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前篇

 初めは廃屋かと思った。

 先程空振ったように、この歯医者もひっそりと移転か廃業かしたのだろう、と。

 塀の土台の赤レンガは苔だらけ、隙間からは雑草が顔を出している。上の錆びた鉄柵にも妙な蔓が一面に絡まっている。雑木林で見かけるような何とも知れない貧相な蔓なので、これも雑草の類なのだろう。それがすっかり枯れ果てて、冷たい風に吹かれてカラカラと音を立てている。

 庭の有り様も酷い。丈の高い雑草は伸び放題で、門扉は片方が外れかけて固まっている。

 その草を踏み固めた獣道のようなモノが玄関に続いているのと、玄関脇の小さな電飾看板が点っているので、それで辛うじてこの歯医者が開業しているのだと分かった。

 いや、まだ分からない。とてもとても客商売しているようには見えない。単に、まだ住んでいるというだけかもしれない。

 木田は疑わしそうに周囲を見回した。

 本当に歯医者なのだろうか?

 そして、診てもらえるのだろうか?

 田舎の、高速道路が通っているというだけが売りの新興住宅地。バブルの頃に多少人口は増えたものの、ベッドタウンという程には発展出来ず、結局、くたびれてしまった小さな町の、外れだ。高速道路と並行して幹線道路が走り、その通り沿いにパチンコ屋と郊外型店舗が数件、それに木田が勤める中堅のスーパーとコンビニ。後は田んぼの中に古く煤けてしまった住宅地がポツンポツンと点在している。少し離れた山の際には昔からの農家の集落と、小さな小中学校。それだけしかない寂しい町だ。歯医者も二軒しかない。そう、聞いている。

 半月程前、急に奥歯が痛み出した。以前、学生時代に一度治療した歯だ。その時に神経を抜いて処置したはずなのに、その歯が痛み出した理由はあまり考えたくない。気のせい、もしくは疲れているからなどと逃げの理由を自分に言い聞かせて誤魔化してみたが、とうとう痛みに耐えかねた。昼過ぎに意を決して早退を申し出、パートさんに聞いていた場所を訪ねてみた。が、そこに歯医者はなく、先月末に隣町に移転しましたという張り紙を見つけて呆然としたのがついさっきの事だ。

 職場に戻ってもう一軒の場所を聞くべきか。それとも日を改めて隣町まで行くべきか。しばし迷う。

 しかし、この痛みにはもう耐えられそうにない。暗い気持ちで職場方面への小道を歩いていると、電柱に『原口歯科医院スグソコ』という小さな看板を見つけたのだった。

 もう一軒は意外と近くにあったのだと安堵して、看板の矢印に従って夕暮れの中歩いて来たのだが、さて……。

 スグソコとあった割には意外と歩く。何かの工場と資材置き場の脇を抜け、キャベツ畑の中の小道を五分程も歩いたろうか。こんもりと木が茂った里山のような雑木林を背負って、その歯医者はあった。裏は小さな神社らしい。まさしく一軒家で、遠目に子供向け絵本に出て来るような風情がある。が、こんな場所に歯医者を開業しようと考える思考が理解できない。よほど腕に自信があるか、昔から地元に係わりがあって信頼されているか、だろうか。しかし、建屋は見るからに荒れていて、とても繁盛していそうにない。辺りに人影はなく、中からも人の気配は感じられない。

 本当にここは歯医者だろうか?

 すでに日は暮れてしまっている。

 特に夜間営業の案内も出ていないので、そろそろ閉まる頃合いだろう。ぼやぼやしていたら、看板の電気が目の前で消えてしまうかもしれない。診てもらいたいのなら、決断して扉を開けるしかないのだ。町に二軒しかなかった歯医者の片方が移転したのならば、ここしか残ってない。ここが嫌なら、明日以降に隣町まで遠出するしかない。簡単な事だ。

 庭のあちこちで名残りのコオロギとスズムシが煩いほどに鳴いている。その音が、奥歯の痛みを更に増幅しているように木田は感じた。

 歯の奥、根の更に奥の骨の方までが痛い。もう、ずっと痛い。時にキリキリと、時にミシミシと、骨に穿った穴から毒物を滴らせているかのように、痛い。

 ここ数日はマトモに眠ってもいない。更に今夜のもうひと晩は耐えられそうにない。

 今日、こっちの歯医者にかかってみて、駄目そうだったら別の所に逃げればいい。最悪、市販薬よりも少しは効き目が期待出来そうな鎮痛剤をもらえれば御の字じゃないか。そう、思った。

 幾分、気が軽くなる。

 こんな田舎だ。本気で駄目だったら、とうの昔に潰れていたはずだ。

 木田は何度目かの決断をした。

 サクリサクリと草を踏み分け、玄関前に来る。灯りはついてはいるが、中からは物音ひとつしない。入り口は普通の木製のドアで、かなり凝った彫金製のドアノブがついている。個人宅なら洒落ていると言うところだが、歯医者でこの扉だと中の様子が窺えない。こんな造りは最近では珍しい。自宅兼用だからなのか、それとも、昔の歯医者はこんな感じだったのかは判然としない。

 恐る恐るノブに手をかける。ひやりとした感触でまた躊躇する。引き返す理由を探すのだが、しかし、見つからない。同時に奥歯がキュイイイィィと痛んで、早く診てもらえと木田を急かした。こめかみから、冷たいものが落ちる。

 ノブを捻って力をこめると、ドアは意外な軽さでカチャリと開いた。更に意外な事に、仲は想像よりも大分明るい。脇の出窓から黄色身を帯びた光が漏れていたのに、何故か薄暗い陰鬱な受付を想像していた。

 開けた隙間から首だけを差し入れ、中を見渡す。入ってすぐに靴を脱ぐようになている。古ぼけたスリッパが三つ揃えて並べられている。下駄箱に靴はない。他に患者はいないという事か。上がった先、待合室はさほど広くない。簡素な長椅子と雑誌入れがひとつずつあるだけ、それに奥との境のように受付カウンターがある。長椅子は詰めて座って三人が限度だろう。シミが浮いた壁には色褪せた歯の健康ニュースというポスターが三枚貼ってあって、その横の窪みに手編みのベストを着たキューピーとガラスケースに入った博多人形が飾ってあった。

 あまりにも普通だ。それも、今の感覚の普通ではなく、遠く幼い頃の記憶を揺さぶるような感じで、普通だ。

 先に受付の人を呼ぶべきか、靴を脱いで上がる方がさきなのか迷う。呼び出しのベルでも置いてあれば気が楽なのだが、その類の物は見当たらない。受付カウンターには月めくりのカレンダーと来院者の名前を記入する用紙をクリップボードにとめた物が置かれているだけだった。紙には三人分の名前が書いてある。めくってみれば、下の紙は未記入のまっさらで、今日の来院者は自分で四人目らしい。再び、警戒心が頭をもたげる。いや、この名簿には日付けが書かれていない。紙の端がヨレて丸まっている事といい、もしかしたら、ここ数日で四人目なのかもしれない。傍らのカレンダーがちゃんと今年の物で、今月の頁になっているのがいっそ不思議なくらいだ。

 これはしくじったかもしれない。木田は少し後悔した。今ならまだ、医院の人には気付かれていない。こっそり抜け出して逃亡可能かもしれない。またも、しばし悩む。

 半歩分にじり下がり、後ろ手でドアノブを探っていると、奥から人の気配がした。気付かれたようだ。逃げるのは間に合わなかった。

 残念なような、安堵したような、不思議な心持ちになる。と、また歯が疼いた。痛い。

 なので、これでよかったのだと思う事にする。パタパタという軽い足音と共に、艶やかな声が響いた。

「あらぁ、お客さん? お待たせしてしまいました?」

「…………え?」

 姿を現したのは何とも妖艶で肉感的な美人だった。その女は肉付きはむっちりみっしりで、白衣とカーディガン越しでもはっきり分かる豊満な乳と腰をしている。間のくびれとどっしりした尻の緩急は犯罪的な程だ。えらく古臭い昭和のおばちゃん風パーマ頭なのはいただけないが、それを跳ね飛ばす美しさと色気を辺りに放っている。そう、美しい。

 だらしなく、妖しく、かかわるとダメになりそうな予感を抱かせる、悪女系の美しさだ。まつげが濃く、潤んだ目は少し垂れていて、唇はポテッと厚い。昔、木田の父親が集めていたドーナツ盤レコードのジャケットでよく見たような髪型とメークだ。懐かしいような、ひと回りして新しいような、妙な新鮮味がある。ツヤツヤと光るリップをたっぷり塗っていて、そこだけが今風だった。

 そのせいだろうか、出て来た女は年齢不詳だ。何歳くらいなのか皆目分からない。歯科助手ならばそこそこ若いはずと思うものの、もしかしたら、子育てがひと段落した主婦のパートかもしれないとも思う。古臭い趣味の若い娘にも見えるし、驚異的に若い見かけを保ってる熟女にも見える。二十代にも見えるし、三十代にも見える。四十代でも、人によってはいるかもしれない。

 女は診療室へ続いてるらしいドアからスッと滑り出てカウンターに移動した。淡いピンクの制服から伸びる脚もいい肉付きをしている。足首はキュッと締まり、そこ以外はたるんと肉が揺れている。それでいて、ダレてない。やや白めのストッキングが妙にいやらしいと感じた。

「お待たせしちゃいました? 席を外しててごめんなさいねぇ」

 女は心持ち前屈みになってカウンターにもたれかかる。指先だけをちょいちょいと動かして手招きした。胸の大きさが強調される。天然だろうか、分かってやっているのだろうか。

「初診ですかぁ? だったら、こちらにお名前と、あとぉ保険証をお願いしますね。今日はどうされました?」

 にっこりと微笑みかける様子はさすがに手慣れているし、見かけの印象ともよくあっていた。やろうと思えばハキハキした受け答えも出来るタイプなのだろう。男を相手にする時の効果的な会話術……少し足りないくらいに思わせておくのが丁度いいと心得ている喋り方をしているようだ。本当の歯医者ではなく、そういうプレイのイメクラにでも迷い込んだような錯覚に囚われた。

「あの、どうされました?」

 返答がない事をいぶかしんだのだろう。女が更に笑みを深くして小首を傾げる。

「あ、はい。ここ何日か歯が痛くて……。以前、別の所で治療してもらったのですが」

 もぞもぞと財布から保険証を出す。女が両手で受け取って、脇に置いた。

「あぁ、はい。……そうえすね、左側、少し腫れてるみたいですね。何日前から痛いですか? 歯は、どの辺り?」

「えっと、左の上の奥歯……奥から二番目だと思います。痛くなったのは三日前です」

「親不知を抜いた事は?」

「ありません」

 女は手元のメモに何事か書き込みながら、パソコンで保険証番号を照会している。こんな古臭い所でもパソコンを使うのかと、木田は内心で驚いていた。

「……はい。じゃあ、先に検診してもらって、それからどう治療するのか決めてもらって。その流れでいいですか?」

「えっと、あれ?」

 いわゆるナース服を着ていたので、助手か受付事務の人だと考えていたのだが、女医さんという可能性もある事に急に気付いた。この人が治療してくれるのなら、かなり嬉しいかもしれない。

「もしかして、先生でしたか?」

「あら」

 女はゆっくりと瞬いて木田を見上げた。ふわりといい匂いがする。胸がたるんと揺れるのが見えた。まさかノーブラではあるまいが、しかし、実に柔らかそうではある。

「そう見えますかぁ?」

 笑うと目目尻にふっくりとしわが寄る。ますます年齢不詳だ。

「でも、助手でした。残念」

 クスクスと笑い、女が立ち上がる。

「先生、呼んで来ますね。えっと、木田さん?も診察室にどうぞ」

 女が先に立って扉を開ける。そのまま女は奥に消えた。

 もそもそと靴を脱ぎ、スリッパに履き替えてから女に続く。診察室もまた、存外明るかった。そして、想像よりもずっと新しくて立派な診察用の椅子がデンと二つ並んでいる。もっと旧式な、床屋にでもあるような寝椅子だったらどうしようと危惧していたので、これは素直にありがたいと思った。うがい用の水回りも、バキュームも、それに器具やライトも全て一体型のセットになっている。右側の方の台には金属製のトレイが乗せられていて、そこに着脱式の工具の予備が揃えられていた。他にも、棒の先端に円い鏡がついた物やたわんだ金串みたいな物、ピンセットなども並べられている。いかにも、歯医者だ。ゴロンと置かれた金属の塊りにはやすりのようにザラザラした加工がしてあって、これで歯を削られるのかと思うと、顎の付け根がまたもキュウと痛んだ。

 昔から、歯をゴリゴリと摺る音と振動が苦手だ。細い奴でキュィーンと高い音を出すのも嫌いだ。思い出すだけで怖気が来る。これから、それをやられるのかと思うと、やはり逃げ出したくなる。

 と、木田の背後で扉が開く気配がした。

「……アナタが、歯が痛い人?」

 口の中でモゴモゴ言うような、何とも不明瞭でくぐもった男の声で話しかけられる。肩越しに振り返ろうとして、またも歯がキュイィと痛む。首をめぐらすのを断念して、もそりと身体ごと向き直った。

 木田が入って来た扉の斜め向かいにもうひとつ扉があって、その前にやたら小柄な中年男がちんまりと立っている。いや、初老かもしれない。いや、いや……老け込んで見えるだけで、もしかしたら意外と若いかもしれない。分からない。受付の女といい、この医院の人間は年齢が全く酔えない。ただ、貧相な体格なのと、頭の毛が寂しいのはひと目で了解した。上背は木田の肩辺りくらいだろうか。猫背気味なので、実際よりもよけいに小さく見えている。それでいて、頭はでかい。丸顔というか、頭の形が球体に近い。照る照る坊主か、さもなくばコケシが人間に化けているかのようだ。

 ひと目見て噴き出しそうになったのをグッと我慢する。見るからにコンプレックスが強そうなので、下手な事は出来ない。この男が歯医者という事は、木田の命綱を文字通り握っているという事だ。

「はい、木田といいます。左の上の奥歯が……」

「あぁ、いい、いい。そんなのは診りゃ分かる。はいかいいえだけで答えりゃいい」

 男は面倒そうに手を振って、顔をしかめた。その手を下ろさずにちょいちょいと右横を指し示す。

「そっちでレントゲン撮るから入って」

 見れば、奥まった暗がりにもうひとつ扉があって、さっきの女がにっこりと手招きしていた。

 何やらみっしりと機器が詰まった狭い所へ座らされ、妙な固定具を耳の穴に挿し入れられる。撮影中に頭を動かさないための措置だろうが、木田はこれが怖くて仕方なかった。顎を突き出して台の上に乗せられ、無理のある姿勢でガッチリ固定されている。耳の中には得体の知れない固定具、そのまま部屋に置き去りにされ、灯りも落とされ、機械が不気味な音を立てて頭の周りを唸りながら移動するのだ。その数十秒間がたまらなく怖い。

 何かの間違いで、この固定具が頭を締め付けて来そうな気がして仕方ない。もしくは、この耳を固めてる器具の先から針や刃が急に飛び出して来たらどうしようかと不安になる。ないと分かっていても、何故か怖い。万一の場合に抵抗の手段がないというのが、まず怖い。いい大人が取り乱す訳には行かないという、それだけを心の支えにしえ必死に耐える。

 ズィーッとモーター音が鳴っている。カメラが頭の周りをグルリ回って撮影しているのだろう。両膝がガクガクしているのが自分で分かった。

「っはぁーい、お疲れ様でした」

 部屋が明るくなり、女が扉を開ける。両耳から固定具が抜かれ、木田はようやくひと息ついた。また奥歯がキュイと痛む。そういえば、恐怖を感じている間は痛みを感じなかった。不思議なものだ。

 女に促され、診察室に戻る。案内されるままに右側の診察台に腰掛けた。合皮の感触が少しヒヤリとする。分かってますと言うように、女がふわふわした感触のひざ掛けを腿の上に当ててくれた。ペタペタという足音と共に、コケシのおっさんが近付いて来る。レントゲン写真を灯りにかざし、それから、ライト台の所にクリップでとめた。八の字眉の間にしわが寄っている。小さめの口が更にキュッとすぼまって、何事か思案しているようだった。

「痛むのは、この、左の上の奥から二番目だね?」

 トントンと写真の一部を指先で叩いて示されるが、木田にはよく分からなかった。左を言いつつ、写真の右側を指しているように見えるのだが、撮影の都合でそうなってるのかもしれないと思い、指摘も出来ない。やたら白く浮き出て見える部分が、歯に詰めた金属なのだろうと、それだけ分かった。

「虫歯になってますか?」

 恐る恐る聞いてみる。耐えられない程に痛いのだから今更なのだが、それでも、もしかしたら……という希望に縋ってみる。

「虫歯もだけどねぇ……」

 コケシ先生は写真から視線を離さず、患部らしき部分をぐにぐにと指で押した。

「これ、どこで治療したのかなぁ? 神経抜いてるでしょ? その時の処置がいい加減だったせいで中が化膿してるみたいなんだよねぇ」

「え、腐ってるんですか?」

 コケシ先生がチラリと目を上げる。初めて、木田の方に目を向けた。眼鏡越しの上目遣いと目が合う。

「腐るってのは大袈裟だけどね、まぁ……そんな感じかねぇ? とりあえず、上に被せてあるのを取って、中を見てみないと」

「えっ! 取るんですか? 銀歯をですか?」

「そりゃ取りますよ。開けてみないとどうなってるか分からないじゃないですか。どうせ、接着してる部分も虫歯になってるだろうし」

 言いながら、コケシ先生はルーターの先端の切削替え刃をテキパキと取り替えている。女は女で木田の背後から紙エプロンをふわりとかけて、首の後ろで結び始めた。もう逃げようがない。木田はいよいよ腹を括る。鎮痛剤の類で治まる痛みではなかった。分かっていた事ではないか。

 観念して背もたれに身体を預ける。と、椅子全体が上方にキュイとせり上がり、続いてゆっくりと倒れ始めた。女がライトを点け、角度を調整する。少し眩しい。薄目を開けると、眼前にコケシ先生の顔があった。

「ほら、口開けて」

 言われて、渋々口を開ける。また、歯が痛む。空気に触れただけでズキリと来る。

 つつかれるのは怖い。放っておくのも怖い。まさしく板挟みだ。

 コンコンと、問題の歯を何かで叩かれた。身が竦む。……が、恐れていたような強烈な痛みはない。痛みの種類が違うらしい、

「今の、痛かった?」

「ひ、ひぇ。ひゃまひ……」

「うん、じゃ、ちょっと銀歯を取るから。どうしても痛かったら手を上げてね」

 コケシ先生がごにょごにょと説明し、グイとマウスミラーで口をこじ開けた。反対側に回った女が唾液を吸い出すノズルをグイと挿し込む。それだけでもう、身がすくんで動けなくなる。ギュリギュリと恐ろしい音が口腔と頭の中で響いた。同時に、口の中に水が溢れる。ジュルジュルと水を吸い出される感覚、そして、歯を削る荒々しい振動。そのコンボで気が遠くなる。しかし、不思議と痛みはない。恐怖が痛いみに打ち勝っている。このまま、安らかに気を失ってしまえればいいのに。

 ボコンと妙な感触かして、問題の歯がチリッと痛んだ。顔の皮が中央に寄る感じがして、咄嗟に手を上げそうになる。が、女がガッチリと腕をホールドしていて、手が上がらない。詐欺だと思った。と、舌の上に何か冷たい物がポトリと落ちた。女がノズルを引いて、それをピンセットらしき物で取り去った。多分、今のが歯に被さっていた金属なのだろう。不思議なもので、当の歯の内側に空気が当たってスースーするのが分かった。

 横目で見ると、コケシ先生が鏡の角度を調整して、口の中を一心に覗き込んでいる。

「あぁ……やっぱり化膿してるし。こりゃ時間かかるわ。どうしよっかなぁ。あなた、週二回とか、ちゃんと来れる?」

「え? 時間、かかるんですか? サッとまとめて治療してもらえるとかは出来ないんですか?」

 さすがに一回二回の通院で終了するとは思っていなかったが、木田も仕事を持つ身だ。多少お金が割り増しになってもいいので、工程をまとめてもらえるようならありがたい。削るだけで一回、次に型を取るだけで一回……のような細切れの治療をされてはたまったものではない。

「サッとって言われてもね……。普通の虫歯だったら、削って型取って詰めたら終わりだけど、これはねぇ。何回かに分けて中を掃除しないと。どう治療するか……もっかいフタするか、いっそ抜いてインプラントにするかはそれから考えて……」

「中を……掃除? 抜く?」

「歯の根のとこね、ここが膿んでるんですよ」

 椅子がゆっくりと起き上がり、女が『うがい、どうぞ』と声をかけた。歯に沁みないか不安だったが、出された水は冷たくもなく熱くもなく、絶妙に人肌くらいで、すんなりとすすげた。木田が紙コップを戻すのを待って、コケシ先生が再び写真を指し示す。

「この歯がね、前に神経抜いちゃってるでしょ? 神経ってね、ここ。ここいらの穴からずーっと通ってるのをツルーっと抜いちゃってるの」

 そう言って、ボールペンで歯の根の部分をなぞる。示されたのは文字通りの根っこの先の方、見ていた木田は恐怖した。神経を抜くとだけ聞いていたが、こんな奥の方に通ってる部分だたのかと改めて驚く。それは、木田の感覚ではすでに骨に埋まってる部分だ。

「この抜いた跡に薬を詰めて、フタをして、そして銀歯を被せてたのね。その時の掃除が手抜きだったのか、フタするのが下手だったかして、今、この穴の内側が化膿しちゃってるのね。ここの掃除をして、新しく薬剤を詰め直さないと、フタが出来ないの。そこは分かる?」

「あ……いえ、いや、あ、はい」

 コケシ先生が上目でチカリと木田を見る。

「分かってるんかいな。……いや、まぁ、それでね、掃除は一回でチャチャーッと出来るもんでもなの。しばらく通ってもらって、他にも虫歯になりかけの歯とかあるし、少しずつ治して行きましょ」

「じゃあ、やっぱりどうしても、しばらくかかるんですね?」

 何とか食い下がりたい木田だったが、説明を聞く限りでは、すぐにどうこうなる状況ではないらしい。

「今日はこれ洗って、仮りのフタをしますんで。鎮痛剤を出しますんで、我慢出来ない時はそれを飲んで」

「……はい」

「うん」

 コケシ先生は写真を手にスイと席を立った。女がその後に回り込み、再び椅子を倒す。

「じゃ、洗浄して、仮りのフタをしますね。今日はそれで終わります」

 にっこり笑う笑顔と、迫って来る胸の圧倒的存在感がせめてもの慰めだった。

 プヨッとしたゴムのような物でフタをされ、うがいを終えたらもう紙エプロンを外される。

「お疲れ様でした」と声をかけられ、何気なく腕を反して手首を見る。まだ六時半になっていない。

 だとすると、実際の治療時間は二十分もかかっていない。レントゲンを撮る時間を含めても三十分弱だ。次の人が待っているのならともかく、一人しか患者がいないのなら、もう少し先に進めてくれてもいいのにと木田は思う。少しずつしか進められない理由があるのだろうか。素人考えでは、単に治療期間を引き延ばしているようにしか見えない。が、それを先生や女に尋ねてみる勇気もない。

 女がカウンターの方に移ったので、木田も上着を手にして待合室へ戻った。

 一人っきりなのだから清算で待たされる事もないだろう。そう考え、扉をくぐってすぐカウンター前に向かう。

 と、視界の隅に何者かの影がチラッと見えた。長椅子の奥、人形などが飾ってある棚の前の少し暗いところに誰かが座っている。なんだ、一応、他にもお客は来てるんだな。そう思った。少し安堵する。他にもいるという事で、全くの藪ではないと証明してもらった気がした。

 木田は気配を頼りに背後を探る。椅子で待つ人は深く深くうなだれ、自分の膝に額が着かんばかりになっている。寝入ってるようにも見えるが、思い出したように深く悲愴なため息を漏らしたので、とうやら起きてはいるらしい。細身で、ゆったりした上着を着ていて、男なのか女なのか判別つけがたい。声の調子だと、若い男のようだ。振り返って確認したい欲が出る。が、すでにカウンターに向かっているので、わざわざ後ろに向き直る理由を見つけられない。まして、しげしげと不躾けに見る事は不可能だろう。

 パソコンそ操作する女を見る風を装い、手元にある来院者名簿に目を落とす。

 さっき書いた木田耕介……のすぐ下に、相田貴俊と書いてあった。丸っこくてごにょごにょと書き殴った自分の字と対比して、繊細できっちりした文字で綴られている。同じボールペンを使ってもこんなに違う文字が書けるもんなんだなと思う。綺麗な字を書くというだけで、ちゃんとした人なんだろうといい印象がある。

 …………そんな人であっても、歯医者に来る時は憂鬱なんだと少しおかしかった。

 そのタイミングで、背後からまたため息が聞こえる。この世の不幸を一身に背負ったかのような絶望に満たされている。被さるように、女がエンターキーを押すタンッ!という音が響いた。

「木田さぁん、今日は初診料コミで四千三十五円です。次回からはこのカードを出してくださいね。保険証は毎月、月初めにお願いしまーす。あとぉ……」

 女が手元のノートをパラパラめくる間に、木田は財布から五千円札を出す。更に端の小銭がないか探し始めた。十円玉四枚出してカートンごと女の方に押しやる。

「はーい、じゃあ千と五円のお返しです。これ、領収書。あと、次回はいつぐらいに来れます? 今くらいの時間帯がいいですか?」

 女は月めくりのカレンダーを傾けて木田に提示した。

「あの、ここ、何時くらいまで診てもらえるんですか?」

「一応、十九時までって事になってますが、都合つかない時は相談してください。日によっては、もう少し遅くなっても診てもらえますよ? あと、これ。痛み止め。三回分、出してもらってますぅ。我慢出来ない時に飲んでもらって、続けて飲む時は五時間以上間を開けてからにしてくださいね」

 説明しながら、女は紙袋から錠剤のシートを取り出して見せる。

「これ、ね? 一回一錠です。なるべく、空腹を避けて」

 たった三回分では心許ないと木田は感じた。が、異を唱えるのはやめる。プロが三回分で充分だと判断したのだから、信用すべきなのだろう。

 思い返してみれば、治療中は確かに大して痛い思いはしていなかった。今も、そんなに痛くない。前にかかった歯医者はどこも、治療中も帰った後も痛みや不快感がずっと抜けなかった。今回だって、来院前、職場を早退する前まではこの世の終わりのような気がしていたのだから、相当に楽になっている事になる。もしかしたら、ここの歯医者……もといコケシ先生は隠れた名医なのではあるまいか。

「木田さぁん? いつにします? …………明後日の十七時半でいいですか?」

 待ってても決めきれないと判断されたのか、女がボールペンでトントンとカレンダーを叩く。

「あ、えっと……十八時だとありがたいのですが」

「分かりました。では十八時で。お大事にぃ」

 そう、日にちや時間は病院が指定してくれた方がありがたいのだ。そう指定されたのだと、職場に言いやすい。早退という結果は同じだったとしても、言い出すまでの心理的ハードルの高さが段違いになる。

「お願いします」

 ぺこりと頭を下げる。と、視線の先、女の下乳の所に赤羽と書かれたプレートが着いているのに気付いた。カーディガンに隠れて見えてなかったらしい。赤羽さん……と心にとめる。薬の袋には原口歯科医院。コケシ先生は原口先生。これも心にとめる。しばらくはお世話になる身だ。名前は覚えておいて損はない。

「じゃ、ありがとうございます」

 重ねて頭を下げてから、靴に履き替える。脱いだスリッパを揃え……ようとして、手が止まった。

 他に、靴が見当たらない。

 疑問を感じて顔を上げる。長椅子の奥、影になった所に……人影はない。なくなっている。

 もう、診療室に移動したのだろうか?

 いや、それはない。女、こと赤羽さんとはずっと会話していた。途中、他者に入室を促すようなそぶりは見られなかった。システム上、案内もなしに患者が勝手に診察室に入って行くとは考えにくい。

 では、さっき見た人影は、そして深いため息は何だったのだろう?

 錯覚だろうか?

 チラッと視界の端で捉えただけなので、見間違いという可能性は、ある。しかし、あの生々しい吐息までもが聞き間違いという事は、あるだろうか?

 いや、しかし、しかし自分の物以外に靴はない。スリッパも、自分が使っていた分の他の二揃いは冷えたままで、さっきまでと同様に並んだままだ。

「──木田さん? どうされました?」

 中腰のまま動かない木田を覗き込むように、赤羽が身を乗り出す。カウンターの上で、乳がぷっくりとひしゃげた。

「あ、いえ、気のせいだったようで……。では、失礼します」

 ダメ押しにもう一回お辞儀して外に出る。

 すっかり夜になっていて、風が冷たい。医院裏の神社の木立ちがザワザワと音を立てていた。

「赤羽さん……という事は、夫婦じゃないって事だよなぁ」

 キャベツ畑の間の小道を歩きながら、今更な事に気付く。赤羽さんが通いだとして、この立地では通勤も大変だろうと考える。車を使っているのだろうか。しかし、玄関側からは車庫も駐車場も見当たらなかった。あの場所では路駐でも問題ないのかもしれないが、その車もなかった……と思う。医院の裏の神社から更に先は旧い街道で、峠に続いている。木田も何度か車に同乗して通った事はあった。細くくねった寂しい道だったと記憶している。それでも、時折り開けた場所や田んぼがあって、民家が数件ひっそりと建っていたりする。そういう家の主婦がパートで来ているのかもしれない。いや、さすがにないか。町の方から通って、裏にチャリでもとめている方が可能性はあるか。

 そんな事をツラツラ考えながら、ふと振り返ってみる。と、木立ちのシルエットを背景に、原口医院の窓の灯りがポツンと浮いて見えた。木田の後に予約は入ってなかったのだろう。玄関脇の看板は、もう消えていた。



「あら、じゃあ、痛みが減ったんなら、行ってよかったじゃないですかー」

 昼下がりの控え室で心美ここみことマル美が弁当を口に目一杯頬張ったままでうんうんと頷く。昼下がりといっても、もう夕方に近い。椅子ひとつ挟んで座った木田は、なるべくマル美の方を見ないようにしながら、それでも半笑いで手にした茶碗を揺らしていた。

 歯が痛くて痛くて、半ば死人のようになっていた木田に、医者に行くよう発破かけてくれたのはこのマル美だった。なので、今のところは木田の恩人という事になる。マル美はこのスーパーの正社員の中では一番若い二十四歳。その若さでレジ部門のリーダーとして海千山千のパート軍団のオバチャンたちを御しているのだから大した器なのだろう。もっとも、オバチャン達の群れに混じって何の違和感もないどころか、ウォーリー状態になってしまうので、単に同類として受け入れられているだけなのかもしれない。マル美という、男性社員の間でだけ使われている渾名は、ちゃんと体を表しているのだ。

 そんなマル美は、天パの髪を色気のないゴムでひと括りにしただけ、それに顔の幅に合ってなくて開ききったメガネをかけていて二重顎。レジ部門に支給されるスーツデザインの制服もパッツンパッツンだったりする。しかも、物を食べる時にはピチャピチャくちゃくちゃと音を立てる。これがどうにも木田は許せない。許せないが、注意する勇気はない。今もハンバーグとミックスフライの弁当を食べているのだが、妙にやかましい。その弁当の横に置いてある菓子パンとプリンまでを食べるつもりでいるのなら、明らかに食べ過ぎだ。

 …………二十kgも体重を落とせば、それなりに可愛くなりそうな土台をしているだけに、惜しい。

 この感想も男性社員共通の認識なのだが、本人に言うつもりはない。もちろん、怖いからだ。

 そんなマル美ではあるが、一応は同僚である。木田が歯痛で参ってるのには同情してくれたのだろう。地元住まいのパートさんに歯医者の場所を聞いてくれて、更には渋る店長を脅して、早退の許可をもぎ取りまでしてくれた。それが一昨日の事だ。昨日は木田は休みで、今日、その歯医者の報告を終えたところだ。実際は、教わった歯医者は移転していたのだが、近くによさげな歯医者を見つけたのだから結果オーライなのだろう。その辺りの説明は面倒なのではしょってしまった。お陰様でいい歯医者に当たりましたとだけ言っている。ついでに、これからしばらくは週に何度か抜け出して通院するという挨拶もしておく。木田のドライ物部門は夕方にはもうヒマになるのだが、気を遣っておくに越した事はない。マル美のひと言助言があるかないかで店長の態度が丸っきり違って来るので、味方にしておくべきなのだ。

「マル……山田さんのお陰で何とかなりそう……です。今日も五時半で退社しますが、よろしく……」

「うん、分かった。何か伝言あれば、木田さんのデスクに付箋貼っとくね!」

 相変わらずピチャピチャと音を立てて食べるのはいただけないが、以前ほどにはイライラしない。木田も現金といえば現金なものだ。

 あの後、歯の状態は割によかった。

 化膿した部分をザッと洗って仮りのフタをしただけなので、実際の状況は何も変わってないはずなのだが。それでも、あの、世界が端の方から奈落に向かって零れ落ちてくようなじりじりとした痛みは再発していない。

 物を食べる時、何かを飲む時にたまに当たってチリッとした刺激が走る。その程度だ。驚く事に、処方された痛み止めにも手を出していない。

 こんなに調子がいいのなら、コケシ……もとい原口先生がしばらくかかると言っていた歯の奥の掃除も存外に早く終わるかもしれない。そうであればどんなにいいか。

 ぶっちゃけ、木田は病院が嫌いだった。その中でも歯医者は突出して嫌いだ。行かなくて済むものなら、一生行きたくない。ただ、あの痛みを抱えて一生を送るのもキツいので、仕方なく、生贄にされる動物の心境で渋々出向いているのだ。

 舌先で、仮りのフタの所をそっとなぞる。

 ザラッとした感触が舌に障る。少し強く押すと、フタの表面がたわむような感触がする。ゴムという程柔らかくはないが、周りの歯と比べれば幾分柔らかい素材なのだろう。舌先は意外と敏感だ。今回の歯痛で思い知った。体調や気分が下向きの時は歯の表面がザラついているように感じるし、気分がアゲになればツルツルに感じる。磨く頻度や磨き方を変えているつもりはないので、口の中の状態が気分と連動しているのだろう。今日の木田の歯は、ここ数日では一番ツルツルしている。痛みが引いてよく眠れたからだろう。

 夕方からまた歯医者なのが幾分気が重いが、着実によくなるのだと分かっているので、以前ほど苦ではない。

 前にかかった歯医者は本当に酷かった。治療の方針をちっとも話してくれなかった。今やっている作業はこれで、次回はこう、最終的にどうするのか、そこに行き着くまでに何回くらい来院する必要があって、費用はいくらくらい見ておけばいいのか……等々、何ひとつとして説明してくれなかった。説明する必要を感じていなかったのか、それとも、そういう発想すらなかったのか。昔はどこもそんな感じだったとは聞くが、仕事を抜けて通院する者にとって、完治までにかかる時間というのは重要だと木田は思っている。目安だけでもいいので、早目に説明すべきなのだ。そして、そういう説明の発想がない歯医者から潰れて行っているのだろう。そう考える事にする。

 その点、原口先生は──こちらから尋ねる前に色々話してくれた。発音はごにょごにょだし、聞き取りにくいし、笑い顔も笑い声も気持ち悪い人だったけれど、でも、説明してくれるという一点だけでいい先生だと思えてしまうのだ。

 歯の掃除は何回かに分けて、と言っていたけれど、今日食い下がれば、大まかな目安は教えてくれそうな気がする。そうだ、ちゃんと聞いてみよう。木田は心にメモする。他に聞いておくべき事はあるだろうか。

「あ、結局、どうするのか……か」

 掃除の後、再び銀歯を被せるか、抜いてインプラントにするか相談だと言われていた。抜いてしまうのであれば歯の根を掃除する必要はなさそうなものだが。もしかしたら、化膿している部分が歯の根から先の骨にまで達しているのかもしれない。そこまで想像したら、さすがに顎の付け根にキュウゥゥと痛みが走った。頬を押さえてうずくまりそうになる。

 成る程。痛みと気分は確かに連動している。

 そうだ、最終的な落とし所も早目に相談して決めてしまおう。そう思った。

 もしインプラントという事になれば、多分だが、かなりのお金がかかるだろう。そこの所も相談しなくてはならない。木田としては、お金の多寡よりも、より痛くない方を選びたかった。そういう主義だ。親不知だって抜歯が怖くて逃げ回った結果、立派に綺麗に生え揃っているくらいだ。念ずれば通ず、なのだ。

 今回も、徹底して痛くない方で選ぶつもりだ。

 とはいえ、抜歯はやはり怖いので、多分、銀歯になるだろうが……。


 果たして、十八時五分前。

 木田は原口歯科医院の門まで来ていた。すでに日は暮れて辺りは暗い。相変わらず人通りのない寂しい一画に、虫の声と木々の葉擦れの音だけが響いている。まばらな街灯と玄関脇の小さな看板だけが、黄色っぽい温かみのある光を放っていた。

 キィと扉を開いて、首だけ覗かせて中を窺う。

「──こんにちは」

 声をかければ、今日の赤羽はすでにカウンターに腰掛けていて、パソコン作業をしていた。

「あら、こんにちは。木田さん」

 カードを出す前から、赤羽はにっこり笑って名前を呼んでくれた。客が少ないのもあるだろうが、それでも覚えてもらっていた事は純粋に嬉しい。改めて受診カードを出し、

「木田です」と名乗る。それからボールペンを取って、クリップボードの来院者名簿に名前を記入する。

 ……先日とは違う紙になっている。今日、木田は六人目。こんな人数でやって行けるのかと少し心配になった。この規模の歯医者がどのくらいの患者を診ればやって行けるものなのかは見当つかないが。案外、田舎の歯医者はどこもこんな感じなのかもしれない。

 木田耕介……と書き終えてから、手と目が固まる。

 ひとつ上に書かれた名前にも、そして字にも見覚えがあった。

 几帳面で繊細で綺麗な字で 相田貴俊 と記入してある。

「…………」

 振り返って待合室を見回す。が、誰もいない。長椅子の上に料理雑誌がポツンと一冊置き忘れてあるだけだった。その雑誌を手に取り、脇のマガジンラックに戻す。そのついでに下駄箱を覗く。

 ……あった。

 重ねられたスリッパが並ぶその一番奥に、程よく履き古されたスポーツシューズが収まっている。サイズは26……27……木田とほぼ同じくらいだろうか。これだけ大きいならば明らかに男物だ。この靴は、確かに先日はなかった。ならば、この靴の持ち主は今、治療中という事だろうか。耳を澄ますが、物音はしない。赤羽が操作するキーボードの音だけがカチャカチャと響いている。タンッ!とエンターキーを叩く音がした。

 赤羽が立ち上がる。

「あら、片付けしてもらって……ありがとうねぇ。あれから痛みは出ませんでしたか?」

 ぽてっとした唇の両端が持ち上がり、赤羽がニッと笑う。笑顔を見せる時に前屈みになるのがクセのようで、白衣のあわせの間に、乳の割れ目がニュッと寄った。

「はい、お陰様で。一時はどうなるかと思いましたが……」

「よかったですねぇ。今日も頑張りましょうねぇ」

 何を頑張れというのかよく分からない答えを返して、赤羽は診察室の方へと消えた。カタンカタンと物音が聞こえ始めたので、診察に使う器具を用意しているのだろう。残された木田は突っ立ったままでいるのも間抜けな気がして、長椅子に座る。早目に来ても、予約の時間までは診察室に通してもらえないようだ。どうせ後二、三分の事なので、新聞や雑誌に手を伸ばすのも面倒臭い。ケータイを出すのも憚られる。結果、診察室からも物音に集中してしまう。

 カタカタと軽い音がして、ゴトリと何か置く音が、コツコツと赤羽が歩き回る足音が聞こえる。被さるように、上方からドスドスと荒い音が響いた。続いて、ドンドンドン……と階段を下りる音がする。先生、二階で休憩していたんだな、とぼんやり思う。

 診察室のドアが内側から開いて、赤羽が顔を出した。

「木田さーん、どうぞー」

「あ、はい」

 上着とカバンを持って立ち上がり、そして止まる。

 ……という事は、下駄箱のあの靴の主はどこにいるのだろう?

 診察室に向かう前に、もう一度下駄箱を覗く。やはり、棚の奥には男物のスポーツシューズが収まっている。

 来院者の物ではないのだろうか。たとえば、先生が散歩用としてこちらに持って来た物だとか、たまたま、医院玄関から上に上がって戻すのを忘れているとか……。

 首を捻りながら入室すると、原口も赤羽も準備万端で待ち構えていた。診察台のすぐ横に移動型のワゴンが現れていて、上に何やら箱型の機械が乗っている。遠い昔、小中学生の頃に電気の実験で使った電流計や電圧計のフォルムに似ている。台形のような小ぶりの箱の前面に目盛りが切ってあって、針が動いて数値を示すようになっている。その箱の上部からコードが何本か延びていて、針金のような細長い端子と接続していた。何の機械なのかは木田にはさっぱり分からなかった。

 促されて座ると同時に、紙エプロンをかけられる。そのまま、赤羽が診察台の後ろに控えた。

「どうでした? あれから痛み、ありました?」

 隣りに座った原口がマウスミラーを手にもぐもぐと声をかける。

「いえ、痛みは特には……」

「ふぅん。そうでしょそうでしょ? 実際ね、現状をちゃんと理解するだけで、痛みは和らいだり落ち着いたりするもんなんですよ。どうなってるのか分からない状態が一番痛むのね。心理的に怖いからなんでしょうね。病は気からって言うけど、つまりはそういう事なんでしょうね」

 色々と話しながら、原口はミラーで木田の口の中をひと通り診る。次に、鎌みたいにたわんだ形の針金の器具で仮りのフタをちょいちょいと突く。

「痛い?」と形式的に尋ねた後、答えも待たずにクィッと引っ掛けてフタを取ってしまった。音こそしないが、キュポンという感触がして、フタが取れる。こんなに簡単に、そして痛みもなく取れるものなのだと木田は驚く。

「あー、じゃあ、今日から歯の根の奥を掃除しますんで……」

 そう言って原口が手にしたのは、例の機械から伸びたコードの先についた針金のような器具だった。その先端に、更に小さなケースから取り出した糸鋸のような細い金属片を取り付けている。随分と細長い。

「あの……掃除って、それでするんですか?」

 恐る恐る聞いてみる。

 掃除と聞いて、何となくノズルのような物で水やお湯を噴射して洗い流すイメージを持っていたのだが、原口が手にしている器具は少し、いや、かなり違う。

「これ? これで歯の中を掃除するのよ。神経が通ってた穴にこれを通して、以前に詰めた薬剤と膿んだ組織を掻き出すのね」

 原口がすぐ目の前まで持って来て見せたそれは、まさしく糸鋸の刃の形状をしていた。細い細い金属片の片側に細かな切込みが入っている。歯に開いた穴がどのくらいの大きさなのかは知らないが、それを突っ込むのは無茶だと木田は思った。そんな針金を入れて、中の物を掻き出すとか、そんな恐ろしい事をされたら死んでしまう。

「ちょっ! ちょっと待ってください! 掻き出す? それで?」

 今にも作業を始めようと身を乗り出す原口を必死でブロックする。

「どしたの? だって、お掃除するって説明したよね?」

「いや、でも、そんな乱暴な事するとは思ってなくて……」

 原口が手にしているそれは、確かに細い。しかし、見た所、縫い針よりは太くしっかりしているように見える。そんなモノを歯の中に通すとか信じられない。増して、それで穴の中を掻き回すなどと……!

「いや、痛くない痛くない。だってその歯、もうとうに神経は抜いてるでしょ? 痛いと感じる神経がもうないんだもの。痛いはずがないでしょ?」

 血の気が引いて強張っている木田とは対照的に、原口は表情ひとつ変えずに言い放った。確かに、痛いと感じる神経がないのであれば、痛いと感じようもないのだろう。原口の常識ではそれが正しいのだろう。

 しかし、しかし、いくら痛くないからといって、そんな無法が通っていいはずがない。歯に開いた穴に針金を通してこそぐ!

 どう考えても、それは地獄の刑罰だ。そんなモノを治療の一環だと言われても承服出来ない。

 木田の首筋に、生え際に、脂汗がたりたりと滲み出てきた。

 痛くないはずがない。万に一つも痛くなかったとしても、そんな恐ろしい事をされると知ってしまった以上、痛く感じてしまうのが人というものだろう。それが人間というものだと木田は信じている。実際、すでに顎の付け根がキュウウと痛くなっている。件の歯も再び痛み始めた。一昨日までの、あの耐えられない痛みだ。歯の奥から異物が入り込み、脳の奥底をぶちゅぶちゅと破壊して回っているような、あの痛みだ。

「あっ痛っ! ……痛い」

 耐えかねて、頬を押さえる。その刺激で、更に歯が痛む。

「いたたたた……」

 診察台の上で丸まってしまった木田を見下ろし、原口は呆気に取られたように首を振った。

「これは……。困ったねぇ」

 後ろに控えた赤羽も微妙な笑顔で木田を見下ろしている。

「木田さん、そんなに痛いですかぁ? でも、痛いんなら、それをよくするためにもちゃと治療しないと。ね?」

 噛んで含めるようにゆっくりと声をかけるが、木田の耳に届いているのかはかなり怪しい。断固拒絶と言わんばかりに口をへの字に結び、両手で左頬を押さえている。赤羽の前傾姿勢にも目をくれず、頑なに首を振り続ける。その拍子に、更に歯が痛む。とんだ悪循環だ。

 実際、木田は本当に痛みを感じていた。恐ろしい事、痛い事をされるに違いないという警戒心が、些細な刺激でも過剰に大きな痛みとして拾い上げ、それを耐え難いものへと変換しているのだろう。例の歯に開いた穴から、溶けた頭の中身がトロトロと流れ落ちるような気がした。

「あー、じゃあ……麻酔しますかね? 麻酔。それならいい?」

「麻酔?」

 そんないいものがあるのなら、どうして初めから使わないのか?

 そう思った。じっと原口を睨む。原口は原口で、八の字眉を寄せて何やら思案している。

「どうしても痛いのがダメだというなら、麻酔しますけどね……。どうします?」

「……」

 決めきれずに固まっていたのをどう解釈したのか、原口は赤羽に視線を向ける。赤羽もこの展開を予測していたのか、サッと動いて器具が並ぶ棚へと向かった。戸を何箇所かパタンパタンと開け閉めして、金属の筒状の物を手に戻って来る。筒の端に丸い輪が二つついていて、ここに指を通す仕組みらしい。反対側の先には……ギョッとするほど長い針がついている。普通の縫い針などの比ではない。木田がこれまでに体験した注射の針とも次元が違う。ふとん針……そうだ、昔、母親が綿入れなどの冬物を縫う時に使っていたような、あの特大のサイズの針が光っている。

「ま、待って! それが麻酔ですか? まさか、まさかそれを刺すなんて事は……」

「あ、うん。でも、痛くはないよ。刺した途端に麻痺するから、痛くない痛くない。最初だけ、ちょっとチクッてするだけ」

 注射器に指を通した原口がにじり寄って来る。

 絶対に、チクッでは済まない。針の先端、薬剤が放出されるだろう穴までがくっきりと見えている。そんな物をどこに刺すというのか。

「大丈夫、大丈夫。歯茎はそんなに神経通ってないから。で、歯に刺すのは程よく麻痺した後だから」

 やっぱり口の中に刺すのか!

 絶対に許すものかと、木田はますます口に力をこめる。あんな太い針を刺して大丈夫などと安請け合いする気が知れない。

「……困ったね。麻酔まで拒否されたらどうしようもないよ……」

 原口が口を尖らせて不満を漏らす。上目遣いに、赤羽をチラと見た。

 と、赤羽は木田の後ろに回り込み、上から覆いかぶさるようにして、木田の両肩を診察台に押し付けた。木田の眼前に、重力で垂れた乳が迫り、一瞬、状況が飲み込めなくなる。

「先生、今ですっ!」

 押し付けられた乳越しに赤羽の声が響く。叫ぼうとした口の両側、顎の付け根のところに誰かの指が当たった。それがグッと狭められ、自然と口がカパリと開いた。

 ヤバい、刺される!

 目を閉じるまでもない。赤羽の乳で視界はすでに閉ざされている。歯茎の……どこら辺りかはよく分からないが、歯茎のどこかに冷たく尖った物が当たる感触がした。

 瞬間、口の中の一部から重力が消え去る。さもなければ、口の中の一部がスッと消えてしまったような感覚がする。重いような軽いような、自分の感覚と切り離されてどこかに持ち去られたような妙な心持ちだ。原口が手を動かす度に、その感触の部分が大きくなって行く。一度ではなく、何度も刺しているのだろう。左頬と、あと左目の下の皮が突っ張ったような感触もする。口を閉じたいのだが、自分の意思ではどうにももう動かない。

「……ね? どうって事なかったでしょ?」

 やれやれと大仰に息を吐いて、原口が注射器を赤羽に戻している。木田は口の端からよだれを垂らしそうな気がして、それが気になって仕方なかった。小さなタオルは持参したのだが、カバンから取り出しておくのを忘れていた。斜め前の台に上着と共に置かれたカバンをチラと見る。

「ねっ? 痛くなかったでしょっ!?」

 念押しするように原口が再度尋ねる。どうしても確認しておきたいようだ。渋々、原口に視線を向ける。

「……そ、そうらっらかもしえましぇん」

 痺れているせいで、上手く喋れない。

「あなたも意地っ張りなのね。痛くはないはずですよ」

 原口はズレた眼鏡の位置を直し、改めてコード付きの針を手にした。

「はい、口を開けて。麻酔、かかってるから。絶対に痛まないから」

 それでも渋っていると、原口は左手で木田の顎を挟み、先程と同じ要領で口を開いた。これ以上抵抗するのもみっともないと観念し、ヤケクソのように大きく開ける。原口がミラーを挿し入れ、そのミラーを頼りに針を動かしている。何か、硬い物が上顎に当たった。

「──っ!?」

 グニュンと何かが挿って来る。何か……いや、考えるまでもなくあの針だ。歯の内側に、そして、その奥に。更に、木田の感覚では更に更に奥の奥、頭蓋骨の底の部分に届いているんじゃないかと疑う程に深くまで針が挿し込まれているように感じた。恐怖で身が竦む。

 確かに、確かに痛くはない。痛みは感じない。

 しかし、触感は残っているのだ。何という事だろう。

 自分の口の中、骨の中に何かが侵入して、内側をギュリギュリとこそいでいる。その感触が生々しく伝わって来る。だのに、痛みはない。

 痛いよりももっと気持ち悪い感覚だった。痛くない。痛くない。痛くはないけれど、やたらと怖い。痛くない事が、痛い程に怖い。

 原口は無造作に手を動かし、機械の表示を見ている。表示用の針が動いているらしいのだが、何の数値を計っているのかは見当もつかなかった。電気を通したりしているのだろうか。それすらも全く分からない。ただ、埋められた針がビビビビと振動しているのは何となく分かった。口の端からタラリとよだれが落ちた。

「あぁ……相当深くまで膿んでるなぁ」

 原口は口を尖らせて機械を睨んでいる。

「こう酷いと、五回くらいかかるかもしれないなぁ」

 五回……!

 木田は絶望に打ちのめされそうになる。こんな恐ろしい目は一度で充分なのに、それがまだまだ続くのだという。耐えられない。

 またも顎の付け根がキュウと痛む。

 気のせいでなく、歯の奥も痛いような気がして来た。原口が指を動かす度、中の針がギョリと動く。

 痛い。こんな仕打ち、痛いに決まっている。

「ひっ、ひらいでふぅ!」

 必死の思いで手を動かし、口元にある原口の手の甲を叩く。原口が不満そうに眉を寄せた。

「痛いはずないでしょ。麻酔してるのに」

 返す木田も必死だった。

 そう、痛くない。それは事実だ。その場所は確かに痛くない。しかし、事態を認識している自分の心持ちが痛いと感じているのだ。この状況を痛いと感じないはずがない。その思いが、木田の脳の中にある痛い記憶と感覚を起動させている。全ての感覚を認識するのが脳の仕事だというのならば、今、木田が感じている痛みは本物のはずだ。脳が痛いと感じているのだから。

「どうしろって言うのよ……」

 原口が指を引く。併せて、何かがズルリと抜ける感触がした。ズルリズルリと内側を這い、そしてなくなる。針が抜かれたようだ。抜けた後の穴に空気が当たる。キンキンと痛い。

「……痛くなかったでしょ」

「……」

 そうだ、痛いか痛くないかと聞かれれば、それは痛くない。痛くないが、そういう話ではないのだ。どうして分かってくれないのだろう。

「んー、じゃあ、今日はこれだけにしときますかね? しかし、こんな痛がるんじゃどうしようかなぁ……」

 原口は機械のスイッチをパチンと切り、椅子を戻してうがいするよう促した。その後、前回と同様に、仮りのフタを被せる。時折りブツブツと呟くので、内心で対策を考えているのだろう。木田もまた、どうしようかと思案していた。

 こんな治療が続くようなら、自分の身が持たない。今からでも、別の歯医者を探すべきだろうか? そんな思いがチラと過ぎる。

 しかし、歯医者を替えたとして、劇的に違う治療法があるとも思えない。結局は似たような事をされるのだろう。

 以前の治療ではどうだったろうか。痛くて怖い記憶ばかりが残っていて、具体的に何をどうされたのかあまり覚えていない。以前かかった医者は事前の説明をほとんどしないタイプだった。その分、サプライズでサッと治療して、怖いと感じるヒマを与えなかったような気がする。そうだ、神経を抜いた時も、そろそろ始めるのかとドキドキしている最中にササッと手を動かし、次の瞬間には『ほら、これが抜いた神経』と言って、針の先に付着したプヨンとした白い肉塊を見せたような気がする。その後でさんざ痛い痛いと文句を言ったが、事の瞬間は何が起こったか分からなかった。それは……認めざるを得ない。

 結局は、自分の肝が細いのが悪いのか……。

 情けない気持ちになって、木田は腿の上に揃えた自分の手を見ていた。大の大人が、それも大人の男が情けない。それは分かってる。自分でもみっともないと思ってしまう。

 しかし、痛いのだ。痛いと思い込むと、本当に痛い。神経が感じなくても、脳がそう感じてしまっている。どうすればいいというのか。

「じゃあ、今日はこれで終わりますねぇ」

 赤羽がふわふわとした口調で声をかけ、紙エプロンを取ってくれた。気を遣ってもらっているようだ。

 ショボショボと待合室に戻り、長椅子の端に腰掛ける。

 反対側の端に痩せた若い男が座っていて、木田の気配に気付いて顔を上げた。細面の、顔色の悪い青年だった。まだ若い。学生かもしれない。木田と目が合うと、視線だけで小さく会釈し、すぐに手元のケータイに視線を戻した。やはり気を遣われているような気がして仕方ない。

 中での醜態を聞かれていたのかもしれない。

 木田は不安になる。大声などは出してないと思うが、原口の口調だけでも、自分が盛大にゴネていたのは丸分かりだったろう。ますます情けないと思った。こんな若い人にまで可哀想な奴だと思われているとしたら、いたたまれない。

「……木田さん」

 赤羽が遠慮がちに声をかけてくれる。哀しい気持ちをグッと堪えて立ち上がり、のろのろとカウンターに向かった。

「今日は八百六十円です。……次回はいつにしましょうか」

「あぁ……」

 赤羽が指し示すカレンダーを見ながら、言いよどむ。

 もう、出来る事なら、来たくない。このままバックレたい。

 しかし、歯には大穴が開いたままだし、今のフタはあくまで仮りの物だ。持っても数日がせいぜいだろう。そして、歯に穴が開いたままで逃亡するのもまた、木田にとっては恐怖だった。

 痛いのも怖いが、痛みから逃げて取り返しがつかなくなったら、それも恐ろしい。もっともっと痛い思いをするかもしれないからだ。どうしようもなく、小心者だ。

 と、奥から原口がのそりと顔を出した。

「あのね、ちょっと考えてみたんだけどね」

 木田の姿を確認して、原口はヒョコヒョコと赤羽のすぐ隣りまで出て来た。

「新しい治療法があるんだけど、試してみる?」

「……え?」

 新しい、治療法?

 意味が沁みて来るまでにしばらくかかった。それはつまり、あまり痛くない別の方法があるという事だろうか?

「ん。ボクの出身大学の研究室がね、何か新しい事やってるのよ。ボクはよく分からないんだけど、画期的らしいよ。痛みは全くないっていうね。歯医者としてはあんまり普及してほしくない手法なんで、思ったように広まらなくて困ってるみたいなのよ」

「……はい?」

 つまり、まだ研究段階という事だろうか?

 もしそうであれば、実験台にされるのは真っ平だし、多分、それは違法だ。法律についても医療についても詳しくはないが、正式に認可されていない医療行為が違法な事くらいは分かる。

「いや、認可はされてるんじゃないの? 町医者のボクに勧めるくらいだし。あのね……歯を再生する治療なのよ。歯の素を歯茎に埋めて何ヶ月か待つと、そっから新しい歯が生えて来るの。だから痛い事は何もないの。……そういう話、聞いた事ない?」

「え? 歯の再生……?」

 再生治療というコトバならば、何度か聞いた事がある。そんな気がする。だが、どんな場面で耳にしたかは定かではない。ニュース、もしくはニュース番組内での特集だったような気がする。なので、その手の物はまだ、実験段階か実用化の研究をしてる段階だと思っていたのだが……。

「うん、そんな簡単に歯が生えかわったら、歯医者の商売が上がったりでしょ? だから、歯科医師会とか……いや、この場合は業界ね、機器作ったり、薬剤作ったりするね、あと歯科技師?そこいらの団体がね、あまりいい顔しないのね」

「あぁ、そうでしょうね。これまでの取り引きメーカーとは違う分野のメーカーに移りそうですよね」

 心持ち嬉しそうに原口が目を上げた。眼鏡越しに木田をじっと見る。

「キミ、分かってるねぇ。そういう訳で、報道もあまりされてないのよ。でも、そういう方法もあるのね。今日みたいのがどうしても無理なら、試してみたら? やるって言うんなら、その歯の素を手配するけど」

「それ、本当に痛くないんですか? あと、費用がかかるんじゃ……」

「うふぅーん……」

 原口は妙な音を出して天井を見上げた。

「そうだなぁ……。痛くないっちゃ痛くない。歯の素を埋める時だけ、ちょっともぞっとするよ。このくらい、このくらいのね……」

 そう言って、原口は人差し指と親指をギリギリ触れ合う程に近付ける。

「このくらい、ケシ粒くらいの素を穴の中に埋め込むのね。針の先に着けて、キュッと押し込んで、フタして……。後はその素が定着して育つのを待つだけ。速い人で二ヶ月くらい、遅くても半年くらいでちゃんとした歯が生えるそうよ。今の歯は、新しい歯が育って来たらポロッと自然に落ちていう話なのね。まぁ、埋めた後も、様子見とフタの付け替えでうちに通ってもらわなくちゃならないけど」

 その説明が本当ならば、それは確かに画期的だと木田も思った。乳歯が永久歯に生えかわるように、その素を埋めさえすれば新しい歯になるというのか。そんな手法があるのなら、もっと宣伝すればいいのに、これまで聞いた事すらなかった。不思議な話だ。原口が言うように、業界の利害が絡んでの事だとすれば、何とも腹立たしい話だと思った。

「あと、費用はね、うん、そんなにかからないと思うよ。今日やったのとそんなに変わらないくらいじゃないかなぁ? 今はもっと広めるために、メーカーさんがかなり割り引いてるみたいよ? だから、今ならかなりお得に試せるって訳」

 原口は来院者名簿をトントンと叩きながら説明する。

 まっさらな歯が新たに生えて、それが従来の治療法と然程変わらない費用で化膿だというのなら、それは確かにお得なのだろう。

「それ、本当なんですか? 歯の再生とか、聞いた事ないですよ」

 念押しでもう一度尋ねる。原口も困ったような笑い顔になって口を尖らせた。

「信じてないかなぁ……。いや、でも、痛いのはイヤなんでしょ? 試してみればいいじゃない」

「……」

 まだ迷っていると、横で話を聞いていた赤羽が身を乗り出した。例によって、乳がひしゃげてムニッとなる。

「やってみればいいですよぅ。前にもお二人、試してもらったんですよぅ。ちゃーんと立派な歯が生えましたもの。ね、先生?」

「お? おぅ、そうそう。全くの初めてだったら、こんな勧めないよ。もう二回、やってるんでね。大丈夫、大丈夫」

 そこまで保証されれば、試してみようかという気に傾き始める。いや、実はもうすっかり傾いているのだ。ただ、未知なものは少し怖い。そういう事だ。

「まぁ、ダメだったら、そしたら諦めて、今日みたいに掃除の方に戻ればいいよいいよ。じゃ、手配しておくね。次回はそれを埋めてみましょ」

 クイッと眼鏡を押し上げて原口が笑う。

「取り寄せにちょっとかかるから、次回は来週ね。一週間後の同じ時間でいい?」

「あ、はい……」

 なし崩しに了解してしまった。

 気持ちはもう傾いていたので、しまったという思いはない。ただ、ふわふわとした不思議な気持ちは残った。

 じゃあ来週と確認しようとして、原口の手元を見る。

 …………また、妙な気持ちになった。

 原口の手の下にある名簿……そこに書かれた自分の名前。木田耕介の上にある名前が、さっきと違っている。森下節子。

 そんな名前だったろうか?

 相田ナニガシと書かれてなかったか?

 確かにそう記憶していたのだが、自信はなかった。もしかしたら、前回の記憶と混じってしまったのかもしれない。



「それ、iPS細胞とか、そういう話ですかー?」

 マル美は相変わらずペチャペチャと音を立てて弁当を食べる。不快だが、指摘する気は当面ない。当人に音を立てている自覚はないようなので、下手に指摘してしまったら水掛け論になってしまう。最悪、セクハラなどと言い出されては堪らない。

 それに、その音さえ我慢して話してみれば、マル美の話っぷりは意外と面白い。話題も豊富で、政治経済やサブカルチャー、それに科学方面のニュースにも明るい。何でこんな田舎のへっぽこスーパーでレジ長やっているのか、全く不可解だ。

「あ……アイピーエス?」

 対して、木田は何を言われているのかすら、さっぱり分からなかった。

 何とか細胞というのがしばらく前に話題になったのは、それは覚えている。日本の研究者がそれでノーベル賞を獲った事も、その後に現れたインチキ臭い研究者のせいで話題がそっちに持ってかれてしまったのも、それもパートさん達の話を伝え聞いてて少し分かる。分かるといっても、その程度だ。

「iPS。万能細胞っていう奴ですよぅ。ニュースでやってたでしょ?」

 マル美がさも当然のように言い放つ。

 朝から晩まで職場に詰めていて、新聞に目を通すのも難しい日々だというのに、そんな小難しい話を常識のように言われても……。

 木田は曖昧な笑顔を作って左頬を押さえた。

「いやぁ……オジサン、もう、よく分かんねーよ。高校でも生物はダメだったんだよなぁ。物理はもっとダメだったけどな。つまり、ここに埋めた歯の素ってのは、その……何だ、アイピーなんとかって奴な訳?」

「まっさかー! だって、あれ、まだどう使おうかっていう研究段階でしょう? まぁ……近い内にiPSバンクとか出来て、予備の臓器とかストックされるようになるとは思いますけどー。ほら、臍帯血バンクみたいな感じ?」

「予備の……臓器……」

 最後の さいたいけつ とかいうのは何だろう? その音の響きは聞いた事あるような気がしたが、どういう物なのかは想像つかない。多分、語尾の けつ が血だろうというのは、それだけは分かった。

「そうそう。それで、そのiPS細胞をどう操作すればどういう組織に分化するかを研究してる段階だと思いますよ? 後は……他人の細胞でも上手くマッチするのかとか、操作する時に使うガン細胞とどう折り合いつかるのかとか、そういうとこを研究中だと思いますぅ」

 臓器とか細胞とかの話をしながらでも、マル美は平然と鶏のキモ煮を食べている。テレビに手術シーンやセックスシーンが映っていても、平気で食事を続けられるタイプなのだろう。確か文系だと言っていたが、そこいらはしっかり割り切れているようだ。

「やっぱよく分かんないな。細胞を取り出して、その何とかっていう細胞にしたら、それが色んな部分に自由に作り変えられるって事?」

「うーん……。色々はしょったら、そうなりますかねー? でも……おかしいなぁ。歯が新しく生えて来るって。そんな話、聞いた事がないですよぅ。それって、iPS細胞を使わないと不可能な気がするし、でも、まさかここいらの歯医者で試す程に研究が進んでるとも思えないし……。やっぱ、全然別の再生方法とかがあるんですかね?」

 マル美が不思議そうに首を傾げる。木田もそこを聞きたくて話を振ったのに、当のマル美にも分かってないようだった。

 原口が言うところの『歯の素』は三日前に移植を終えた。歯の素を穴の奥に押し込むにあたっては、これまた壮絶な悶着があったのだが、ようよう何とか事を終えている。

 処置の前に原口がごちゃごちゃと小難しい事を言っていたが、あれがマル美言う所のインフォームドコンセプトという奴なのだろう。医療行為の前に患者にきちんと説明してしっかり合意する……とかいう奴だ。カタカナと科学用語ばかりで、木田はほとんど聞き流していたが。

 そして今は、歯の穴にフタを被せて、歯の素が定着するのを待っているところだ。まだ、何かの変化を実感する事はないが、それでも痛みがなくなった分、至極快適だ。

「あー、何だかすっごいなぁ。歯の素を埋め込んで歯を生やすなんて、私達の知らないところで科学って進歩してるんですねー」

 マル美がニコニコと問いかけ、そしてお茶を飲む。

 仲良く話してみれば、意外と愛嬌はある。ポッチャリよりやや多目の脂肪が邪魔をしているだけで、土台は悪くないのだ。もう少し痩せて、もう少しだけ身なりに気を遣うようになれば、案外モテるかもしれない。

「うん。まさか、そんな治療があるだなんて俺も思ってもなかった。上手い事、生えてくれたらいいな」

 木田も、マル美の隣りで惣菜パンをもそもそと噛み締めている。歯の痛みはもうないが、まだ仮りのフタをしてる身だ。歯に当たらないよう気を遣いながらの食事は味気ない。わしわしと飯をかっ込む生活に早く戻りたかった。

「ところで、その歯、どのくらいで生えて来るもんなんですか?」

「うん、個人差があるとは聞いた。早くて二ヶ月、遅い人だと半年くらいとか」

「っひゃー! その位で生えるんだ、すごい!」

 マル美がパンッと手を叩く。

 その期間が短いのか長いのか木田には分からないが、何もない所から数ヶ月で大人の永久歯が発生するのなら、それはやはりすごい事なのだろう。

「生えて来たら見せてくださいね!」

 マル美の顔が好奇心でキラキラしている。

 やっぱり素は可愛い顔立ちをしている。そう思った。

「あぁ。その前に、今の歯がポロッと抜け落ちるらしいよ。だから、しばらくは歯抜けになっちゃうなぁ……」

 困ったとボヤきつつ、木田もまんざらじゃなさそうに笑う。

 抜歯せずに自然に抜け落ちるという、それだけで木田にとってはありがたい話なのだ。

 原口歯科に通うのだって、今はフタを付け替えるための週一になっているのだ。本当にありがたい。

「あ、休み時間終わるっ!」

 マル美が急に気付いて、残りの弁当をかっ込み始めた。店舗勤務はシフトなどあってないようなもので、今だって昼休みとは名ばかりの三時半だ。それでも、自分で決めた休み時間をちゃんと守るマル美は偉いと木田は思った。

「じゃ、お先に! ……あ、歯ぁ生えて来たら、ホント、見せてくださいね!」

 弁当を食べ終えると、マル美は残ったゴミをレジ袋にガサガサとまとめて急ぎ足で出て行った。

 入れ替わりで、生鮮部門の水谷がヒョロリと入って来る。こいつは昼休みではなく、タバコ休憩と称する単なるサボリでしょっちゅう控え室に出入りしている。業務の大半はベテランのパートさんに丸投げして、報告をうんうんと聞いてるだけの小ずるい男だ。

「……なんすか、あのデブ。相変わらず、騒がしいっすな」

 マル美の事を言っているのだろう。水谷はさして広くもない控え室の中を吟味して、奥の席に座った。間髪入れずにタバコとライターを取り出し、火をつける。横に木田がいてもお構いなしだ。

 一服、二服……三服してからのっそりと、

「あ、灰皿、取ってもらっていっすか?」などとふざけた事を言う。

 必要になるのは分かっているのだから、入室した時に自分で持って奥に行けばいいのだ。毎回、そういう横着をするくせに改める気はないらしい。

 木田も、内心では毒づくものの、面倒なので黙って灰皿を寄越してやる。アルミ皿のカラカラいう音が響いた。

「……木田さん、歯ぁどっすか?」

「どう、って?」

「いや、ちょっと前まで死にそうになってたじゃないっすか。ちゃんと歯医者に行ったのかなって」

「あぁ、お陰様で」

 なるたけ素っ気なく木田が返す。水谷の話は全く面白くない。

 そもそも、水谷は会話を発展させようという気がない。当たり障りなく、しかし、口調は角を立てまくり。それでもしょっちゅう話しかけて来るのがいっそ不思議だった。

 それに、歯医者に通っている事すらも伝わってなかった事に、少し驚いてもいた。

 半月前、周りに迷惑をかけるかもしれないと思い悩み、早退をなかなか言い出せず、文字通り七転八倒の苦しい数日間を過ごしたというのに。そういう気遣いも、通じない相手にしたって無駄なのだと、改めて思い知った。

 案外、人は、他人のやってる事になど興味はないのかもしれない。

 水谷も木田のぞんざいな態度が分かったのだろう。面白くなさそうにタバコを捻り消し、間が持たなかったのか、すぐにもう1本取り出して火をつけた。木田だって面白くない。それに、空気が悪い。

 机の上のゴミをまとめ、

「お先」と声をかけて立ち上がった。

 控え室を出て大きく息を吐く。冷たく清浄な空気が肺に満ちる。

「…………?」

 そういえば俺、しばらくタバコを吸ってないな、と今更のように気付いた。

「……あれ?」

 何日、吸ってなかったろうか?

 この二、三日間は確実に吸っていない。その前は……いつ、タバコを買ったのかもよく思い出せない。開封した分が今、どこにあるのかも。

「あっれぇ……?」

 痛みでそれどころではなかった時期もあったが、それにしても……。

「禁煙、出来てる?」

 それはそれでラッキーなのだろう。

 美学があって喫煙していた訳ではない。消極的な意味でいつかはやめたいと、ずっと思っていたのだ。ただ、意思が弱くてやめられなかった。それだけの事だ。

 自分でも気付かない内に自然とやめられたのなら、こんないい事はない。

 しかし、何故?

 やめようとすらも、思ってなかったのに。

「まぁ……いっか」

 ひと月くらい様子を見て、本当にやめられていたなら、その時に分析しよう。そう思った。



 退社してアパートに向かう頃には、もうすでに日はとっぷり暮れている。

 私服に着替えてから店舗に回り、割引きになった弁当と飲み物を買って帰るのが、木田のいつものコースだった。社員割引きくらいあればいいのにと思うが、そういったサービスは一切ない。せいぜいが、今日のお買い得品をパートさんに教えてもらう程度のものだ。それだって、ドライ物の値段だけなら、自分が一番よく知っている。

 惣菜コーナーに回ると、今日は数を読み間違えたのか、残っている弁当の種類がやたら少なかった。中華丼とちらし寿司ばかりが積み上がっている。正直、どちらもあまり好きではない。コンビニに行こうかとチラッと考えたが、コンビニの弁当は割高だ。値引きが一切ないのもいただけない。

 どうしたものかと考えていると、顔見知りのオバチャンに声をかけられた。午前に惣菜コーナーに入っているパートさんだ。

「木田さぁん、今からお帰り? 今日はお弁当が残ってなくてごめんねぇ」

「あ、うん。それはいいけど、何かあった?」

 オバチャンはさも重大事を披露するように、思わせぶりにうなずいた。

「今日ねぇ、中学校のPTAの集まりがあったみたいなの。さっき、何人か連れ立って来て、お弁当を買い占めちゃったのよ。そういうの、前もって言ってくれると助かるのにねぇ」

「あ、そうなんだ」

 夕飯の準備が面倒なのか、それとも親睦会という名目で、お母さん達の会食にされたのか……。

「ねぇ? 前もって予約してくれたら、ちょっと割引きしたのを、ちょっと豪勢に作ってあげられるのに」

 オバチャンはケラケラと笑い、不躾けに木田が下げるカゴを覗き込む。紙パックの麦茶と、炭酸のペットボトルが三本。それに発泡酒の缶が二つ。

「あー……。木田さん、水分ばっかり。野菜とか食べてないでしょ?」

「あぁ……食べませんねぇ。たまーにサラダは買いますが」

「ダメダメ! サラダは野菜の内に入らないよぅ! 野菜を食べたいんなら、こういうのを買いなさい。こういうの!」

 オバチャンが指差す先には、醤油色した煮物や、色が褪めたキュウリの酢の物など、パッとしないパックが並んでいる。

 分かってはいるのだが、こういう腹の足しにもなりそうにない野菜にはそそられない。半額になっていても、百五十円とか二百円とか結構な値段をしている。木田にはそれが随分と割高に思えてしまうのだ。だったら、発泡酒を余計にもう一本買う方がいい。譲っても、野菜ジュースだ。

 正直にそう言うと、オバチャンはまたもケラケラと笑った。

「若い内から気をつけた方がいいわよぅ! そういうオカズを作ってくれる人とかいないの?」

「え? カノジョって事ですか?」

 とんだ藪蛇になってしまった。毎日のように弁当を買って帰っているのだから、察してくれればいいのに。

「ココミちゃんとか、どうなの? 可愛いし、木田さんの事はまんざらでもないみたいよ?」

 ココミ……と、心の内で三回復唱して、それがマル美の事だと気付く。そういえば、本名は心美とか言っていた。オバチャンたちの基準では、あれは可愛い部類に入るのかと、木田はそこにも驚く。絶対評価なのか、デブにしてはという枕詞がつくのかは定かではないが。

 そして……、そのココミが自分に気があるという珍説にも仰天した。

 最近でこそ穏当にお喋りするようになったが、木田が転属してからこっち、ずっと冷戦が続いていたというのに。シフトの気遣いが無駄だった事といい、他人は案外、他者の事は見えていない。注目するのは自分の利害が絡みそうな時だけだ。

「こ……山田さんが、ですかぁ?」

 いいとも悪いとも言及せず、曖昧に笑ってみせる。

 心象は一時期より劇的に上方修正されてはいるものの、それでもペチャペチャ音を立てて食事する女は願い下げだし、そんな女が作る料理も食べたくはない。

「まぁ……、向こうが、俺なんかはイヤだって言うんじゃないですか?」

 無難に答えて惣菜コーナーから離れる。

 レジ方面に向かう途中で、弁当を選ぶ途中だった事を思い出した。が、今から戻るのも気が進まない。どうしたものかとブラブラして、青果売り場に出る。

 そうだ、うどんでも作ろうと唐突に思いついた。

 粉末のうどんスープを買って、それでうどんと野菜を煮れば、それらしい物が出来そうな気がする。

 これまで自炊らしい事はほとんど経験ないのに、何故か妙案に思えた。

 早速、ダシの素の棚に向かう。うどんスープの箱を手に取る。湯に溶いたら、それだけでうどんスープになるらしい。これにうどん玉とあと野菜を……売り場をひと通り見て回って、ネギと白菜、それにシメジをカゴに入れた。

「…………」

 これに豆腐と、何か薄切りの肉を足して煮れば、それで鍋物になるんじゃないか?

 急に思いつき、それならと、ポン酢もカゴに入れる。それに豆腐が小さなサイズのが四つでひとパックになっている物と、豚肉の細切れが安売りになっている。

 しばし考え、木田はうどん玉をもう一つ追加した。ついでに台所用のビニール袋もカゴに入れる。弁当を買うよりは高くなってしまったが、これだけあれば二、三回に分けて食べられるだろう。一食分で計算すれば、弁当とさほど変わらない。むしろ、幾分安いかもしれない。それで野菜が摂れて、温かい食事が出来るのなら、随分とお得だ。

 自分にしてはいい買い物をしたと満足した。レジでも、

「今日の買い物は健康的ね」などと冷やかされる。ヘラヘラと笑って受け流した。

 自炊してみようと思いまして……などと答えると、好感度が増したようだった。レジのオバチャン達が口々に『頑張って』と声かけしてくれる。

 妙に弾んだ気持ちで家路についた。

 幹線道路沿いを歩いて十分弱、そこから小道に入って住宅街を抜けて十五分。少し寂しい裏路地に木田のアパートはある。サンライフハイツとかいう立派な名前の、実際はいかにもな長屋風。その二階の端が木田の部屋だ。

 帰り着いてまず、台所の棚から小鍋を発掘する。次に、まな板と包丁。どちらもちゃんと揃っていた。小鉢がわりの小丼と箸はさすがに常用しているので、すでに洗い物カゴに出ている。

 何だ、自炊といって構えなくても、気軽に出来そうだな。そう思った。

 買い物中にシミュレートした通り、サクサクと進む。半分に分けた肉と野菜をそれぞれビニールに詰め、飲料と共に冷蔵庫に入れる。ついでに、調味料や冷食がどのくらい揃っているかのチェックをする。鍋が入っていた棚の奥には、存在すら忘れていた缶詰が結構な量ストックされていたし、鍋の横にはそこそこ大きいヤカンまである。一人暮らしを始めた時、勇んで買ってしまったのだろうか。もう、よく覚えていない。煮出し用麦茶は五十くらいパックが入ってて二百九十八円なので、自分で煮出せば相当お得になる。朝に沸かして家を出れば、この季節だ、帰って来る頃には、別に悪くもならずに程よく冷えているような気がする。

 じゃあ、次に麦茶がセールになったら買おう。心にとめる。あと、袋の口をパチンととめる奴。あれも何個か買っておこう。それを持っていれば、ポテトチップを一気食いする事も減るだろう。

 沸々と煮える白菜を見下ろしながら、色々と計画を立てる。

 うどんスープは思っていたより美味しいし、そこに豚肉の風味が加わって、更に美味しくなっている。シメジからもいいダシが出ている。

 自炊って、結構楽しい。

 座卓の上にピザのチラシを広げ、そこに小鍋を移動させる。小丼にポン酢と一味唐辛子を振り入れ、そのタレで肉と野菜、それに豆腐を代わる代わる食べた。途中で気付いて発泡酒を開け、粗方食べたところでまた鍋を火にかける。うどん玉を煮立ててシメにした。

 充実した食事、満ち足りた食事だ。

 歯に詰めた仮りブタもあまり気にならない。熱々も、冷え冷えもグイグイと美味しく食べられる。

 うどんも全て食べ終えると、すっかり満腹になった。

 いい気分だ。

 鍋仕立てなら、洗い物も少ししか出ない。これはいい。

 面倒になる前に片付けてしまおうと、サッと立ち上がる。

 小鉢をすすぎながら、ふと、今日は家の中がえらく静かだと気付く。自分の部屋ではないみたいだ。何が違うのかと振り返ってみて、そういえば、テレビをつけてなかったと気が付いた。

 いつもは帰って来るなり電源を入れて、見る見ないに関係なく流しっ放しにしていた。ただ、音があればいい。八割方は見ていない。今日は、食事の用意に熱中していて、全然意識していなかった。

「あぁ……。別に、なくてもいいなぁ」

 バラエティもドラマも、どうせ頭に残らない。ニュース番組も妙な特集ばかりで、見たい知りたいニュースとタイムリーにかち合う事は滅多にない。意味もなくイライラしていたのは、キモいオッサンやガキタレのど下手糞な棒読み台詞を聞かされていたから……かもしれない。

 洗い物を終え、テレビの隣りのラックに近付く。中段のCDコンポには埃がうっすらとたまっていた。ハンディタイプの埃取りでサッと撫でてから、電源を入れてみる。

 ラジオに切り替えたら、オーケストラの派手目の曲が聞こえて来た。クラシックなのか、何かのサントラなのかは分からない。が、BGMにはいい感じな気がして、ボリュームを抑え目に調整する。

 さて、後は……。部屋をグルリ見渡す。

 そうだ、久々に風呂に湯をためてゆったりと浸かってみようか。そうだ、来週は入浴剤のフェアがあると本部から連絡あったから、それを買って試してみるのも悪くない。とりあえずは風呂掃除をしよう。

 フットワーク軽く脱衣所のドアを開けたところで、木田は我に返った。

 正面には、洗面台の鏡。

 部屋の灯りが逆光のように、鏡に映る木田を淡く縁取っている。正面に相対する自分は不思議そうな顔をして、電灯のスイッチに手を伸ばしている。

「……俺、こんなキャラだったっけ?」

 背後でシンバルがバシィンと鳴った。



 その夜、夢を見た。

 ストーリーらしいストーリーはない。

 暗い部屋に佇んでいて、何故か、寝ている自分を見下ろしている。

 それだけの夢だ。もしかしたら、もう少し盛ってあったのかもしれない。が、細かい事はよく覚えていない。

 布団にくるまって眠る自分は、満ち足りた顔をしている。頬を押さえる事もなく、時折りコロンコロンと自在に寝返りを打っている。

 あぁ、よく眠れているなぁ……と和んだ気持ちになった。

 そんな自分を見下ろしている自分は何だ?という話だが、夢の中ではあまり気にならない。

 見下ろしている方の自分じゃ、部屋の天井辺りに浮いているようだった。もしかしたら、これが幽体離脱という現象かもしれない。そう考えると、少しドキドキする。

 いい大人になってしまった今、そのテの話には馬鹿馬鹿しいというスタンスを取ってはいる。が、中高生の頃はかなり真面目に超能力や心霊現象を信じていた。もう、ずいぶん昔だ。当時覚えていた専門用語もほとんど忘れてしまっている。しかし、幽体離脱というコトバはスルリと思い出せた。記憶力が冴えている時期に覚えたからだろうか。忘れているようで、本当はちゃんと覚えているものなのかもしれない。

 心霊体験に憧れていた頃はカラッキシだったのが、今頃になって、それに近いような夢を見るだなんて、おかしな話だ。

 布団の中で、また自分がコロンと寝返る。

 フワフワと浮いている感覚と、転がる感覚が同時にする。何とも不思議だ。

 宙に浮いた事など、現実にはあり得ないのに、実に『らしい』感覚を再現出来ている。もう少し慣れて勝手が分かれば、意のままに移動も出来そうな気がした。泳ぐつもりで手足を動かせば前に進みそうな気がする。

 そう考えて手足を探すが、浮いてる方の自分に手足があるかどうかは分からないままだった。手を目の前に持って来るイメージを思い浮かべてみたが、手は現れなかった。しかし、手を動かす感覚はする。すると、布団の中の自分がブンッと手を払った。

 あっちが動いた!と、少し笑う。

 すると、下の自分もニッと笑顔になった。

 これは面白い。

 浮いてる自分に身体はなく、本当に魂のようなモノになっているのだろう。ますます幽体離脱っぽい。

 ひとしきり遊んで、さすがに身体に戻らないとヤバいな……と思い始めた。真偽の程は分からないが、自分の身体から魂が長時間離れるのはトラブルの素らしい。それが幽体離脱体験の話のお約束だった。戻る時は身体の中にストンと落ちるようなイメージで飛び込めばいいらしい。そこも何故か覚えている。

 では……と、下に降りるイメージを思い描くのだが、なかなか沈んで行かない。気合を入れた瞬間はググッと下降するのだが、ビーチボールを無理に沈めようとするように、すぐにプワリと浮き上がってしまう。これは困った。

 木田は内心焦る。

 何回も挑戦するが、布団の自分にまでなかなか辿り着けない。身体も持たない身なのに、少しくたびれて来た。それに眠い。寝てしまいたい。

 それとも、この浮いた状態のまま眠ってしまえば、いつの間にか身体に戻ったりするだろうか。

 もう一回!と奮起して、グッと空気を掻いた。

 すると、透けた手が視界に現れ、その指先が布団のカバーに引っかかった。それをよすがに、布団を掴み直し、グッと力をこめる。この透けた手は、どうやら新たに生やした自分のものらしい。もう片方も現れ、自分の身体のすぐ間近まで下りて来られた。このまま身体を重ねるようにすれば、きっと元に戻れるはず。

 そっと、身体を寄せる。

「ん?」

 そこで初めて気付く。

 布団の中に、もう一人いる。

 ギョッとして向き直る。

 スヤスヤと眠る自分……にぴったりと寄り添って、見知らぬ男が横になっていた。

 若くて、痩せていて、目ばかりがやたらと目立つ男だ。

 そいつがうっそりと目を見開き、すぐ上に浮かぶ自分を見上げている。

 そう、見上げている。

 男には自分が見えているようだった。はっきりと目が合う。

 そして、男はニッと笑った。驚倒している自分を見て面白がっているようでもあった。

 自分の布団に見知らぬ誰かがいるというだけで恐ろしいのに、それが男だという。しかも、自分の身体にぴったりと張り付くように、同衾している。怖いだけでなく、気持ちが悪い。

 吐き気がして、いっそ、上からぶっかけてやりたいと思った。が、浮いた身では何も出ない。

 誰だお前と誰何したいが、声を出せるかどうかも分からない。

 下の男も次にどうすべきか考えているようで、ゆっくり二度瞬きした。男のくせに睫が長い。

 ───この男、どこかで見たような気がする。

 いや、会った事はない。見知ってもいない。

 ただ、見かけた事はある。

 どこで……どこで?

 男が口をもぐもぐと動かす。何か言いたいようだ。

「何だ?」

 自分の声がする。誰が喋ったんだと驚いたが、今のは自分が発した声らしい。浮いた身でも声が出せるのかと、発した自分が驚く。

 男も、目を見開いた後でまた笑った。

「歯の具合、どう?」

 男の質問は唐突だった。

 やや高めで、聞き覚えのない声だった。

 歯の具合……。何故、この男は自分が歯を治療中だと心得ているのだろう?

「……あ、あんた?」

 思い出した!

 会ったのは原口歯科医院だ!

 待合室の隅で頭を抱えていた、あの男だ。名簿に相田と書いていた、そしていつの間にか消えていたあの男だ。

 相対して見れば、確かにあんな感じのきっちりした文字を書きそうな感じの容姿をしている。そうだ、身に着けているニットも上着も、それに髪型も、確かにあの時と同じものだ。

「寂しかったから、こないだ見かけた時について来ちゃったんだ。ここに居ついても、いいかな?」

 男は笑顔のままでとんでもない事を言い出した。

 ここにというのは、どこのつもりで言っているのか。

 この部屋か、この布団という事か、それとも…………

「いっ、いい訳あるか! 迷惑だ!」

 恐ろしさと怒りと、両方の感情がない交ぜになり、木田は思いっきり叫んでいた。自分でも驚くほどの大きな声が出た。部屋のサッシがビリビリと震える。

「……残念。そんな怒鳴らなくてもいいじゃん」

 男はまたニッと笑う。と、その身体が服ごとスッと透けた。同時に、下に抜けるように仰向けのままで布団に沈んでいく。

「僕、ここ、結構好きだなぁ……」

 それだけ言い残して、男はトプンッと消えてしまった。

 つられるように、木田もズルリと下方に引っ張られる感じがした。落ちる落ちると焦った末に、ボスンと本当に落ちる感覚がする。次の瞬間には『戻って』いた。

「……んぁ?」

 視界が反転して、今はもう、布団の上で天井を見上げている。

「……何だ?」

 夢……と思うには生々しい。しかし、夢としか考えられない。

 あの男が横になっていた部分に、恐る恐る手を当てる。

 が、そこは普通に冷えた布の感触がするだけだった。当たり前の事なのに、何故かホッとする。

 相田……下の名前は何といったか……。

 あれは、幽霊なのだろうか?

 寂しいからついて来たとか言っていた。

 どういうつもりだろうか?

 あれが幽霊だったとして、元々はどこにいたモノなのか。原口歯科に居ついた幽霊が、たまたま自分を気に入って、後をつけて来たというのだろうか?

 男の自分について来て、何の得があるのかと問い質したい。

 次に原口さんに行く時、お返ししよう。どうやればお返し出来るのかは見当もつかないが、とりあえず、赤羽さんに相談してみよう。そう思った。




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