第三章:はなされた手のひら
三章【はなされた手のひら】
ごめんね――唱えた言葉は口の内で霧散し、伏せたシェムは微動だもしなくなる。
「そうだ。それで良い。そうする事で君は――」
「黙れ!」
白くなるまで握り締められた指が、弩弓の柄を軋ませる。
「お前が分かったように言うな! そんなワケ無いだろ! だけど、だけど……!」
シェムはヒトで無くていいと、自分のためなら世界を回しても良いと言った。そんなわけがない。世界は、自分とシェムの二人で回っているわけじゃないのだから。レイは世界の中に在りたかった。皆が暮らす日常で生きていたかった。だけどそれはもう叶わない。あの日から。父を肉塊にされ、シェムが化け物と成って果てたあの日から〝レイラ〟の全ては奪われ〝レイ〟という檻の中で生きるしか無くなった。
あの日、広場に撒き散らされた緋い光景。引き裂かれた人の欠片。屹立する青銅色の巨人――化け物の姿。自分達を見る村人達の視線が変わり、今までずっと一緒に遊んでいた友の全ては離れた。重傷を負ったレイを助けてくれたのは、父と仲が良かった一部の危篤な人。だけど彼らの視線すら、脅威に怯えていた。
それが辛かったから、まだ十にも届かぬ歳で二人は村を出て行くしかなかった。
だが宛無き旅路の中、珍しい緋い瞳を持っていた自分達は、間もなく人買いに攫われ、後の師となるクロウに助けられるまで、吐き気がするような毎日を送らされた。女でいる事は辛かった。だけど女に戻りたいと思った回数は数えられない。だって自分は女なのだから。シェムは、そんな自分を想ってくれたか。そして一度でも省みてくれたか、世界の枠から外される恐怖を。誰もかもに化け物と蔑まれ、忌避される孤独を。
怪物として、人間の敵として排除される悲しさを。
「もう、イヤなんだ。イヤなんだよ」
一歩一歩と歩み寄り、腕から垂れた血が点々と地を濡らす。
鏃の先端が彼の心臓を向いた。この至近距離だ。何があろうとも外すはずがない。
レイは引鉄に指をかける――ああなるほど、これは苦しい。
こうなる事を教えてくれた父が、何故あんな苦しそうな顔をしたのかが解る。吐きそうだ。あと一指を動かすだけで全てが終わるのに力が入らない。足が震え、涙で視界が滲む。
シェムを失うのは耐えられない。だけど世界に嫌われる恐怖を隠した芝居を続けるのは、もっと耐えられない。今ならばまだ、シェムは助かるだろう。今ならまだ引き返せる。
だけど駄目だと、レイは思う。
「さようなら、シェム」
弦が解放され、緋い猛毒を載せた矢が風を切る――瞬前、空気が咆え、絶対に外すはずが無かった矢が、不可視の獣に噛み砕かれた。
バシュン、パシュン、バシュン。唐突に足下が剔れ、咄嗟に後退すると、黒衣の少女がレイを護るように立ち塞がり、黒い巨剣を携えたロイが影へ飛び込む。
夜陰の中で振り抜かれた漆黒の斬撃が火花を散らせ、弾き飛ばされた。あのシェムでさえ押された斬撃を跳ね返したのは、いかなる剛力か。ロイの表情に初めて緊張が走り、大剣を携えた朱い人影はゆっくりと、銀月の舞台へ降りてきた。
「兄妹ゲンカにしては、ちょっとやりすぎだね。シェム君が死んでしまう」
無造作に構えた大剣を脇に退け、どこか頼りない印象すら受ける穏やかな声が言う。
朱い彼、イチゴが場を見据える。刹那、横手から伸びた巨剣が、再びイチゴの剛剣に弾き返されると、衝撃で高々と宙に浮かんだロイは身を翻して着地した。
「邪魔をするな、旅人」
「そうもいかない。そこの二人は、僕の恩人なんだ」
再び叩きつけられた鋼同士の不協和音が落雷よろしく連続した。
苛烈な斬撃の全てを受け流す大剣が黒い巨剣を追い詰め、届いた一太刀が少年の黒髪を薙ぐ。巨剣と大剣が鍔迫りに交わった瞬間、ロイのもう片方の腕も黒剣と化してイチゴの首へ迫った。避けられる距離でも瞬間でもなかった。完全に戦いを決しただろう一撃に、レイが両断されたイチゴの首を幻視した刹那、朱い彼は何の躊躇いなく右腕を突き出し、革手袋に包まれた五指が黒い巨剣を受け止めた。
「運が、悪かったんだよ」
剛槍と化した靴先がロイの顎を蹴り上げると、仰け反り様に繰り出された左右の剣を、イチゴは最小限の対裁きだけで回避した。肉付きが良いとは言えない細身が繰り出す剛剣。それは流水の柔らかさと、機械の精度を併せ持ち、まるで師の剣を見ている錯覚に陥る。
薙がれるならば払い、振り落とされるならば避け、鳥が宙を返るように大剣の切っ先が翻る度、少年の体が切り裂かれる。一合、二合と剣が弾け、擦過音が木霊する。そして三合目が交わると、後方に投げ出されたロイの体が、湿った大地へ叩きつけられる。
「君を傷つけたいわけじゃない。ここらで引いてくれないかな?」
体勢を立て直したロイが両の巨剣を胸の前で交差させると、眉根を寄せたイチゴはそれまで無造作だった大剣を初めて構えた。始めは見間違いかと思った。だが、するとロイの姿がぶれ、全身が甲殻類のような甲冑に覆われ、体積が膨れていく。
「ちぃ、既に想血の補充をしていたのか」
瞬きの後に現れたのは、漆黒の巨剣を従える黒い巨人の姿。その姿が、レイから全てを奪ったあの日の巨影と、村を緋色に染め上げて、この胸に一生の傷を残した青銅の巨人と重なる。
冑の下から覗く緋い単眼がイチゴを睥睨する。瞬後、振り抜かれた斬撃は見えなかった。イチゴはそれを辛うじてかわしたようだが、切り裂かれた左肩から鮮血が跳ねる。そして口の端を吊り上げたイチゴは、大剣を握り直す。応じて前に出た黒騎士が両腕を振り上げた。だがイチゴは振り翳したのは大剣では無く右腕。その掌が咆吼を上げた刹那、咄嗟に両腕を交差させた黒騎士が、まるで巨人の拳に殴られたみたいに仰け反った。するとイチゴは倒れるシェムを小脇に抱え、脱兎の如く走り出す。
「ははは、こんなケンカ、やってらんない!」
すぐに体勢を立て直した黒騎士だったが、既に朱い背中は森の中へ消えた後だった。
黒騎士は巨剣を降ろす。その背後には、弩弓を携えたまま呆然と立ち尽くすレイと、屹立し続ける少女が取り残されるだけだった。
落ちた陶器が割れるように、彼の世界の終わりは、あまりにも必然的に訪れた。
アイリが倒れてから三ヶ月目に入り、メイリーフが倒れた。原因は、想血の過剰供給。メイリーフは自身に必要な命までを、親友へ注いでしまったのだ。
横たわるメイリーフの隣、命の供給を打ち切られたアイリの生命活動は、つい今しがた事切れた。メイリーフの鼓動も、もう止まる。養父の錬金術士としての腕は確かだった。ほとんど知らない知識を、ある程度の形にして使って見せたのだから。だがそれでも本質を見抜けるほどの天才では無い。或いは天才故に、思い至らなかったのかも知れない。
少年はこの結果を予期していた。警告もした。
しかしメイリーフは――自分が護るべき我が主は、全ての忠告を無視し続けた。
全ての対策を養父へ言う事もできた。それをしなかったのは、養父が尋ねてくれなかったから。訊いてくれたら、すぐにでも答えた。想守者に関する情報漏洩を防ぐために施された禁則事項のせいで、自分からは言えなかった。その結果がこれだ。『お前はやっぱり人形なんだね』その通りだ。少年は少女を護るため、彼女に似せて造られた人形。想結合成された生身の体に、思考制御で構成された精神を載せた人まね案山子。それが自分の真実。
「…ろ、…い…」
少年を呼ぶ声は、少し触れただけで消えてしまいそうだった。枕元に座っていた養父が席を立ち、座るように促されると、少年はメイリーフの口元に意識を集中させる。そこまでしなければ聞き取れなかった。
「何か用か?」
素っ気ない言い方に、周囲から非難が向けられる。
だがメイリーフだけは僅かな微笑を口元に浮かべ、
「きみは、ひどい、ね。……ワタシ、しんじゃう、んだよ?」
「そうだ。メイリーフの命は、あと数分と持たないだろう」
憤慨した誰かが声を荒げ、養父がそれを制した。そして彼女も、静かに口元を閉ざす。それで最期の会話は終わった。そのはずだった。
「どうしてなんだ」
唐突に少年から声が落ち、少女の緋いの瞳が驚いたように彼を見上げる。そこでメイリーフはようやく、少年が手にしている物に気付いた。それは花壇の花で編み込まれた花冠。彼女は気付いただろうか、そこに編み込まれた花の組み合わせが、彼女とアイリを初めて繋いだ日、少女らが少年に被せた物と同じだったということを。
花冠は、蔓の巻き方、太さから左右対称に配置された花の大きさまで、均等にして均一だった。それは素材が自然物であるが故の不自然。どこまでも作り手たる少年らしい、人工的な構成。だがそれを非難する者はいない。彼がこれを作れるようになるために、数え切れないほどの冠を作り続けてきたことを、みんな知っているから。
「どうして、こうなると解っていて、アイリに命を供給し続けた。どうしてだ。メイが選んだのは自死でしかない。何故、あなたが生きることを選んでくれなかったんだ。それとも……それとも、ぼくが、人形、だから?」
誰が気付いただろうか、その声が震えていた事に。誰が知っていただろうか、その言葉が慟哭を上げていた事に。恐らくは、メイリーフ以外には誰もいまい。それほどまで、極大の変化は微小だった。だから彼女だけが、微笑を浮かべる。
「ちが、う、よ。ワタシは、アイリを、……愛し、てたか、ら」
愛する。結局、少年はその概念を理解できなかった。だが理解なんて必要無い。それが理由の全てならば、自身の命にすら盲目になるそんな想いを、理解したくなんて無い。静かに少女を見下ろす少年の黒髪に、震えながら持ち上げられた手が載せられ、撫でられる。それはまるで、幼い子供を宥める母親のような仕草だった。
「かんむり、……なんで、つくってた、の?」
少年は答えようとして、答えられなかった。喉まで出かけた言葉が詰まる。なんで、だなんて考えたこともない。ただ、この花冠を自分に被せた二人の笑顔が、強く記憶に残っていた。
それだけだ。それだけの理由で、少年はこの冠を作り続けてきたのだ。
「ぼくは――」
「ねぇ、ロイは、――を、愛して、た?」
少年は意識を集中させていたが、肝心な言葉は聞き取れない。
いま、なんて。聞き返そうとして、頭を撫でてくれた手が離れた。
少年は重力に従って落ちた手を反射的に受け止める。それから養父がいくら呼びかけても、姉は応えなかった。少年はもう知っていた。横たわる体には何の色も映らない。命が無くなり、精神と一緒に器も死んだ。だが彼は平然としていた。普段通りに口元を結び、涙が出てくるはずも無い瞳は、ただ少女を見ていた。護衛対象が死に、自分は護衛人形として存在理由を全うできなかった。ただそれだけの事だと思考は事実を客観的に処理していく。
それなのに、彼は困惑していた。
それはメイリーフが弱まる度にずっと走っていたもの。最適化した思考を掻き乱す雑音。
彼は何かに手を伸ばしたかった。何かを渇望していた。それが何かは分からない。解らないから〝何か〟だった。だがその〝何か〟はもはやそこにない。そうだから。それが判ってしまっているから。少年は困惑していた。
こんな時、泣けばいいのだと答えてくれるヒトはもういない。その瞬間、少年の世界は失われた。彼が彼として存在するための理由が失われた。本能がそう認識し、彼を縛る潜在意識が彼の存在をやめようと判断を下しかけたその刹那。
トクン。
崩れるように膝を突いた養父の隣で、少年はその音を聞いた。泣きわめく周囲の雑音を掻き分け、少年だけがメイリーフの亡骸から視線を外して傍らを見やる。
そこにはメイよりも少し前に、生物から物体と化したアイリの体が横たわる。
トクン。
少年は目を見開く。空っぽだった体に宿る緋色の輝き。それは一本だけの蝋燭に灯った火のように弱々しい色だったが、確かにそこに在った。そして次第に、全員が変化に気付く。それほどまでにその光景は目を引いた。枕に広げられた金の房が、徐々に漆黒へ染まり、薄く閉じられた目蓋がピクリと痙攣する。あり得ない。魂が抜けてしまった体に色が戻るはずはない。ましてや、死した体が動くなんて。だが閉ざされていた瞳が、ゆっくりと開かれた。
「アイ、リ?」
誰かが呟く。しかし少年は、そこにいる彼女を魂の色で認識していた。その色は、元のアイリの色とは合致しない。彼女の色を覆う緋色。その色はまるで――
「――ロイ」
少女の口唇が、たった今失ったばかりの主の抑揚で少年を呼んだ。
全てが失われた世界で、壊れた歯車は再び廻り始めた。
全身の血管という血管が爆ぜるような激痛が、意識を戻した。呼吸をする度に肺が悲鳴を上げ、五臓六腑を抉り出される感覚に、思考が何度も飛んだ。神経を焼き切られながら目蓋を開けると、視界が揺れ、見覚えのある木組みの天井が広がる。自分達が借りた狭い部屋の天井。レイが隣で眠る間ずっと見上げて眺めていたのだ、間違えるはずもない――朦朧としていた意識が、一気に覚醒する。
「レイッ――うぐっ!」
跳ね起きた体はすぐに、糸が切れた傀儡よろしく沈み込んでしまった。
酷く吐き気がして、体が鉛のように重い――トン。足音を聴覚が拾う。
「まあ休みなよ。君の体を蝕む想血を中和しきるには、まだ時間がかかる」
油が切れた機械みたいに首をもたげると、朱い青年が、足を組みながら本を読んでいた。彼の大剣は壁際に立てかけられ、左肩は怪我を負ったのか、包帯が巻かれている。
「……レイ、は?」
「ロイ君と一緒に行ってしまった、と思うよ。君を担いで逃げるので必死だったから、どうなったかまでは解らない」
そうか、と答えたつもりの声は出なかった。最後の記憶に残るのは、今にも泣き出しそうな片割れの顔と、その手が握る弩弓の切っ先。事故? 誤射? いいや、レイが撃ち損じるわけがない。ならば何故、レイは自分を裏切ったのか。怒りや憤りよりも、疑念が先に沸く。
「ま、どうにせよ君は動けない。なんせ僅かとはいえ、想守者の血を直に入れられたんだ。あれは本当に猛毒なんだよ。うんうん」
「……いろいろと、隠してやがったな」
イチゴは肯定も否定もせず苦笑する。話しぶりから、この朱いタヌキは何か知っていたのだろう。恐らく最初の出会いも偶然じゃない。
「ちっ、破落戸に絡まれていたのも、演技かよ」
「いいや、あれは本当に絡まれてたんだ。僕は平和主義者だからね。ホントに恐かった」
「ウソ付け」
「本当だって。例え格下の相手でも殺意は恐い。もう笑うしかないくらいにね。とくに想命機関持ちの相手は、もうこりごりだ」
「想命機関? ……さっきから想血とか、想守者って何だよ」
ロイもシェムを指して〝名無しの護衛者〟とか言っていたし、そろそろ自分だけ何も知らずに話を進められるのも癪だ。
「あーそうか、君は知らないんだっけ。えーっと、『想いが力になる』って聞いた事は……ないよねぇ?」
「全く以て、聞き覚えが無いな」
自分の事を他人が知っているというのは、妙に腹が立つ。イチゴはどこから話した物かと首を傾げて暫く悩むと、とりあえず最初から話してくれた。
その始まりは、人の血潮に流れる〝想命〟と呼ばれる物だと言う。半世紀ほど前、精神で肉体的限界を補うなど〝想い〟を〝力〟に変える事例の源が〝想命〟だと突き止めた研究機関が、効率的に大容量の〝想い〟を行使する装置を造り上げた。それが想命機関で、レイは源たる想命を蓄積しやすいように改良された〝想守者〟と呼ばれる人種の第三生産型だという。そしてシェムやロイは彼女らの護衛者して造られ、想命機関を搭載した守護人形と呼ばれる存在だそうだ。
「だけど十五年くらい前かな、その研究機関は壊滅してしまったんだ。多くの研究者や想守者が殺され、守護人形は破壊され、君たちは、どういうわけだか生き残って流出した」
突拍子もない話を、シェムは半信半疑で聞いていた。だが腕を巨剣に変えたロイと、何よりも父が殺されたあの日、自分達を殺しにやって来た、狩人達の事実がある。
「つまり、レイもオレも人間じゃなさそうだ。特にオレなんかは守護人形、だっけ、化け物そのものだ。そう言いたいんだろ?」
「まあ体組織は人間の模写だから、見分けは付かないけどね」
「……そうだろうな」
眠れない体にも休息は必要だし、体力が弱まれば風邪も引く。飯も食べれば排泄もする。この緋い瞳を除けば、自分の外見は至って普通の人間と変わらない。
「あまり驚かないんだね」
「今更だ」
そうだ、本当に今更過ぎる。シェムの意識が己の右腕に向けられた。
忘れた事は無い。父が殺された日、この右腕が引き裂いた妹の感触を。
本当は、巨剣と化したロイの腕を見て真っ先に自分の右腕を思った。ロイと自分が同じ存在だなんて、見た瞬間に解っていた。人ならざる自分を把握していた。だけど恐かった。世界より何よりも、レイの拒絶が恐ろしかった。だから普段は一切合切を思い出せない演技をしていた。完璧に。完全なるまでに。だけど外見を隠せても、心までは隠せなかった。それがこのざまであり、この今瞬間にレイが横にいない、この結果だ。
「そうだよな、やっぱり、隠し事はよくないよな」
小さく呟き、四肢に力を込めると、叩きつけられた激痛に上体が崩れる。
「おいおい、そんな体でどうするつもり――」
様子を見かねたイチゴが差し伸べてくれた右手を、シェムの機械仕掛けの左手が掴んだ。驚いたイチゴが反射的に退こうとしたが、シェムは青年の五指を握り込んだまま離さない。
「……何の、つもりだい?」
「イチゴ、このまま潰されたく無ければ、手伝え。見ての通り、オレの左手は機械だ。人間の骨を砕くなんて、わけなかったぜ」
シェムは本気だった。人骨なんて粘土を握り潰すのに等しい。義手の出力を上げて、イチゴの右手に圧力を加える。助けてくれたことを考えれば罪悪感はあるが、レイを奪われたのだ。取り戻すための手段を選んでいられない。この男の実力がどうであれ、この状態ならシェムが手を握り潰す方が速い。
それでもイチゴは平然と、何かを憐れむ悲しげな黒瞳をシェムに向ける。
「手伝えっていうのは、レイ君を取り戻すこと、とか?」
「それ以外に、何がある?」
「やめときな。今の君じゃ、無理だ」
「ああ、だから手段を選んでいられない。これは脅しじゃない。本当に握り潰すぞ!」
「わかってるさ」
義手の出力を上げ――ようやく、シェムは違和感に気付いた。握り潰せるはずのイチゴの手は、まるで鋼塊でを掴んでいるように硬かった。この体調異常が、義手と接続された神経まで影響しているのか。だが左手の人工筋肉は、確かに収縮しようと痙攣している。イチゴは冷ややかな視線のまま、シェムを見下ろす。
「もう一度言うよ。今の君じゃ無理なんだ」
「がっ!」
途端、逆に加えられた力にシェムの左手が軋む。すぐに解放され、最後の悪足掻きでイチゴの右手を掴み直すと、今度こそ機械の力で革手袋を剥ぎ取った。その下に現れた白い光沢。それは決して人骨の色で無ければ、人肌の色でも無い。その形状は無骨でありながら、どこか女性的な流線で構成され、シェムが見てきたどの戦闘用とも装飾用とも異なっていた。
「あんたも、かよ」
「出力は、僕の方が上みたいだ。やり方が気に入らないなぁ」
自分の義手の開閉を繰り返し、異常が無いかを確かめながらイチゴは言う。
「手段を選ばないというのはね、本当に選べない時しか使えないんだよ。この世界には様々な制約がある。なら、掟を破り続ける者が嫌われるのは、当然だろ?」
「普通じゃないオレ達が、普通の枠の中で生きられるものか! オレ達は化け物なんだろ?」
「なら化け物は、今ここで狩ってしまおう」
伸びてきた白い手がシェムの首を鷲掴み、そのまま宙に持ち上げる。
五指に込められた力は本物で、呼吸を止められたシェムは全身に走る激痛を無視して、何度も暴れたが、イチゴの手はびくともしなかった。
「君は勘違いをしている。オレ達じゃない。キミが化け物になってしまったから、レイくんは君を殺そうとしたんだよ」
離され、落ちた体が寝台へ沈み込む。咽せ込みながら見上げると、厳しい視線がシェムを射抜く。全てを知ったかぶるその黒瞳が憎くて、全身を蔓延る猛毒以上に痛かった。
「ここはヒトの世界だ。人にとっての化け物は、いつだって人間によって排除される。淘汰される。討ち滅ぼされる」
何を知ったような口調で。だが返そうとした言葉は口から出ない。代わりに視界が滲む。涙は、ずっと溜め込んできた物が決壊したように止まらない。それは何も出来ない自分への腹立たしさと悔しさ、それ以上の惨めさと情けなさだ。
「ならよ! なら、どうすれば良いんだよ! 普通なアンタと違って、オレは生まれた時点で世界の枠から外されているんだ! 今更、どうすれば良いってんだよ!」
「甘えるんじゃねえよっ!」
一瞬だけ、父に怒鳴られた時みたいに、体が竦む。
「君、自身が悩め。僕が見つけ出した答えは僕だけが見出した、僕のためだけの答えだ。君が望む答えなんて、僕が知るわけがない。君はそうやって、レイ君から今まで何を奪い続けてきた? 何を守りたいのか考えろ。手段を創り上げるのが、護るってことだろうが!」
シェムは何となく、彼に違和感を持つ。それが何かまではまだ解らない。
そして最後に妹が言っていた言葉を思い出す。
『キミはやっぱり、何も分かっていない。世界を敵に回して、ボクらはどう生きられるの?』
シェムは今まで、レイラをレイの中へ押し込み、世界から回ってくる全てを敵を排除し続けた。その手段が間違っていたとは思わない。レイラを護るために、その存在を隠す必要があった――レイラが、それを全く望んでいないなんて知っていても。
「さっきもさ、脅しじゃなくて素直にお願いしていたなら、結果は違っただろうね。君はまだ子供なんだから、大人を頼っても良いんだよ」
「大人なんて、いねーよ」
「そうかい? 目の前にいるじゃないか」
「信用できねぇ」
「はは、でも君らはここに来る前、大人に助けてもらっていただろ?」
まただ、とシェムは思う。どうして彼はこうも自分達を知っているみたいに話すのだろう。
「アンタ、一体何者なんだ……というか、もしかして師匠を知ってるんじゃ」
「僕はただ一般的な事を述べただけだよ。まあでも、今は起きあがれるようになるまで寝ておきな。今の君にはそれしか選べないのだから」
強引に布団が掛けられ、その僅かな重みでも体は悲鳴を上げる。伝えるべきは全て言ったと、イチゴが踵を返すと、寝台から動けないシェムは、彼の背を見送るしかない。
「ちょっと待てよ!」
「おやすみ」
そして扉は、締め切られた。
それは食べる物を耕し、森で野兎を狩ったり木の実を集めたりした幼き日の情景。
吹き抜ける風がスカートの裾を捲り、土草の匂いが肺を満たしたそこは、よく二人で遊んでいた原っぱ。遊具は朽ちて倒れた大木が一つと、背の高い草の群だけ。
いつも、キミは駆け抜けるボクについてこれず、悔しそうにしていた。だけど今日はボクが茂みに足を取られて転んだ。起きあがろうとすれば、擦り切れた膝に血が滲む。
『まったく何やってんだ』
後から駆け寄ってきたキミは、お父さんみたいに右手を差し伸べてくれる。ボクは左利きだから、その手を取ろうとするといつも変な掴み方になるけど、立ち上がって並んで歩くには丁度良かった。だからボクが右手で返す事は無かった。今までも。これからも。
『しょうがねぇな。ほら、早く起きあがれよ』
自分よりもちょっとだけ早く生まれただけで、必死に兄であろうとするキミの姿が、おかしかった。だからこそ、そんなキミが大好きだった。ボクはキミの手を、そこで待っててくれる温もりを掴もうとした――だけどキミに触れた瞬間、世界は崩れ去った。
「!」
切り裂かれた衣服の下、あたしの胸を青銅の爪が貫き、緋い雨が降る。そしてキミの額に赤い矢が突き刺さり、倒れ込む唇が形作る――どうしてオレを裏切った。
そこで世界は再び崩れ、早鐘打つ心臓を鼓膜の内で聞きながら、レイは窓辺の硝子に額を押しつけていた。朝に溶ける小鳥の囀り。木組みの窓枠に光が差し込む。俯瞰する風景に紺色が混じり、それがやがて深緑を映し出す頃、空にはどこまでも続く白蒼が横たわっていた。
また、この夢だ。シェムを撃ち落としたあの日から見続ける悪夢。
あの時、自らの世界をシェムの胸ごと撃ち抜いた時に空いた風穴は、あまりにも大きすぎた。それほどまでに、自分達は互いを互いに依存しすぎていた。
いくら泣き叫んでも、意識を失う度に悪夢は必ず訪れる。
心朽ち果てるまで繰り返さられる堂々巡り。
「大丈夫ですか?」
抑揚に欠けた声を掛けられて、ゆっくりと振り返ると、硝子玉のような瞳がレイを覗き込んでいた。陶磁器を髣髴させる整った顔立ち。ブラウスとスカート着て、長い亜麻色の髪を若草色の髪留めで飾る女の子。歳は同じくらいか少し下。容姿だけならば、普段のレイが声を掛けるに理由には充分。その口元が綻んだだけで、一体どれだけの少年達を虜にするだろう。
しかし彼女はもう、この世の存在ではない。彼女はあの夜、シェムに襲いかかった仮面の一人だった。
『力はあるが、何分本体が液体なせいでね。あまり同じ形を保っていられない』
以前、カーネルの研究室で見たスライムの欠点を補う形で与えられた器。それが彼女達〝流体人形〟だった。故に、正確に言えば体は生きているが、考える心と魂を失った人間を、どうして生きていると呼べようか。
肉体を破壊されても、本体を溶かされた血潮が残り続ける限り生き残る不死身の怪物。目の前の少女はそういう存在なのだと、この数日間のどこかで聞いた。そんな彼女の仕事は、レイの身の回りの世話と監視だ。しかし監視に至ってはほとんど必要なかっただろう。何故なら今のレイは硝子箱に飾られた衣装人形その物だったから。
与えられた部屋は、宿で借りた部屋よりも広く、本棚や机の上などには生け花や、民族的な置物などの調度品が並び、ここが眠るだけではなく、寛ぐための部屋だと解る。
窓辺に隣接された寝台の上から外を眺める生活が続き、もう何日が経っただろう。
生気を失った緋色の瞳が虚無を見つめ、右手に巻かれた包帯だけが自分の生を証明する。血塗れになった服は一度着替えたらしいが、どうやって着替えたか憶えていない。藍色のワンピース。ようやく本来の姿に戻れたと言うのに、何も感じない。
心を疲弊させたレイと、魂を抜かれた少女の間に、今まで会話は無かった。だから彼女の方から言葉をかけられた時、レイは久しぶりに自分の感情を感じた気がした。
「もう、貴女は三十二時間、何も口に付けていません。その間に四回、気を失っています」
運ばれてきた食事は、手を付けないまま何度も盆ごと返した。それでも口にいれた回数を数えるなら片手で充分。パンきれをひと囓り。スープを二口。それ以上は吐きそうだった。
人形はだからどうしろとは言わず、事実だけを淡々と告げる。きっと最初の呼びかけも気遣いじゃなくて確認だったに違いない。人の姿でありながら彼女は間違いなく人形で、だが不思議と寂しさや虚しさは感じない。今の自分に感情の籠もった言葉はきつすぎる。
だからだろうか、少しだけ彼女に、興味が湧いた。
「ねぇ、キミの名前は?」
「フレッタ、と呼ばれています」
「そう、じゃあフレッタ、ちょっと訊きたいコトあるんだけど」
「範囲は限られますが、どうぞ」
返されてから、じゃあ、と悩む。本当は訊きたいコトなんて無い。ただちょっと、この空虚な心を紛らわし、シェムを思わないで済む時間が欲しかっただけ。話題を探そうと周囲を見渡そうとして、肩に掛けられていた毛布がずり落ちた。それまで気付かなかったが、暖炉が燃えていない室内は肌寒い。そして自分の服も、お世辞にも防寒仕様とは言い難かった。
「この毛布は、キミが?」
フレッタは首を傾げる。どうやら人形にする質問文にしては短すぎたらしい。
「キミが掛けてくれたの?」
「はい。放熱を防ぐために掛けました」
そう、と返事をして、今更ながらレイは自分の服を改めて意識した。どうして気付かなかったのか。自分はワンピースなんて持っていない。毛布の中でコッソリとスカートの裾をたくし上げると、足の付け根で自分の青銅の茂みが目に入り、慌てて隠す。
「あ、あのさ、ボクを着替えさせてくれたのは、キミ、だよねぇ?」
「そうですが、何か?」
「ああなら、…まだ、マシ、……なの、かな」
同性とは言え隠す所を誰かに見られたかと思うと気が滅入る。どうやらまだ人並みな羞恥心は残っているらしい。一体いつ脱がされて着替えさせられたのか。最後に入浴したのもシェムと入ったあの日が最後だ。周囲の寒さと着替えたおかげで、汗臭さは無いが、そろそろさっぱりしたい。そこで再びシェムが脳裏を過ぎり、心が重くなる。
「フレッタに兄弟はいるの?」
「兄がいました」
話題を変えようとして、本当に適当な事を訊いてしまったと我ながら思う。そのせいか、返事が過去形になっていてもレイは気に留めなかった。
「それはキミの? それとも本体の?」
「わたしのです。本体には兄弟という概念で繋がった存在はいません」
「まあそうだろうね。そのお兄さんは今どうしてる?」
「二日前、あなたの護衛者に殺されました」
物が壊れたみたいに告げた口調はあくまで事務的で、恨みや憎悪の念は無かった。
だがそれでもレイは言葉に詰まり、毛布を握り締める。父を殺された日の事は今でも憶えている。ただひたすら憎いと、それ以外に考えられなくなった。心を失った人形も誰かを憎むのか。だとすれば今、彼女は何を思いながら自分と会話するのか。
「ごめん」
「どうしました?」
頭上に疑問符を載せたフレッタが問いかけてくるが、レイは答えられない。解らないなら、その方が良い。自分が卑怯者だなんて解っている。でも何も言えなかった。説明したくなんて無かった。しかしその淡い希望は、次の一言で打ち砕かれる。
「謝罪されても、兄が帰ってくるわけでは無いですから」
レイはフレッタの顔を凝視した――コン、コン。扉が叩かれ『どうぞ』と言うよりも早く勝手に開かれる。枠の向こうに現れたのは熊のような体躯の大男。【水の魔法使い】にしてフレッタを流体人形にした錬金術士、カーネル=グランその人だった。
「喋れるようになったみたいだな。調子はどうだ?」
初めて会った時の穏やかさを欠片も感じさせない低音が響く。これが彼の本来の抑揚なのだろうか。フレッタと同じく体調を〝確認〟してくる様は、この方がレイが知る錬金術士らしい。術は己がためを掲げる彼らは基本、他者を気に掛けるなんて無いのだから。
「それなりかな」
喉の奥が緊張に震えそうになる。彼は今まで何回かここに訪れていたが、こうやって話すのは初めてだ。それに自分がお客様待遇でここにいるとは限らない。相手はフレッタのような子供を人形にしてしまう錬金術士なのだ。答え方によっては自分も――そこまで考えて、バカバカしいと思考を止めた。いまさら自分の命を心配して何になる。
やけに落ち着いているレイを一瞥すると、カーネルは部屋に入ってきた所で立ち止まる。
「まあいい、悪い知らせがある」
「悪い知らせ?」
「お前の人形が生きていると連絡が入った。もう数日で動けるようになるだろう」
人形。その聞き慣れない単語はシェムのことだ。シェムが生きている。カーネルがどんな意図でそう表現したかは知らないが、レイにとってそれは紛れもなく悪い知らせだ。
ボクはまた、シェムを殺さなければいけない。そこで普段なら傍らにある弩弓が無い事に気付く。彼を撃ち落とした弩弓は、ここに来るまでに取り上げられたか、あの森へ置いてきてしまったらしい。だがシェムを二度殺すことなんて自分にはできるだろうか。きっと出来てしまうだろう。そうなったら、もうボクは――。
「俺が殺してやっても良い」
思考を遮るように落とされた言葉に、俯いていた顔が持ち上がる。すると悪魔に魂を売った研究者の双眸は、真っ直ぐにレイの緋眼を覗き込んでいた。
「お前がカタを付けたいならばそれでも良い。付けられるならば存分にやれ。だがこれは俺の仕事でもある。だから問う。お前がやるか?」
レイが黙り込むと、カーネルは軽く舌打ちをして何かを呟く。『これだから……』と聞こえた気がしたが、その語尾は融けてしまって聞こえない。
「どうして、そんなことを訊く?」
「お前がやらぬのならば、俺がやる。それだけだ」
その言葉を鵜呑みにできるほどレイは幼くはない。あの夜、イチゴにシェムが連れ去られてから自失していたレイは、気がつけばロイに連れられてこの部屋にいた。ロイの主がカーネルなら、最初から自分が目的だったことになる。一体、自分に何をさせようと言うのだ。
しかし予想に反して、カーネルはそのまま踵を返すとドアノブに手を掛ける。その後ろ姿を気がつけばレイは呼び止めていた。
「一つ訊かせて。フレッタは――流体人形の元になった子達は、この孤児院の子なのか?」
フレッタは黙したまま、二人の様子を眺めていた。返事はなかなか返されない。やがてカーネルは扉から手を離す。
「お前こそ、どうしてそんな事を訊く。鬼よ、悪魔よ、人でなしよと、魂を売り人外と化したこの俺を今更、罵倒しようとでも言うのか?」
「まさか。でもどうせ人形にするなら、子供を調達、管理する手段なんていくらでもある。何であなたのような錬金術士が、孤児院なんか開いているのか、ちょっと興味が湧いたんだ」
実際、貧富の差が開いた地域で、親が子を売るなんて珍しくない。ただ〝生きる〟という点ならば、その方が長生きできる可能性はむしろ高い。人身売買は違法だ。しかし需要は低く無い。臓器移植用から愛玩用まで用途は幅広く、鉄火場を覗けば孤児なんぞごまんといる。
「どうして、だろうな」
そう呟いた彼の横顔は疲れて見えた気がした。だがそんな顔は蜃気楼のように消えてしまうと、元の錬金術士の眼光がレイを射抜く。
「こいつらは元々、俺の研究じゃない。生命から動力を取り出す際、魂の抜け殻になったこいつらを再利用した、謂わば副産物だ」
「ならやっぱりその子も、元はここの子だったんだ」
「いや、フレッタは外部から連れられてきた。こいつの前の所有者は、腐れ脳味噌だったらしいが、詳しくは知らん。心が壊れたこいつをお上が買い取って、俺の所へ寄越した」
そしてカーネルは忘れていたと、懐から小瓶を取り出してフレッタに投げ渡す。飲めと命じられたフレッタは小瓶に口付けて、中身を嚥下する。こんな光景を、つい最近どこかで見た。
「……それ、アイリが飲んでいたやつ!」
「こいつらを動かすために調整した簡易想血だ。お前達の想命機関を動かす想血には及ばないが、流体人形を運用するには充分だ」
「なら、アイリも、人形なの?」
しかしそうとは思えなかった。フレッタには感情の起伏が無く、まさに人形と呼ぶに相応しい反応しか示さない。だがアイリは違う。初めて会った時は、絶えない蘇生薬を求めてきた客に激情を示し、子供達の前では良く笑っていた。明らかに喜怒哀楽に満ちていた。
「アイリ、か。確かにそうだな。あの子こそが流体人形の祖だが、どちらかと言えばお前の護衛者に近い」
遠くに想いを馳せるように目を細めたカーネルの姿が、いつの日かに見た父と重なる。何か、レイの中で小さな違和感が生まれた。それがこの男の言動についてだとまでは解るが、それが何なのかは解らない
「あの子の魂は一度、死んだ。想守者の肋を埋め込み、想血を注ぎ込んで魂の延命処置をした。だが駄目だった」
「え?」
「護衛人形の核――想命機関には想守者の肋骨を使う」
「あ、いや、そうじゃなくて……ボクと同じ存在の人がいた、の?」
シェムと同じく、ロイもまた護衛者として造られたならば、想守者がいるのは当たり前だ。
しかし孤児院は、ロイの他に緋色の瞳を持った人間はいない。自分達と同じように、色硝子で瞳の色を隠していたのかも知れないが、ならどうしてロイは隠していなかったのだろう。
「ロイが護るべき想守者だった。それを俺が使い潰した。俺の知識が足らなかった。アイリを繋ぎ止めたい一心で、衰弱していくあの子に気付かなかった――いや、喋りすぎたな」
レイは先程抱いた違和感に気付いた。この男はやはり、レイが知る錬金術士じゃ無い。
鬼と悪魔と人でなし。この会話を持ち出した最初に彼が使った単語。どれも他者を非難するために使う言葉。きっと彼はこの言葉を使って欲しかったのだ。責め立てられたかったのだ。
だけどレイが、その言葉を誰かに向ける資格は無い。向けるつもりもない。
「丁度良い、説明しておこう」
カーネルの中から違和感が消える。錬金術士の顔に戻った彼の形相がレイを見下ろす。
「お前も、俺に使い潰されるためにここにいる。前には研究し損ねた想守者に血。今度こそ使わせて貰うぞ」
さく、さく、さく。銀刃が表面を滑ると、赤い皮が一繋ぎに剥けていく。果物ナイフを持ったリーリアが、リンゴを剥き始めてから数分。まだ動かす度に体が痛むシェムは、その様子を寝台の上から眺めているしか無い。皿の上には、既に剥かれたいくつかが載っていた。
だがしかしと、シェムは思わずにはいられない。
「……なぁ」
「ほえ?」
それまで一心不乱にリンゴと格闘していたリーリアが顔を上げる。そして間の抜けた返事の後、すぐにしまったと顔を引き締めて、短く咳を払う。
「……なんでしょうか?」
「いや、そのリンゴ、たぶん、きっと……おそらく、もしかしたら、ひょっとすると、オレに剥いてくれてるん、だよな?」
それ以外に、わざわざ少女がこの部屋でリンゴを剥く理由があるとでもいうのだろうか。案の定、少女は心外だと言わんばかりに頬を膨らませ――力を入れすぎたのか、今まで繋がっていた皮が、リンゴ本体から切り離されてしまう。「あっ!」リーリアは即座に拾おうとするが、もはや後の祭り。切り離された物が戻ることなどない。少女は拾い上げたそれを隅に退けると、渋々と残りの皮も剥いていく。
「もー、シェムさんがそんな薄情な人だとは思いませんでした。人の親切を信じられないなら、もう二度とリンゴなんて持ってきません!」
「いや、違うんだ。そうじゃなくてな。ただ、その、それどうやって食べればいいのかと」
再びシェムは皿の上を見る。そこには確かに剥かれたリンゴが鎮座していた。見事に皮だけを切り取られた、両の握り拳を合わせたほどの大きさのリンゴが。
「そんなの、丸かじりすればいいじゃないですか!」
ドン、とシェムの手が届く位置に、リンゴの皿が叩きつけられる。食べやすいように切って欲しい。そう願うのは、それほど贅沢な望みだろうか。剥かれたリンゴは、これで五つ目。二人で食べるにしても多い。三個目あたりで口を挟もうかとも思ったが、少女のあまりの集中っぷりに、声を掛けれなかった。
「これ、二人で食べるんだよな?」
「何言ってるですか、全部シェムさんのですよ。わたしは人様に差し上げたお見舞いの品まで平らげるような、そんなみみっちい女じゃないです」
「いや、でも一人で食べるには多すぎ――」
「何言ってるんですか。ただでさえふつーにご飯を食べられないなら、せめて食べやすい果物で栄養を摂るしかないんです。だからぜーんぶ食べてください」
食べ物を受け付けないからこそ、少しでも栄養を摂るために果物を食べるのだ。決して果物で腹を膨らませるわけじゃない、とは思っても言えない。言ったところで逆なでするだけだ。
「さあ食べてください。疾く食べてください」
「だけどやっぱり、ほら。食べづらいというか……」
「もう、しょうがないですね」
少女は皿を取り上げると、一つ一つを綺麗に四等分してくれる。
「なぁ、リーリア」
「今度はなんですか?」
「……何で、看病してくれるんだ?」
ふと、リンゴを切り分けていた果物ナイフの動きが止まる。
「お前はオレの家族じゃない。そりゃ客に死なれるのは困るだろうけど、こんな頻繁に看病してもらえるのは、その、なんだ。追加料金とかあとで請求されても、困る」
「それ、本気で言っているんですか?」
奇妙な静寂の中で落とされた声は、外の空気よりもよほど冷え切っていた。自分は何か地雷を踏んだらしい、そう気付いた時にはもう遅い。
「シェムさん、歯を食いしばってください。……わたし、ちょっとカチンときました」
そうやって振り上げられた手の平が、次の瞬間に眼前に迫ってくる。ペチンっ。動けないシェムは、顔面でその一撃を賜り、目を白黒とさせながら年下の少女を見上げる。
「何ふざけたことヌカしてやがるんですか! 怪我人は大人しく介護される。それが古今東西、この世界に存在する掟です! 心配しなくたって追加料金なんか頂きません。っていうかさっきからグチグチグチグチ何なんですか。人の愛情にケチつけないでください。それ以上いうなら――もぎますよ?」
何を、とは恐くて聞けない。同時に、やはりこの少女は、あの女将の娘なのだと認識する。
それにしても愛情、と来たか。シェムは視線をリーリアから外すと、反対側を向いた。
「ケチをつけてるわけじゃないさ。ありがたいと思ってる――ただ、その愛情の理由がわからないんだ。オレはずっと、愛情ってヤツをもって、レイに接してきたと思った。だけど駄目だった。今ここにレイがいない……愛情って何だ? 愛の中に何を込めればいい? オレは、オレはどうすればよか――べふっ」
ベチンと、さっきよりも強い張り手が顔面に飛んでくる。
「あー、うざってぇ!」
最初に会った時のような少女らしさはどこへやった。そう尋ねないではいられない豹変ぶりにシェムが固まっていると「ちょっとやりすぎました」とリーリアは椅子に腰を下ろす。
「シェムさん。あなたは大変な誤解をしてます。愛って、軽くはないものなんです。そこに理由なんてつけたら、愛される方も重くて疲れてイヤになるだけ――そう、母が言っていました。わたしはまだ小さいから、ホントはあんまりわかってないんですけどね」
そう言ってリーリアは、照れるようにはにかんだ。
「わたしはいいオンナなので、レイさんと何があったのかは聞きません。だけどレイさんが今ここにいない理由がシェムさんにあるなら、きっとそういうことだと思うんです」
シェムは答えない。両親からの愛に塗れた人生。リーリアはそれを誇りに思っている。ただそれだけなのだ。途端に、シェムは自分が恥ずかしくなった。
自分達に母親はいなかった。そもそも父親からして偽物だ。だけどそれで他の家庭を羨むことはあっても、不幸だと思ったことは無い。だからシェムは愛を知っていた。知らないはずが無かった。
「あー、もう。そうかよ」
「え?」
「ったく、お前はいいオンナになるよ。ただ、病人に手を出すのは控えな」
「あら? 母が言うには、うじうじしている男の背中を蹴り飛ばすのが、良いオンナの条件らしいですよ?」
それからシェムは、さらに三日を寝台の上で過ごした。
ようやく痛みが薄れたので上体を起こすと、壁に立てかけられた長柄の剣、もう一つの相棒と見えない視線と交わす。犬の顔が彫り込まれているとはいえ、鉄塊が意志を持つわけ無い。だが狗剣は確かに主へ問いかけた。いかぬのか、と。
「ああ行くさ。行くに決まっている。行かなくて、どうするんだ」
降ろした足を床につけると、最初の一歩は躓いた。壁に寄りかかり、崩した重心を直しながら狗剣の柄に手を掛け、生身の右手がその硬さと冷たさを確認する。
決して折れない頼りになる相棒は、こんなにも冷たくて硬い。そして机の上に畳まれていた着替えを手に取って気がついた。服は血に塗れ穴が空いていたはずだが、血は落とされ、あて布が施されていた。リーリアがやってくれたのだろうか。シェムは袖を通して剣帯に狗剣を差すと、その柄を意味もなく指先で弾いた。
……トン、トン、トン、トン……
机の上に置き去りにされた鍔付帽子に気付いたのは二日前。それを初めて手に取る。
レイラがレイを演じるために使っていた帽子。何となく被ってみると、被り慣れていないせいか、視界が狭まりどこか嫌な感じだ。きっと自分は帽子が苦手なのだ。レイはどうだったのか。何年も、何年も。そんな素振りはなかった。
……トン、トン、トン、トン……
レイは、怒っていたのだ。もうレイは自分を望んではいまい。
このまま自分が姿を消すのが、レイにとっての最善なのだろう。だが最後に過ぎったのは、自分の気持ちだった。それはイチゴが言っていた通りの、そう造られた護衛者としての、誰かに仕組まれた偽りの気持ちなのだろう。
トン、トン、トン、トン――気がつくと指先の音が止まっていた。
シェムは思い出したように鞄から財布を取り出すと机に置き、帽子を被せる。
もうこの部屋には帰ってこないかも知れない。この全財産はそうなった時の、迷惑料も含めた宿代だ。鞄も部屋の隅に置いた。両目に入れていた色硝子も取ってしまおう。狗剣を携えて廊下に出た所で、そこに盆にコップと水差しを載せたリーリアとばったり出会った。
「あ、シェムさん。もう起きあがっても平気――」
少女は緋い色したシェムの目を見て驚いていた。誰だって知り合いの瞳の色が変わったら驚くだろう。
「ああ、適当にな。それよりもこの服、洗って縫ってくれたの、お前だろ?」
「え、あ、はい。でも、その、全部は落ちませんでした。あて布も探したんですが――」
「ありがとうよ」
素直に嬉しかったので言った。隣を通り過ぎようとして、呼び止められる。
「シェムさん。どこへ、行かれるんですか?」
「ちょっと兄妹ゲンカの続きに、ね」
「……ダメです」その時、リーリアの様子はおかしかった。「ダメですよ、シェムさん。シェムさんはイチゴさんに連れて帰ってきた時、すごい大怪我を負っていたんです。だけど医者を呼ぼうとしたらイチゴさんに止められるし、でもシェムさんはもう歩いているし」
何が何なのか解らないと、シェムを見るリーリアの視線には嫌疑と――はっきりとした恐れが見て取れた。レイが言いたかったのはこれか。〝他人と違う〟は、こうまでも他者に恐れられてしまう。なるほど、ここは人間の世界。ならば脅威が討ち滅ぼされるのは当然だ。イチゴの言葉を思い出しながら、この三日、彼の姿を見ていない事を思い出す。
「そう言えば、イチゴはどこ行ったんだ?」
「……一昨日、出て行かれましたよ。やらなきゃいけないコトがあるから、って」
シェムは内心で首を傾げた。結局、あの男の正体と目的については解らず終いだ。もしかしたら、想守者たるレイを狙っていたのかも知れないが、あのやりとりの後でそれは無いだろう。
だとすれば一体何のために彼は出て行ったのか。少し考え込んでいると盆を手にしたままのリーリアが、怖ず怖ずとした上目遣いでシェムを見上げる。
「それ、剣ですよね? シェムさんは、そんな傷つけるための物で、レイさんに何をするつもりなんですか?」
問いかけられて言葉に詰まった。しかしそれでも、この剣の使い道は決まっている。それも大昔からそのためだけにしか使ってこなかった事に内心で苦笑する。なるほど、確かに変かも知れない。やはりこれが本能なのだろう。だがそれを否定するつもりにはなれない。
「オレはやつを守る。この剣はそのための道具だ。なんせオレは――」
最後の言葉は口に含んで、言わない事にした。どうやらあの大莫迦野郎には、直に言わなきゃ駄目らしい。それがシェムにとってどれだけ言い難い言葉だったとしても、今回は言わねばなるまい。不審げな表情を浮かべるリーリアの頭をクシャクシャと撫で回すと、シェムは片割れの元へと歩き始める。腕の中で、狗剣が静かに鳴いた気がした。
「準備は整った」
電脳端末が示す羅列を黙々と目で追っていた男は顔を上げた。視線の先に広がる機材は、贄を捧げる祭壇だ。それを囲む鉄の群、幾重にも横たわる夥しい配線は神経のように張り巡らされ、時折、生き物のように脈動した。その全てが、中央の台座、黒髪の彼女へ繋がっている。この機関車が二両並列で飾れるほどの広さを持った構内が、彼女ただ一人を生かすためだけに存在していると、誰が思うだろう。今はまだ穏やかに聞こえる寝息が、もう底を尽きかけているなんて、誰が信じるだろう。
埋め込まれた想命機関によって補われていた魂の平衡は、既に崩れかけている。普段飲ませている簡易想血の摂取の他にも、定期的にこの構内で調整を受けなければ、すぐに消えてしまう不安定な命。メイリーフがアイリに命をくれてやってからの三年間、カーネルは娘を一分一秒でも長く生かすためだけに、自分の持つ全てを悪魔に売り払った。それでもまだ、足りない。
アイリを見守るロイは構内の壁に背を預けていた。
生前メイリーフが、彼には魂の色を見分ける能力があると言っていた。彼女が死んでから、ロイは代わるようにアイリの側にいる事が多くなった。当然だ。今のアイリにはメイリーフの魂が混ざっている。感情を表に出さない彼が何を思うのか、判断するのは難しい。そして彼が見据えたアイリの横に、今日はもう一人、少女が並んでいた。
少女の双眸を彩る緋色の輝き。この偶然は誰によって仕組まれた必然なのか。かつて失った魂を呼び戻す者が、今そこにいる奇跡。この先にどんな罠が待ち構えているか解らない。
しかしそれでも、構わない。今そこに想血が存在する。それこそが全てだ。
操っていた端末から離れると、錬金術士は横たわる少女らに歩み寄る。一歩がこれほど重く、緊張した事は無い。もう、メイリーフの時の過ちは繰り返さないため、装置の改善と理論の見直しを徹底した。それでも、最後の不安は拭えない。だがここまでお膳を立てられ、止まるなんて選択肢は無い。
「手を」
緋眼の少女――レイにそれだけを指示すると、黙したまま差し出されたのは右腕だった。
宝石を扱うみたいに手を取ると、アルコールで拭いた表皮に、機械から引き延ばされた針を挿れ、少女は僅かに顔を顰めた。想守者から流れ出た血は、濾過装置を通してからアイリへ送られる。想血は猛毒だ。それを源とする護衛者ですら、食道機関で濾過を行わなければ死に至る。想血の輸血は原子量単位で行われ、それを可能にするための、この大仕掛けだった。
「ねぇ、アイリは、これでどのくらい生きられるの?」
ふと、尋ねられた。カーネルはレイに『お前を使い潰す』とだけしか言っていない。きっとこの数日間の内に、フレッタかロイのどっちかが、この装置の概要でも話したのだろう。
「理論で示せるのは、安定値までだ。そこから先は、魂の質次第だ」
レイがどんな顔をしたのかも確認せずに、カーネルは自身の発言のおかしさに唇を歪める。魂の質次第だなんて錬金術士たる自分が、そんな不確かな物に依存しているとは。
カーネルは横たわる娘を見た。アイリはメイリーフの命と引き替えに、自分が死の淵から目覚めた事を知っている。だがそこから先、子供の命から搾り取った簡易想血で、生きながらえている事実は知らない。普段から面倒見が良い娘だ。もしもその子らの命が自分を繋いでいるのだと死ったら、今度こそ、アイリの魂は死んでしまうだろう。
それに例え今回の延命実験が成功したとしても、それもどこまで持つか。ならば親として、絶望の要素は全て自分が背負ってやりたかった。ここまでの計器の数値に乱れはない。あってはならない。それこそ、前回のメイリーフの失敗を繰り返すわけにはいかないのだ。
しかし用意したはずの万全は、簡単に崩れ去った。
『クル、シイ』
呟いたのは想血を供給するレイじゃなかった。薬で眠っていたはずのアイリの目蓋がゆっくりと開く。そして変化は端末に表れた。
「ばかな、なんだこの値は」
アイリの魂を維持するための想命機関の出力値の桁が二つ違う。視線を戻せば、アイリの姿が周囲の光を巻き込んで歪んだように見えた。いや、実際に歪んだのだ。
『ああああああああああああああ』
「いかん!」
装置の緊急停止釦を押した所でどうにかなるはずもない。だがそれでも止めなくてはならないと、カーネルの錬金術士としての本能が警鐘を鳴らす。
『ナンデ……ドウシ、テ?』
光に包まれた愛娘の体が様々な色を放出する。それは暗く厳かでありながら、燃やし尽くしたような黒い色。声は石を投げ込まれた水面のように広がった。
『ヤメテ……イヤダ、ヨ』
アイリの唇が幾重にも貼り合わせられた声を紡ぐ。それの内側から世界を見ていたのは娘では無い。過負荷に機材が火花を散らすと、台座の上に寝かせられていたアイリが、ゆっくりと上体を起こす。
『イタイヨ……クルシイヨ』
娘の声に重なって聞こえる子供達の声。一体どこから、そこまで考えて思い至る。今や、アイリの魂を構成するのは、メイリーフだけじゃない。アイリが摂取してきた簡易想血。それを精製するために潰されていった子供達の魂。想いの残滓に過ぎなかった彼らが、レイの想血の影響を受けて顕現したのではないか。
『辛イ、悲シイ……憎イ、ヨ、イヤダヨ、イヤ、イヤイヤイヤイヤイヤ!』
瞬間、アイリを包んでいた黒い光が幾重にも広げられて、伸ばされた。咄嗟に身を捩ったカーネルの頭上を楔が過ぎり、背後の壁に打ち込まれる。顔を庇っていた腕を下げた錬金術士の視界に映ったモノ。それはもう、人の姿をしていなかった。
『死にたくない死ニタクナイ死にたくない死ニタクナイ死にたくない』
ダラリと下げた両腕から生えた、白い枝葉の群れ。それは周りの金属を易々と貫き、蠢く。そして影のような葉が、渇望する五指のように広げられ、唖然としていたレイを鷲掴み、彼女の衣服を剥ぎ取りながら宙へ持ち上げた。
「がっ……はうぁっ……」
呻く少女の元へ這い近づいたアイリが、仰け反るように彼女を見上げた。そして伸ばされた指先が想守者たる少女の胸へ触れると、融けた。抵抗する素振りを見せていたレイが大人しくなり、アイリへ跪く。
「わかった」白い枝葉に囲まれながら頷く。「ボクを、あげるよ」
それからの変化は化学反応のように劇的だった。レイという動力源を取り込み、枝葉が対数的に広がった。もはや娘の延命処置など言っていられる次元では無い。白い枝葉は手当たり次第を貫きながら、増殖を続けている。
「こんな、こんなことが……まだ始まったばかりだというのに!」
「いいや、終わりだよ、養父さん」
黒い痛みが背中を貫き腹から生えた。一拍遅れて、喉のから込み上がってきた赤塊を吐く。
「ロ、イ?」
「もう、メイリーフは誰にも殺させない。ぼくは守ってみせる。今度こそ、絶対に」
カーネルは気付いた。少年が呼ぶ〝メイリーフ〟が誰なのか。そして悟る。彼はもう壊れてしまっているのだ。守るべき者を、カーネルが奪ってしまったその日から。そうでなければ、あのおぞましい物体を見据えて、今はもういない彼女の名が出るはずはない。
薄れゆく意識の中でカーネルが思ったのは、そこまでだった。
黒い巨剣が捻られると、カーネルの体は鮮血を撒き散らして両断された。