表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第一章:兄の憂鬱

 第一章【兄の憂鬱】



「キミが、ワタシのナイトくん、かな?」

 その声は、水面(みなも)に落とされた(しずく)のように、少年の耳に染み込んだ。それが引鉄となり、少年の五感を呼び覚ます。目に入る色彩。耳に染み込む世界の音色(ねいろ)鼻梁(びりょう)を過ぎる草の匂い。肌を抱む太陽の温もり。そして、舌の上を(すべ)る液体の甘み。自分を取り囲む〝世界〟を認識した瞬間、不明瞭(ふめいりょう)だった自分と、その他の境界が明確に分かれ、それまで何事にも興味を示さなかった少年が、初めて他を意識した。それは紛れもなく、本当の意味で、少年がこの世に生を受けた、瞬間だっった。

 大樹の木陰に座る少年が、声の主を見上げると、黒絹の髪が視界を(おお)った。

 いつから、そこにいたのだろう、風に吹かれた長い髪を掻き上げるのは、自分よりもいくらか年上に見える少女だ。少年を覗き込む瞳の色は、たった今、中身を飲み干したグラスの底に残った緋色(ひいろ)(しずく)の色に、よく似ていた。

「初めまして。キミに会えて、嬉しいよ」

「あなたは?」

「キミのお姉さん、かな?」

 少女は、いつからそこにいたのだろう。問うと、そうとだけ返された。

「ぼくの、お姉さん(オリジナル)?」

 少女は笑う。それが肯定の笑みなのか、はぐらかす笑みなのかは、判断付かない。

 だから少年は彼女に流れる色を見て判断した。少年に流れるのソレ、飲み下したソレと一致(いっち)する彼女の色。白壁に囲まれた庭園(ていえん)に吹き込む微風(そよかぜ)が、彼女が着る白いワンピースの(すそ)をはためかせ、流れる髪を()き上げる。(ひざまづ)いた彼女の指先が、少年の(ほお)をそっと触れた。

「ねえ、抱き締めても良い?」

「どうして?」

「そう、したいから」

 彼女に流れる血潮の温度が少年を(おお)い、傾いた互いの体が草むらへ倒れ込む。永遠とも思える静寂。見えない場所に打ち込まれた(くさび)に、緋色(ひいろ)を写した少女の口唇が揺れる。

 ワタシを、抱き締めて。

 少年の耳元で、今にも泣き出しそうな、甘い声が囁かれた。どこからか零れ落ちた、柔らかな(しずく)の感触を(ほお)に受け、抱き締められながら少年は思う。何て心地がよく、なんて苦しいのだろう。少年はゆっくりと彼女の背へ両手を回す。すると鈴の音を転がすように、少女の唇から空気が漏れる。

「えへへ、キミは抱き締め方が、へたっぴなんだね。少し苦しいや」

 そう言って彼女は笑った。だが何だろう、この感覚は。このざわつくような気持ちは。

 少年は彼女の、そのざわつく笑顔を、もう二度と見たくないと思った。そして背中に回した手を離そうとしたその時、

「でもね、だけどね、あと少し、もう少しだけ、このままでいさせて――苦しくなくなるから」

 こうして彼は彼女と出会った。少年は少女を絶対に失ってはならなかった。


 何故ならば少年(かれ)は、そのためだけに、造られたのだから。



 カツン、コツン。

 タラップから降りた靴先が、閑散(かんさん)とした駅舎の石畳(いしだたみ)を叩いた。

 服の(すき)間から入り込んでくる冷気に、(えり)を締め直すと、シェムの指先が剣帯の長柄(ながえ)を弾く。

 意味無く得物に触れるのは、自分を鼓舞(こぶ)する時の(くせ)だ。反対の手に携えた(かばん)から、旅の錬金術士に貰った使い捨て懐炉(かいろ)を取り出したい誘惑(ゆうわく)に駆られるが、先はまだ長いと我慢する。

 随分と静かな場所だ。駅舎の向こう、未舗装(みほそう)の土道を見据(みす)えながらシェムは眉を潜める。

 幼い頃は似たような土地に住んでいたが、都会生活に慣れた最近は、誰もいない風景に違和感を覚える。

「さぁて、着いたねぇシェム。情報も早かったし、よーやく先生をとっ捕まえられそうだよ」

 シェムに続いて降りてきた鍔広帽子が、ひょっこりと視界に入ってきた。弩弓(クロスボウ)を括りつけた背中は、暢気(のんき)な景色から一際浮いていたが、駅舎には入れ違いで乗り込んだ親子連れと、機関士と話しをする駅員くらいの姿しか見えず、レイを気に留める誰かはいない。

 鬱陶(うっとう)しいと顔を(そむ)けると、レイは再び正面へ回り込んで来る。〝兄として〟を刷り込まれて来たシェムにとって、頭半分ほど背が高いレイに見下ろされるこの立ち位置は、屈辱(くつじょく)なのだ。

 今に見ていろとシェムは思うが、彼の背丈が伸びる兆しは未だ無い。

「やあやあシェム君。ボクらの探し人は、今度こそ見つかるかも知れない。ああなのに、キミはどうして、そんな浮かない顔をしているのか?」

「お前が寝ている間に、食い意地張った猛獣(もうじゅう)に襲われてな。いま傷心中(しょうしんちゅう)なんだ」

「それはかわいそーに。おおシェムよ。世界でたった一人の、ボクの片割れよ。キミの痛みはボクの痛み。(ゆえ)にボクの心は、ああ、張り裂けてしまいそうだぁ~」

「てめぇ、絶対にそう思ってねぇだろっ!」

 芝居(しばい)がかった仕草で『張り裂ける心』を表現したレイが、チョロッと舌を出した。シェムは顔を(しか)め、痛みが残る右手を抑える。ここで(かたくな)に拳による報復(ほうふく)に出ないでいられるのは、兄とは年少を護る者と教育されたシェムの自尊心(プライド)御陰(おかげ)だ。今は亡き父がこの光景を見たならば、息子の勇姿を涙したに違いない――すまん、教育を徹底(てってい)しすぎた、と。レイはシェムの右手を勝手に奪い、甲に残る綺麗(きれい)な歯形をしげしげと眺めた後、ペロリと舐めた。

「だぁ汚ねぇ! 何しやがる!」

「汚いとは失礼な。舐めれば早くに治るっていうよ?」

「それなら噛んだ時点で散々舐め回しただろう!」

 とは言え、本当に舐め回されたわけじゃ無い。レイも言われて「あはは、そうだね」とケラケラ笑う。シェムは聞き慣れた笑い声を鼓膜(こまく)に納めながら、込み上がる頭痛に溜息を増やす。 自分が兄で良かった。一歩間違えればこいつがオレのと思うと、背筋が凍る。

 ゴーン……ゴーン……。

 西から響く(かね)の音に振り返ると、沈み行く焔が網膜(もうまく)()く。思わず細めた視界の中で、(あかね)雲模様(くももよう)濃紺(のうこん)に着替え始め、黄昏(たそがれ)は静かに夕闇へ移り変わる。染みる冷気に再び(えり)を寄せようとしたシェムの右手を、レイの左手が掴んだ。

「さ、行こうよ」

「……おう」

 握り返した手から、片割れの体温が流れてくる。シェムは、この温もりが好きだった。

 このノクトという土地は、温泉の町として知られているが、町の様子は質素なものだ。夜を照らす灯籠(とうろう)は見あたらず、町が黒で(おお)われる前に、今後の活動拠点たる宿を探さねばならなかった。だが体が温まるまで歩き続けても宿は見つからず、砂礫に足跡を刻むのも飽きてきたらしいレイが、ぼやき始めた。

「うう、お腹空いたよー、()えてるよー、ひーもーじーいーよー」

「おやつ代わりに保存食をドカ食いしたお前が悪い。ったく、俺の分まで食いやがって」

「でもさシェム。ボクらは今が育ち(ざか)りなんだ。今食べず、いつ食べるっていうんだい」

()けても良い。お前は十年後にも、そう言ってる」

 食べ物が(から)んだレイの意地汚さは折り紙付きだ。どうしてコレ片割れなのかと、シェムはつくづく天運を呪う――ガシャン。剣呑(けんのん)を孕んだ物音が聞こえてきたのは、曲がり角の向こうだった。嫌な予感を抱き、シェムが立ち止まった一方で、レイの口の()が、邪悪に吊り上がった。

「――おやぁ、狩りの時間だね」

 は? と聞き返した時にはもう遅い。シェムは振り解かれた手を掴み損ね、矢の(ごと)く飛び出した片割れを、舌打ちしながら追いかける。だが相対距離は開くばかり。同じ腹から生まれたはずなのに、この足の性能差はいつもながら恨めしい。

 そして角を曲がった所で、レイの姿が見えなくなった。

『ちょ、ちょっと待って!』

 壁際に張り付き、恐る恐ると先を覗き込むと、ガラの悪そうな三人の男達が、(あか)外套(コート)の青年を囲んでいた。関わりたくない構図として、ここまで分かり易い例も希だろう。壁際まで追いつめられた青年は、白い手袋を白旗代わりに掲げ無抵抗を訴えかけるが、破落戸(ごろつき)達は仁王立ちのまま、獲物(えもの)の退路を狭めていく。

「あのーえっとその、話し合いませんか?」

「イチゴちゃんは不可思議を言う。有史以来、人は話し合わずして、いかに互いの意志を(まと)められようか。さあ話は既に()く付いた。観光案内は俺達が担おう」

「いや、だからその、僕は観光に来た訳じゃなくてですね!」

 イチゴちゃんとは、(あか)い青年のことだろう。またイチゴかと、さっきイチゴケーキのせいで噛まれたシェムは舌打ちする。完全な八つ当たりだが、そうでもしないとやってられない。

「堅いこと言うな。アンタの上司は、こんな田舎町までを見張っちゃいない。せっかくの休暇(バカンス)。俺らがとびっきりの、とっておきを案内しよう、なあ、そうだろ?」

 体中に鎖を巻いた一人が背後に言葉を投げ、包囲がさらに狭まると、青年は泣きそうになりながら目を泳がす。

「さあ、朝日が昇る前に早いところ行こう。夜はまだ始まったばっかりだ」

「だから僕は行きたくないんですってば!」

「嫌よ嫌よも好きのうちってな。はっは、一名様をご案内だ」

「え、あ、ちょ――はひぃッ!?」

響いた情けない悲鳴は、男達に対する物じゃなかった。空気を切り裂く一矢が青年の影を縫い止め、反射的に塀の上を見やったシェムは、絶句する。沈み行く紫紺の空を背景に、構えた弩弓(クロスボウ)に新たな矢をつがえる鍔広帽子の人影。それが獲物(えもの)を見つけた狩人の微笑を貼り付けると、聞き馴染んだ声が喋り始める。

「やぁやぁ、皆さん、こんばんは。稼ぎの調子はいかがです?」 

「な、何なんだ君は! ああああ、アブないじゃないか!」

「この小僧、正気か!」

「お母さんが泣くぞ!」

 イチゴと取り巻きが騒ぐ中、(くさり)の男だけが静かに黙していた。男は騒ぎ立てる二人を手で制すると、何かを楽しむような眼差しが、頭上の少年――レイへ向けられた。

「はは、おいたが過ぎる。だがサプライズは大好きだ。小僧、今なら若気の至り見逃してやるから、ヒーローごっこなら他所(よそ)でやんな」

 笑みさえ浮かべられる余裕を見せる男の態度は、あくまで冷静。

 だがそんな彼の足下に次弾が突き刺さると、取り巻き達の表情が変わった。

「ヒーロー? 残念、ボクは悪役(ヒール)でね。とりあえず有り金の半分を、できれば気持ち多めで置いていってくれると、嬉しいなぁ」

 深緑の瞳を半眼に見据(みす)え、弦を引き絞った片割れが吐いた台詞は、どこからどう聞いても強盗のそれだ。(なか)(ほう)けていたシェムは我に返ると、思考を高速回転させ、何とか事態を収拾できないかと模索し始める。だが次手を考えるだけの時間は無かった。放たれた三発目が、鎖の男の(ほお)を過ぎると、レイが邪悪な笑みを一層濃くする。

「次は当てるよ。けっこう痛いだろうね」

 レイが片手でとりまわせるように作られた小型の弩弓(クロスボウ)は、馴染みの職人が造った逸品で、その威力と精度は一級品。それに眉間を照準(しょうじゅん)された鎖の男は、さも愉快そうに喉を鳴らす。

「その歳で大した悪党だ。だが装弾する間に、一人が確実にお前を殺す」

「近づかれる前に倒すまでさ。ねえ、シェム」

 レイが声をかけた先で、長柄(ながえ)の剣を携えたシェムが、道をふさぐように仁王立ちする。

 満足げなレイの顔には『ボクらは一蓮托生(いちれんたくしょう)、つまりは運命共同体なのさ』の文字。

 もうどうにでもなれ。シェムは半ば自棄気味(やけぎみ)に剣を水平に掲げ、取り巻きの二人が身構えた。

 しかし鎖の男だけが、口元をシニカルに(ゆが)めたまま両手を挙げる。

「なるほど、割に合わない。おい、ずらかるぞ」

 誰よりも拍子抜けしたのはシェムだ。数の劣勢に加え、こちらは子供。見かけだけなら、相手にとっては恰好な獲物(えもの)のはず。どうして、と思うと、鎖の男は肩を(すく)める。

「俺は痛めつけるのは好きだが、少しでも痛いのは嫌いでね」

「話しはまとまった? じゃ、出す物、置いてってね」

 壁の上では(のたま)うレイは無視して、男はシェムに振り返る。

「おい、そっちのちっこいの。お前もあの坊主と同じか?」

「……いや、さっさと撤退(てったい)してくれるなら、オレはそれ以上を望まない」

「ほう、お前は片割れと違って賢明だな――長生きするぜ」

 ちっこいの、が頭に来るが、この際だから目を(つぶ)る。男が口の()を吊り上げ直すと、それを合図として駆けだした三人がシェムの横を通り過ぎていく。男達の姿が見えなくなり、どこか残念そうに肩を竦めたレイが壁上から跳ぶと、体を猫よろしく曲げて着地した。

「あーあ、せっかくの獲物(えもの)が。なーんで逃がすかなー」

「わざわざ危険に飛び込むな! それに(しょ)っぱなから監獄(かんごく)生活だなんて、オレはヤダね」

「おや、それは失礼な言い方じゃないかな。キミは誰の稼ぎで、おまんま食べてるのかな?」

「少なくとも、お前じゃないことは確かだ。それに、今のはこっちも見逃して貰ったんだぜ?」

 やりあっていたら流血は避けられなかった。それに刃傷沙汰(にんじょうさた)となれば公安が黙ってはいない。

 それに、人捜しの前に、現地で悪い噂は流したくなかった。さっき片割れが(のたま)っていた台詞を思い返せば、(すで)に手遅れかも知れないが。

「さてと……ああ、アンタ。面倒にしちまって悪かったな」

 逃げ出す機会を失ったまま壁際で固まる(あか)い青年へ声をかけると、小動物か何かのような視線がシェムを見上げた。なるほど、こんな自分にもビビるとは。カモられるだけの事はある。

「それじゃイチゴちゃん、とりあえず手持ちの半分――」

 そこで矢をつがえ始めたレイから、シェムは慌てて弩弓(クロスボウ)をむしり取った。

「なんだよー、返せよー」

「こいつが言ってるのと、やってる事は冗談だ。いや、オレが冗談にさせる。だから早いとこ行ってくれ」

「えーシェム、これはあれだよ、正当なお助け料だよ?」

「お前は黙ってろ! オレの目に、まとめて追い()ごうとしてるようにしか見えなかったぞ! ああ、もう、早いところ宿を探して、今日という日も忘れてしまいたい気分だ!」

「こんな素敵なと過ごす毎日を忘れてしまいたいだなんて、キミはなんて贅沢(ぜいたく)なんだ」

「歩く台風がそれを言うのかっ! 中心(お前)以外は多大な被害だ!」

 シェムが(わめ)くと、(あか)い青年が発言権を求めるかのように、怖ず怖ずと挙手をした。

「あー、君たち、宿を探しているの? なら僕の泊まってるとこ、紹介しようか?」

 何気なさを装ったような青年の提案に、二人は顔を見合わせた。

「まあ、結果的に助けて貰ったしね。有り金は払えないけど、そこそこ良心的な宿屋の情報くらいなら提供させてもらうよ」

 (いぶか)しがるシェムを受け入れるかのように、(あか)い青年は穏やかに微笑んだ。





 金属が悲鳴を奏で、黒い剣影が空で弾けると、()ぎ払われた人型の機械から鉄片が飛び散る。

 これで三体。(あか)い瞳が次を探して逡巡した刹那、右から襲い掛かってきた鉛弾を、少年は掲げた右腕で受けた。敵の居場所を捉えた彼は一直線に駆け抜け、待ち構えていた銃身を二つに裂く。使えなくなった武器を手放した人形は、幅広の剣を抜くが、音速で切り返された黒い軌跡(きせき)が鉄の首が斬り飛ばす。その瞬間、訓練終了を告げるブザーが鳴った。

 顎先から汗と一緒に血が流れる。少年の周囲に転がる機械人形の破片は、二十二体。訓練用の簡易仮想的とは言え、少々斬ったり突いただけでは壊れぬ彼らを相手にするのは、軽くは無い。当然、こちらもただでは済まない。今朝、卸されたばかりの訓練着は、穿たれ斬り刻まれ、己の血潮と人形の循環液で、もはや使い物にならない。毎回のことだ。

 訓練場から出ると次の少年と入れ違う。顔見知りだが互いに挨拶は無い。少年はただ一人を除いて他に興味はなく、すれ違った相手もまた同じだからだ。

 控えで衣服を脱ぎ捨て、用意された新しい服の袖を通すと、二重に閉ざされた外との扉が開く。すると画面越しに中の様子を眺めていた少女が、飲み物を差し出してくれる。自分よりも高い位置にある黒髪を見上げ、少年は胸の中で安堵の息をついた。

「おつかれさま。すごいね、全部倒しちゃった」

「所詮は訓練だ。それにぼくは、後半で君を一度殺しかけた……失敗だ」

「朝からぶっ続けだもの」

「実戦では一週間戦い続けることもあるだろう」

 その日が来た時に、彼女を一度失えば、そこで終わりだ。

 そうだまだ足りない。何が足りない。もっと強くなるには、どうすればいい。

 半ば狂気じみた少年の想いを、少女は静かに見守っていた。そしておもむろに、自身の上着に手を掛けると、前を留める釦を、一つずつ外していく。晒し出された白い柔肌。少年へ一歩、二歩と歩み寄ると、自分よりも低い位置にある彼の頭を、自分に埋めるよう抱き締める。少年の(ほお)に、彼女の体温が当てられた。微睡むような感覚の中で顔を上げると、すぐ目の前に彼女の(あか)い瞳があった。

「――いいよ」

 そう囁いた彼女の(おとがい)の下。少年の唇から覗いた犬歯が、彼女の首筋へ落ちる。プツリと、皮膚を破った痛みに、くぐもった声が上がる。抱き締められる腕に力が入ると、口腔(こうくう)に甘みが広がった。少年は流れ出したそれを何口か(すす)り、嚥下(えんか)すると心臓の付近に熱が広がる。

 守るために傷つける。その矛盾した行為は、少年の心地に良く響く。

 流れ出すそれは魂であり、想いであり、少女の命だった。自分は全ての脅威から彼女の緋色(ひいろ)を守るために存在する。この喉を流れる緋色(ひいろ)が、少年にその役目を担わせてくれる。

 彼女を守らなくては。少年はそのためだけに力を願い、少女に流れる緋色(ひいろ)(すす)った。



 火炎が鉄底を舐め、白煙が昇ると、木造作りの壁に染み込んだ煙草の臭いに混じって、肉が焼ける香ばしい匂いが鼻腔(びこう)を過ぎる。アルコールで賑わう男達の雑談や女達の談笑が聞こえ、食器が机と(こす)れる硬い音が響き、机上に顔を埋めたシェムは、ぼんやりと座っていた。

 四人掛けの簡素な卓席が敷き詰められた大広間。(あか)い青年に紹介して貰った宿が経営する食堂。日が完全に落ちた夜間帯の今は、酒場も兼ねており、卓席は宿泊客よりも、酒場の利用客の方が多いようだった。宿泊料は、まあ相場。各個室に風呂場もついていたので、シェムとレイはここを拠点に決め、今は卓席の一つを陣取り、注文した夕食を待っていた。

「へー、それでお師匠さん捜しの旅をしてるってわけね」

 フライパンを手足の延長みたいに操りながら感嘆を漏らしたのは、三十代半ば程の女で、この宿と食堂を営む女将だ。先に話しかけられ、この町に来た目的を話したのだ。ちなみに彼女の旦那は向かいのカウンタで酒場の対応をしている。

「お師匠さんの名前は?」

「スケアクロウって名乗ってた。ボクらも本当の名前は知らないんだけど」

「うーん、このあたりじゃ聞いたことないねぇ」

 するとレイはあからさまに肩を落としたが、田舎町とはいえ数千人単位の人間が蠢く場所だ。こればかりは、それで飯を食べている人間以外に求めても仕方ない。

 そして皿に盛りつけられた野菜炒めとハンバーグが運ばれて来る。

「まあまあ、レイ坊。とりあえずこれでも食べて元気出しな」

「ひーん。だったら少しくらい負けてよオバちゃん!」

「ならせめて『お姉さん』と呼びな。全く、最近の若い子は淑女(レディ)に対する常識(マナー)ってものがなってないんだから。……そうだ、イチゴちゃん、あんたは何か聞かないのかい?」

 すっかり〝イチゴ〟の呼称が定着した(あか)い青年は、苦虫を噛み潰したように顔を(しか)めて、(かぶり)を振る。そんなイチゴを見やる女将が、急に肩を落とした。

「それにしても、ケチャップみたいな服装で町を歩いたら破落戸(ごろつき)に絡まれて、挙げ句こんな子供らに助けられるだなんて。あんたそれで本当にタマタマついてんのかい!」

 コップを傾けていたイチゴが咽せ込み、会話を聞いていたらしい周囲からドッと笑いが混みあがる。苦しそうに咳を繰り返すイチゴが仰ぎ見た先で待っていたのは、甲斐性無しと言わんばかりの視線だ。どうやら女将の中で、シェム達は悪漢に立ち向かいイチゴを救った勇気ある兄弟になっているらしい。まさか追い()ぎに追い()ぎをかけてただなんて真実を言えるはずもなく、シェムは曖昧な苦笑を返した。

「僕は平和主義者なんです。力に頼る生活が、性に合わないんですよ」

「はん、負け犬の遠吠えとは見苦しい。その様子じゃ、股にぶら下がってるもんは、どんだけ小さいんだか。男はねぇ、女を敬って、(たくま)しい腕力があってナンボでしょ!」

 そこで再び場が沸き、シェムは含めた耐性が無い男性客の何人かが言葉を失い、女性客の何人かは同意するように頷いた。

「……その辺にしておけ、クラリス。リーリアが(うつむ)いている」

 呆れ気味に口を挟んだのは、女将の好みを体現させたような大男だ。

 見かけ通りの野太い声が妻の過激な発言をたしなめ、角張った指が店の隅をさす。

 そこでは伸ばした栗色の髪を肩の上で束ね、銀の髪飾りアクセントにつけた一人の少女が盆で顔を隠しながら、(ほお)をリンゴの色に染めていた。彼女、リーリアはシェム達よりも二つ下の、宿屋の一人娘である。

「あのねぇジェイク、女はこのくらいで(うつむ)くようじゃダメなの。それにリーリアはもう少しでお姉ちゃんになるんだ。あたしの腹ん中の子が、男の子だったらどうすんの。おしめを取り替える度に顔を赤らめちゃ、しょうがないじゃない。……ほら、リーリア。せめてチンチンくらいは素で言えるようになりなさい」

「お、お母さん!? な、なななな何言ってるの」

「だからチンチンだってば。ほら、言ってみ。ち・ん・ち・ん」

「たすけてお父さん!」

 (ひたい)を手で(おお)うジェイクに、シェムは心の底から同情する。顔を真っ赤にしたリーリアは、頭上にヤカンを載せれば湯が沸きそうだ。そして、あたふたする彼女を視界に納める度に、(かたわ)らのレイがニヤニヤと微笑んでいた。これだよ、こんな展開を待っていたんだ。ナイスだよおばちゃん。ブラボーだよおばちゃん――小声で、そんなことを呟いていた。

 また、悪い病気が始まったか。シェムが視界を映すと、半ば自棄気味(やけぎみ)にパスタを頬張り始めたイチゴの姿が目に入る。彼も各地を転々とする旅を続けてきたらしいが、この性格で、よくぞ今まで切り抜けてこれたものだ。

「うひゃん! こ、これは!」

 と、そこでシェムよりも先に、ハンバーグを口に入れたレイが歓声を上げた。

 何事かと顔を上げると、零れんばかりに見開かれた深緑の瞳が、戦慄(せんりつ)している。

「刻まれた(ほの)かな焦げ目は、熟練された職人の焼き加減。鼻腔(びこう)を過ぎるデミグラスソースは、滲み出る肉汁と素材の(かお)りを一層に引き立て。まさに主役と脇役が、それぞれの役割を完全に心得た至高の調和(ハーモニ)濃厚(のうこう)にして濃密(のうみつ)。ああ、これはもはや料理にして料理に(あら)ず。一つの物語(ロマン)とも呼べる(レベル)に達した、壮大な宇宙。おお、銀河はこうして生まれたのか!」

「レ、レイ君にもそれが解るんだね!」

 イチゴがフォークを持った手を止めてレイを凝視(ぎょうし)する。どうやら件のハンバーグについて彼も思う所があるらしいが、ならばどうして今日は、パスタを頬張っているのか。

「ほう、二人とも、それが理解(わか)るかい?」

「ええ、もちろん」

「おばちゃん、いえ、お姉様――貴女様は、何と得難い物をお持ちなのか」

 イチゴが重々しく頷き、レイが崇拝(すうはい)の眼差しでクラリスを見やった。すると元の下ネタの流れから脱却できるとでも考えたのか、リーリアが必死に食らいついてくる。

「お、お父さんが作るハンバーグの方がもっとおいしいんだよ! お母さんもね、お父さんから作り方教わったんだってさ!」

「そうそう、レイ君。僕もこないだ食べさせてもらったけど……そう、あれこそ神の技を伝えし者の手。僕もこの業界は長いけど、あの境地に立てる者は十人と知らない」

「待てお前達、大袈裟(おおげさ)すぎる。俺もただ、教わったように作っただけだ」

「ならきっとその人が神様だったんだ!」

「ちょっとジェイク! あたしの賞賛をかっさらうんじゃないよ!」

「い、いや俺は何も……む、注文が入っていた。もう戻らなければ」

「ちょっと逃げるな! あんたいつからそんな小さな男になったの! 待ちなさい!」

 そんな賑やかな様子を端から眺めていたシェムは、自分も同じハンバーグを口に入れて咀嚼(そしゃく)する。確かに旨い。だが何をそこまで(あが)めるのかはさっぱりだ。視線を戻せばこちらの反応を期待するレイとイチゴの眼差しがあった。

「……う、うまい、ぞ?」

「むー、なんかフツーだね」

「ダメだねシェム君。その様子だと、まだまだハンバーグの道のりは険しい。精進したまえ」

 一体どんな道のりだ。しみじみと語り出したイチゴの隣で、レイが嘆かわしいと(ひたい)を抑える。バカバカしい、旨い物を美味と感じる以外に何があるのか。

 そう結論付け、二口目を(さら)いに行こうとして、

「そんなんじゃ、いつまでたってもお兄さんには追いつけないよ」

「オレが兄貴だ!」

 脊髄反射(せきずいはんしゃ)投擲(とうてき)されたおしぼりがイチゴの(ひたい)に叩きつけられ、店内に奇妙な静寂が落ちた。『え、そうだったの?』とは、二人を見比べた誰もの顔に書いてある。

 机の上に身を乗り出したレイが、兄の肩をぽんと掴むと、どこか儚げに首を振った。

「まあ落ち着きなよ。間違われるのはよくあることだし、どうせボクらは双子だよ。所詮(しょせん)、この世は、背が高い方がお兄さんなのサ」

「うるせえ、オレは絶対そんな不条理を認めねぇ! お前が年上だなんて、世界の破滅だっ!」

「ああシェムよ、聡明(そうめい)なキミならばと思ったのに、世の真理が未だ解らぬか」

「お前も数時間違わずオレと同い年だろうが!」

 レイの言葉の端々(はしばし)には、明らかにどこか勝ち誇った口調が混じり、逆上したシェムが自分の発言の矛盾にも気づかぬままに机を叩きつけようとした所で、我へ返った。

 気がつけば利用客全員の注目を集めている。ある者は驚き、ある者は面白いと二人のやりとりを肴にして、酒を汲み合う。

「あー、それは、その、ごめん」

 最後に、(ひたい)からおしぼりが剥がれ落ちたイチゴが一言、謝罪を述べた。

 謝られるのも何だか筋違いな気がして、シェムはそっぽを向く。

「ところで坊や達、人を探すなら、カーネルさんのお屋敷を訪ねてごらんよ」

 気まずくなった空気に、新鮮な話題を提供してくれたのは、クラリスだった。

「カーネル、さん?」

「カーネル=グラン。この街に住む錬金術士様さ。【水の魔法使い】と言えば、少しは名前を聞いた事があるかも知れないけど、坊や達は知らないかもねぇ」

 誇らしげなクラリスに同意するよう、そうだあの人ならばと周囲から声が上がる。

「そのお師匠さんは、割と好奇心旺盛(こうきしんおうせい)な方かい?」

「まあ、そこそこ」

 何せ目の前の厄介事を〝狩り〟と称し、嬉々として向かうような人だ。

「ちょっと辺鄙(へんぴ)な所に住んでいるけど、色々と面白いことが聞けると思うよ」

 そうして食事が終わり、二人を部屋へ案内してくれたのは、リーリアだった。

 長く続く木造りの廊下が足音に(きし)み、暗くなった階段を、手にした燭台(しょくだい)の明かりが照らす。この地域の電気設備は、行政関係の建物にしか無いらしい。最近ではすっかりと電気仕掛けの生活に馴染んでいた二人だが、元々はここと同じような村で暮らしていたので、蝋燭(ろうそく)の暗がりには親しみがある。

「本当にここで良いの? 二人部屋だってまだ空いて――あっ」

 案内された部屋の前で、どこか心配そうに尋ねてきたリーリアが、ハッと口を(つぐ)む。

 こぢんまりとした客室は、本来、一人用の部屋だ。お財布の膨らみが心許ない二人に、宿はこの部屋を一人分の宿泊料で貸してくれた。勿論女将の好意によるものだ。

 気まずそうに目を泳がせるリーリアの頭にレイの指先が載り、少女の栗毛をワシャワシャと撫で繰り回す。何事かと身体を硬直させ、目を瞬きさせる少女が見上げた先で、レイが表情を幸一色に緩める。

「リーリアちゃんは、本当に可愛いなぁ。大きくなったら、ボクのお嫁さんにおいで~」

 すると少女の(ほお)紅潮(こうちょう)し、レイから飛び離れたリーリアは「な、何かあったら、ごゆっくりお申し付けなさい!」と悲鳴を交えた言葉を残して足早に立ち去った。また被害者が増えたと、シェムはこめかみを抑え、廊下の曲がり角に消えていく手燭の明かりを見送る。

「……このご時世に、何て初々しい。希少価値だ。ああん、ギュッと抱き締めてぁ()い!」

「はいはい、好みの娘がいて良かったね」

 代わりに自分を抱き締めるレイを適当にあしらい、シェムはさっさと就寝準備に入る。

 備え付けの家具は寝台と、燭台(しょくだい)が置かれた机のみ。だが雨風が凌げれば文句は無いし、何よりも個室で浴槽(よくそう)がついているのが嬉しい。さすがは温泉の町と、割と良い条件の宿泊に一人で頷いていると、普段は放置された事も気づかず、自分の世界に浸り続ける片割れが、今日は珍しく(くちびる)を尖らせた。

「シェムはどうしてそう淡泊(たんぱく)なのかなー。こう、かわゆ~い女の子にさ、もっと感じるとこがないの? 女の子は宝石、つまりは人類の宝。ああ、愛らしさとは罪よのぅ」

「また訳の分からない事を。行く先々の()に、あんな接し方すんの、いい加減にやめろよ。犯罪になる前に」

 医者も(さじ)を投げ出すレイの少女愛好病は今に始まったわけではないが、年々エスカレートしていく(ざま)は、そろそろ牢獄送りになりそうで、シェムの心配は割と切実だった。

「大体、お前の(よめ)候補はこれで何人目だ? 愛の告白だけで三桁は聞いたぞ」

「ボクの愛は無限デス」

「お前の体は一つしかねぇだろ! ハーレムでも作るのか!」

「ああ、それは良い考えだね。この世の女の子はみーんなボクのもの――うん、悪くない!」

「悪いわっ!」

 ついつい声を荒げる自分に嫌気を憶えて(ひたい)(おお)ったせいか、レイの笑顔がいつの間にかいやらしく(ゆが)んでいても、シェムは気付けなかった。

「まぁ、キミが女の子に淡泊(たんぱく)なのはしょうがないか。シェムってば生粋(きっすい)のお姉様スキーだもの。洗濯板(せんたくいた)絶壁(ぜっぺき)よりも、たわわに実った果実派(かじつは)なんだもんねー」

「ナンノハナシダッ!」

 思わず噛みつき、後悔した時にはもう遅い。

 シェムの脇腹を肘で小突くレイが、上目遣いに覗き込んでくる。

「お(とぼ)け君のフリはダメですよぉ。ボクが何年、キミと一緒にいると思ってるのカナ?」

「……オレは女に興味はない」

「ハイ、孤高(ここう)を気取って言い切ったけど、それはウソでーす。男の子はみーんなケダモノで、オオカミさんなんデス。悲しいけど、それは(くつがえ)しようのない、真実なんだヨネッ」

「なにが『ヨネッ』だ! お前と一緒にされてたまるか!」

 するとレイの嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みが一層濃くなった。それがまさか、必殺の一言を吐こうとは。

「ならこの前、前屈みになったセレナお姉ちゃんのお乳首を、一生懸命に覗き込もうとしていたのは、どう説明してくれるのカ・ナ?」

 瞬間、シェムの心臓が断末魔の悲鳴を上げた。セレナは都会に住む、二人の姉代わりの人だ。

 心当たりが無かったかと訊かれたら、ないこともない、気がする。いやまて、しかしあれは事故だ。弁解しようと口を開きかけたところで、レイは血も涙も無い止めの一撃を放つ。

「ちなみに見られてたの、お姉ちゃんは気づいていたよ、とってもいやそーにしてたなぁー」

「ごるふぁっ」

「それに、諦めなよ(あに)じゃ、残念だけど、その恋は実らない」

「はっ!?」

「ボ~クは、な~んでも、知っている~♪」

 即興の鼻歌に載せられた歌詞が響き、バシバシと肩を叩きまくられるシェムの拳が、やり場のない怒りに震える。そんな兄の姿に何かを納得したレイは、ほざいた。

「そうか、シェムってば、まさかまさかの男の子スキーさんか。うんうん、下半身が繋がらないのは純愛だっていうしね。まさか君はそこまでの愛の戦士に徹していようとは」

 もはや話は外宇宙まで飛躍(ひやく)していた。訂正しても無駄だと悟ると、ケラケラと笑い続ける片割れに背を向けて、無視を決め込み、シェムはさっさと寝台に潜り込んで目を閉じる。

「あ、シェム=ムッツリー君は、もう寝ちゃうのかい?」

「うるせえ! だいたいそれだと、お前の家名もムッツリーだぞ」

「そうだね、ボクは割とオープンだから、キミとのコンビも解消か」

「お前はもっと自粛(じしゅく)して自重(じちょう)しろっ!」

「シェムは子供だなぁ」

「お前にだけは言われたくない」

 疲れた。その比率が肉体面よりも、精神面が大きいのはあれだが、本当に何もかもから目を背けて、意識を手放したかった。すると、訪れた静寂に衣擦れの音が混じり、布団の中に体温が滑り込んでくる。何だよ、お前も寝るのか。そう訊く前に両肩を抱き寄せられ、薄着越しに密着した肌が、背中を(おお)った。

「カーネルって人がさ、先生の手掛かりになるといいよね」

 シェムは目を(つむ)り、片割れの鼓動を肌で聞きながら何も答えない。シェムはこの体温をいつだって背中で感じてきた。この温もりだけがあれば良かった。だがレイは違うのだと気がついたのは割と最近。レイの心の(よりどころ)は、決して自分じゃないのだ。

 どこに行くときも、いつだろうと、レイは見えない師の背中ばかりを探し続けていた。そう思うと、シェムの見えない部分は締め付けられるようで、黒にも似た感情が込み上がる。だからシェムは片割れの想いに、それ以上を答えられない。

「明日は、まず錬金術士の家を訪ねてみようね……シェム、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 規則正しい寝息が闇を刻み始めた。ここに来る道中でも散々眠っていたはずなのに寝付きのよさは相変わらずだ。よく寝て、よく食べ、よく口説く。まさに三大欲とは、この片割れのためにある言葉だろう。レイが充分に深い眠りに付いたのを見計らい、シェムは仰向けになる。並列に二人が横たわった寝台は、やはり窮屈(きゅうくつ)だった。

(……ボクはなんでも知っている、か)

 でも一つだけ、レイは知らない。幾千と繰り返してきた、区切り無き闇帳(やみとばり)。夜とは、シェムにとってはそれが全て。午後と午前の区切りでしか無く、寝台とは、文字通りの意味で体を休める場所でしかない。

 目を瞑って息を潜める――シェムは一度だって眠ったことが無い。それは異常なことだとシェムは幼い頃より自覚していた。だから眠れないことを、レイに話してはいない。

 そしてシェムは、今日も朝の訪れを待ち続けた。



 ふわりと、花で作られた(かんむり)が頭に載せられた。

 少年の前には年長の少女が二人、言い争いながら座っている。太陽を(おお)う黒髪と太陽受けた金髪、相反する(つや)と輝きを戴く二人。前者は少年が護るべき彼女、もう一人は最近になってから『カゾク』になった少女。何故こうなったのかと、自問に答えてくれる者はいない。そして考えても無駄だと(さと)る。そこにある事実。我が身に降りかかった現実は、それほどまでに理不尽だった。カシャリ。シャッタが切られ、また一枚が増えた。これで写真機が納めた自分の姿は何枚になっただろう。

「さーて、次よ、次!」

「うーん、青も捨て難いのだけど、暗い色ばかりだね」

「なら逆に黄色やピンクにしてやろうか。まだ試してないのいっぱいあるし」

「そうしましょう――じゃ、脱ぎなさい」

 少年は始終、うんともすんとも肯定意志を示した覚えがない。同じように否定もしてないが、もたつく暇もなくさっさと衣服を()ぎ取られては、また古着の山の中から見繕(みつくろ)われた衣装を被せられる。今度は、鮮やかな色合いのワンピース。気がつけば下着まで履き替えさせられている。どうせ写真には映らないというのに。鏡を見れば、どこから見ても女の子にしか見えない自分が出来上がり、少女達の考察は続く。色合いだとか季節らしくないだとか、カッコカワイーだとか、出てくる単語は知らない概念(がいねん)だったため、途中から聞くのを止めた。

 カシャリ。写真機がまた鳴く。この衣装は、全てがこの施設の所有物。周囲の年少達も、興味津々(きょうみしんしん)に様子を覗き込んでいた――本当に、何故こんなことになったのか。

 自分の意志とは関係なく服を()ぎ取られながら、白壁に囲まれた施設で訓練に明け暮れていた頃は、決して思わなかった疑問が脳裏を過ぎる。自分達の生活が変化したのは、最近の話だ。

 職員の一人に連れられて長い時間を汽車で移動し、徒歩で森を抜けた先にあったここ。長い話し合いが続き、ここに住む男に少年と彼女は預けられた。ここには、自分達と似た姿をした生き物が多く住んでいた。

 だが彼らの全てが自分達とは違う――否、少年らが皆と違うのだ。

 黒絹の髪を戴いた彼女と、その彼女と同い年である金髪の少女の仲が悪かったのは、そのせいかも知れない。出会った当初からいがみ合いが続き、声を荒げた彼女を初めて見た。それから彼女に流れる色はいつだって刺々(とげとげ)しい。他の個体とならば特に障害無く接しているというのに、ここで暮らし始めた一週間、常に二人が言い争わない日は無かった。そして一ヶ月が経った現在、二人の不仲、は少なくとも朝食までは存在した。

 現在は昼過ぎ。二人の共同作業を位置づけた分岐点がいつあったのか。この午前中に何が起こったのかは、少年が知るところでは無い。気がつけば鬼気迫る表情の二人に囲まれて、服を()ぎ取られていたのだから。

「ほら、わたしのほうがセンス良いじゃない」

「えー、その組み合わせはありえない。髪飾りの大きさはこっちの方が良いって」

 会話から、今朝までのいがみ合いが消えていた。そして事実、彼女達に流れる色は、穏やかになっていた。だから、少年は抵抗しなかった。その後数時間、少年は養父に救出されるまで、延々と等身大着せ替え人形の任を全うした。年長二人は養父によって散々叱られていたようではあったが、その日以来、二人の姿はいつでも一緒に見られるようになった。



「今年はもう終わりましたが収穫祭(しゅうかくさい)は、このキラの森から採集した木の実で町の女達がパンを焼いて、それをみんなで食べるんですよ」

「へぇー、それはリーリアちゃんも作るの?」

「はい。一応。わたしはまだ習っているところですけど」

「ああ、食べてみたいなぁ。手作りって、なんだかそれだけで温かいよね」

「ええ、そうですねー。でもこの町では外食できる場所なんて、ホントに限られているんです」

 吹きつける風が奏でる秋の旋律(せんりつ)。枝葉に(さえぎ)られた日差しは冷気を呼び、踏みしめた大地が枯葉の伴奏(ばんそう)を鳴らす。翌日の朝。リーリアを先頭に、常緑樹(じょうりょくじゅ)()(しげ)る森を進むシェム達は、湿った土を歩いていた。どうやら錬金術士の家はこの先にあるらしく、道案内を勤めるリーリアの隣には、トレードマークの鍔広帽子を被ったレイが並ぶ。レイはお気に入りの子に観光案内までして貰っているせいか、ご満悦の様子で、彼女へ熱心に話しかけていた。

 シェムは表情に苦悩を貼り付けながら、そんな二人を後ろから眺める。そろそろ『手料理よりも、君が食べたい』とか言い出しそうなレイを止めようかとも思うが、それなりに会話は弾んでいるようで、切り込む頃合いを測りかねていた。

 カツカツカツカツ……。気がつけばシェムの左手が、長柄(ながえ)の先を弾いている。

「それにしても腰のそれ、護身用で持つには、少し物騒(ぶっそう)()ぎやしないかい? レイ君は弩弓(クロスボウ)を背負ってるし、昨日は本当に野盗(やとう)か何かだと思ったよ」

 隣を歩く(あか)い青年を見上げると、穏やかな黒瞳(こくとう)と目が合う。イチゴである。

 彼も【水の魔法使い】に会いたいと一緒に着いてきたのだ。

「……狗剣(ライカ)が物騒なのは認めるよ」

 先程から指先で弾いているシェムの得物を平たく言えば、腰から吊せるくらいに柄が折れた薙鉈(なぎなた)だ。少なくとも短剣や警棒のような護身用の武器では無い。柄の先で(いぬ)が刃を(くわ)えるような形状をしているので、昔飼っていた愛犬の名から、シェムはこの剣を『狗剣(ライカ)』と呼んでいた。

 確かに、狗剣(ライカ)は子供が吊るすには不釣り合いな物だ。しかし、とシェムは隣の(あか)い男を見返す。正確には、その背中に括り付けられた両手持ちの大剣(クレイモア)を。

「アンタだって、そのゴッツイもん。人の家に訪ねる時のもんじゃねえよな」

 護身用の範疇(はんちゅう)を明らかに超えた軍用武器。大きさも小柄なシェムの腰の長さに落ち着く狗剣(ライカ)の比じゃ無く、イチゴの身の丈ほどもある。血塗られたかのような(あか)い服と言い、この気弱な男に似合わない。シェムが彼を見やる視線の半分には、常に怪訝(けげん)が含まれる。

 イチゴはそんな視線に気づいているのか、いないのか、得意げに大剣(クレイモア)の柄を叩いた。

「ああ、これはね。おまもりだよ」

「おもりとの間違いじゃないのか?」

「はは、確かに重いね。だけどこれを背負っていると、強そうな傭兵か何かに見えるだろ?」

 そうやってイチゴは口の端を吊り上げて見せるが、悲しいほど似合っていない。

 それにどちらかと言えば貧弱(ひんじゃく)に見えるイチゴの体つきでは、余計に身ぐるみ()ぎやすくなるだけだと思うが、本人がこれで良いならば何も言うまい。

「皆さん、そろそろカーネルさんのお宅に到着します」

 森を抜けて視界が開け、左右に草地が敷き詰められた土道に沿った向こう側、柵と花壇(かだん)で囲まれた白い家屋(かおく)が見えて来る。あれが【水の魔法使い】の住処(すみか)なのだろう。しかし近づくに連れて、その住まいに、どこか違和感を憶え、表札が掲げられた場所にまでくると、違和感はいよいよ確信へと変わり、リーリアを除いた三人は、頭上に疑問符(ぎもんふ)を載せる。

「これが本当に、錬金術士の家?」

 最初に呟いたのはイチゴだった。煙突が目立つ家に、長屋が増設されたような屋敷。だが白い壁には所々、クレヨンの落書きを消した跡が残り、庭先に乾された大量の洗濯物は、どれもこれもが子供服。その横には、今朝誰かに描かれた世界地図が染み込む布団が干され、家の真横に生える大樹に吊された手作りブランコと一緒に揺れていた。木陰(こかげ)には青い長椅子が設置され、その上に誰かが置き忘れたのだろう本は、明らかに錬金術師の家にそぐわない絵本だった。

「はい、そうですよ。カーネルさんの研究所は、孤児院も兼ねているんです」

「こ、孤児院!?」

 シェムが()頓狂(とんきょう)な声を上げると、そこで屋敷の扉が開いた。

 出てきたのは長い黒髪をカチューシャで留めた、年上の少女だ。

 これから庭先の掃除でもするのだろうか、その手には、(ほうき)とちりとりを携えていた。

「おーい! アイリお姉ちゃーん!」

 表情を(ほころ)ばせたリーリアが口に両手を添えて呼びかけると、アイリと呼ばれた女は、(おもて)を上げて微笑(びしょう)を結びかけた。しかしシェム達三人を見た途端(とたん)に、その顔が引きつる。隠そうともしない嫌悪(けんお)の視線。シェムとイチゴが思わず一歩、後ずさる。

(なんか、様子がおかしいぞ。というか歓迎されていないみたいだが)

(ねぇねぇ、イチゴちゃん。あの女の人に、なんかやっちゃった記憶ってある? 具体的にいうなら夜道で無理矢理、壁に叩きつけて、胸元からビリビリと引き裂いて――)

(あ、あるわけないじゃないか! 僕も初対面だよ!)

(じゃあ野獣と化したシェムが、ああ、か弱き乙女を()き始め――)

(オレとお前は昨日からずっと一緒にいるだろうがっ)

「――リーリア。この人達は、なに?」

 底冷えする声が、陽気な昼前の庭先に落ちた。『だれ?』ではなく『なに?』と問われたのは初めてだ。箒を手にしただけの彼女が、まるで夜叉(やしゃ)羅刹(らせつ)に見える。一体どんな修羅場(しゅらば)を潜り抜ければ、こんな威圧を放出できるのか。

「や、やぁ、こんにちは。いや、お早うございます、かな?」

「貴方には、訊いていません」

 耐えきれなくなったイチゴが和やかな挨拶を試みて、一言で切り捨てられた。そんな様子にリーリアでさえも立ち(すく)み、アイリを見上げる瞳は、完全に怯えきっていた。

「それでリーリア、この人達、何で連れてきたの?」

「お、おい、そんなに詰め寄るな。怖がってるぞ」

「アンタにも訊いていな――」

 見ていられなくなってシェムが勇気を振り絞ると、予想通りの鋭い剣幕が向けられて思わず怯む。しかし何故か、アイリは凍り付いたように言葉を切った。

「あなた――」

 少女が何かを言いかけたその途端(とたん)、背後の家屋から砲弾でも着弾したかのような爆砕音が響き、煙突から噴き出た黒煙に続いて、轟音が鳴る。

「――ロイっ」

 アイリが屋内へ(きびす)を返す。完全に出遅れたシェム達が玄関を潜った先の廊下で、一番奥の部屋から黒煙が噴き出していた。中を覗き込むと、そこは石造りの台所だ。爆発の原因たる(かま)は黒く焼け、衝撃で倒れた(たな)の下に砕けた食器が散乱する。

 その下に、誰かが下敷きになっているらしかった。

「ロイっ、あなたって子はっ! また着火剤に変な薬使ったんでしょ!」

「変な、では無い。今回はちゃんと指定された物を――」

「用法用量を正しく守れって言葉知ってる!? ああもう動かないで危ないから!」

 するとシェムの横を通り抜けたイチゴが食器棚を起こしに入ると、彼は意外と力持ちで木組みの棚が、音を立てて持ち上がった。

「あー、平気?」

「……大丈夫だ」

 這い出てきたのは、シェム達とそう変わらない背丈の少年だ。耳の下まで伸びた、アイリと同じ黒い髪。そして面を上げた彼を、シェムとレイは、揃って凝視(ぎょうし)する。

 起きあがった少年の双眸(そうぼう)に填め込まれていた瞳は、(あか)い色をしていた。



「兄ちゃん、あそぼーよ。ねえったら」

 鼓膜に響く甲高い声に意識を妨害され、長椅子に腰掛けていた少年が視線を上げると、よく手入れの行き届いた花壇の彩りが目に映った。

 駆け回る者。草に寝転がる者。静かに木陰で休む者。近くを流れる小川のせせらぎ。風が奏でる森のざわめき。ここでは機械の駆動音は聞こえず、同族同士の性能試験もなければ、命令を与える白衣の者もいない。家事を手伝い、気ままに過ごす毎日。

 花壇から摘んだ花の(くき)を編み込んでいた少年は、ふと作業を止めて己の両腕を見下ろす。人の五指の形をした腕。これが本来の形を取らなくなってから、何百日が経っただろう。自分の存在意味がここには無かった。退屈だとは思わない。元から退屈を感じたこともないが、代わりに別の感覚が、ずっと胸の内に座る。きっと原因は、(やかま)しくなったこの環境なのだ。

「ねー、そんな花冠(はなかんむり)作ってばっかじゃなくってさー、遊ぼーよ」

「ゼンリ、今ぼくに割り振られた家事は無い。だからぼくはもう、充分に遊んでいる」

「そうじゃなくてさー。ぼくらと遊ぼうってことだよー」

「何してるの?」

 自分を呼ぶ児童にほとんど見向きもしなかった少年が、初めて振り向いた。風になびく黒絹の髪、双眸(そうぼう)を彩る緋色(ひいろ)の瞳。薄く結ばれた唇が何かを紡ぐ度に、少年を構成する全てが震え、世界が広がる錯覚すら覚える。

「メイリーフねーちゃん。兄ちゃんが遊んでくれないよー」

「はいはい。向こうでアイリ達がイチゴ潰しやるって言ってたから、そっち混ざっておいで」

「ほんとー? そっち行ってくる!」

 現金なもので、少女が促すと児童はすぐに駆け出した。その背中を見送るメイリーフが、少年の隣に腰掛ける。しばしの沈黙。ゼンリがアイリ達の和に加わったのを見届けてから、少年はまた小言が始まるのだと思った。だが今日は違うようだった。

「名前には、慣れた?」

「認識している」

 そう返すと、メイリーフの顔はやはり(しか)められた。少年はここで暮らし始めてから変更された自分達の新たな呼称を理解している。既に季節は何周か巡ったのだ。何故今更になってそんなことを聞くのか。

「ワタシたちは一緒の場所で暮らしている。つまり育った環境は、ほとんど一緒だったわけだ」

「そのとおりだ」

「なのに、何でワタシとここまで違うのかな」

「ぼくらが別の個体だからだ」

 メイリーフの表情はさらに気難しくなる。どうやらまた自分は何かを間違えたらしい。

 人は〝感情〟と呼ばれる物で動くが、その概念を把握できていない少年は、メイリーフが何を思い、どう想っているのか、いまいち推し量れない。

「まあ、少しずつ慣れるしかないよね。今はみんなとの付き合い方を学んでいこう。ワタシたちは、家族なんだから、早く融け込まないとね」

 事あるごとに、メイリーフは『家族だから』と言いたがる。元は向こう側で年少達と遊戯に興じる金髪の少女が、メイリーフと少年に言った言葉だ。家族とは一般に、親兄弟がいれば成立する。ここには多くの子供がいて、ただ同じ場所で過ごしているだけ。それなのにメイリーフは、血の繋がっていないあれらを〝家族〟と呼ぶ。

 前の場所にも、人間や、自分の同型が多くいた。だが彼らは〝家族〟じゃなかった。

 少年の目的は、ただ剣を研ぎ澄まし、来るべき日にメイリーフの血を守りきる事。今までそう教えこまれ、本能で理解してきた。それだけが、少年が望まれた理由なのだから。

 それでも少しだけ、少年の考え方は変わり始めていた。もしかしたらこのまま一生、剣を振るわない生活を過ごすかもしれない。それならばそれでいい。メイリーフの血を守る。この両腕が何も斬り裂かないで済むならば、守る必要が無くなるならば――そんな自分の存在意義を否定される未来も、良いかもしれない。

「メイー! 一緒にイチゴ潰しやろうよー」

 遠くからゼンリが手を振り、メイリーフも手を振りかえす。

「さあ、呼ばれた。一緒にいこ?」

 メイリーフが先に行き、少年はゆっくりと立ち上がった。駆けていったメイを迎えようとして振り返ったアイリが、石か何かに蹴つまずいたように転ぶ。あははと笑う子供達の声。アイリがぶつけた顔面を押さえつけながら、「笑うなー!」と怒る。その様子をメイリーフが挑発するように笑い、またいつもの言い争いが始まったと周囲がはやし立てる。

 その中でただ一人、少年だけが眉根を寄せた。少年の(あか)い瞳は、ずっとアイリを見ていた。

 彼女の色がぶれたことに気がついたのは、彼だけだった。





 子供は風の子だとは、よく言ったものだ。

 晩秋の風にも負けずに遊戯(ゆうぎ)に興じる声が賑わう庭先。ただがむしゃらに興奮に没頭する様は、心臓に永久機関でも埋め込んでいるようで、自分にも数年前まで同じ時期があったことが信じられない。よく手入れの行き届いた花壇を背景に、子供達の様子を観察しながら、シェムは長椅子の背もたれに体重を預ける。

 目当てにしていた【水の魔法使い】は留守だった。孤児達の父でもあるカーネルは、引き取り手の見つかった子を送り届けるため、昨日、町から出たらしい。孤児院には、赤子や幼児、シェム達と同い年くらいの少年少女、合わせて十数人の子供らが、共同で暮らしていた。中でも十に届くくらいの年少が一番多く、今が遊びたい盛りだ。

『いーちーごーが、転んだー』

『転んだー』

『食べちゃえー』

『むしゃむしゃむしゃー』

 カーネルは今日の夕方には帰ってくると言う。だからシェム達は留まるついでに、アイリが当番の子らと食事の後片付けを行っている間、リーリアと一緒に子供らの面倒を引き受けた。本当は、今あそこで遊んでいる子供らによって、半ば強引に遊びに連れて行かれたというべきなのかも知れないが。

『つーぶれたっ!』

『にげろーっ』

 鬼役の子が宣言し、周囲が蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げ回る。晴れた昼下がりの日差しが寒さを和らげれば、次は眠気が目蓋(まぶた)を重くする。昼食を摂った後となれば、なおさらだ。

『ぐへへくっちまうぞー』

『イチゴにぐちょぐちょにされるぅー』

『イチゴの力で腐らせるぞー』

 一体、彼らにとって『イチゴ』とは何なんだろう。

「アンタ、すげーことしてるな」

「いや、あの遊戯(ゆうぎ)と僕は関係ないから」

 あまりにも暇で寝てしまいそうなので、からかい口調で(かたわ)らへ話しかけると、苦笑が返された。遊ばれ疲れたイチゴは、旅人のくせに体力が無く、長椅子でグッタリとしていた。

「それにしても、レイ君はすごいね……まだあの中で過ごせるなんて」

「まあ、な」

 もう何十回目になるか判らない、同じ遊戯(ゆうぎ)に混じるレイを見やり、既に疲れ切った様子のイチゴは感嘆(かんたん)を漏らす。普段の言動がアレなので動機が不純(ふじゅん)に思えてしまうが、レイは子供好きだ。逆にシェムは子供(ガキ)が嫌いだ。ついでに目つきが悪いせいか、誰も寄ってこない。楽と言えば楽だが、暇で暇でしょうがない。

「ごめんね、勘違いした挙げ句、あの子たちの面倒まで見て貰って……」

 背後から掛けられた声に振り返ると、アイリが戻ってきていた。〝勘違い〟とは、【水の魔法使い】を訪ねてくる旅人についてだ。この国では都市部とそれ以外での認識が(いちじる)しくずれており、地方において錬金術士は半ば全知全能の存在で、そのせいで無茶な願いを抱き、術士を尋ねる人間は少なくない。

「でも本当に多いの。不老長寿の薬だとか、やれ死者蘇生薬だとか、そんな幻想を抱いてここに来る人。確かに父の二つ名は【水の魔法使い】だけど、何でもかんでも液体の〝薬〟と結びつけないでほしいわ。薬なら錠剤だってあるのに……っと、あら、ごめんなさい」

「ま、気にしないでくれ。アンタの気持ちが分からんわけでもない。それに面倒見てるのも、レイだけだしな」

 そう返すと、イチゴが『さっきまで自分も面倒を見ていたのに』と表情だけで苦笑した。

「ほんと、あの子たちが、もうなついてるだなんて」

「そりゃ、レイの好物だし……」

「え?」

「いや違った。あいつは、昔から子供と打ち解けるのが得意なんだ」

 うっかり事実を漏らし掛けたシェムの隣にアイリが座る。

「それで、二人が探しているクロウさん、だっけ。どんな人なの?」

「どうもこうも胡散臭いやつだよ。オレらの前に突然現れて連れ回して、ガキにあんなもん振り回すように教えるんだぜ」

 そう言って、シェムは壁に立てかけた狗剣(ライカ)を顎で指す。

「あら、旅人なら護身は身につける物でしょ?」

「まあな」

 実際、クロウと出会ったのも、護身の術が無くて人買いに攫われたのがきっかけだ。

 二人に本来の保護者たる両親はいない。思えば自分達と、ここの子供達の境遇は似ている。だからレイも、融け込めるのだろう。

「それで、虐待(ぎゃくたい)もいいところにオレ達をしごいた後、蒸発しやがった。やつが親代わりだとしたら、こんな無責任な話もないよな」

「でも、それで国中を駆け回っているんだから、大切な人なんだね」

 返されて言葉に詰まる。確かに大切な人間だ。でもここまで来たのはシェムの意志じゃ無い。アイリはその沈黙を照れ隠しの肯定と取ったらしく、うんうんと納得したように頷いた

「ま、父は、あと数時間以内には帰ってくると思うから、適当にゆっくりしてって」

「ああ、それまで待たせて貰うよ」

 ニッコリと微笑まれると、不意に、シェムの心臓が早鐘を打ち始めた。

 最初の剣幕とした印象が強すぎたためにアレだったが、アイリは綺麗な女性(ひと)だ。実際には自分達と三、四年も違わないらしいが、頭に戴いた黒絹の髪は、大人びた彼女によく似合う。

 今は作業の邪魔だったのか、髪は後頭部で一括りにされ、先程まで隠れていたうなじから肩胛骨(けんこうこつ)までがさらされている。その下の膨らみまで視線を移しかけた所で、

「どうかしたの?」

「え、あ、いや、別に――ベプシッ!」

 しどろもどろになっていると、シェムの眉間に裏拳がめり込み、長椅子が揺れる。

 子供らの輪から外れて駆け寄ってきたレイが、二人の間に割り込んできた結果だった。

「アイリ~、片付け終わったんだ! って、ああ、ごめんごめん」

「いっお前、なんだってそんな狭い所に!」

「ボクも、ちょこっと休憩(きゅーけー)。みんな元気だね。そろそろ疲れて来ちゃったや」

 台詞に反して声はまだ余裕を物語るが、座り直したアイリは顔を伏せる。

「ほんと、大変でしょう。特にあの年齢が遊びたい盛りだから」

「まあね、でも普段飼ってるオオカミさんに比べればね。もー発情盛りな相棒がいると、それを徹夜で宿屋に閉じこめておくだけでも大仕事――」

「おい、それは何のことだ! 誰の話だ! 濡れ衣だっ!」

 それはむしろお前だと、隣へ掴みかかろうとすると、イチゴや、アイリでさえも目を見開き、口に手を当てシェムを凝視(ぎょうし)する――(かたわ)らには、まさに性欲の権化たるレイがいると言うのに、

 この心の奥底から沸き上がる悲しみは、何だ。

「ねー、レイにーやん。遊ぼうよー」

 いつの間にか、長椅子は遊んでいたはずの子供達に取り囲まれていた。レイを呼んだ少年はゼンリと言い、子供らの中でも年長で、リーダー的な存在らしい。レイはよっぽど好かれたのか、皆の瞳が遊戯(ゆうぎ)への復帰待ち望んでいた。

「ゼンリ、レイさん達だって、昨日、町に来たばっかで疲れているんだから」

「でもレイにぃにぃ、すぐに戻るって言ってたもん」

 たしなめにかかったアイリの隣でレイは苦笑し、長椅子から立ち上がる。

 するとゼンリが、レイの首元を指して言った

「ねぇにーやん。首の(ひも)はなに?」

「ん、これ? ボクの宝物」

 立ち上がる拍子に襟から紐が見えたのだろう。レイが胸元から手繰り寄せた銀のロケットを、子供達はしげしてと見つめた。だがサービス精神旺盛(せいしんおうせい)な片割れにしては珍しく、すぐに胸の中へ戻そうとした。しかし、

「あ、知ってる! それこうやると開くんだよね」

 一瞬早く、ゼンリの手がロケットを掴んだ。半ば意識を手放していたシェムでさえも慌てて制止しようとするが遅かった。開かれた(ふた)の中から、収められていた家族の写真が現れる。

 父親らしき男に肩を抱かれた二人の子供。一人は、向けられたレンズが気恥ずかしいのか、(しか)め面をそっぽへ向けた目つきの悪い少年。今よりもだいぶ幼いシェム。その隣には、そんな彼をからかうように笑う少女がいて、父親は二人を見下ろして気難しそうな顔をしていた。

「これ、にいやん達の家族のお写真かな?」

「……そうだよ」

「レイ兄ちゃんは? こっちの女の子は誰?」

「この時、ボクがこの写真を撮ったんだ。こっち女の子は、ボクらのお姉ちゃんさ。もう、いなくなっちゃったんだけどね」

 懐かしさと寂しさを足したような言葉が落とされると、子供達は沈み込む。レイが、しまったと気付いたのは半瞬後。ここにいる子供は、なんらかの理由で家族を失った者ばかりだ。

「アイリ、薬の時間だ」

 そこで、冷えた鉄塊に物を喋らせたような声が、彼女を呼んだ。膝下まで伸びた外掛けを揺らして歩み寄るのは、(あか)い瞳を填めた黒髪の少年――さっきの事故を引き起こしたロイだ。

「あら、もうそんな時間? 今こっちに来たばっかなんだけど……」

「早くしろ」

 否と言わせない響きは強制力に満ちている一方で、どこか焦燥感を帯びている気がした。シェムが違和感に眉を細めると、「うるさくなるから行ってくるわ」と立ち上がったアイリがロイの横を通って、屋内に吸い込まれていく。

「なんだ、アイリは病気か何かだったのか」

「見ての、通りだ」

 さりげなく尋ねると、片眉を僅かに吊り上げたロイは、そうとだけ呟いた。意味を聞く前に彼はどこかへ行ってしまい、ほどなくしてアイリが戻ってきたが、最初から最後まで長椅子に座っていたシェムは、それ以上を聞く機会も無く、興味も継続しなかった。

 それから数時間が経ち、日が暮れた。

「ふふん、ふふ~ん」

 静寂が支配する紺の世界を、即興の鼻歌が通り過ぎた。デタラメながら、誰が聞いても上機嫌と判るそれは場違いなほど陽気に響き、まるで陽の下でも歩いているかのようだ。その理由を推し量るのは容易い。月明かりに照らされたレイの横顔は、心なしか養分を得た果実のような光沢を放っている。だが片割れとは対称に、シェムは肩を落としていた。

 結局、【水の魔法使い】は帰ってこなかったのだ。勿論、師の情報も何一つとして掴めず、子供が苦手なシェムは、疲れるだけ疲れて終わった。リーリアはアイリや子供達と話していたし、イチゴは観光気分だったのか、ほとんど疲れたような顔をしていない。そして我が片割れはというと、先に述べた通りである。

「いやぁ、良い日だった。また行くのが楽しみだよぉ」

「そんなに、気に入りましたか?」

「うん、みんな良い子だしねぇ。アイリも綺麗な人だったしー。シェムもずっとアイリばっかり見てたもんねー」

「……別にオレは、お前と違ってデレデレなんかしない」

 レイが年上に興味を持つだなんて珍しい。そんな感想を内心で呟きながら、返されるだろう軽口に身構える。だがレイは開きかけた口を閉じた。何だろうと聞き返そうとしたシェムよりも早く、リーリアが誇らしげに言う。

「アイリお姉ちゃんは強い人です。なんたって、みんなのお姉ちゃんですから」

「うんうん、そうなんだよ。シェムってば、口ではこう言ってるけど、生粋(きっすい)のお姉様スキーだから、もうメロメロのはずなんだ」

「おいコラちょっとまて、勝手に人の性癖を決めるなっ!」

 いつも通りのレイだった。どうやら違和感は勘違いだったと結論付けると、シェムは普段通りの溜息を吐く。

「――あ」

 レイが急に立ち止まったのは、直後だった。

「どうした?」

「ロケットが、ない」

 そう手繰り寄せた紐の先が、確かに無くなっていた。もしかしたら遊んでいる間に切れたのかも知れない。帰り道で落とそう物なら、その物音でレイか、後ろを歩く自分が気付くはずだ。だから落ちたとすれば、錬金術士の家に他なかった。

「どうせ近いうちにまた行くんだ。その時に探せばいいじゃないか」

 どうにせよ今日はもう遅いと無難な提案をしたつもりだった。

 しかし、レイの片眉が吊り上がる。

「ボク、ちょっと探しに行ってくる。みんなは、先に帰ってて」

「おい、レイ。この暗さじゃ見えないって。探すにしろ、朝になってからまた――」

「行ってくるって言ってるだろっ!」

 突然張り上げられた声に、リーリアとイチゴが驚くと、レイも我に返ったようにハッと口を(つぐ)み、シェムに背を向けるとそのまま走り出し、静止を求めるシェムの声が虚しく響いた。



 いつだって、そうだ。

 いつだってシェムは、わかっているつもりで、何もわかってない。

 森は、月の抱擁(ほうよう)すら届かぬ深い闇に塗り潰されていた。脈打つ心臓が重く、酸素を求める喉が苦しい。何度か木の根に(つまづ)きそうになるが、構わず走った。どこまでも続く色無き世界(モノクローム)。伸ばした腕の先さえ黒に飲まれ、木の配置、枝の高さが辛うじて浮かび上がる視界は、とても探し物ができる条件じゃない。冷静に考えずとも、片割れが正しかっただなんて、解っていた。

 だけど、駄目なのだ。

 枝葉の天井が途切れた空間に出ると、白い月光が目に差し込む。

 立ち止まったレイは、前屈(ぜんくつ)して両膝(りょうひざ)を押さえると、早鐘打つ自分の鼓動を聞きながら背後を振り返る。どれだけ走っただろう。木々がざわめく深淵(しんえん)の奧に、シェムが追ってくる気配は無い。足は自分の方が速い。それにこの暗さと視界の悪さだ。

 荒くなった呼吸を整え、レイは錬金術士の家の方角へ向けて顔を上げた。今まで気にしなかった寒さが体の内側から込み上がってくる。冥界の口のように横たわる森の暗闇から吹き込む風が、体温を喰らう。木々の呻き声、夜を(うごめ)く見知らぬ鳥の鳴き声は、迷宮に迷い込んだ子羊を嘲笑する悪魔の会話のようだ。

 歩き始める前に立ち止まって、襟元(えりもと)をきつく結び締めた。恐くなんて無い。独りでも大丈夫。しかし踏み出した一歩は木の(みき)に躓き、さっそく重心を崩してしまったレイは踏鞴(たたら)を踏む。

 そんな自分がおかしくて、苦笑を結びかけたその時、カツンと妙な音が、木の(みき)を叩いた。それを確認する前に、本能が体を(よじ)らせる。耳元を掠める音の軌跡(きせき)。レイはすぐ手近な木影に隠れると、周囲を覗き込む。心臓の音がやけにうるさい。すると僅かに浮かび上がったのは、小柄な人影だった。全身を黒装束で(おお)い、月明かりに照らされた顔は、奇妙な紋様を施された仮面で隠されている。

「おかしいな。痛いじゃ済まないコトされる憶えは無いんだけど?」

 木の(みき)に突き刺さった短剣を横目にやりながら問うと、一瞬後には、仮面が眼前にまで迫っていた。急いで木陰から脱すると、今しがたまでレイの顔があった部分を、影の槍脚が穿(うが)ち、(みき)が弾ける。背中の弩弓(クロスボウ)に手を伸ばしかけると、何の予備動作も無く影の拳が迫ってくる。レイは得物を諦め、その一撃を受け流すと、手の平に痺れが走った。反撃の一打を加えようとし、ハッと、大袈裟に距離を取った。翻された黒い(てのひら)。鍔を切り裂かれた帽子が飛び、青銅色(あおがねいろ)の一房が舞う。再び反された影の腕裏に仕込まれた黒塗りの刃と、レイが腰から引き抜いた短刀が噛み合わさった。ギチギチと、黒刃を受ける腕の筋肉が悲鳴を上げる。体型はほとんど変わらないのに、この膂力(りょりょく)の差はなんだ。咄嗟に影の脇腹を蹴り飛ばすと、くの字に折れた体は、意外なほどあっさりと倒れた。

(なんだ?)

 間合いを取りながら、レイは眉根を寄せる。人の肉を蹴ったはずの足裏に残る感触がおかしい。例えるなら土嚢(どのう)でも踏みつけたような感じだった。

「ボクは今、とても機嫌が悪い。次は、怪我じゃ済ませられないかもよ?」

 言いながら、頭は遁走(とんそう)を構築し始め、腰の矢筒に伸ばした手が、一本だけを掴み取る。異質な影は幽鬼(ゆうき)の如く立ち上がると黒刃を構えて、木を蹴り砕く足が瞬く間に距離を詰めてくる。

 袈裟に()がれた腕に合わせて一歩を退くと、眼前で風が切れた。二振り、三振りと闇を旋回する見えない刃を見極め、徐々に下がっていくと、いつのまにか背中を硬い感触が叩く――木の(みき)だ。影は追いつめたとばかりに黒刃を大きく振り上げ、レイは両手で握った短刀を全力で叩きつけ、凶器の軌道を大きく逸らす。直後、真横に跳んで距離を取ったレイを追う刃が、硬い音を奏で木の(みき)に食い込んだ。刃の停滞は一瞬。レイは握り締めた矢を影の(もも)に突き刺すと、脇をすり抜けて一気に二十メートルを疾走。

 だがそのまま森を駆け抜けようとした足が、止まった。

「……冗談、キツイ、な」

 闇に屹立(きつりつ)する新たな黒装束(くろしょうぞく)の者がさらに三人。レイの行く手を遮るように待ち構えていた。別の逃げ道を探す前に、背後から羽交い締めにされ、視界に、矢の突き刺さった腿が見えた。

 腿を蹴飛ばしても呻き声一つ返ってこない。四肢に力を込めれば、その数倍以上の力で押さえ込まれた。森の陰影に姿を彫った黒装束の一人が、草木を踏みしめて眼前に立つと、黒剣の切っ先がレイの首筋へ当てられた。皮膚に突きつけられた鋼の冷たさが、瞬後、痛みに変わる。

「シェムっ!」

 ついに堪えられなくなって、今まで飲み込んできた片割れの名を叫ぶ。

 シェムが助けに来るなんて、そんな都合の良い偶然があるはずは無い。

 しかしそれでも影達は一斉に背後を振り返り、闇が切り裂かれた。黒剣を握った腕が落ち、仮面を付けた頭部が宙を舞う。制御機関を失った体が重力に従って崩れると、漆黒が駆け、迎え撃とうとした残り二人の手足が闇夜ごと切断される。抵抗も忘れ、レイはただその虐殺を呆然と眺めていた。最後、漆黒が(ほお)の真横を抜けると、レイを羽交い締めにしていた仮面を破砕して、噴き出した体液が闇を濡らす。

「シェ、ム?」

「残念だが、ぼくはきみの〝シェム〟じゃない」

 鋼の硬質を(まと)った声。月光に照らされてもなお色を映さない漆黒の髪が風に流れた。双眸(そうぼう)を彩る緋色(ひいろ)の瞳。ざわりと、レイの背筋を何かが過ぎり、跳ね上がった俊足が人影の側頭部に叩き込まれる。すると掲げられた腕が、レイの足を受け止めていた。

「危害を加えるつもりもない」

 飛び退くと、ロイの無表情がそこに屹立し、ポケットから取り出した物をレイの足下に投げる。月明かりに照らされた小さな鈍色は、探していたロケットだ。

「今日中に届けるよう、アイリに言われた」

 素っ気ない物言いは錬金術士の家にいたロイと変わらない。だがそんな彼から、レイは注意を外さなかった。暗闇のせいで(かす)んで見えるが、ロイは何も手にしていない。しかし転がる死体は、どれもこれもが〝切断〟されている。何も持たずにどうやって。いや、例え剣か何かを手にしていたとしても、一瞬で(こと)を成し遂げた説明にならない。

 ロイに視線を固定したまま、足下のロケットを拾う――拾おうとして膝が折れた。自分の体に何が起きたのか解らないまま両手を付くと、体が、ひどく重かった。意識の集中が続かず、目蓋が重い。立ち上がろうとして失敗し、草と土の匂いがする大地に倒れ込む。さっき傷つけられた首筋を雑草が撫でた。あの刃に薬でも塗ってあったのか。ロイは倒れたレイを仰向けに直すと、取りこぼしたロケットを手に握らせてくれる。

「お前達が探しているのは、その飼育員のことか?」

「飼育、員? 何のこと」

「その写真の男を、施設で見た記憶がある」

 それがロケットの中身の話だと気付いた時、レイは霞んでいく意識を強引に繋ぐ。

「父さんを、知ってるの?」

「いや、担当部署が違う。ぼくら二期生の視察に来た際に、見ただけだ」

「……二期生?」

「そうだ。君たち三期生の生産のために――いや、まさか、何も知らされてないのか?」

「教えろ、キミは、何なんだ。ボクに何か用なのか」

 まるで何もかもを知っているかのような口ぶりに苛立ち、意地と気合いと根性でそれだけを呟く。今にも闇夜へ消え入りそうなほどか細い声は、ちゃんと聞こえたはずだ。

 だがそこで――元から口数は多くなかったが――ロイは沈黙した。

 それからまさに今、初めて気付いたかのように、

「――ぼくは、君を愛する者だ」

(……は?)

 直後、顔を近づけてきたロイの唇がレイの首筋に埋まり、その犬歯が皮膚を突き破る。薬のせいで悲鳴を上げることはできず、耳元で何かを嚥下(えんか)したロイの喉が、ゴクリと鳴った。それでも抵抗しようと体を(よじ)らせた所で、いよいよ思考が鈍くなる。目蓋が鉛のように重たくなり、そこでレイの意識は一度途切れた。

 次に目覚めた視界では、木組みの天井が広がっていた。

「あ――」

「レイっ!」

「……やあ、シェム」

「やあじゃねえよっ! 昨日、一体何があった! いなくなったと思って探してみたら森でぶっ倒れてやがるし、その傷はどうした、誰にやられた」

 枕元にいたシェムが覗き込んできた途端(とたん)に、レイは現実へ戻ってきた気がした。根掘り葉掘りを訊くにしろ、せめて『大丈夫か』の一言くらい、言ってみてはどうなのか。辟易としながら上体を起こすと、いつの間にか服は着替えさせられて、首には包帯が巻かれていた。

「この手当と、ボクの服を着替えさせてくれたの、シェム、だよね?」

「あ、ああ。そうだが……ってそうじゃなくて、その傷はどうしたんだ」

 さりげなく話題を変えようとしても駄目だ。

 わざとらしく長い溜息をついてみせると、レイは答えてやる。

「森のお化けに襲われました。勝手にはぐれてごめんなさい。もーしません」

「は、待て、ふざける時じゃ無いぞ」

「森の中でお化けに襲われました。襲われた後は記憶が無いのでよくわかりません。以上」

 案の定に食い下がって来た片割れに、同じ言葉を繰り返した。

 倒れる前は覚えている。だけど話したくなかった。付き合いの長いシェムは、レイが(がん)として話す意志が無いと悟ると、納得いかないながらも、椅子に腰掛け直す。

「……近々、話せよ」

 そうとだけ言い残して、そっぽを向いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ