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第二章:キミを撃ち落とす夜

 第二章【キミを撃ち落とす夜】



 誰もが寝静まる深夜、濃紺が生い茂る森から、我が家へ続く道に出ると、男はランプを消して、月明かりを頼りに門を潜った。足音を忍ばせて玄関口を開くと、中から向けられた燭台(しょくだい)の光に、思わず手を(かざ)す。

「お帰りなさい、お父さん。ずーいぶんと、遅いお帰りでしたわね」

 真夜中の空気をさらに凍らせる、奈落の底から響く声に、男――カーネルはバネ仕掛けに背筋を伸ばす。声の主を確認するまでも無い。自分が留守の間、孤児院の管理と生活を任せた愛娘だ。光に慣れた目は、その隣で娘の影のように付きそうロイを認める。

「お、おや、起きていてくれたのか、アイリ、ロイ。すまない、ちょっとね、予定が途中で変わってしまったんだ」

「ほんっと心配したんだから! 返ってこないなら連絡の一つでも寄越すのが筋じゃない!」

 通信技術が発達した都ならばともかく、こんな森の奥まで連絡を飛ばすより、帰ってきてしまった方が早いのだが、そんな事実は、今の娘の耳には届かないだろう。怒れる一方で、寝惚け眼をこすり、欠伸(あくび)を噛み殺す娘を見ながらカーネルは思う。きっとアイリは、長引いてしまった昨日も一昨日も、こうして起きていてくれたに違いない。

「ああ、その、なんだ。本当に、うっかりしていた。うん」

「返事は?」

「……はい、次からは、ちゃんと連絡します」

 蛇に睨まれた(かえる)のように縮こまる男が、巷で【水の魔法使い】と呼ばれる錬金術士であると知ったら、第三者はどんな感想を抱くのだろう。錬金術士という偶像に失望するか、(ある)いは、同情の眼差しを注いでくれるか。アイリは成長するに従って、亡き妻に似てきた。もう十年も遡ったあの時は、お父さんお父さんともう少し可愛げがあった気がするが。すると思ったことが顔に出たのか、キッと睨み付けてくる娘の眉間が、また一段と鋭くなる。

「ところでアイリ、すまないついでに、ご飯か何かは残ってないかい?」

「晩ご飯の残りならあるけど、温め直す?」

「ああ、もうお腹がぺこぺこなんだ。でもまずは部屋に戻って、着替えてくるよ」

 娘の視線から半ば逃げるように、廊下から自室へ入ると、カーネルは一息をついて、ずっと手に吊していたトランクを床に置く。その途端(とたん)だった。

「二日前、想守者(ヘリオトロープ)が尋ねて来ました」

 部屋の中から響く声。カーネルは別段と驚いた様子も無く室内を見やると、銀月が填め込まれた窓辺に、黒装束の影が立っていた。月光を弾く亜麻髪。外見は、娘よりは幾分か年下に見える。だが硝子玉みたいな瞳を填め込んだ表情はまるで氷像のようで、年相応のあどけなさを完全に打ち消し、対峙する者に奇妙な印象を与える。そんな彼女を見やるカーネルの横顔に、娘に怒られていた父の面影は微塵(みじん)も残っていない。

「ほう、想守者(ヘリオトロープ)とは珍しい客人だ。確かなのか」

「はい、ロイが想血(ポーション)を確認しました。型は三期生産」

「尋ねてきた、と言ったな。三期生産型が私に用だと?」

「人捜しとのことです。そして本人達は、自分を知らないようです」

「三期型ならあり得る。それで、誰を捜しに来たと?」

 少女が話したのは、レイがアイリ達に伝えた捜し人の特徴だ。孤児院の中に、彼女の姿はなかった。ならば彼女は、一体どこでその話を訊いていたのだろう。

「ふむ、【伝書鳩】はなんと? 前に【影の砕き手】が動き始めたと言っていたな」

「砕き手との関連は不明。上からの指示を仰ぐとのことです。また派遣された砕き手の中には〝白翼〟が含まれている可能性が高いとのことです」

 少女に告げられると、錬金術士は眼を剥いた――〝白翼〟だと?

 カーネルは腕を組み、何事か思案するように目を伏せる。【影の砕き手】と言えば、政府の査察機関が抱えた工作員。毒を以て毒を制すと言わんばかりの任務内容には、非合法な手段も多いと聞く。中でも〝白翼〟は殺意の代弁者。紛れもない、政府の兇手(ころしや)だ。

「良かろう、この俺を〝影〟とするなら、存分に喉笛を噛み千切ってやろうではないか」

 今度は低い声で笑い出す。カーネルは(かたわ)らのトランクを引き寄せると、机の上で開いた。中に納められていたのは、緋色(ひいろ)の輝きが詰まった、いくつもの硝子瓶。

「だがそれは、今しばらく先だ。どんなつもりかは知らぬが僥倖(ぎょうこう)。我が命のことなんか、構ってはられぬ。近日中に想守者(ヘリオトロープ)に会うと【伝書鳩】に伝えろ」

 ほどなくして黒衣の少女は音もなく立ち去った。部屋に残されたのは男が一人。眼前に横たわる見えない課題に口の()を吊り上げる――ゴンゴゴン。すると、扉が荒々しく叩かれた。

「父さん。もう温めて用意したよ! まさか寝てたりしないよね? なに、ここまで待たせて実はもう眠いから自分だけ寝ますだなんて、そんなこと考えてないわよね?」

「あ、ああ。アイリ、今行くよ」

 男が取るべき最初の一手。それは、不機嫌な娘を(なだ)めつつ、その場しのぎで頼んでしまった本日二度目の夕食を、いかにして摂るかだった。



 森で倒れていたレイを見つけてから、三日が経った。

 レイの様子はいつも通り――相変わらず好みの女の子を見かけては声をかけ、(すき)あらば口説き落とそうとして、それをシェムが止めに入る。そんな変わらぬ日常に、実は何事も無かったのではとさえ思ってしまう。しかし上着に隠された片割れの首筋に刻まれた傷跡が、シェムの錯覚を拭い去る。森で何があったのか、レイは未だに話してくれなかった。

 何も憶えていないはずは無いが、いくら尋ねても『森の妖精に襲われた』『森のクマさんに襲われた』『森の小人に襲われた』などと、曖昧返事の一点張りだ。木々が砕けていた現場から考えて、森のクマさんが一番近いようにも思えるが……

「あーもう、先生の足取りなんて落ちてないじゃないかー」

 ぼやき声で我に返ると、向かいで座りながら両手で頬杖(ほおづえ)付くレイが、コップに突き刺したストローを退屈そうに口付けて、ズズズズズ、と底に残った果汁を吸い上げる。

 町で聞き込んだ情報を整理しながらの昼食休憩は、店の主人の趣味だという、洒落たテラス付きの食堂の、二人掛けの席で行われていた。差された日傘の下、机には空にされた食器とパン屑が散らばり、シェムが注文した飲み物だけが、まだ残されていた。しかし手を伸ばそうとしたシェムを遮って、レイがシェムの緑茶を奪い取ると、一気に口の中へ流し込む。

「あ、てめえ! 自分のがあっただろうっ!」

「なんだ、飲んでないから、もう要らないのかと思ったよ」

「明らかに今飲もうとしてただろうに!」

「あーうっさい! そんなちっさいこと気にするから、キミはいつまで経ってもちっさいままなんだ。大体なんだ、キミのその顔! どーせ、また森で何があったとか、思ってたんだろ!」

 ギクリ。まさにその通りだったシェムの顔が引きつる。が、しかし、兄の沽券(こけん)にかけて怯んではいられない。

「お、オレの成長期がマダなだけなの! 見てろ、すぐに追い抜いてやる!」

「はいはい、その言葉は聞き飽きた、一体いつになったら抜いてくれるのさ? ああもう、先生は見つからない、キミはしつこい。最悪。もー最悪だよ、ほんっと!」

「あー、わかったわかった。もう訊かねぇよ。訊く気も失せたわ!」

 机に突っ伏したまま「ほんとぅ?」と上目遣いに見返してくるレイに重ねて誓うと、それでもレイは溜息を吐く。今日は背中の弩弓(クロスボウ)を宿に置いてきたせいか、そんなレイの姿は、ようやく年相応の少年に見えた。一方で腰に狗剣(ライカ)を吊すシェムの指先は、また柄を叩き始める。どうしても楽観視ができないシェムは、あれから常に帯剣し、レイと行動を共にしている。今のところ、この鉄の刃はまだ抜かれていない。このまま何も無いことを願うばかりだ。

「先生かも知れないヤツは数人いたんだけどな」

「はぁ、実際に会ってみないと特定できないのが不毛すぎるよ。ああ、ボクは一体誰を捜しているのか、判らなくなる」

 シェムは苦笑するしかなかった。なにせこちらは名前しか知らないのだから。

 師のクロウは、体のほとんどを鉄塊に置き換えた機械人間(アドヴァンス)だ。機械で構成された体は、定期的な整備を必要とする。だから軍属を始めとした、ある程度大きな組織に所属しないと生きていけない。だが我らが師事するクロウという男は、体を着替えることでその問題を解決した。正確に言えば男なのかも怪しい。最初に出会った姿は中年男性だったが、一度、体を大破させた後は、女性になって戻ってきた。口調で判断できるかと問われても、どうやら体に合わせて仕草を変えていたらしく、着替えた後は、記憶だけを共有する全くの別人になってしまう。

 一体、今はどんな姿をしているのやら。

「あのド変態め……見つけたら首に縄付けて逆さづりぶらぶらの刑にしてやるっ!」

「待て、首につけたら逆さづりどころか、ぶらぶらだけじゃ済まなくなるぞ」

「大丈夫だよ。先生は頑丈だし。いざとなったら部品交換で第二ラウンドも余裕さ。あの人は殺そうと思っても殺せないしね」

 物騒な事を口にするレイは、本当にクロウを〝師〟と仰いでいるのだろうか。実は晴らすべき恨みのために探しているのだったならば、兄として止めるべきだろうか、それとも悲願を共に叶えてやるべきか。

「なになにー? 誰か懲らしめるの? ブラブラなの?」

 すると突然、少年が、レイの背中に抱きついて来た。驚いて振り返ると、その向こうには黒髪を戴いた少女が買い物袋を携えて手を振っていた。

「ゼンリ! アイリも!」

「やほ。なんか物騒な話してたけえど、お師匠さんの行方は何か掴めた?」

 今まさにその話で文句を垂らしていたせいか、尋ねられた顔は微妙だった。双子の顔を見比べ、全てを悟ったアイリは苦笑を返す。しかしそれは気まずさを誤魔化すでは無く、待っていましたと言わんばかりの、快心の笑みだ。

「ならば若人よ、お姉さんが素敵なお話をしてあげようじゃないか。昨日、うちのお父さんが帰ってきたよ。それで大仰な言葉遣いを好む珍客に、心当たりがあるってさ」

「本当!?」

 そう掴みかからんとレイが席を立つと、背中にひっつくゼンリが歓声を上げた。

 実は体ごとに性格を使い分けるクロウにも、譲れない性分があるのか、何かと芝居がかった口調で喋りたがるという困った性癖があるのだ。一緒に暮らしていた頃は、恥ずかしい事この上無かったが、今は、それだけが師を探す手がかりとは、なんと皮肉過ぎる。

「それが貴方達が探してる〝クロウ〟さんかまでは判らなかったけど、お父さんはその人の話をしてくれるってさ。でも帰ってきたばかりでお父さん疲れているみたいだから。来るなら明後日くらいにして。今度は歓迎するわ」

「アイリ」

 起伏のない抑揚が彼女の名を呼んだ。いつの間にいたのか、双眸(そうぼう)に填め込まれた作り物のような(あか)い瞳は、一度だけ全員を見渡してから、アイリという一点を凝視(ぎょうし)する。

「そっちは終わった?」

 慣れているのか、問いかけたアイリに、ロイは片手に提げていた布袋の口を広げて中身を見せる。中には肉類や野菜、果物が詰め込まれており、確認したアイリが満足そうに頷いた。

「父さんの事は、もう伝えたのか」

「たった今伝えたトコ。リーリアん()にまでいく手間が省けたね」

「なら帰ろう」

「今、レイ君達にあったばっかりなのよ。もう少しくらい話をさせなさいよ」

「そーだよロイにーやん。いま、レイにーやん達に会ったばっかなんだよ?」

 踵を返しかけたロイが二人止められて、無言のままシェム達二人を値踏みするように見やる。一体何を思われたのだろう。表情が出ない彼の瞳に見られるのは、何故か緊張する。

「ダメだ」

「えー、何でよ」

「何で何でー、ロイにーやんのけちんぼ、ひとでなし、おにー、あくまー、かいしょーなしー」

「カルーの誕生日にご馳走を作ると約束したのは、アイリ自身だ。ゼンリも『とっておきな材料買ってきてやんよ!』と言っていた。鮮度が落ちる前に戻らなければ、〝とっておき〟ではなくなる」

 言葉の一刀で切り捨てられた二人がうっ、と詰まると、ロイは再び「帰ろう」と強く言う。

 その時、シェムは短い言葉の中に、確かな焦燥を感じた。似たような感覚を前にも感じたが、アレはどこだっただろう。

「あーもう、わかった。そんなわけでごめんね。明後日、うちに来た時にでもお喋りしましょうね。楽しみにしてるから」

「ちぇー。またねー、にいやんたち!」

 アイリとゼンリは、先に行ってしまったロイの後を追う。そしてロイに気を取られていたシェムは、片割れの様子がロイが現れてから微妙に変わっていた事に、気付かなかった。



 トクリ。

 銀月も闇の帳に隠れたある晩、(あか)い液体が喉に流れると、心の鼓動が強まった。

 この世の何よりも甘い味が、少年の内側を満たし、溶けていく。小瓶に満たされた緋色(ひいろ)は、一滴残らず飲み干された。今、力が必要なわけじゃない。近いうちに何かが起こる訳でもない。それでも、少年の源はこの緋色(ひいろ)なのだ。

「ねえ、それってさ、おいしいの?」

 彼の隣で頬杖(ほおづえ)を付いていたメイリーフが、興味深げに訊いてくる。しかし少年は返答に困った。〝おいしい〟の概念は学んだから知っている。だがこの(あか)い感覚は、飲み物に口付けた時とは異なる。味覚だけなら、誰の体に流れるそれと変わらないだろう。

「うーん、オイシイなら、ちょっと分けてもらおうかなーって思ったんだけどね」

「……メイリーフが飲んでも意味がないのに?」

「まあね。それに元々自分のだったやつを分けて貰うって、変な話だよねー」

 そう言って、メイリーフはガーゼで(おお)われた腕を捲り上げた。定期的に巻かれるそれは、もはやここの誰もが見慣れた物だ。少年がメイリーフを守るためだけに造られたように、彼女もまた、そうされるためだけに生み出された存在。

「ねぇ、また、昔みたいに直に飲んでみたりする?」

 そう提案したメイリーフの口調に、からかいの響きが混ざる。ここで生活するようになってから、想血(ポーション)を瓶に詰めてから摂取するようにした。それは養父の手により効果的に精製して貰った物だが、実は大差ない。理由は簡単。それまでのようにメイリーフの首筋から摂取したら、養父以外の家族が、目を丸くしたからだ。

「ぼくは今、飲み干したばかりだ」

「んー。そうなんだけどね。割と嫌いじゃなかったんだよ。アレ」

 すると滅多な事じゃ動じないはずの少年が眉根を寄せる――まさか痛覚に快楽を感じる特殊性癖でもあるのか。自分が守るべき存在が自傷を望むような事があってはならない。とても言いにくそうに黙るメイリーフに、もしやと。少年の思考内で警告灯が鳴り響く。

「だってさその、自分の命、分けてあげてるって感じがさ、直の方が実感するんだよね。それでキミは家族の中で唯一、ワタシと血が繋がってるし、そのね、嬉しかったり、するんだよ。そりゃ年齢的には弟だけど、製造方法的にキミはワタシの、子供、みたいなものだし」

 言葉が尻すぼみになりながら、何故か彼女は顔を赤らめた。ようやく人の〝感情〟を少しずつ理解してきた少年だが、まだまだ未知の領域は広い。

「一つ訊かせてくれ。痛みに快感を覚える事はあるか?」

「は、何ソレ? 痛いことなんて大嫌い。ほんとは注射だって嫌なんだよぉ」

 件の特殊性癖に関して本人の口から否定が聞けると、少年は安堵する。

「だから、優しくしてね」

 メイリーフが己が寝間着の襟元の釦を、上から順に外していく。窓辺の銀月に照らされて、白い肌が浮かび上がった。眼前に晒された体つきは、もう数年前のあの頃とは違う。平坦だった輪郭は丸みを帯びて、抱き寄せられると、頬にあの時よりも柔らかな感触と、暖かな体温が伝う。その瞬間にスイッチが切られたかのように、少年は力を抜いて体を預けた。

 喉は(うるお)っている。でも心臓の奧はまだ渇いている。少年は顔を上げると、月光を帯びて黒銀の(かんむり)を戴いたメイの顔が、息が掛かる距離にある。少年はゆっくりと、はだけた少女の胸元、膨らみかけた双丘から順に上へ視線を昇らせ、鎖骨の上に唇を近づける。

「ん……」

 メイリーフの口から声が漏れると犬歯が沈み込み、プツンと皮膚が裂けた。緋色(ひいろ)が滲んだ場所に舌を這わし、掬い取った液体を嚥下(えんか)する。精製された物と違い、まだ彼女の体温を持つそれの甘さは格別だ。そして何よりも心地がよい。このまま目を閉ざし、この体温にいつまでも包まれていたい。舌を這わす度にメイリーフが我慢(がまん)できない声を漏らし、少年の背中に回された両腕が、きつく絞められる。

「――あんた達、何やってるの?」

 メイリーフが飛び跳ねるようにロイから離れ、背後を見やる。するとそこには、目を半眼に据えたアイリが立ち尽くし、呆れたように片手を腰に当て、溜息を付いていた。

「ア、アイリ、いつの間に、何をしに――っていうか一体どこから見てたの!」

「ちょっと熱っぽくて喉が渇いたからで、えーっと……メイが『優しくしてね』とか言いながら上着の釦全部外してって、ところくらいから、かな」

「ならそこで声かけなさいよ!」

「かけれるか! あのねぇ、前にも言ったけど、こっちだってビックリするの! 女の子が肌を晒して、そこに男の子を埋めさせるだなんて、そりゃあたしの思考も止まるわよ!」

 顔を真っ赤にして狼狽するメイを見つめるアイリの表情には、今更ながら気まずさを感じて複雑な表情を浮かばせていた。暗くて本当はよく見えないはずなのだが、心なしか彼女の(ほお)も赤み掛かっているような気がする。

「全くもう、欲求不満も解らんではないけど、人目が無い所でやって!」

「バカ、そんなんじゃないっ! ちゃんとアナタには話したじゃない」

「知ってます! 実際の所はおいといて、見てるこっちは恥ずかしいんだから! とりあえず今日は勝手に続けてなさいよバカ!」

 水を飲みに来た事を忘れてしまったのか、(ある)いはもうどうでもよくなったのか、肩を強ばらせ、大股歩きに、アイリは皆が眠る寝室へ戻っていく。続けろ、とは言われたが、既にメイリーフにはその気は無いのか、はだけた釦を順に締めていく。

「全くもう、アイリってば本当に――」

 (ほお)を膨らませてそっぽを向こうとしたメイが、そこまで言いかけた時だった。

 ドサリと、鈍い音響く。二人がハッと振り返ると、ドアを開けた所で、アイリが床に伏し、投げ出された金髪が、零れた水のように広がる。

 アイリの中に流れる色が、消えかけていた。



 二日後。シェム達は再び、【水の魔法使い】の家にまでやってきた。ここにはレイの好物がたくさんいるので、シェムは実はあまり来たくなかったが、今朝のレイは妙に物静かで、いっそ気持ち悪いほど口数が少なかった。孤児院の扉をノックすると、背後に子供達を付き従えたアイリと、そしてリーダー格のゼンリが出迎えてくれる。

「いらっしゃい、二人とも――」

『レイにーちゃーん』

「あは、やぁゼンリ、ミゲル、ジェシカ、エド、マリー。元気そうで何より」

 アイリの言葉を途中で遮った子供らがレイに抱きつく。そして淀みなく名前を返した我が片割れは、まさか前回だけで全員の顔と名前を覚えたと言うのだろうか。アイリはそんな子供達の様子を見ながら苦笑し、「入って」と招き入れてくれた。案内の後、研究室の扉を潜ると、子供らもぞろぞろと入って来る。

 研究室は古い本と、何に使うのか解らない薬品の臭いに(おお)われていた。膨大な文字の羅列(られつ)が書き込まれた紙束の塔が、机上に築き上げられたその奧に、男はいた。

「やあ、ようこそ、レイ君に、シェム君だったかな?」

 熊を髣髴させる体躯。白髪が交じった壮年(そうねん)の男は、どちらかと言えば強面(こわもて)で、水の魔法使いという肩書きなんかよりも山賊か何かだと言われた方が納得する。随分と肉体派な錬金術士だと感心していると、ごちゃごちゃと散らかっていた小瓶にレイが躓いた。咄嗟にシェムが抱き留めたもの、小瓶の群れはガチャガチャとドミノ倒しに音を立て、零れた薬品が床に広がっていく。いきなりやってしまった。だがカーネルは慌てた様子もなく、ゆったりと立ち上がる。

「おや、怪我はないかね」

「大丈夫……その、ごめんなさい」

「なに、こちらこそすまない。もっと整理をしておくべきだった。カイン!」

 カーネルが誰かの名を呼ぶと、視界の外で変化が起きた。ガタリ。物音に振り返ると、隅に置かれていた(かめ)(ふた)開く。そしてぬるりと、それは這い出てきた。カーネルが二言、三言と知らない言葉を呟くと、瓶の外壁を伝って床に着地したそれ――黒みを帯びたゲル状の物体が、二人の足下に近寄り、広がる液体に(おお)い被さる。

「はは、流体人形(スライム)を見るのは初めてだろう」

 薬品の色に染まっていく水塊は次にレイが倒した小瓶の群れを吸収すると、器用にも自分の体内で薬品を詰め直していく。シェムもレイも、その鮮やかな手並みに思わず感嘆を漏らすと、誇らしげにカーネルが鼻を鳴らした。その様子は熊でも山賊でも無く、まるで宝物を自慢したがる子供のそれだ。

「液体を扱っているとよくひっくり返すからな。重宝しているよ」

 再びカーネルが何かを呟き、流体人形(スライム)の体が持ち上がると、人の形を取って握手を求めるように手を差し出してきた。だがその形はがすぐにぶれる。

「まあ、力はあるんだが、何分本体が液体なせいでね。同じ形状を長時間保てないのが欠点だ」

 残念そうに肩を竦めたカーネルが最後の呪文を呟き、役目を終えた流体人形(スライム)は定位置へ戻ると、律儀にも内側から蓋が閉められた。

「さて、やけに大仰(おおぎょう)に喋る人間がここを訪れなかった、だったかな?」

「そう。クロウって名前の機械化人(アドヴァンス)なんだけど。聞き覚えはない?」

「ふむ、確かに私の元へ訪れたのは機械化人(アドヴァンス)だったが、その名前には聞き覚えがない」

「その人は何の目的でここへ?」

 レイはまだ諦めていない。実は名前はあまり当てにしていなかった。そもそもクロウという名でさえ通り名で、重要なのは芝居がかった台詞回しを好む機械化人(アドヴァンス)が来た事実。

「薬の依頼だよ。ごく普通の、解熱剤さ」

 机の隅から取り出した小瓶を二人に見せる。見せられても薬の判断が付くわけでは無いが、錬金術士が薬品の依頼を受けるのは珍しい事じゃない。【水の魔法使い】の二つ名を持つカーネルが作る薬だ、遠くから求めに来ても不思議ではない。

「何で機械化人(アドヴァンス)が解熱剤を必要とするんだ?」

「それなんだが、実は彼女には生身の連れがいたらしくてな、どうも酷い風邪をこじらせたらしい。私を訪ねてきたというよりは、たまたまこの町で薬剤師のまねごとをできるのが、私だけだったんだ」

 どうやらカーネルを訪れた機械化人(アドヴァンス)は女性型のようだ。

 そうなると、ますます自分達の知る師の最後の姿に近づいてくる。

「ねえ、その人がどこに行ったか知らない?」

「残念だが、どこに行ったかまでは知らない――」

 身を乗り出して迫るレイに、カーネルは目を伏せながら答えた。やはり、今回もまたダメなのか。片割れが表情にそんなものを浮かべ諦めかけた、その時だった。

「だが、どこに来るかは知っている」

 レイがカーネルを凝視(ぎょうし)し、意味深な一言を放った本人は、その顔が見たかったと言わんばかりに、意地の悪い笑みを結んだ。

「先日、礼を言いたいと連絡をくれてね、近日中に彼らはここに来る。そういったわけで――」

「来るのはいつ!?」

 一週間後さ――そして会話を終え部屋を後にすると、外で待ちかまえていた子供らの襲撃を受けたレイは、連れ去られてしまった。前回訪れた時によっぽど懐かれたのだろう。逆にシェムには誰も寄りついて来ず。子供嫌いなシェムではあるが、人として片割れに負けた気がするのはショックだった。その後、夕方になるまで子供達の面倒を見て、宿へ戻る事にした。そして錬金術士の家を出て、森を迂回する道を歩き始めて暫く経った頃だった。

「待て」無機質な声に呼び止められ、振り返った十数メートル先で、腰の下まで届く外掛けを羽織った黒髪の少年が立っていた。「レイに、話がある」今日、ロイは常に部屋の隅か子供らの側にいながらずっと黙っていた。

「オレに聞かれちゃまずいコトでもあんの?」

 聞き返したシェムを、ロイは無視した。腹は立つが、シェムは最初からどのような返事でも、意味づけるつもりも無かった。 二人ではなく、レイに話があると言われた。警戒する理由はそれだけで充分だ。

「シェム、ここで待ってて」

 だがそんなシェムを先に制し、レイは黒髪の少年に歩み寄る。

 一体何なんだ。ロイが一言、二言、何事かを口にする。シェムの位置からでは内容が聞こえない。レイ自身も頷きも否定もしなかったので、端からは会話をしているようには見えなかった。それでも何かを告げ終えると、ロイは踵を返して錬金術士の家へ戻る。

「……なんだって?」

 戻ってきたレイに問うが、レイは、ただ「帰ろう」だけ呟いた。

 それから宿に帰るまで、二人の間に会話は無かった。



 横たわるアイリを囲む養父と子供達の横顔は、一様に沈んでいた。

 アイリの寝息は、そんな皆の様子を知らないみたいに穏やかだった。安らかすぎる眠り。そうした状態を保っていられる時間は、あとどれだけか。体はまだ生きている。だがその根本たる物が抜けた今、安定も長くは続くまい。

 魂が欠け、命の砂時計が刻一刻と崩れ始めた今、彼女は静かに滅びようとしていた。

 それが彼女を診た養父の診断だ。魂の欠損を現代の医学で治療する術は無い。それどころか、魂の概念を持たぬ普通の医者には、原因を突き止めることすらできなかっただろう。

 童話の中の姫君のように眠り続けるアイリの枕元で、メイリーフが彼女の手をそっと握り締めて自分の(ひたい)に当てる。まるで祈るような仕草は、人工の存在である自分達にはひどく滑稽な姿であり、意味無きことだった。自分達の創造主は神ではなく、人間なのだから。

 だがそれこそが、少年と少女における明確な違いだった。

 ヒトを真似て産み出された彼女と。ヒトに似せて造られた自分。

 意識が戻らない金髪の彼女は、自分にっても掛け替えの無い存在だと定義づけられているのに、それが周囲と同じ反応へ結びつかない。

「いつから、だったの?」

 背を向けたメイリーフが問う。何が、誰がと、わざわざ聞き返しはしない。

「だいぶ前から。少なくとも、二年前には既に」

「何で今まで言わなかったの!」

「言え、と言われなかったから」

 それ以外の理由は無かった。少年が見分けられる魂の色には個人差があり、それぞれの基準は勝手で、普段は気に留めることは無い。例え彼女の色がぶれ、違和感を持ったとしても、それが個人差なのだと言われたら、そこで終わってしまう程度のことだった。

「ホントに、あんたはワタシしか考えていない!」

「それが、ぼくが生かされる理由だ」

 その時、少年を見るメイの瞳が切り替わった。

「お前は……やっぱり、人形ななんだね」

 そう言ってメイリーフは笑う。初めて彼女と出会った日を思い出す。忘れもしない、あの時に彼女が浮かべた負の笑顔。もう二度と見たくないと思ったはずの、想いの色。

 少年は少女へ手を伸ばして何かを言いかけるが、言葉が出てこない。それ以前に何をしようとしたのかすらわからない。

「ヒトのまねごと」答えを告げるようにメイリーフが言う。「それすらも、お前にはできない」

 瞬間、目の前にいる彼女が彼の届かない所へ行ってしまった。そしてメイリーフは、自身の無力に打ち拉がれる養父に向き直ると、神にも等しい声で言う。

「お養父さん、ワタシを――ワタシの血を使って」

 表情を強ばらせた養父が、ハッと気づいたかのようにメイリーフを凝視(ぎょうし)する。少年の本能が警報を鳴らし、片腕を突き出したメイリーフを止めようとするがもう遅い。メイリーフは当てられたガーゼを()がし、まだ癒えきらぬそこを掲げる。

「ワタシの想いを、アイリの命と繋いで」

 彼女に流れる緋色(ひいろ)。世界中の誰よりも濃い(あか)が、アイリのために流された。

 ――そして、全てが狂い始めた。



 ロイに何かを告げられた夜。レイの様子のおかしさは、宿に戻ってからも続いた。

 夕食で同席したリーリアに、アイリ達の様子を尋ねられても曖昧な返事が多く、自分から振ってくる話題も明らかに少ない。何より今日はまだ一度もリーリアを口説いていない。

 こんな静かなレイを見るのは初めてだ。元気が無い様子はリーリアにも伝わったらしく、子供らに連れ回されて疲れているのだとシェムは説明した。そんな年寄りじゃ無いとレイは反論するが、それだけだ。軽口が無いだけで不安になる日が来るなんて、思ってもなかった。

 食後、部屋に戻ったシェムは備え付けの浴槽に湯を張り、入浴を勧めたが、レイは首を横に振った。重傷だ。冷めるのを待つのももったいなく、シェムは自分で入ることにした。

 体を軽く流してから湯船に身を浸けると、湯の熱さは氷の冷たさ似て、慣れてくると次第にむず痒くなってくる。熱湯を好むレイのために調節した温度は、シェムには少し熱すぎる。この全身を搔きむしりたくなる感覚に慣れるまで、身を縮ませて耐えるのだが、案外、シェムはこの過程が嫌いでは無い。それから肌がようやく落ち着いて、シェムは吐息を漏らした。

 全身に染み渡る湯船の感触。弾ける水の音が心地良い。この瞬間だけは、熱い湯に体を沈める文化を創った先人に敬意を表しても良いと思う。

「ふぁ、……疲れが取れる」

 独りごちて、いつか『ジジくさい』とレイに(しか)め面されたのを思い出した。こんな熱い風呂を好み、あまつさえ発言の後に『かぁー、やっぱり風呂はこうでなきゃ!』とか宣っていたレイの方がよっぽどジジくさいと思うのだが、反論したことは無い。めんどうだから。

 両手で掬った湯を顔に掛けると、痒さと爽快が同時にやってくる。ふと、その両手を見比べた。旅と訓練で傷だらけになった右手と、生まれたばかりの赤子のように綺麗な左手。肌色は左右で若干違う。そして左手は、動かす度に僅かな(きし)みを立てた。

「シェム」

 唐突に脱衣所から声を掛けられ、どうしたとシェムが返事をするよりも早く、扉が開いた。そして青銅(あおがね)の髪が顔を出すと、一糸纏(まと)わぬ片割れが立っている。

「れ、レイ!」

「やあ、たまには一緒に入ろうよ」

「……湯船が小さい!」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。キミがちっこいから、まだ二人で入れるって」

 会話している間にも、レイはさっさと体を流し、浴槽に入ってこようとしたので、シェムは入れ替わりで出ようとした。だが狭い浴室で片割れを避けて出られるはずも無く、むんずと捕まえられると湯船の中へ頭の先まで押し込まれ、熱湯が容赦なく口と鼻の中へ入ってきた。

「あぢぁあぷはっ!、アブねえ! あつぇえ! 何しやがる!」

「キミが逃げようとするからさ」

 向かい合うように体を沈めたレイが、気持ちよさげな吐息を付く。先程の自分と全く同じ反応にシェムが顔を(しか)めていると、レイの視線がシェムの下へ向けられる。

「それにしても相変わらず、シェムのはちっちゃいなー」

「何がだ!」

「ちゃんと答えようか? それとも身長がって答えておこうか?」

「もう良い、何も言うな……ひゃっ、触るな!」

「おお、まだふにふにとーー」

「握るな、揉むなああ! ……ふぁっ やめんかい!」

「良いじゃん別に、減るもんじゃないし。あ、ならキミも、ボクのを触ればおあいこさ」

「誰が触るか!」

 悪ふざけが過ぎるレイから視線を外す。やはり、今日のレイはおかしかった。

 昔ならいざ知らず、一緒に入浴するなんて、ここ数年は無かった。

「……どうしたんだよ」

「なに、お兄ちゃんの背中でも流してあげようとね。兄孝行ってやつ?」

「そうじゃなくてだな! ……わぷっ!」

 何があったと聞いている。そう言葉を繋げようとした所で、レイが水面で組み合わせた両手から絞り出された水流が、シェムの顔面を襲う。頭を振りながら顔を拭うと、ケラケラとした笑い声が耳に響く。

「なにしやがる! ……ったく、お前はいつまでたっても子供だな!」

 その言葉に、特に意味を込めたつもりはなかった

「いつまでも、子供じゃいられないんだ」

 シェムは水面に落とされた声が、瞬間、誰のものだか解らなかった。

 湯船の熱湯が、唐突に氷塊に変わったような錯覚に陥り、静まり返る。それから我に返ると、黙り込むレイに振り返る。意図的に背けていたレイの体が視界に入った。

「どうしたんだよって、だから本当に、シェムの背中を流しに来てあげたんだよ。ボクにも人肌が恋しい時があっても、良いだろ? ……それに、この体見せられるの、シェムだけだしね」

 そう言って、レイは鎖骨から胸を通って反対側の腰まで走った、巨大な裂傷を指先でなぞる。それに合わせて垂直に縫われた何十本もの縫合痕。レイの華奢な体にはあまりにも似合わない勲章。シェムが唇を噛み締めて再び視線を逸らすと、レイはその意味に気付いて笑う。

「ねえ、シェム……ボク、バレた、かも」

「どういう、意味だ?」

〝誰に〟〝何が〟が抜かれた言葉を、シェムは正確に理解していた。それでも聞き返してしまうのは、それを聞きたくなかったから。そんなシェムをレイも理解している。だからこれ以上の説明なんてしない。代わりにレイは胸を押さえた。白い肌に刻まれた裂傷(れっしょう)のその下を。

「やっぱり、もう、限界なのかもね」

「あ?」

「ねぇシェム、最近さ、少し考えている事があるんだけど――」

「ロイに、なんて言われたんだ!」

 シェムが言葉を遮ると、開きかけたレイの唇は固く結びつけられた。そして湯船の中で立ち上がり、細い肢体の全てが、シェムの目に曝される。

「そうだ、ごめんよ兄じゃ。自分の洗濯物干すの、すっかり忘れてた。だから先に上がるよ」

「おい待て、本当に教えろよ!」

 確かに聞こえただろう声は、波だつ湯船の音にかき消されたみたいに届かなかった。浴場から出て行く片割れの後ろ姿を呆然と見送り、シェムは閉ざされた浴槽に残された。



『――お前に、教えておかなければならない事がある』

 澄み切った青空。燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽の抱擁(ほうよう)。春に包まれた風の吐息。

 散歩の途中、小川に架かる橋が見えた所でそう切り出した父を見上げると、顎髭(あごひげ)を生やした高い位置にある顔は、どこか口ごもるようにしながら、自分を見下ろした。自分に母はいない。だからいつも見上げた先にあったのは、父の顔だった。

『なぁに、お父さん?』

『……もしも、だ』

 父の視線が遠くを向くと、自分よりも大きな我が家の愛犬に引っ張られるまま四苦八苦する片割れの姿があった。背丈は片割れよりも自分の方が高い。でも心でいうなら、いつだって彼の方が大きく、強かった。そんな頼りなくも世界で一番安心できる片割れを見つめる父の横顔が、不意に(かげ)った。

『うん、もしも、何?』

 父がなかなかその先を言おうとしないので(うなが)す。視線の先では、相も変わらず片割れが愛犬に引かれている。自分ならば、あんな事にはならないのに。

 そして父の重い唇が、ようやく開かれた。

『もしも、シェムが――』

 懐かしい記憶を映し出す黒の世界は、そこで唐突に終わった。あの時から一転して、視界に映るのは、もう何年も前から横たわるかのような静寂と暗闇だった。

 夜も深まり、日付が変更される頃。簡素な寝台の上に蹲る二つの丘の片方が、漆黒の中でもぞりと動く。暖められていた空気が逃げるのも構わず上体を起こすと、暗幕(あんまく)を引き忘れられた窓枠の外を見据(みす)える。今宵は銀月さえも(あい)(さえぎ)られ、世界から熱を喰らった闇は、外の風さえも凍らせて、屋内にいても吐息を白く曇らせた。

 しっかりと開かれた目蓋(まぶた)。外を凝視(ぎょうし)する目に眠気は無い。照明を落とされてからもずっと起きていたのだ。口を閉ざせば思考が募り、いくら(まなこ)を閉じようとも頭は逆に冴え渡る。与えられた情報を元にいくら考えようとも、同じ結論にしか辿り着かなかった。

『日付が変わる頃、森へ来い』

 別れ際に黒髪の少年に囁かれた言葉が、耳から離れない。それは自分と片割れを繋ぐ話。導き出された結論を確証付ける物は、既に揃っている。だけどまだだ。まだに違いない。そう信じたい何かが、ひたすらに胸の内を穿(うが)ち続ける。

 急に冷え込んだ寝床で体を縮めたシェムを、静かに見下ろす。彼は憶えているだろうか。それとも忘れているのだろうか。レイは自身の胸に手を当てて、服の下の裂傷(れっしょう)をなぞる。

 自分は決して忘れない。この胸を切り裂いた無骨な五指と、憎悪(ぞうお)に塗れた緋色(ひいろ)の光を。

 レイはそっと、シェムの左手に触れた。いつだって彼が伸ばしてくれるのは右手だ。今も反対側に向けられた左手は人肌以上に硬く、何よりも冷たかった。

 レイはその腕に人差し指を這わすと、肘から手の先までを何度も撫でる。

「……ごめんね」

 それから黙って寝台から降りると、物音を立てないように身支度を整え、外套(コート)を羽織る。壁際に立てかけられた弩弓(クロスボウ)と護身用具だけを静かに身につけた。そして最後に自分のトレードマークたる幅広の鍔付き帽子を手に取りかけて、やめた。

 帽子を夜に被る意味は無い。何よりも、被りたくないと思った。伸ばしかけた手を引いて、代わりに両目に手を当てる。ポロリと、双眸(そうぼう)を彩っていた翡翠色の瞳孔が落ちた。硝子を細工したそれの下に現れた、(あか)い瞳。

 部屋を出て行くと、静寂だからこそ響く音を立てて扉は閉まる。

 そして寝台に残されたシェムは――ゆっくりと、目を開いた。  



 銀針が、二の腕の皮膚を破った。管に通った緋色は機械で濾過され、その先に繋がった金髪の少女へ注がれていく。命の輸血を定期的に初めてから一ヶ月が経った。アイリに想命機関を埋め込み、想守者の想血を用いて欠けた魂を補おうというのだ。

 アイリの手を握る姉の横顔は、輸血のせいか蒼白く、いくらか痩せた。彼女の想命機関(エーテル・エンジン)を造るため、メイリーフは、その核となる肋骨(ろっこつ)を摘出されたばかりだ。本当ならまだ安静にしなければならないし、ここには前の施設にあったような設備が無い。それもまた、姉に過剰な命の供給を強いる。

「メイ、輸血が頻繁過ぎる。施設でもこれほどの流出は……」

「平気よ、このくらい」

 これでもアイリの魂を繋ぎ止めるにはギリギリなのだと、想血(ポーション)を介して彼女と繋がっている姉は言う。すると唐突に、口の中で笑った。

「……この貸しは、ちゃんと返して貰わないとね。ふふふ、楽しみだなぁ」

 今にも泣きそうになりながら、親友を握った手が震える。少年は彼女たちを見下ろした。想血(ポーション)に混じって流れ出したメイリーフの色が、アイリの色を包み込む。だが果汁に浮かべた氷が徐々に溶け出すように、姉の色は段々と弱まっていた。その事実を告げても、メイリーフはそれを含めて『平気』と返す――この時、少年は何が〝兵器〟なのか、理解していなかった。

「お前は、今まで何してたの?」

「……花冠(はなかんむり)を、作っていた」

「また今日もなの? こんな時くらい、アイリの隣にいてられないの!?」

 言葉をまくし立てるように叩きつけた後、ハッと我に返ったようにメイは口を(つぐ)む。そして少年から目を逸らすように、俯く。

「やっぱ人形のアンタに、そんなこと期待しちゃだめか」

 狂いだした歯車は回り続ける。噛み合う全てを巻き込みながら。

 少年の世界が壊れ、失われるその日は、もうすぐだった。




 闇が体と心を喰らおうとすると、冷気と一緒に鼻梁(びりょう)を過ぎる深緑の匂いは痛みとなり、足裏に踏みしめた草の葉と木の根、大地の固くも柔らかな感触だけが五感に触れた。

 木々の奧から聞こえる鳴き声は捕食者達の凱歌(がいか)か、(ある)いは弱肉強食に敗れた(にえ)の悲鳴か。

 ここまで歩いてきた体はそれなりに温まっているというのに、体の震えが止まらないのは寒さだけが理由じゃない。もうこの前とは違う。独りという認識が心を削り取っていく。

 普段なら、繋いだ片割れの体温がこの寒さと寂しさから護ってくれた。あまりにも二人でいた時間が長すぎた。二人であることが当たり前すぎて気付かなかった。

 独りとは、こんなにも寒かったのだ。

 歩き続けると、天井の木々がはだけた。宿を出た時には隠れていた月の銀光が、スポットライトのように降り注ぐ。レイの視線がその中央の影に向けられた。暗灰色(あんかいしょく)の天球を背後に、彼はいた。深淵(しんえん)に混じる漆黒の髪。腰下まで伸びた外套だけを防寒具として羽織る姿は、昼間見た時と変わらない。いつから待っていたかは知らないが、極寒の中で一寸も微動だしない姿は、この世の住人に見えなかった。

 気がつけば、レイの足は止まっている――大胆不敵。それらこそが自分たる性分のはずなのに、独りぼっちになった途端(とたん)がこれだ。自嘲気味に口の()を吊り上げ、必要以上の力をいれて地面を蹴ると、反動が膝に響く。闇その物に見える黒髪の彼が、視線を上げた。

「悪いね、こんな寒空の下に立たせちゃって」

「別に、苦ではない」

「へぇ、どうして?」

「君を愛しているから」

 初対面の日にも、ここで言われた言葉。普段のレイが使うように、誰が聞いても心に響かない『好き』の連呼は容易い。彼が囁く『愛してる』は、単調な抑揚なせいか、その『好き』に似ていた。だが確実に違う。

「デートの指定にしては、随分と気が利き過ぎた時刻だ。そんなんで女の子は口説けないよ?」

「だが君はここにきた――愛しの姫君よ、ぼくは君が欲しいのだ」

 それがレイの『好き』とロイ『愛してる』の違う所。どんなに彼の言葉が単調で抑揚無く聞こえても、レイの心は動いてしまったのだ。唇が渇き、気がつけば拳を握り込んでいる。

「……ボクが女だって、いつ気付いた?」

「生命力の都合、想守者(ヘリオトロープ)は第二世代から女性型しか存在しない」

想守者(ヘリオトロープ)って、なんだよソレ。聞いたこともない」

「その(あか)い瞳を持った、君のことだ」

 己の双眸(そうぼう)も彩るはずの瞳を、レイと自分で区別した。

「想いは、力だ」彼は唐突に語り出す。「血潮に宿る想命の力は、想いを具現化する。想守者(ヘリオトロープ)は高濃度の想命を蓄積するために設計された存在。緋色(ひいろ)の瞳を持つ君は、貯蔵庫としての役目を与えられて生み出された」

「ボクは、そんな戯言(ざれごと)を聞くために、こんなクソ寒い真夜中に呼び出されたのか? ボクが女だって知ってたくせに、はっ、随分な紳士ぶりじゃないか」

「戯言じゃ無い――君は本当に、そういう兵器だ」

 悪態の続きを吐こうとしたレイの唇が止まる。常の状態で聞けば、そんな話は笑い飛ばしただろう。こんな極寒の世界に呼び出されて聞かされたのは、子供の空想だったと、すぐにでも踵を返して睡眠時間を無駄にしたと後悔できた。

 しかしロイが使った〝兵器〟という言葉。声を張り上げる理性を廃して、レイは自分の目で見た記憶を遡る。一日たりとも忘れた事は無い、土煙に舞ったシェムの左腕と血袋と化した死体の山――そして自分を見下ろした(あか)い光と、この胸を引き裂いた青銅(あおがね)の五指。

「なら、ならどうしてボクの想いは叶わない、何故伝わらない? ボクに宿るらしい、〝想う力〟とやらは、尋常じゃないんだろ?」

想守者(ヘリオトロープ)はあくまで想血(ポーション)の蓄積機として生み出された人間だ。想命(エーテル)の行使は、ヒトの精神じゃ持たない」

「はっ、意味が無い。あっても使えないなんて、宝の持ち腐れも良いところだ」

「そのためのシステムとして造られたのが〝ぼくら〟だ。ぼくらの想像主は想守者(ヘリオトロープ)と同時に、想いを行使するための想命機関(エーテル・エンジン)も作った。つまり――」

 ここに来てはいけなかったと、本能が告げた。そして止める間も無く、ロイは自らの胸に手を当てる。そこまで続けられそのシステムが何か、いや誰なのかを、考えつかない訳がない。

「とどのつまりは、君の片割れであり、このぼくだ。想守者(ヘリオトロープ)を護るために、想守者(ヘリオトロープ)に似せて造られた護衛人形(シェム・ゴーレム)。それがぼくらだ」

「戯れ言だ、そんなの」

 胸に刻まれた裂傷(れっしょう)が疼く。自分が人じゃないかもと思った時にさえ動じなかったレイが、初めて声を震わせた。言葉に出したほど、心の中でそう思えていない。ロイもまた何も答えない。ただ安息を見つけたかのような穏やかな瞳で、愛しの姫君を見やる。

 だがその視線が動き、レイの後方に広がる闇へ向けられた。

「ぼくが呼んだのは、レイだけだ。名無しの護衛者(シェム)、お前は呼んでいない」

 つられて振り返った先に、抜刀済みの狗剣(ライカ)を携えたシェムが立っていた。

 シェムが起きていた事には気付いていた。恐らく尾けてくる事にも。本人は隠しているつもりだが、そもそもシェムが深く寝付いた事など一度もない。その事実がまた一歩、ロイの言葉を肯定へ繋げる。 

「名無しの護衛者(シェム)? なんだそりゃ。それより、こんな夜中に人の妹を呼び出すなんて、なんのつもりだ? 返答によっちゃ、ただじゃおかねぇ」

 煮えたぎった声は、勝手に抜け出した自分へか、それとも呼び出したロイへ向けられたものか。恐らくは両方。何故ならばシェムは常に自分の危険について考え、護ろうとする。それは執拗なほど均一な行動。この瞬間、レイは片割れを見る目が変わってしまった。世界で最も信頼していた存在へ抱いた疑念に、無意識はまだ気付かない。

「ようやく見つけたぞタコスケ。ほら、さあ帰るぞ」

 声を掛けられ我に返る。シェムが狗剣(ライカ)を持たない右手を差し伸べるが、レイはその手を躊躇(ためら)った。そして返事の前に、漆黒の声が(わら)った。

「それは認められない」

「なんだと?」

「ぼくは、強引なんだ」

 刹那、眼窩(がんか)を剥いたシェムが両腕で狗剣(ライカ)(かざ)すと、突然現れた漆黒の巨剣と噛み合う。シェムが歯を食いしばり、表情を変えないロイと剣身越しに視線を交わすと、雄叫び上げ巨剣を押し返す。そして跳躍。距離を取り直してからロイを見やり、唖然と口を開いた。

「……ようやく、よくやく、見つけ出したんだ。ぼくが『愛してる』人を」

 羽織った外套の中には決して収まるはずが無い巨剣。それは数日前、レイを追いつめた仮面の者達を切断した漆黒の刃だった。だが何よりも異様なのは、その大きさじゃない。

「……何なんだよ、お前」

 そう漏らしたシェムが見つめる先、漆黒の巨剣はロイの右肘の先から生えていた。手元に引き戻された巨剣が水平に持ち上げられると、空気が唸る。その鈍そうな見かけに反し、巨剣は(つばめ)のように速く、一振り一振りに、大地を割る力が込められる。それを受けるシェムの膂力(りょりょく)も半端じゃ無いが、漆黒の刃に狗剣(ライカ)は押され気味で、ついにその軌跡(きせき)の一つが、防御線(ぼうぎょせん)を越える。

 シェムは咄嗟に柄から左手を離すと、巨剣の前に滑り込ませる。観衆がいれば、鮮血(せんけつ)(ほとばし)らせるシェムの姿を幻視した瞬間、鈍色の音を響かせて巨剣が止まった。

「だっしゃああああ!」

 停滞した一瞬をシェムは見逃さない。狗剣(ライカ)で巨剣を(さえぎ)ると、渾身を込めた靴先が、ロイの脇腹を蹴り上げた。そして追撃はせず、茫然とするレイの元へ駆け寄り、その手を掴んだ。

「逃げるぞ!」

 返事は待たなかった。レイの腕を引っ張ると、走り出した。



『もしもシェムが辛くなったその時は、お前の血に流れる猛毒が、彼を破壊してくれるだろう』

 そこにいた父は苦悩に満ちていた。何でそんな悲しそうなの。でもそれを聞くのが恐くて、何だか聞いてはいけない気がした。

『モウドク? ハカイ? それって、どういう意味? おいしいもの?』

『全てを終わらせる。もう、何もかもが辛くても、苦しまなくて、よくできるんだ』

 戯けたフリは、簡単に見破られてしまう。だから自分も笑えなくなって、

『シェムが、苦しいの?』

『二人とも、だ』

 それは、絶対に覆せない、何か恐ろしいことを告げられた気がした。

『でもねお父さん、大丈夫だよ。だって、シェムが辛くなったら、あたしが側にいてあげるもん。それにあたしが辛くなったら、シェムがずーっと横にいてくれるもん』

 得体の知れない父の言葉が恐かった。だけど自分にはシェムがいる。どんなに苦しくなろうとも、シェムと一緒なら大丈夫。シェムはいつだって側にいてくれる。自分もいつだってシェムの隣にいる。大好きな双子の兄。狂おしいほどに愛おしい、あたしの片割れ。

『おーい、遅いぞ二人とも!』

 ようやく愛犬のライカを制したらしい片割れが、橋の上から自分達を呼んだ。

 父を見上げると、普段通りの穏やかな目が兄を見ていた。

『ああ、そうだな。そうだ。シェムはいつだって、お前を護ってくれるだろう』

『うん、こないだもね――』

『だけどな、レイラ』

『うにゃ?』

 父が自分を愛称でなく名前で呼ぶ時は、大抵が怒られる時だったせいか、思わず身構える。 しかし今にも泣き出しそうな顔をしていたのは自分では無く、父の方だった気がした。

『もしも辛くなったら、苦しくなったら。狂ってしまったら……そんな方法もある。それだけは、頭のどこかに置いておきなさい』

 それは父が殺される半年ほど前の記憶。

 その言葉を、レイはいつまでも憶えていた――そう、今この瞬間までも。



 あれは、やばいものだと、片割れの手を引きながらシェムは思った。腕が剣になる人間なんていないし、何よりも剣を交えて、実力の差を理解してしまった。とにかく町へ逃げるしか無い。あんな化け物を連れ込んだ所で、どうなるかは知らないが。

「シェム!」

 繋がれた手が急に振り解かれ、慌てて振り返ると、荒い呼吸に心臓の悲鳴が混じる。

 レイは立ち止まっていた。そしてシェムを凝視(ぎょうし)する。

「バレてた」

 何がとは聞かなかった。そして今、シェムの目の前に立っているのはレイでは無かった。

 そこにいたのは弟では無く、数年越しに見る妹――レイラだった。

「ボクはもう、疲れちゃった。ねぇシェム、あたし、レイラに戻りたいよ」

「そんなこと言っている場合じゃねえだろ、とにかく逃げ――」

 繋ごうと伸ばしたシェムの右手が、レイの両手に捕まえられて、胸に押しつけられる。

 外套(コート)越しでも分かる柔らかな感触。シェムは離そうするも、レイは両手の力を緩めるどころか、逆にもっと強く押しつけて、膨らんで来た存在を強調する。

「何のまね――」

「もう辛いんだよ! 膨らんできちゃったこれ隠すの。月の痛みだってとっくに始まっちゃってるし、レイがレイラを隠すのは、もう、限界なんだよ!」

「〝レイラ〟がどんな目に遭ったか憶えているだろ!」

「ああ憶えてるさ! 忘れるわけない。人買いにキミと一緒に捕まって、無理矢理(むりやり)(また)を広げられて、悔しくて辛くて、苦しくて悲しくて、死んだ方がマシに思えた時もあった!」

「ならどうして? オレがお前を護るにも限界がある。〝レイ〟はお前自身を守るための――」

「ボクはシェムに護られるために生きてるんじゃない!」

 追われていることも忘れて荒げられたレイの声に、シェムの背筋が跳ね上がる。

「……レイ?」

「いつだってそうだ。キミはボクを護ることしか考えていない。どうして?」

 唐突に尋ねられた声は〝レイ〟のものでも〝レイラ〟の元の声音でもない。いや違う。シェムにとってレイラはもう過去の存在で、レイを演じる今のレイラを知らないだけだ。

「そんなの、わかんねえよ。考えたこともない」

「それ、おかしいよね」

 口調に苛立ちが混ざる。おかしい、何が?

「ならキミは、理由もなくボクを――あたしを護ろうとするの? それって、おかしくない?」

「どうしたんだ。やつに、何を、吹き込まれた?」

「ねぇ、おかしいよね? おかしいよ。てめぇ、おかしいんだよ!」

「待て」

 シェムの冷静な部分が周囲に潜む存在に気付き、結果として思考を切り替えたシェムは感覚を取り戻す。今度こそレイの手を振り解いて狗剣(ライカ)の硬い柄を握ると、耳を澄ませた。

「仲間が、いやがったか」

 数は三人。言い争っていたせいで気付くのが遅れた。後ろには、ロイという名の化け物が近づいて来ている。選択肢は無かった。

「お前の話は、戻ってからいくらでも聞いてやる。だからまずは、ここを突破する」

 返事は無い。狗剣(ライカ)を握る手に力が込められた直後、夜陰を裂いて飛来する黒い短刀を弾き、茂みから、仮面を被った小柄な人影が飛び出した。軌跡(きせき)が見えない黒刃を直感だけで防ぐと、狗剣(ライカ)の柄頭をこめかみ目がけて打ち抜き、型通りの一撃が仮面砕くと、剥離した面の下から、虚ろな瞳と、長い亜麻色の一房が晒し出された。

 ほぼ同年代の女の子。だが様子がおかしい。少女は痛みを感じない者のように怯まず突っ込んでくると、シェムに抱きつき、動きを封じる。彼女の背後から二人目が迫ってくる。

 シェムは()えた。張り上げられた雄叫びは森を揺るがし、自他共に認める剛力が強引に黒衣の少女を()がすと、その鳩尾にもう一度、狗剣(ライカ)長柄(ながえ)を叩き込む。直後、真一文字に振り抜かれた二人目の長剣に合わせて身を仰け反らせると、喉に血の線が滲んだ。三人目の凶刃を左手で掴むとへし折り、シェムは狗剣(ライカ)の切っ先を――確実に命を奪う刃を――深々と、三人目の心臓の位置へ突き刺した。()らねば()られる。ゴボリと、仮面の中で血塊が溢れる音がする。だがシェムが沈んだ肉の感触に違和感を憶えると同時に、絶命したはずの三人目が振り上げた拳が、シェムの(ほお)を強打した。木の(みき)へ叩きつけられ、口に血の味が広がる。手に狗剣(ライカ)が無い。三人目が自身に沈んだままのそれを引き抜くと、無くした得物の代わりに構える。

「……何なんだよ、お前らは!」

 立ち上がって右から来る少女の一撃を左手で受けると、無理な力に左腕が(きし)み、肩に激痛が走る。だが無視して少女の手首を掴み、突進してくる二人目の肩を目がけて、彼女が握る短刀を突き立てた。しかし勢いまでは殺せず、長剣がシェムの右肩を抉る。そして狗剣(ライカ)を携えた三人目が背後に現れる。シェムは二人目の襟を両手で掴んで後方へ投げ飛ばすと、今まさに()ぎ払われた狗剣(ライカ)が味方の体に沈み込んだ。そして剣の軌道がずれると、シェムは地面を蹴り、仲間の肉に食い込んだ狗剣(ライカ)を引き抜こうとする三人目の喉へ左腕を(かざ)す。

「おぉぉぉおおぉおぉお!」

 ガシャリと、腕の側面から伸びた曲刀が深々と敵の喉を貫通する。刃先を(ひね)って引き抜くと、体液が噴き出した。自重に耐えきれずもげた首と一緒に、粘性を持った黒い液体が落ちる。シェムは狗剣(ライカ)を奪い返すと、弧を描いた重い剣先が、復帰しかけていた二人目の首を切り落とす。

 少女へ振り返った時、そこで黒い巨剣が夜を裂いた。突き出されたシェムの曲刀がそれを受け、力が拮抗したのは一瞬。押し切られたと同時に巨剣の間合いから離脱。

 外掛けの裾を翻し、黒い巨剣が胸の前に構えられる。するとロイの瞳がシェムの左腕、皮膚の裂け目に覗く、鈍色の光沢を見た。

「刃の付いた義手か。道理で手応えが違う」

「元の腕は鳥になっちまってね、そのまま逃げられたんだ」

 言いながら、シェムは内心で舌打ちする。度重ねた無茶のせいか、伸縮する人工筋肉の様子がおかしい。右肩からも出血が続く。だが骨も腱も健在、体力も余裕がある。今ここでへばる理由がどこにもないと確認すると、シェムは狗剣(ライカ)の柄を強く握り締めて、呼吸を整える。

「いつまでその剣と腕を使っているつもりだ?」

「ああ?」

「やはり使わないのではなく、使えないのか」

 瞬きする間に距離を詰められ、噛み合わされた巨剣と狗剣(ライカ)が火花を散らす。次ぎに回り込んで繰り出されたロイの(よこ)()ぎの蹴りが、狗剣(ライカ)長柄(ながえ)が弾く。

 シェムが旋回させた狗剣(ライカ)を追って巨剣が反転。交わったそこから打ち込んだ石突を、外套(コート)の下から跳ね上がった足裏が止め、振り抜かれた巨剣をシェムは仰け反って避けると、そのまま地に手をついて後転。携えた狗剣(ライカ)を水平に構えて突進。全体重を載せた一撃をロイは剣の腹で受け流す。だがこれは囮。すかさず曲刀を突きつけると、義手の腕の部分をロイに掴まれて刃が止まる。しかしそれすらも囮だ。狗剣(ライカ)から離された右手が瞬時に打拳を作り、肘を曲げて放たれた本命の一撃がロイの側頭部を襲う。だがロイは、それすらも読んでいたと、半歩下がって拳打を避け、代わりに引き戻された巨剣ががシェムの頭上を掠め、青銅(あおがね)が数本、風に流れた。

 シェムは狗剣(ライカ)を構え直し、再び間合いを開けながら舌を打つ。強い。異形の姿に目を奪われていたが、ロイの強さは決してその異常性だけじゃ無い。攻と防の切り替えが極端に素早く、とても理に適った戦い方をするのだ。

「化け物めっ、ったく、世界は広すぎるぜ! お前みたいなやつがいるなんてな!」

「そうだ、世界はぼくらの存在を受け入れはしない。ぼくもお前も、この世界にとっては敵なんだ。だからお前たちの飼育員は、お前たちに何も告げなかったのだろう」

 ロイの体が沈み、疾風と化した巨剣と狗剣(ライカ)が交わった。柄を握る生身の腕と、機械の腕を構成する人工筋肉が(きし)む。

「……オレもお前と同じ、化け物だと?」

「その常人離れの反射速度。ぼくの一撃を受け止める膂力(りょりょく)。お前のその力は、明らかにヒトの枠から越えている」

「へ、だったら、オレをしごきあげた師匠のせいだろう、よ!」

 狗剣(ライカ)を全力で跳ね上げると巨剣が仰け反り、すかさず一閃。剣先がロイの外套を切り裂いた。

「ヒトの枠から越えている。そんなのがどうしたってんだ」

 片腕が機械とはいえ、長柄(ながえ)の剣を軽々と扱う腕力。そしてこの眠れぬ体。シェムにとって全ての記憶は連続している。果たしてそれは通常の人間に起こる事なのか。だが重要なのは、レイを護ると誓った自分にそれだけの力があるかだ。自分が何だろうと関係はない。人外の方が好都合なら、むしろそうありたい。

「お前が何を言おうと、オレが何であろうと、関係ない。オレはただ、レイを護るだけだ。例えオレの正体が、世界を敵に回した化け物だろうとな!」

 周囲の冷気と反比例して体の奥底が熱くなる。揺るぎないシェムの想いと決意が、狗剣(ライカ)を握る両腕に力を漲らせ、構えを振り上げる。

「そんなの駄目だよ、シェム」

 ドスリと、放たれた痛みは、体の芯を直接穿った――え?

「やっぱりキミは何も分かっていない。世界を敵に回して、ボクらはどう生きられるの?」

 貫かれた背中から広がっていく感覚は、単なる痛みとは違う。喉の奥から圧迫感が込み上がり、口から血塊が溢れ出ると、痛みは劫火(ごうか)と化してシェムの体を灼き始めた。耐えきれずに足がもつれ、重心を崩しながら振り返ると、視線の先で弩弓(クロスボウ)が自分を照準(しょうじゅん)している。

 それを握る片割れのは(あか)い瞳は、人形のように、表情を映さない。

「れい、ら?」

「ロイ、キミの言っていた意味が分かったよ。もう、兄妹ごっこはここでお終いにする」

 (あか)に塗れた短刀が地面に突き刺さり、細い手首から流れた血が、矢に垂らされた。短い弦鳴りの直後、その鏃はシェムの右肩を貫き、体内に侵入したレイの血が、内側から身を灼く。

「もう、疲れた。男の恰好するのも、女でいられないことにも」

 どうして、とは最後まで聞けなかった。喉の奥底から沸き出る血塊が口を塞ぐから。視界が(ゆが)み、細胞単位で削られる痛みに意識を奪われながら、レイを見上げると、つがえられ矢に、血が垂らされる。

「シェム、ボクはもう、いや、あたしはもう、レイラに戻ることにする。だから――」

 (やじり)の先がシェムの(ひたい)へ向けられ、レイの唇が何かを形作る。だが声が小さかったのか、シェムの聴覚が死んでいたのか、何を言ったのたか、分からない。今にも泣き出しそうな、そんな片割れの顔を最後に映し、シェムの意識はそこで焼き切れた。

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