ですが……」

「えぇ、歯の素になったモノは、きちんと検査をパスした方々からいただいた細胞を培養した物ですよ。御存知でしょうが、遺伝情報自体には後天的な記憶や知識などは乗っかりませんから。だから、それが誰かと言われても……。細胞自体には自我も個性もありませんよぅ?」

「いや、そういう意味では……」

 やはり、分かってもらえない。自分も、説明出来ない。

 この違和感を説明しきる自信がない。不案内な自分の知識でも、言ってる事が荒唐無稽な事くらいは、それくらいは分かってる。ただ…………

 もう一度、振り返る。

 やっぱり、いる。

 男は長椅子の奥に座っていて、真っ直ぐに木田を見ていた。

 そしてただただ静かに笑っている。

 これが赤羽には見えていないのだ。怖くなって目を逸らす。

 赤羽の方にまたも向き直り、来院者名簿を探す。乳の下敷きになってそれを引っ張り出し、目を通す。今日の来院者は八人。

 吉田竜哉

 田中樹理

 吉川純子

 谷昭栄…………

 そして、八人目が、相田貴俊。

 この文字だ。そうだ、相田貴俊だ。

 消え去ってしまうのを恐れるように、木田がその部分をガッと指差す。

「これっ! これです。赤羽さん、この相田という人! この人は誰なんです? 一番下って事は、さっきまでここにいたって事でしょう?」

「え?」

 赤羽が手元の紙をまじまじと見る。字は消えていない。たしかに、そこに書いてある。几帳面な字で、丁寧に、相田貴俊と。

「相田……さん? あら? これ……誰かしら? さっきまではそんな……でも、相田、さん?」

 赤羽が記憶を探るように考え込む。名前に覚えはあるらしい。こめかみに指を当てる赤羽を木田が凝視する。

 背後から、くぐもったような笑い声が聞こえた。相田が笑っている。

「あぁっ! 相田さんね、あの人だわ。木田さんの前に同じ治療をした人だったわ。すっかり御無沙汰だけど、今はどうしてるのかしらねぇ……。あら、でも、どうして相田さんの名前がここに書かれてるのかしらね?」

 赤羽は変わらず笑顔のままだ。木田が何かイタズラを仕掛けているのだと思っているらしい。

「木田さんったら。その手には乗りませんよ」

 小さい声で付け足し、クスクスと笑う。前回の来院時、夢に幽霊が出た話しをしたのが徒になってしまった。真面目にとりあってもらえない。

「いや、そうですね。……もういいです」

 振り返って、相田を睨みつける。相田はニヤニヤしたまま木田を見返す。

 そのまま、ドアノブに手をかけた。

「あ、木田さん? 検診は?」

「今日は、もういいです! 何かあったらまた来ます!」

 言い捨てて、原口歯科を後にした。もう、日は暮れている。裏の神社の木立ちがザワザワと鳴っていた。

 走って走って、走り通して、ようようアパートに帰り着いた。

 走り過ぎて吐きそうになっている。が、吐く体力すらも残っていない。喉が渇き切って、舌の付け根がヒリヒリした。頭の奥もガンガンと大きな音が鳴り響いている。

 二階へ向かう階段がものすごく急に思えて、どうしても踏み出せなかった。手すりにもたれて、息が整うまでじっとしていよう。

 二分、三分……少しずつ、少しずつ落ち着いて来る。

 起き上がり、相田がついて来てないか確かめた。

 誰もいない。

 ふぅと大きく息を吐き、上に行く前に郵便受けを確認した。チラシ数枚と、薄っぺらい封筒が一通入っている。何かのDMのようだ。

 ペラリと反すと、宛名が自分の名ではなかった。無機質な印字で

 

 アイダ タカトシ 様

 

 とある。

「……っ!」

 再び、吐き気がドッと来る。慌てて口を手で押さえる。何かの身間違いだ。そう言い聞かす。

 ……もう一度、確認する。

 アイダタカトシ……の上の住所が、違う。

 タイゼンマチ 2チョウメ 13-6 サンライフハイツ 204号室

 

 204?

 ならば、それは隣りの部屋だ。

 隣りは空き部屋だとばかり思っていたが、もしかして、相田は隣りの部屋に住んでいるのだろうか?

 そして、何故かは分からないが、自分に対して悪質な嫌がらせをしていたのだろうか?

「あら、こんばんは」

 背後から声がした。

 一階に住む大家の婆さんだ。手には、木田のスーパーの袋が提げられている。買い物帰りらしい。一軒家に一人で住むのがしんどいと言って、十年程前にアパートに建て替えたのだという。入居の時と家賃を手渡す時しか顔を合わさないが、それでも、入居者を気にかけてはくれているらしい。

「どうしたの? 気分悪そうに見えるけど……」

「いえ、大丈夫です。あの、これ……。間違って配達されたみたいで……」

 アイダ宛ての封筒を差し出すと、婆さんはキュッと眉をひそめた。

「あぁらまぁ……。まーだこんなのが届くのねぇ!」

「204って……」

「えぇ、今は空き部屋ですよぅ」

 婆さんはシャシャッと手を振る。それでも、木田が差し出した封筒は一応受け取った。

「相田さんねぇ……。前に204に住んでた人だけど、急にフイッていなくなっちゃったのよ。荷物の整理とか、大変だったの。実家ともなかなか連絡がつかなくて……」

「…………」

 行方不明。

 では、あの相田は?

 やはり、幽霊なのだろうか?

「結局、どうなったのかしらねぇ? 何の連絡もないままなのよ。ま、事故物件って訳じゃなし。あんまり気にしないでちょうだい」

 婆さんはお気楽に言い放ち、封筒をヒラヒラさせながら去って行った。



「バカだなぁ、あいつは。真実はたった一つ。病は気からって、それだけの事だったのにね」


 鏡に映った木田の顔は自信に満ち溢れている。

 あれから大分肉が落ちた。今はもう、別人のように精悍な顔立ちになって、女性客からもパートさん達からもチヤホヤされるようになっていた。


「痛くなくても、痛いと思い込めば、本当に痛い。……その通りだよ」


 パチンとスイッチを入れ、風呂場の様子を確認する。

 掃除、OK。

 入浴剤もシャンプー、リンスもボディソープも万全。洒落た容器にきちんと詰め直している。洗面器も椅子も、足拭きマットもシックなベージュ色に統一した。タオルは目が詰んだ焦げ茶の物を何枚か新調した。間違っても、酒屋のロゴ入りなどは使わない。ああいうのは、旅行先で使い捨てるつもりの、何かの予備用に取っておくものだ。

 洗面所を出て、台所に向かう。

 こちらも準備OK。

 ポップな色合いの小鍋にはキノコたっぷりのクリームスープが、冷蔵庫にはサラダとフルーツコンポート、それにシャンパンが用意されている。調理台のグラタン皿にはトマトソースで煮込んだ鶏モモ肉を並べていて、パン粉を振りかけてオーブンで焼けばいいだけになっている。

 それに、街で買って来たバゲットとチーズ。ケーキはココミが買って来る事になっている。テレビの脇に置かれた小さなサイズのツリーがチラチラと光った。


「歯の素なんて、何の関係もなかったのにね。僕はただ、暇つぶしで誰かに取り憑いて遊べれば、それだけでよかったのにねぇ」


 クスクス笑いながら、ラックの上の時計を見る。

 もうすぐココミがやって来る。


「思い込みが強いってのは良し悪しで……」


 トントントン……と階段を上がって来る音がする。その足取りは軽い。ココミだ。


「タイミングもよかったねぇ。歯の素の話のお陰で、勝手に身体全部乗っ取られるって思い込んで、さ。挙句、まさか本当に所有権を明け渡すなんて、すっごいバカ。思い込みでそんな器用な事、出来るんだねぇ」


 チャイムが鳴った。

 ドアを開ける。

 ココミが、ケーキの箱を抱えて赤い頬をして立っている。襟と袖口に白いボアがついた、淡いピンクのコート姿。似合っていて、とても可愛い。

 以前と比べて大分痩せた。今はもう、ふっくら……という形容で充分なくらいになっている。

 このくらいの肉付きが好き。木田……は、そう思っている。


「木田さんはさ、ある意味、すごい霊能者だったよね」


「え?」

 ココミが首を傾げる。初めての訪問で緊張しているようだ。

「ううん。いらっしゃい、寒かったでしょ、どうぞ……」

 木田が微笑む。コートを脱ぐのに手を貸して、そしてブーツを脱ぐ間にコートをハンガーにかけて吊るした。

「わぁ……ここが木田さんのお部屋……。センスいい」

 ささやかなクリスマスというコンセプトで飾りつけた部屋を、ココミはいたく気に入ったようだった。うっとりした視線を木田に向けている。

 多分、今夜は泊まって行くつもりだろう。自分もそのつもりで用意している。全てが準備万端。木田は嬉しそうにニッと笑う。

 

 木田さん、ここを見ているのかな?

 それとも……原口歯科医院の待合室で、誰かが来るのを待ってるのかな?


(了)

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