俺の朝、僕の朝 前編
「俺の朝、僕の朝」(前編)
『俺の朝』
やわらかい朝の陽射しの中、俺は目覚めた。あぁ、心地いい。
今日は土曜日で、会社は休みのはず、そう思い俺はまた布団にもぐりこむことに決めた。顔にやわらかい感触がある。
どうやら俺は景子の裸の胸に顔をうずめているらしい。
む?昨晩は景子と寝たっけ?
うずめた顔を左右にごにょごにょと動かした。
おかしい。なにか、少し感じが違うぞ?
目を瞑ったまま、俺は景子の胸の感触を鼻先で味わっていた。
おかしい。景子の胸は、こんなにスッキリしていたか?
もっとこう、たゆゆーん、とやわらかく豊かで、埋もれるくらいの質量がなかったか?
俺は、ぱちりと目を開ける。目の前にある、裸の乳房をじっと見る。
スレンダーだ。少し細身だが、バランスよく整った美しいと言ってもいい、見事な乳房だ。あれ?でもこれは、絶対景子とは違う。
俺は、少しギョッとしたように、その胸から顔を離した。
まさか!俺は浮気などしていない。断じてしていない!酔っ払って違う家に入ったりしないし、ましてやそこで別の女と寝たりすることなど、決してありえない!
俺はあわててがばっと、上半身を起こした。目やにをこすりながら、辺りを見回す。見たこともない部屋だ。白い壁に、2DKくらいの広さだろうか、整ったスッキリとした部屋。イヤイヤ、待て待て、ここは間違いなく俺の家でも、俺の寝室でもない。
俺はすっと視線を下に降ろした。シーツごと飛び起きた俺のせいで、目の前にいた女性は上半身裸のままで、眠そうにうす目を開け、ふあぁ~と欠伸をした。
見てはいけないっ!破廉恥だ。他所様の女性の裸を見るなど、景子に何と言えばいいのかっ!
俺はあわてて目をそむけた。
女性はのろのろとした動作でシーツを少し手繰り上げ、乳房だけを隠した。髪の真っすぐで長い、切れ長の瞳が美しい、パーツのスッキリとした美しい女性だった。イヤイヤ、も、もちろん、景子の方が美しい、に、決まって、いるっちゃあいるが、まあ、その次くらいに美しい。
女性は少し薄い微笑を浮かべると、穏やかな声で言った。
「あれぇ、シンくん。どしたの、そんな飛び起きちゃって。」
シンくん?誰だ、それ?
俺は花田元喜だ。呼ばれるなら、モトくんだ。シンくんじゃない。
俺は少し後ずさるように、ベッドの壁際をずるずると枕元に移動した。髪の長い美しい女性は、シーツを纏ったまま、むくりと起き上がって、床から下着一式を取り上げると、ずるずるとシーツだけを引っぱりながら隣の部屋に歩いていった。
こ、ここは、どこなんだ?何がなんだか、サッパリわからない。俺は現状確認をするのが精一杯で、頭の中はほにゃほにゃになっていた。
そのほにゃほにゃの頭では、部屋を見回すくらいしかできなかったのだが、なんと、ふと気付くと俺はパンツをはいていない!おいっ!恥ずかしいだろ!パンツは?パンツ!布団の中をめくりまわっていると、足元のずっと奥のほうに、くちゅくちゅになったパンツが発見された。しかも、それはいつも俺がはいているボクサーブリーフ系のやわらかいものではなく、シャリシャリした生地のトランクスだった。
いやっ!ここで選り好みをしている場合ではない。とりあえず、この起き抜けで元気なヤツを隠さねば!慌てて俺はパンツをはいた。
そうしているうちに、隣の部屋から女性が下着姿で現れた。またもや、破廉恥な!思わず見惚れてしまった自分を叱咤するように、目を逸らした。いや、それでも彼女は、スレンダーな体つきで、実に美しかった。何を考えている、この大馬鹿者が!
彼女は、大きめのTシャツを上からばさっと着た。それほど大柄ではないので、男ものらしきそのTシャツで、下着の全ては隠れた。なんだか、残念なのやら、安心したのやら…。
彼女は、キッチンでコトコトとコーヒーを入れ始めた。
「シンくん~、朝ごはん、トーストしかないんだ~。チーズのっけて焼こうか?」
俺は思わず、ああお願い、と言いそうになるくらい、自然な流れの世界だった。
いかんいかん!とにかく、何か過ちがあったのなら、謝罪せねば!不義理もよろしくないし、もちろん援交に金を払うような愚か者のごとき行動もしたくない。
「えー、あのー、ですね。」
俺は勇気を出して、彼女に声を掛けた。彼女は、なにごと?といった感じでくるりと顔だけをこちらに向けた。
「えー、もしかして俺は昨晩、どうもキミに不埒なことをしでかしてしまったのかな?」
何をワケの分からないことを言っているんだ。
「もしもだ、もしも、とってもイカンことをしでかしてしまったのなら、謝る。この通りだ。しかし、信じて欲しいのだが、全く悪意はないし、何で自分がこうしているのかもよく覚えていないんだ。わけがわからない。」
いや、俺の言ってることがわけわかんないだろう。
「えー、あー、単刀直入に聞くが…、オレはキミに何かしたのかな。」
女性の顔がにわかに曇って、「?」といった顔になった。
「はぁ?シンくん、なに言ってんの。寝ぼけてんの?ナニって、フツーに一緒に寝て、フツーにエッチして、フツーに目が覚めただけじゃん。」
ふっ、と呆れたような笑いを残して、彼女は正面を向き直りコーヒーをコポコポと淹れ続けた。
なにぃっ!?フツーにエッチしてっ?それはイカンだろ!うおおおおお!俺の馬鹿!なんてことをしてしまったんだ!浮気?すまん!景子!そんな記憶は微塵もないのだが、俺は!俺はっ!
びしっ!びしっ!びしっ!と俺は自分の頬を何度も叩いた。
「うわ、うわ、うわ、なにやってんの!?シンくん!どっかおかしくなっちゃった?起きてから、ヘンよ?」
彼女がコーヒーをテーブルに置きながら、目を丸くして俺のほうを見ている。俺は、パンツ一丁のまま、ベッドから転がり落ち、床に土下座した。
「すみません!俺がしでかしたことがどういうことか、よくわからないけど、どーも、記憶にない世界で俺はとんでもないことをしてしまったようで!すみません!これって、なに?行きずりの、ってやつだったり?もしかして俺、あなたを買っちゃったりしたり?イヤイヤ、援交ってことも?酔っ払ってた?!お金払ってどうこうって問題じゃないと思うけど、と、とにかく、勘弁してください!」
俺は一心に頭を床にこすり付けた。彼女は、唖然としてこちらを見ていた。この野郎、さっさと金払えよ、とでも思っているのだろうか。
「イヤイヤ、あの、あのね、シンくん、一体ナニやってんの?ナニ言ってんだか、ホノカ、サッパリわかんないんだけど。」
俺は、少し頭をあげて彼女を見た。彼女は呆れ顔でこっちを見ている。
「えー、ということはお金の請求とかはナシってことで…?」
彼女は口をあんぐりと開けた。そのあとクスクスと笑いながら言った。
「はぁ?シンく~ん。キミね、彼女とエッチするのに、いちいちお金払うの?じゃ、今までの分、全部請求しちゃうわよ?ン百万だわね。」
俺は仰天して叫んだ。
「ン百万!そ、そんなお金はまったくもって持ち合わせてなくて、えーと、…」
彼女はケラケラと笑って、コーヒーを一口すすった。
「ナニ、慌ててんのよ。冗談に決まってるじゃん。いやホント、どうしたの?シンくん。いつまで寝ぼけてんのよ。いい加減にしないと、怒っちゃうよ?」
俺は、混乱した頭を整理しきれずに、あたふたと落ち着きなく座っていた。まず、俺はシンくんではない。モトくんだ、っちゅうの。彼女は何かを間違えているのか?俺はわしわしと頭を掻き毟った。
あれ?
俺の髪ってこんなに長かったっけ?俺は髪を何度も触りながら首をかしげた。そしておもむろに両手を見る。なんだか妙にスッキリした手だ。ゴツゴツ感がない。そしてそのまま目を落として、裸の上半身を見た。む!胸毛がない!つるんつるんだ!それはそれで喜ばしいことなのだが、イヤイヤ、喜んではいられない。
オレは、慌てて立ち上がって、彼女に、ちょっと失礼、と言って、洗面台らしきところへ向かった。
そこで自分の顔を見て、愕然とした。
「うわぁぁあぁぁぁあぁぁーーーー!」
俺じゃない。まず、少なくとも、若い。そして、俺より男前だ。やった!俺、男前。いや、それはちょっと違う!俺は、ピタピタと肌に触れてみたり、つねってみたりしたが、これは間違いなく俺だ。つねったら痛い。
「俺が俺じゃない!」
そう言って、洗面台を飛び出した。
彼女は、唖然とした顔で俺の方を見て、呆気に取られていた。
「どういうことだ?俺って、俺?俺だよね?俺って!」
なにをオレオレ言っているのか。
もう、彼女は何も言えないでじっと座ったまま、目を丸くしていた。
俺は叫んだ。
「ゴメンナサイ!とにかくワケがワカリマセン!」
彼女は、やっと口を開いた。
「いや…、ホノカもわかんないけどさ…」
俺は、慌ててスーツと荷物を捜した。どたばたとそこら辺を探し回る姿に、彼女が驚いたように声を掛けた。
「シンくん、何捜してんの?ホンット、ヘンだよ?マジで。」
俺はそこら辺を漁りながら、それでも少し冷静に答えた。
「Yシャツとスーツとズボンと、スーツケースを!」
それを聞いて、彼女がまた不思議そうに答えた。
「シンくん、そんなもん、持ってたの?まだ就活には早いよ?」
俺は、捜すのをピタリと止め、彼女の方をじっと見た。そしておもむろに聞いた。
「じゃ、何か服を。」
彼女は、面倒臭そうに立ち上がって、そこら辺からTシャツとジーンズを取り出してきて、ハイと俺に渡した。これ?スーツは?取り上げられちゃった?
俺は、渡された服をとりあえず不承不承、着てから、改めて彼女に聞いた。
「で、すみません。シンくんって、俺のことですか?」
彼女は、ダメだこりゃ、とでもいう感じで両手を広げた。
「もう!もういいよ、シンくん。もう一回寝るか、その辺でも散歩してきたら?もうヘン過ぎて、ホノカ、ついてけないよ~。」
彼女は、そういってごろりと寝転んだ。
俺も、とりあえずここは一旦、脱出した方がいいような気がして、辺りを再度見回して自分の物らしき痕跡はないか確認した。
そして、彼女に小さな声で、失礼しました、と言って、玄関を出た。彼女は背を向けてぴらぴらと手を振った。
靴も見覚えのないものばかりだ。多分男物は自分のだろうと思い、それを適当に履いて外に出た。
外の陽射しは、異常にまぶしく、そして、俺の脳みその皺はそれ以上にまぶしくつるんつるんに伸びきっていた。
『僕の朝』
妙に布団がふかふかだ。
そんなことを感じながら、僕はぼんやりと目を覚ました。
薄目を開けると、いつもの見慣れた蛍光灯ではない、少し「寝室」といった感じの上品なシャンデリア状の蛍光灯が見えた。
ん?こんな豪華な蛍光灯、なわけないよな?僕は少し目を瞬かせて、ちょっとだけ顔をひねった。ベージュの壁に囲まれたその部屋は、上品な調度品や、置物で彩られた、いかにも「寝室」の空気を感じさせる空間だった。
僕は、少し整理できていない寝ぼけた頭を左右に動かしてみた。確かに起きている。夢ではない。
布団からもう少し顔を出して、辺りを見回す。見たことのない部屋だ。どこだ?ここ。ホテル?いや、違う違う。
左を見ると人がいる。女性なのはわかる。穂香か?いや違う。髪がストレートのロングではない。セミロングでカールしている。明らかにこれは穂香ではない。だいたい、僕たちはこんな部屋で一緒に寝た覚えはない。一体どういうことだ?僕の頭は、何も理解できずに混乱した。
ただ、僕には確かに昨晩、穂香と一緒にベッドに入った記憶がある。いつもの2DKの狭いマンションのベッドに2人で裸で飛び込んだ記憶がある。それは間違いない。
とすれば、ここはどこだ?穂香は?
僕は、意外に落ち着いていた。“間違い”といったことが起こり得るような要素を、僕は持っていなかったからだ。そこには自信がある。
隣に眠る女性を起こさないように、僕はそっとベッドから起き上がった。
もう一度、冷静に周りを見渡す。ぜんっぜん、知らない。イメージからして、一戸建てか何かの寝室って感じ。そんなとこに僕がいるはずがないだろ。ありえない。
ふと、自分の格好を見てみると、妙にこざっぱりとした、センスのいい青いパジャマを着ている。僕はこんなパジャマ、持ってないって。ちらりとベッドで眠る女性を見ると…ペアパジャマだ…。夫婦か、おい。ないない。それはない。
どうしたことだ?と僕は頭に手をやった。ポリポリと頭をかいた時、違う、なんだこの短い髪。手も、えっらいごつごつしてるぞ?
僕は、顔をしかめながら、もう一度辺りを見回した。部屋の隅に化粧台がある。そこの鏡に近づいてみる。僕は、僕の姿を映して、絶句した。
思わず「おうっ!」と叫びそうになったが、ここはグッとこらえた。
僕じゃない。僕はもっと細面だ。不細工とは言わないが、ずいぶんとがっしりと男っぽい顔立ちになっている。いつの間に?どこかでケンカでもしてフルボッコにされたのだろうか?いや、フルボッコにされて、こんな普通の顔のはずがない。もちろん、痛みもない。
僕が鏡を前に、おろおろしていると、後ろから声がした。
「あら、あなた。ずいぶん早いのね。会社、お休みでしょ?もう少しゆっくりしたらいいのに。」
艶やかな美しい、鈴のような声だった。僕は振り返った。
先ほどまで横で眠っていた女性が、半身を起こしてこちらを見ている。はだけたパジャマの胸元から、豊かな乳房の谷間が露わに見える。少し寝癖はついているが、髪を内巻きにカールした妖艶さを感じさせる女性だった。瞳はとても大きく、すっと通った鼻筋、唇はスッキリと薄め。起きぬけで、くねった姿勢も妙に扇情的な感じを与える。
美しい。確かに美しい、が、もちろん、穂香には、ま、負ける、かな、負けます、はい。穂香の次くらいね。
僕は、ごくりとつばを飲み込んで、何かをしゃべろうとしたが、上手く言葉が出なかった。
「もう朝食にする?それとも、もう少し一緒に寝る?」
僕は、その妖艶さについフラフラと負けて、そのままベッドにもぐりこんだ。彼女の艶やかな香りがする。思わずその豊かな胸元に顔を埋めたくなった。ふかふかの布団に、彼女の色香、たゆたゆの乳房、僕はもう天にも昇るような気持ちだった。
その時、ふいにスパァンと後ろ頭をスリッパの裏か何かでひっぱたかれたような気がした。はっと振り向くと、そこには穂香の幻影が頭に角を生やして仁王立ちしていた。
(シンくん、ふざけてんじゃないわよ。ナニ、大人の色香に惑わされてんのよ!)
そう言われたような気がして、僕は慌ててベッドを飛び起きた。
「も、もう、起きるよ。」
そういう僕に、彼女は少し残念そうな顔をして、上半身を起こした。それでもやんわりと優しい微笑を浮かべながら、言った。
「はい、じゃぁ、今から朝食の支度、するわね。」
彼女は、パジャマの胸元を直して、ガウンのようなものを羽織って出て行った。
僕は、自分のほっぺたを、スパァン!スパァン!とはたいた。
(ごめん、穂香。僕が悪かったー!)
それから、ベッドに腰掛けた僕は、少し冷静に考えて見た。
おかしい。明らかにこれは僕の家じゃないし、僕自身も僕じゃない。でも、感覚はしっかりあるし、僕はどうもこの僕のようだ。この顔の僕を見て、さっきの女性が何も違和感を感じなかったところをみると、この家のダンナは、この僕の格好をした男(今は僕なんだけど)らしい。でも、これは僕じゃない。
ワケがわからない。
僕は頭を抱えたが、このままでいるわけにも行かない。とりあえず、寝室の中をうろうろしてみた。クローゼットもあり、この男のものらしき服がいくつかあった。パジャマのままも良くないような気がして、僕はこの中から一番無難なシャツにスラックスを選んで着替えた。そのうち機を見て一旦外に脱出するのも手だ。
そうこうしているうちに、彼女が部屋に声を掛けてきた。
「あなたー、朝ごはん、できたわよー。」
僕はその時点では既にかなり落ち着いていた。
「ああ、今行く。」
そう言って、勝手のわからない家の中を、迷いながらダイニングへと向かった。
そこには、テーブルに温かいコーヒーと、ベーコンエッグとヨーグルト、サラダに厚切りのトーストが並んでいた。
うわ、なんて朝食らしい朝食!チーズのっけた6枚切り食パンとは違うぞ!
(悪かったわね!)
後ろから、また穂香にひっぱたかれた気がした。
「あら、あなた。もう着替えたの?どこかにお出かけ?」
僕は、それらしい言い方で返事をするよう心がけた。まずはヘンな波風を立てない。
「あ、ああ。朝食が済んだら、少し散歩でもしようかと、ね。」
女性(おそらく妻)は、魅惑的な笑顔で優しく微笑んだ。
「あら、珍しいこと。いつもは、もっと寝かせてくれって駄々をこねるのに。」
僕は、とりあえず朝食を済ますことにした。半分くらい食べた頃だろうか、廊下をトテトテと走る音がする。
ガチャとダイニングのドアが開いて、5~6歳の少女がパジャマ姿で現れた。
「父ちゃん、早いねぇ。起きてたら、みうも起こしてぇよー。」
そう言いながら、少女は僕の足元にしがみついてきた。むむ、これは娘か。
「パジャマじゃないしー。とうちゃん、どっか行くの?」
彼女が、僕が何かを言う前に言った。
「美唯ちゃん、朝はまず“おはよう”でしょ?父さん、珍しく早起きして、お散歩ですって。」
美唯と呼ばれた少女は、ぎゅーっと僕の足にしがみついて言った。
「じゃあ、みうもいくー!」
「何言ってるの、美唯。あなたは午前中にピアノの練習、しないといけないでしょ!ダメです。」
そんな、本当に平和なごく普通の家庭の会話を耳にしながら、僕の頭はまったく別のことを考えていた。こりゃ、いったいナンだ?何が起こっているんだ?とりあえず場を乱さないようには押さえているが、本当なら頭を掻き毟って大声で叫びたい気分だ!
ダメだ。まずは、一旦ここから脱出しよう。そして、落ち着いて考えてみるんだ。自分の家に戻ってもみたい。
僕は、少し早めに朝食を平らげると、そそくさと立ち上がって言った。
「じゃ、ちょっと出てくるから。」
彼女はビックリしたようにキッチンから声を掛けた。
「あら、ホントに早いのね。気をつけてね。」
「えー、みうも行きたいー。」
パジャマで地団駄を踏む少女を尻目に、僕はそそくさと玄関にある見慣れない靴を履いて外に出た。
朝日がやたらとまぶしかった。僕の頭の中も、朝日で蒸発しそうなくらい熱気を帯びていた。
『会合』
花田元喜は、公園のベンチで頭を抱えていた。
正確には、誰とも知らない体で、花田元喜の脳みそが頭を抱えているのだが、周りにはそんなことは関係ない。
マンションから、そそくさと逃げるように出てきた元喜は、とりあえず行く当てもなく、この近くの公園のベンチに座り込んだのである。
そしてブツブツと呟く。
「これは一体誰の体なんだ?俺じゃないよな?俺、こんなスッキリした顔のイケメンじゃないし。こんなに、体の線も細くない。いやいや、細かいことはどーでもいい。自分じゃないのに、中身は俺?何で?俺、どーしたらいいの?この格好で家に帰っても、オレオレじゃ、通じないよな?景子にどう説明する?こんなんなっちゃいましたー、てか?無理無理。えーと、まず電話で説明?オレオレ詐欺じゃん、まんま。」
ああう!と唸って、頭を掻き毟る。かといって、さっきの部屋に戻るには、「自分」に関する情報が少なすぎる。誰かもわからないのに、あの女性と話が合う訳がない。
あー、あの女の子、綺麗だったなー。さらっとした髪の感じとか、にこっと笑った時の無邪気な感じとか、あー、大学の時に会ってたら恋してたかなー、などと、訳のわからない妄想に現実逃避を始めた。だめだ、これは。まったく処理能力が追いついていない。
そこにふと、近寄る影があった。ほんの間近まできても、元喜は全く気付かなかった。幻想や妄想で、くらくら状態だったのだから仕方ない。
影は、不意に話し掛けた。
「あのー、あなた、僕、ですかね?」
なんだ、その質問?
頭をわしゃわしゃと掻き毟りながら、顔を上げた元喜は、そのまま硬直した。男の顔を凝視したまま、かろうじて呟いた。
「あ、あんた、俺?」
なんだ、その質問?その2。
元喜は、がばっと立ち上がって、声を掛けた男の両肩を掴んだ。
「俺だーーーー!俺!俺だよね!これ!絶対!なんで?なんで、俺?俺、ここにいるのに、俺だよね!コレ!」
もう言っている意味がサッパリわからない。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってください。あなたこそ僕じゃないですか!」
そう言われて、元喜はふと我に返った。
二人は。お互いを見つめ合って、しばらくして同時に言った。
「どういうこと?」
二人は、ベンチに並んで腰掛けた。
とりあえず、何も言葉を交わしていないが、まあ座ろう、ということになって、並んで腰掛けて10分は経つ。二人とも眉間に皺を寄せて、何か必死で考えている。
最初に口火を切ったのは、元喜だった。
「と、とりあえずさ、キミ、名前は?まさか花田元喜、なんて言わないよね?そんなこと言われたら、俺、自分がナンなのかわかんなくなっちゃうよ。」
思わず涙目ですがるように、元喜は聞いた。
「僕の名前は、宮本信哉です。あなたは花田元喜さん、というんですね?」
信哉は妙に落ち着いていた。元々が理系の大学生だけに、考え方が理論・分析傾向にあるのだ。
「でも、体は僕の方が花田元喜さんで、あなたの方が宮本信哉、ということ、…ですか。」
ため息まじりで、信哉は話した。
元喜は呆気に取られたように、返した。
「キミ、冷静だねぇ。お、俺なんかもう頭こんがらがっちゃって、何がなにやら…」
信哉は少し微笑みながら言った。
「いや、それは僕も同じですよ。ただ、わかる範囲のことを客観的に言っただけです。」
元喜は根っからの文系営業肌だ。その辺は、猪突猛進でやってきたタイプだけに、客観的な分析は苦手極まりない。
「そ、それでもすごいよ。キミ、いくつ?」
「僕ですか?21です。花田さんはおいくつなんですか?」
元喜は、照れくさそうに鼻の頭をかいた。彼の鼻だけど。
「ああ、俺は31。キミとは10歳も違うのにな。すごいな、落ち着いたもんだ。」
元喜は感心したように言った。
「まぁ、そこは置いときましょう。他に分析できる現状があるかもしれません。聞きたいことは山ほどですけど、まずは僕の方から体験したことを話しましょう。」
元喜は、うんうんと頷きながら信哉の話を聞いた。
「まず、僕は朝、見知らぬ部屋で目が覚めました。確か昨晩は自分の部屋で眠ったはずなのに、何故か目が覚めたときはベージュの壁の、いかにも寝室と言った感じの部屋で、ブルーのパジャマを着て。」
元喜が、あっ、と言って遮った。
「あ、それ、俺の寝室!シャンデリアみたいな蛍光灯があったろ?」
信哉は続けた。
「そうですね。ちょっと僕には不似合いな部屋でした。そして、横には僕とお揃いのペアパジャマを着た女性が寝ていました。」
「うわ!景子だ!それ、景子だ!」
信哉は、ははは、と苦笑いをして続けた。
「多分、花田さんの奥さんだと思います。奥さんは、起きて朝食を作ってくれました。僕は、騒いで奥さんを驚かせてはと思って、とりあえず部屋にあった外出着らしき服を着て、朝食を食べて出てきました。あ、あと、朝食中に、自分のことを『みう』と言う少女がしがみついてきました。娘さんですか?」
元喜が感心したように頷いた。
「おお、そうだ。それ美唯だ。俺の娘。」
「なるほど。そして僕は、この場に留まっていてもボロが出るだけだと思って、散歩すると言って出てきました。」
話を聞き終わって、元喜は10歳も年下のこの青年が、えらいしっかりしたもんだ、と感心した。それに比べて俺ときたら…、と思わず赤面してしまった。
「じゃ、今度は花田さんの方、聞かせてもらっていいですか?」
ドキリとしたように、元喜は顔を赤らめて俯いた。
「オ、俺は…」
その様子を見て、信哉は察したのだろう。
「花田さん、いいんですよ。どうせ、穂香のやつ、素っ裸で横に寝てたんでしょ?多分、僕も素っ裸で。」
ふぅ、とため息をつくように、少しつらそうに信哉が言った。
「いいんです。隠してもしょうがありません。昨晩、僕たちは二人とも裸でベッドに入ってSEXしたんですから。そこから覚えてないってことは、そのまんまの状態だったんじゃないんですか?」
元喜は、これはさすがに冷静な青年でも言いにくい話だと思った。つまりは、自分の彼女の裸を、他の男に見られたと言うことなのだ。辛くない方がおかしい。まだ21歳の若さともなれば余計に。元喜は気を遣うように話した。
「宮本くん、すまん。確かに、俺が目覚めた時は、彼女は裸だった。俺のことをキミだと思っていたためだろう、とても無防備で…そのせいで、俺は見てはいけないと思いつつ、見えてしまった。本当にすまん。俺も景子に申し訳が立たん。なるべく見ないようにしたつもりだ。そこの所は理解してくれ。俺も景子を裏切るようなことはしたくない。」
信哉が、少し安心したようにニッコリと微笑んだ。
「花田さん、いい人なんですね。安心しました。ありがとうございます。」
元喜は、手を振って言った。
「いやいや、こんなに冷静に俺の頭を整理してくれて、キミには感謝してるよ。こっちがお礼を言いたいくらいだ。だが、、、キミも景子には…」
はっと気付いたように、信哉が言った。
「も、もちろん!なにもしていません。触れてもいません。美しい方でしたので、ついふらふらっと行きそうになりましたが…」
信哉が恥ずかしそうに俯いた。惚れているならば、自分の妻を褒められて嬉しくない男はいない。元喜も照れながら、言った。
「キミの彼女、穂香さんだっけ、きれいな人だな。俺が大学生だったら惚れてるよ。」
信哉は照れくさそうにして、頭をポリポリかいた。元喜の頭だが。
「そうですか。瀬戸穂香っていうんです。気が強くて、困ってますけど…」
お互い、奇妙な照れ状態で、少し沈黙が訪れた。
そこでいかんいかん、と思ったのか、今度は元喜が切り出した。
「照れてる場合じゃなかった!とにかく、俺はキミの体に、キミは俺の体に入ってる、ってことだよな?なんでだろう?」
信哉が、元喜の顔で真面目な表情に戻っていった。
「そうなります。今考える限りでは。理由は…まったくわかりません。でもこうなった以上、とにかく、今後の対策を立てないと。」
二人ともそこで、うーんと黙ってしまった。どちらにしろ、選択肢はそう多くはない。元に戻る方法を探すこと、同時に「本来の自宅」に帰るのは難しいだろうということ。
それは2人ともうすうす分かっていた。
「とにかくだ。元に戻る方法は皆目検討がつかん。それは確かだな?何でこうなったのかが分からないんだからな。そうなると、どっちにしろここで夜を明かすわけには行かない。しかも、それぞれの生活もある。結局、一旦自宅、つまり「体」の自宅に戻るしかないんじゃないのか?」
元喜は、しぶしぶという感じでそういった。これには、信哉も賛同せざるを得なかった。元に戻る。つまり、「体・信哉」の元喜は穂香の元に、「体・元喜」の信哉は景子の元に、ということだ。
二人の間に、緊張と不安が走った。
冷や汗をタラリと流しながら、信哉が言った。
「仕方ありません、今日はそうしましょう。また明日、日曜日だから大丈夫ですよね。同じ時間に、ここで待ち合わせて対策を練りましょう。」
元喜は頷いた。そして続けた。
「そうだな。そして、今日、別れる前に、できるだけ自分の情報をお互いに交換しておこう。でないと…間違いなく怪しまれる。いつもの生活のこととか、経歴とか、夜の過ごし方とか、あと呼び方とか…」
信哉が、神妙な顔をして頷いた。
「まず俺だが、仕事は食品会社のマーケティング部だ。まぁ売り方を考える部署と思ってもらえばわかりやすい。好みとか好き嫌いは特にないはずだ。まぁ、強いて言えば景子のポークピカタは絶品だ。別に嫌いなものはない。趣味は…、そうだな…」
そういって元喜は、少し黙り込んでしまった。
「よく考えたら、大してない。ネットを夜に見るくらいだろうかな?あんまり時間がないんでね。仕事と家庭以外は、趣味ナシだ。夜も遅いんでね、ほとんど飯を食って、風呂に入って、ネット見て、たまにネット買いをして、寝る、そんな感じかな。明日は日曜だが、家族サービスっつったって、大して何もしない。家族3人でショッピングに出かけるくらいだ。呼び名は、景子はけいこ、美唯はみゆ、それだけだ。つまらない人生だろう?」
元喜は自嘲気味に笑った。信哉は笑いはしなかった。
「そうですか。一応、分かりました。どこまで対応できるかはわかりませんけど。僕の方は、ざっとこんな感じです。東南大学農学部3回生。現在、瀬戸穂香と同棲中。というか、僕のマンションに穂香が転がり込んでるって感じですかね。彼女のことは、ほのか、と呼び捨てにしています。好きなものはイクラとベース。わかります?ギターの弦が2本少ないやつです。これには触らない方がいいと思います。ばれちゃうから。嫌いなものは玉ねぎ。穂香は、何を作るときでも玉ねぎを極力排除して作ってくれます。まぁ、そのへんの大学生と同じで、夜はゴロゴロです。穂香も同じ3回生。同じ大学の教育学部ですけど。だから暇になると…その…夜とか…、SEXをねだってくる可能性があります…。そこは…上手くかわしてください。」
元喜は、ああ、なるほど、と言った風に頷いた。
「そこはウチも一緒だ。今日なんか、土曜の夜だから、可能性は十分にある。頑張ってかわしてくれよな。」
お互いに、顔を見合わせて、ハハハ、と苦笑いをした。信哉は続けた。
「明日は日曜なんで、穂香がなにかかやと付き合えと言って来るかもしれませんが、そこは上手く捲いて、ここに来てくださいね。」
元喜は自信なさそうに笑った。
「あんまし自信ねぇなぁ…」
2人は、はぁ、とため息をついて俯いた。しばらくじっとしていたが、信哉がはっと気付いたように言った。
「そうだ!自分の呼び方!僕は「僕」って言ってます。花田さん、「俺」って言うでしょ?違和感あるんで、「僕」にしてください。僕もしゃべる時は「俺」って言うようにしますから。」
元喜は驚いたように答えた。
「お、おお、「僕」な。「僕」。大丈夫かな…。不安だけど、頑張るよ。」
2人はその後、思いつく限りの情報交換をして、意を決して「自宅」に戻ることに決めた。不安ではあったが、それ以外に方法がない。
よし!と気合いを入れて、2人は立ち上がった。
「じゃ、花田さん、頑張りましょう!」
「そうだな、あ、あと花田さんはナシにしようや。見た目は宮本くんの方が年なんだしさ。名前で呼び合うっての、その方が気楽じゃない?オレは信哉くんって呼ぶからさ、そっちは元喜でいいよ。」
信哉は、少し考えるようにした後、言った。
「いいですよ。でもさすがに呼び捨てはできないです。元喜さん、でいきます。これからしっかりタッグを組まないといけませんしね!」
信哉は、元喜に手を差し出した。それに応じて、元喜もその手を掴んだ。
「よし!元に戻るまで、お互い情報交換をして頑張ろう!」
そう言って、2人は公園から別れた。なにか、少しだけれども理解しあえる人がいるというのはいい。孤独ではないと、実感できる。
2人は、まずは意気揚々と、「体の自宅」へ、帰っていった。
『帰還-俺』
そうやって威勢良く分かれてはみたものの、俺は正直かなり不安だった。
俺じゃない、「僕」だよな。
宮本信哉という若者に成り変って過ごしていけるのかどうか、その彼を知り尽くしているであろう瀬戸穂香という女性を、上手くごまかしながらやっていけるのかどうか。
もわわーん、と朝の扇情的な彼女の肢体が浮かんできた。これに迫られたら、自制心を保つ自信もイマイチない。
とりあえず、帰ったら何をしたらいいのだろう。何もしないで半日過ごすのは、無理だ。正直、いたたまれなくてこっちの精神がもたない。かといって、どこかに行くといっても当てはない。
ひとしきり公園の周りをうろついた挙句、俺はあきらめて「自宅」に帰ることにした。もう仕方ない。なるようになるだろう!
慌てて飛び出てきたので、記憶を辿るのに苦労した。確かここだ、と、たどり着くまでにたっぷり30分はかけた。俺は恐る恐る、地獄の門を開けるかのように扉を開いた。
中には、朝飛び出た時と大差ない場所に、彼女、穂香が玄関に背を向けてぼんやりテレビを見ていた。格好は朝と一緒。下着にTシャツだけである。カギもかけずにその格好で、まったく無防備極まりない!
玄関の物音に反応して彼女がこっちを振り向いた。
「あ、シンくん。帰ってきたぁー。どうぉ?ちょっとはヘンじゃなくなった?」
ポリポリと何かをつまみながら、顔だけをこっちに向けてニッと笑った。俺は極力平静を装って、さらりと答えた、つもりだった。
「べ、別に、オ…僕、全然ヘンじゃないし。」
ニッと笑った顔が、また不審げな顔になった。
「…まだ、ヘンな気がするー。」
俺はそこはさらりと流して、無言で部屋に入りベッドに座った。何をしゃべるでもない、この空気がイヤだ…。穂香は、何もいわずスナック菓子を食べながらテレビを見ている。Tシャツの下に下着が透けているし、裾からはちょっとだけ見えたりもする。俺はなんとなく口に出した。
「まだその格好なのかよ。いい加減、着替えたら?」
えっ!?といった風に穂香がこっちを向いた。
「いつもの格好じゃん。まずい?ナニ?どっか連れてってくれんの?」
俺は、慌てて首を振った。
「いや、そういうわけじゃないけど…」
最後はごにょごにょと口ごもってしまった。これが彼女の通常スタイルなわけだ。それはそれでいいよなぁ…。イヤイヤ、いいよなぁ、じゃないだろ。
穂香は右手に顎を乗せて、少しニヤリとしながら何か期待したような目つきでこっちを見つめながら言った。
「ねぇ、シンくん、どっか連れてってよ。」
しまった、いらんことを引っ張り出した!ここにいるのも苦痛だが、外出となるとどこに行ったらいいものかサッパリ見当がつかない。俺はベッドでもそもそと後ずさり、布団を引き寄せた。
「い、いや、オ…僕、ちょっとカゼひいたのかな。体調悪いみたい。寝ようかな。」
穂香が口に運ぶスナックをポイと袋に戻して、慌てた声で返してきた。
「えっ?ナニ?シンくん、調子悪かったの?それで朝からヘンだったわけ?熱、測った?しんどいの?頭痛いとか?大丈夫?」
矢継ぎ早に質問されて、俺はとりあえず布団をかぶった。
「う、うん、まぁ、ちょっと、なんちゅうか、…」
もごもごと言葉をごまかして布団にもぐりこんだ。すると、にゅっ!と布団の中に細い手が突っ込まれてきた。その手は、まさぐるように俺の体を触りながら上に上がってくると、顔を触り、額にぴたりと当てた。
「んー、ちょっと熱があるのかな…。カゼひいちゃったのかな?」
俺はドキドキしてしまい、布団の中で顔を紅潮させていた。でも、とりあえずこのまま体調が悪いことにして寝ちまおうかな。
「そっかー、シンくん、熱、あるのかー。」
そう言うと、しばらく考えるようにした後、穂香はがばっ!と布団の中にもぐりこんできた。そしておもむろにTシャツを脱いで、下着姿になり始めた。
「熱、下げるには汗よねっ!ベッドでいっぱい運動して、汗かこっ!ね?そうしよ、シンくん。きゃー。」
穂香が楽しそうに俺のTシャツの中に手を滑り込ませ、Gパンのボタンをはずそうとしている。
「わ!うわ!ちょ、ちょ!待った!待ったっ!待ったぁっ!!」
俺はがばっと布団から跳ね起きて、ベッドの端っこにずざっ!と避難した。
「ちょ、待って!穂香!大丈夫!オ…僕、元気っ!元気ですっ!だから早くTシャツ着てっ!」
俺はあたふたと手の平を大きく広げて穂香を制しながら、大声で叫んだ。まるで追い詰められた小動物だ。情けねぇ…。
キョトンとした顔でこちらを見つめる穂香。俺は冷や汗だらだらで、服、服、と目と顎で合図をした。
不審げな顔をして穂香はTシャツを拾い上げ、ばさっとかぶった。そのまま、ぶすっとした顔をして、テーブルに戻りゴロリと背を向け横になった。
「シンくん、ホノカと寝たくないんだ。一緒に居たくないんだね。ホノカのこと、嫌いになっちゃったんだね。もういいよ、シンくんなんか。もういいよ…」
背中を向けて横になり、少し肩を震わせて嗚咽するように、グスンと鼻をすするような声を出している。俺は慌てて情況を回復しようと考えた。
「い、いや、…そういうわけじゃなくて。穂香のことは心から好きだよ(信哉くんが)。だけど、その、…ええと、穂香、…」
取り繕う方法もないまま、俺はつい言ってしまった。
「…ごめん、穂香、…やっぱどっか行く?」
突然くるりん、と穂香がこっちを向き直って、ニカッ!と笑った。
「ホント?どこ?ね、どこどこ?どこ連れてってくれんの?」
おい、泣いてたんじゃねーのか、お前は。
やられた。こういう手法を景子はとらない。まんまとしてやられた。
エサをねだるハムスターのように、目をキラキラと輝かせて穂香は俺を見ている。俺は頭を抱えた。どこにしよう。
「…う、海にでも…。」
ぴょこん、と座りなおして穂香が胸の前で手を合わせた。
「海!いいねぇ!水平線を見に行こーっ!」
『帰還-僕』
僕はしばらく頭をまとめるように周辺をうろついた後、元喜さんの自宅へと向かった。玄関の前で、少し深呼吸をするように立ち止まった後、意を決して玄関を開けた。
その音を聞きつけてか、間髪をおかず、奥からトトトと足音が聞こえた。
「とうちゃん、おかえりー。」
これが美唯ちゃんか、と思いながら僕は笑顔を作った。
「ただいまー。」
美唯は、どん!と僕の足にぶつかるように突進してきた。僕は、子供をどう扱ったらいいものかよくわからず、とりあえず頭を撫で撫でした。美唯はどうもそれでは不満だったようだ。
「とうちゃん、だっこしてくれんの?いっつもはしてくれるのに。」
そう言って美唯はバンザイをするように両手を上に伸ばした。そうか、抱っこか。僕ははっと気付いたように、美唯の脇に手を入れて、持ち上げた。
「そうか、ごめん、ごめん。はい、抱っこ。」
そう言って抱き上げると、美唯は僕の首に手を巻きつけてぎゅーっとした。まぁ、このぎゅーっは勘弁してください、元喜さん。奥さんではないので。
キッチンらしきところからエプロンで手を拭きながら、パタパタとスリッパの音を立てて奥さんの景子さんが出てきた。
「あ、あなた。よかったわ。随分お散歩が長いから、約束忘れてるのかと思って。」
は?約束?聞いてないぞ?僕は平静を装って聞き返した。
「えーと、ぼ…俺、何か約束してたっけ?」
彼女は、また忙しそうにパタパタとキッチンの方に戻っていった。
「あら、あなた、何言ってるの。美唯の服、買いに連れて行ってくれるって話だったじゃないの。忘れてるの?」
僕は、思いだしたかのようにポンと手を打った。
「あ、ああ!そうだったね。美唯の服ね。買いに行くんだった。忘れてたよ。」
そう言いながら、よいしょ、と抱っこしていた美唯を降ろして、僕はキッチンに向かった。美唯は満足したように、トテテテとまた何処かへ走り去っていった。
彼女は台所の掃除をしていたらしく、綺麗に後片付けをして、雑巾をぎゅうと絞った。
「ねぇ、ちょうどお昼前だし、お昼は外食にしない?美唯もその方が喜ぶだろうし。」
うん、とりあえず今は状況の流れに任せよう。
「そうだね、外で食べよう。ラーメン屋でも…」
と、僕はいつもの調子で言ってしまったが、咄嗟にしまった!これは余計な一言だと思った。彼女は一瞬不思議そうな顔をして、シンクを覗き込んでいた顔を上げた。
「ラーメン屋?ショッピングモールのレストラン街でよくない?ラーメン屋、っていうのもなんか…」
僕は慌てて打ち消すように手を振った。
「あ、いやいや!ちょっとラーメン食べたいなー、なんて思っただけなんだ。ショッピングに行くんだものね。同じ場所がいいか。な。うん、そうしよう。はっはっは。」
僕は無理な笑いを浮かべながら、くるりとターンをし、キッチンから離れることにした。うわ、なんか危ない。常に綱渡りな気がする。余計なことは言わないのが吉だ。
僕はとりあえず飛び出てきた寝室に戻って、落ち着くことにした。よく考えろ。これだけ立派な一戸建てだ。自分の部屋か、もしくはデスクくらいあるはずだ。基本的にはそこにじっとしているのが一番安全なはずだ。大抵の場合、そういうのは二階、一階にいるより二階を探索しよう。
僕はゆっくりと立ち上がって二階に移動した。二階に上がるなり、美唯と出くわした。あはは、と愛想笑いをしてそのまま通り過ぎ、とりあえず一番最初にあるドアを開けた。
「そこ、みうのへやよ?」
うお!いきなり間違えた。僕は、ごめんごめん、とまた愛想笑いをしながら、次のドアを開けた。
「そこは、かぁかのへやよ。とうちゃん、なんかさがしてるの?」
うおぉ!これも違うか。いや、なんでもないよ、と何度目かの愛想笑いを浮かべた後、僕はここに違いないとその隣の部屋のドアを開けた。
そこにはちょっと立派なデスクとイスがあって、一応書棚とか、なんだかお父さんの部屋的な家具が備え付けられていた。ここに違いない。
ところどころの棚の上に人気アニメのフィギュアが飾られているところが妙にミスマッチだけど。水着のキャラクターが、うふん、とこっちを見ている。元喜さん、そういう趣味ね。いや、別にいいんですけど。僕もこのキャラ好きですから。
さて、まぁ、お呼びがかかるまではここで座っているのが一番安全だろう。僕は一安心、と言った風にどっかとイスに腰を下ろした。デスクの上には、なにやらいっぱい資料のような紙が広げてあった。
『グロッサリーにおける占有面積と市場マーケティング調査』『新規コンシューマー商品の立案企画ならびに公募計画』『・・・』・・・
なぬ?何がなにやらさっぱりわからんぞ?その時、僕は少し背筋が寒くなる思いをした。そうか、元喜さんは食品会社のマーケティングをやってるって言ってた。31歳って言ってたから、会社ではもう結構ベテランだよな。もしかして、明後日もこのままだと、僕はこれをしなくちゃいけない?
ええーっ!無理無理無理!できるわけないじゃん!慌ててそれらの資料を見てみたが、何が書いてあるのかまったくわからない。まずもって、専門用語がわからん。グロッサリーってナニ?ブロッコリーなら知ってるけど!
僕が、机の前であわあわ言っていると、下から声がした。
「あなたー、そろそろ行かない?レストランも混んでくるからー。」
『海』
さっさと大き目のTシャツを脱いで、ローライズのジーンズに、ぴっちりしたTシャツという、やや俺とお揃いな感じの服に着替えたかと思うと、穂香は鼻歌を歌いながら簡単に化粧を始めた。外出と聞いた途端、いい気なもんだ。
いや、確かに魅力的だ。小悪魔的なわがままさはあるものの、それがチャームポイントにもなっている。スタイルも均整が取れていて美しいし、彼女としては文句はない。まぁ、信哉くんもそこそこイケメンだから、お似合いといえばお似合いか。
そんなことを考えながらぼーっとベッドに座り込んで待っていると、準備ができたらしい穂香が催促してきた。
「できたよー、ホラ、シンくん。ぼさっとしてないで、行こーよ。海!」
俺はやむなくベッドから立ち上がった、のはいいが、何で行く?車?信哉くんは車持ってるのかな。
俺はその辺に部屋のカギとかキーホルダーのようなものがないか見回した。車を持っているのなら、大概一緒につけているはずだ。
「ナニやってんのよ、シンくん。早く行こーよ。」
俺はちょっとしどろもどろになりながら答えた。
「え、いや、車が…。えーっとカギが…。」
穂香が驚いたような顔をした。
「ええっ?シンくんので行くの?超ボロいじゃん!いつも通り、ホノカので行こうよ。あのボロさ、綺麗な水平線と合わないって!」
あ、持ってるんだ。でもボロいんだ。
「あ、ああ、やっぱそうだよね。そ、そうしよう。」
俺は曖昧に頷いた。それにしてもカギがないと部屋を閉められない。相変わらずカギを探し続ける俺に、穂香がだんだんイライラしてきた。
「もうっ!シンくん、いいじゃん、カギなんか!アタシので閉めたら!」
あ、そうだ。半同棲なんだ。彼女もカギを持っててもおかしくない。だめだ、俺はぜんぜん信哉くんになれてない。
とりあえず部屋を出て、穂香のカギで施錠する。スタスタと先を歩く穂香に、おっかなびっくりついて行く俺。なんかかっこ悪ぃ。けど、駐車場に降りても、俺は彼女の車がわからないので、どっちにしろ先を歩けないのだ。
さっさと一階に降りて駐車場に向かう穂香。彼のボロ車とはどれだろう、と辺りをキョロキョロしながら歩いていると、随分先の方から彼女の催促する声が聞こえた。
「おーそーいーぞー!かわいい彼女を、待たせんなーっ。」
穂香は、ピンク色のフィットの前でカギをチャラチャラさせながら、待っている。俺は小走りに近づいていった。穂香に近寄ると彼女はカギを右手に持って、ん、と俺の方に差し出した。
おお、そうか、俺が運転するのね。そうそう、男のシゴトね。
既にオートロックで開けられた車の助手席に、穂香は嬉しそうに乗り込んだ。俺はドアを開けてよっこらしょと乗り込むと、いきなり穂香に言われた。
「よっこらしょ、とか、オッサン臭いなぁ、シンくん。」
うむむ、こういうところにもジェネレーションギャップは出るか。気をつけねば。俺は21歳!そう考えながら、穂香のサイズになっている車のシートを、自分サイズにセッティングし直して、エンジンをかけ、威勢をあげた。
「よし!じゃ、水平線を見に、レッツゴー!」
「レッツゴーも死語だよ。」
…悪かったね。オッサンで。
車の運転にはいささか自信がある。入社して3年は営業現場にいたから、ほとんど一日中車での移動だ。しかもでっかい箱バン。だからこんなコンパクトカーの取り回しはお手のもんだ。
ぎゅん、と勢いよく発進し、キュッ、キュッと小気味よくハンドルを裁く俺の方を、穂香が目を丸くして見ていた。ふふん、上手いもんだろ?
「シンくん、どしたの。今日、えらい運転荒いよ。」
おおー!いかん!俺、シンくん、大学生!
だめだ、俺はとことんこういう“成り切り”に向いてないようだ。根っからの現場型、直線型なのだ。性格がそのまんま行動に出やすいのだ。すまん、信哉くん。俺には無理かもしれない…
俺たちは出発してすぐのコンビニで、おにぎりや飲物を買い、水平線を見ながら食べようと言うことになった。もちろん、穂香の提案で。
寄ったコンビニで、いつものクセでトクホのヘルシーナ緑茶を選んだ俺に、
「ナニ?シンくん、飲物までオッサンになったのー!いっつも炭酸あまあま系じゃん!」
との、穂香のツッコミ。いつもの俺はコレステロールを気にしてるんだよ!と思いながら、グレープサイダーに変えた。ああ、やりにくい。
コンビニを出て、車を海へと向かって走らせた俺は、ゆっくりゆっくり安全運転を心がけながら、頭の中でいろいろ考えていた。海、っつっても、どこに行こう?太平洋に面したこの街では、選択肢は無限にある。彼らが行きなれているところに行くのが良いのだろうが、そこどこ?と聞くわけにも行かず、いくつかの景観のいい場所を候補として頭に並べていた。おっと、運転が荒くなった。セーブ、セーブ。
どこがいいのかな、と考えているうちに、突然穂香が言った。
「あれ、いつもの崎浜じゃないんだね。」
うお、既に“いつもの場所”と違う方向に行ってしまっているらしい。俺は平静を装って、自慢げな顔をした。
「ちょっと、たまには違うトコの方が、穂香が喜ぶかと思ってさ。長浜の方に行くよ。」
へぇー、いいねぇ、と穂香はことの他、ご機嫌である。よし。
もう、こうなったら景子とよく行った穴場の絶景に連れて行ってやれ、と俺もご機嫌になってきた。
快適にドライブを続け、ピンクのフィットは、海岸沿いではあるが少し小高い場所にあるこじんまりとしたスペースに行き着いた。
2~3台しか停められない駐車場から、木立ちを掻き分けると、少し開けた展望場所がある。木を抜けた瞬間に、目の前に太平洋の水平線がパノラマで見える、穴場の絶景ポイントだ。
目の前が開けた瞬間に、ぱぁっと広がる大海洋を前に、穂香が目を丸くした。
「うわぁー!すっごーい!ここ、すごいじゃん!きっれーっ!丸い水平線だぁーっ!」
子供のようにはしゃぐ穂香を見て、俺も嬉しくなった。
「すごいねぇー!シンくん、よくこんなトコ、知ってたね!」
「ふふん、まぁね。」
俺は自慢げに胸を張った。穂香はしばらく海に見惚れている。そういえば、最初に景子を連れてきた時も、こうやって大喜びしていた。この場所を教えてくれた先輩に感謝したものだ。それからは、ここは俺と景子のお決まりのコースになっていた。よく来たなぁ。お弁当持って。俺は、しみじみと水平線を眺めていた。
「よしっ!じゃあ、あのベンチでおにぎり食べよっ!気ん持ち良さそう~!」
長いすのようなベンチに腰掛け、コンビニ袋を広げて、おにぎりを頬張りながら、俺は深呼吸をした。ああ、久しぶりだ。
「そういや、こないだ来た時は、こんなベンチなんかなかったよなぁ?」
穂香が、突然、固まった笑顔で右眉をくいっと上げた。
「こないだって、いつ?ホノカ、ここ来たことないよ。」
うお!しまった!景子のつもりでしゃべってしまった!
「い、いや、こないだっちゅうか、ずいぶん前っちゅうか、あれぇ?いつだったっけー?」
いきなり焦る俺をじっと不審げに見ながら、穂香がぶすっと言った。
「誰と。」
あう、痛い。
「え?」
「誰とよ。言うてみ。シンくん。」
絶句。どう答えよう。
「えーと、えー、…」
穂香の目つきが鋭くなってきた。ヤバい。
「えー、…ひ、一人で…?そう、一人で。」
穂香が、はぁ?といった顔になった。
「一人?ナニ、シンくん!ひっどいじゃん!ホノカも連れてきてよ!一人で来るような黄昏れるナニかがあるわけぇ?こんなとこにー。暗すぎだよー。」
穂香は、くるっと表情が変わって、ケラケラと笑い出した。
セーフ!セーーーフ!乗り切った!
「い、いやまぁ、そんな時もあるってこと。だからちゃんと穂香、連れてきたじゃん。」
穂香は、もぐもぐとおにぎりを頬張りながら、もう機嫌が直って、開けた鮮やかな水平線に見惚れている。
少し遠くに、穏やかに波が立っているのが見える。その向こうは、ずっとずっと青い海、そしてゆるやかにカーブを描く水平線がくっきりと海と空を分けている。
さわやかな、本当に爽やかな午後だった。
『ショッピング』
僕は、駐車場の前で立ち尽くしていた。
車がでかい。でかすぎる。このまっ白に磨かれたピカピカのアルファード、僕は無傷で運転できるのだろうか?いつも乗ってるオンボロワゴンRより、3倍くらい大きく見える。キズだらけのワゴンRなら少々こすったって気にもしないが、これは別格過ぎる。
後ろのスライドドアを開けて、無邪気に乗り込む景子さんと美唯。異様に楽しそうだ。僕の額に汗が滲んできた。
「さ、とうちゃん、いこ!いこ!ごはんー。」
僕は、後部座席に愛想笑いを返して、とりあえず運転席に乗り込んだ。小さなコクピットで装備もほとんどないシンプルなワゴンRと比べて、なんて広くてスイッチ類の多い運転席なんだ!ワゴンRとフィットしか運転したことのない僕は、まずそれぞれの操作関連を一通り確かめた。これがあれで、あれがこれで…、とふいに後ろから景子さんの声がした。
「あなた、汗びっしょりだけど、大丈夫?暑いかしら。」
僕は焦ってどもりながら答えた。
「い、いや、ひ、久しぶりだからね。ちょっと、いろいろ…」
彼女は不思議そうに首をかしげた。
「昨日、会社からこれで帰ってきたのに?」
げ!通勤車か!僕はあわてて取り繕うようにごにょごにょと答えた。
「い、いやぁ、ショッピングがね、久しぶりで嬉しいなぁー、とか…」
ええい!もう、なるようになれ、だ。とにかくこれ以上ごそごそしてはいられない。僕はエンジンをかけた。なんだ!この静かなの!高級車だ!テレビがついた!
僕は、鼻から大きく息を吐いて、そろりと車を発進させた。ショッピングモールまではそれ程狭い道はない。家とショッピングモールの駐車場だけ頑張れば、なんとかなる、はずだ。
だらだらと脂汗を流しながら運転する僕に、後ろから不審げな声がした。
「あなた、今日は随分安全運転ねぇ。いつもは私が注意するくらい荒いのに。まぁ、良いことだけど。」
荒くしろと言われたとしても、僕には絶対無理だ。もう、ここは開き直るしかない。
「そ、そりゃもう、大事な家族を乗せてる時くらいはね、安全第一さぁ。」
ははは、と誤魔化すように笑ってはいるものの、僕は目は必死だった。とにかく今はこの運転に完全に集中していた。
そこからどうやってたどり着いたか、イマイチ記憶にない。ショッピングモールの駐車場も、上手く頭から突っ込めるスペースが空いていたのが幸いした。
僕は、全精力を使い果たしてエンジンを切った。ふぅー、と大きく息を吐いて運転席から降りようとした時、後ろから声がした。
「とうちゃん、どあ、あけてー。」
え?運転席で開けれるの!?ボタン、どこ!?慌ててハンドル周りのあちこちを捜す僕。
「いいのよ、あなた。こっちで開けるわ。」
僕の目は完全に宙を泳いでいた。うはぁ、わからないことだらけだ。僕は脱力しながら、車のロックをかけた。
「お食事、どこにする?ねぇ美唯ちゃん、なに食べたい?」
美唯を挟んで景子さんと3人で手をつないでショッピングモールを歩く。想像できない世界だ。時々、ぶらーん、とかいって美唯をブランコ状態にしたりする。僕、とうちゃん慣れてないんで、タイミングが掴めません!
「みうね、おそば!」
「でも美唯、おそばは…」
そう彼女が言いかけた時に、僕はもう言ってしまっていた。
「そば、いいねぇ」
彼女が、えっ?という顔をしてこっちを見た。しまった、やってもうた!?
「あなた、どうしたの?珍しいわね。いつもは『ここまできて、そばだけはイヤだ!』って言うのに。」
僕は、あは、あは、と笑いながら、たまにはいいよなー、美唯~、とか言って美唯に振って誤魔化した。ええっと、好みは聞いてたっけ…?
とりあえずそのまま誤魔化して蕎麦屋で昼食を取った後、目的の美唯の服を買いに行った。子供服のコーナーなんか、来たこともない。どこにあるかさえよくわからなかった。周りは、30代くらいの家族連ればっかりだ。あ、自分もか。
景子さんと美唯について、子供服売り場に入って行くと、ギョッとした顔で彼女が振り返った。
「あなた、もしかして一緒に選んでくれるの?珍しい!いつもなら『めんどくさい』とか言って、その辺のベンチで座って待ってるのに。」
うわぉ、これもデフォルトじゃないんですか!?
「い、いやいや、そこのベンチで座って待ってるよ。め、めんどくさい。」
僕は、そそくさと手を振って、子供服売り場の前のベンチに逃げ込んだ。そこで大きなため息をついた。10年違うと、こうも生活が変わるモンなんだ。なんかもう、標準の元喜さんと全然違うことやってるような気がするなぁ。
これは、多分、元喜さんの方も大変だぞ、と思いながら、思わず頭を抱えてしまった。
ここはもう、余計なことはしない、言わない。ここで気を遣って「美唯、なんか買ってやろうか。」とか言ったら、また景子さんに「珍しい!いつもは…」って言われそうだ。
しばらくして、2人が売り場から出てきた。2人ともご機嫌である。とりあえず2人についていこう。それが無難だ。と思ったそばから、
「あなた、今日は行かなくていいの?」
へ?どこに?
うおーい、どっかいつも行ってるトコがあるんかよーい。泣きそうだよ。
「あ、いや、きょ、今日はいいよ。うん。」
2人は顔を見合わせて言った。
「珍しいねー、美唯。とうさん、今日はホビーショップ、行かないんですって。」
フィギュアですか、元喜さん…。いっそのこと行って、くそ高いフィギュアを買ってやろうかと思ったが、そこはヤケになってはいけない。落ち着こう。
じゃ、あとは食品ね、と夕食の買い物に向かう2人に僕はそのままついて行った。買い物カゴをカートに入れて、食品売り場に入って行く2人に、ここもお任せだろうと予測して、
「俺はそこのベンチで待ってるから。」
そう言って踵を返そうとすると、また驚いたような声がした。
「えっ?あなた、ここはいつもあれこれうるさいじゃない。食べ物にはこだわるんだって。今日はいいの?後で文句言わないでよ?」
うぉい、ここは行くんかい!もうわかったよ!行くよ!行きますよ!
僕はもう完全にヤケになっていた。
『俺の夜』
水平線を眺めながらの昼食で、すっかり機嫌が良くなった穂香に、あれやこれやと言われて、あちこち彷徨った挙句、夕食に中華料理まで食って、やっと俺は自宅に帰ってきた。
若いって、すげぇ。バイタリティあるわ。体はそれ程疲れていない。しかし、精神的に非常に疲れた。いやいや、そんなことを言っている時間はない。俺は急いでシャワーを浴びて、寝てしまわなくてはいけない。何故なら、今から恐怖の夜が始まるからだ。
だいたい、帰ってすぐ、「僕、先にシャワー浴びるね」と言った時に、穂香から「一緒に浴びないの?」と聞かれた時点で、今晩必要な精神力を想像した俺は頭を抱えてしまった。しのげるか?俺。これは、かなり難関だぞ。
「先にシャワー浴びたよ。ああー、疲れたっ!眠いなぁあっ!」
必要以上に、疲れたことをアピールしてみる。チラリと彼女を見ると、相変わらず下着にTシャツの格好で、ポリポリなにかをかじりながらテレビを見ている。
「んな、疲れたこと、してないじゃん。」
さらっと言われて、俺はさらに追い込まれてしまった。これはマジでさっさと寝ないと、信哉くんに申し訳の立たない状況になってしまってからでは遅い。
とりあえず穂香がシャワーを浴びに入るまでは上手く誤魔化しておいて、浴室に行った瞬間に寝てしまおう。眠ってしまえば、後はなんとかなるだろう。若者らしからぬ早寝ではあるが、そうも言ってはいられない。
少しの間、下らないテレビでハハハと笑いながら、寝酒のビールを少し飲んだ俺は、いつ穂香がシャワーに行くかと狙っていた。
他愛ない番組が終わった頃、穂香がよいしょと立ち上がったので、よし、やっとシャワーか!とほくそえんだ俺の方に、ハイ、と穂香は手を出した。
は?何が、ハイ?
思わずその手を握ってしまった俺。
「なに?」
間抜けな顔で穂香に尋ねた。
「いや、なに?じゃないっしょ。ホラ、シャワー行くわよ。」
…?いや、浴びたって、俺。
「浴びたよ?僕。」
穂香が、不思議そうな顔をした。
「浴びたよ、じゃないでしょ?入ってくれるじゃん、いつも。」
ちょ、待っ!待って!それ反則でしょ!信哉くん、こういう時、2回も浴びてんの!?それ、羨ましいけど、ダメっしょ!
「い、いや、僕はもういいよ。穂香、浴びといでよ。」
彼女がぎろりと睨んできた。
「ナニ?ホノカに一人で浴びろっての?寂しいじゃん!シンくん、そんな冷たい人だったわけ?」
おい!信哉くん!甘やかしすぎっ!愛し合ってるのは分かるけど!…まぁ、大学生の同棲なんてこれくらい甘ったるいモンかのしれんがなぁ…、イヤイヤ、ダメです!
「ま、たまにはいいじゃん。僕も疲れたし、穂香、さっと浴びてから、な。」
何がどう“浴びてから”なのか、自分でも恥ずかしくなったが、穂香は、目を細くして恨めしそうにぶつぶつ言いながら、浴室に消えた。勘弁してください。これはマジで先が思いやられる。寝よう!寝てしまおう!
俺は大急ぎで布団をかぶって隅っこに丸くなった。おやすみっ!
これがまた、若いって元気。疲れてないのか、全然眠れないんでやんの。早く寝ちゃわないと、彼女、出てきちゃうよ。やばい、やばい、と思えば思うほど眠れない。
そうこうしているうちに、鼻歌まじりで穂香が浴室から出てきた。うわぁ、間に合わなかった、と俺は布団の隙間からチラッと外を覗き見た。
うおぅ!服着ろ!服!全裸で出てくんなっ!無防備すぎるんだっ!信哉くん、すまん!悪気はないっ!
俺は改めて布団をかぶり直した。もう、これは寝ている振りをするしかない。いかにも寝息らしい息を立てて、俺は狸寝入りを決め込んだ。
しばらく穂香は、髪をとかしたり、お肌のアフターケアをしたりしていたのだろう。結構時間が空いたので、俺はやっと少し緊張感から解放されて、壁に向く格好でうつらうつらとしてきた。このまま眠りの世界へ一直線!
と、その時、すぅと布団の隙間から細い手が入り込んできて、俺のわき腹を触った。そのまま手は胸辺りまで進んできて、俺の背中に温かくて柔らかい物体が、ほにゃっとくっついてきた。
「お・ま・た・せ。」
いや、待ってない。待ってません。俺はもう寝ました。さらに壁に張り付くようにじりじりっと逃げた。
手も体も、そんな俺を追い詰めるようにじりじりっと寄ってきた。頼んますっ!俺、もう寝てますっ!
「どしたのさ、シンくん、早くぅ。」
そう言って、穂香は俺のシャツの背中をまくりあげて、自分の体を押し付けてきた。
その生っぽーい感触…
おおぅっ!ちょ、待てぇい!せめて服着て入って来いっ!準備万端で入ってくるなぁっ!
俺は、布団を彼女に押し付けて、がばっと起き上がった。そのまま、ずりずりっとベッドの端っこまで避難!
「ちょっ!穂香っ!ここは待とう!ちょっと待とう!」
俺は、はぁはぁと冷や汗を流しながら、かろうじて叫んだ。
「き、昨日もした、よな?よな?きょ、今日はもう寝よう!」
穂香が、ひょこっと布団から顔だけ出して、ぷぅっと頬をふくらませた。非常に、非常に不満そうな顔だ。
「イヤなの?ホノカ、嫌い?」
俺はぶんぶんと首を振った。
「いやいやいや、そういう話じゃなくって!だ、大好きだよ(信哉くんが)!そりゃぁもう、大好きさ。けど、今日は寝よ、な?な?」
穂香は、より一層、頬をふくらませて、そのまま悲しそうな顔になって言った。
「イヤなんだ。イヤなのね。ホノカ、寂しいじゃん…うっ、うっ。」
うわーっ!やめてくれー!そういうこと言われても、俺にはどうしようもないんだぁーっ!
「イヤイヤ!そうじゃなくって!イヤじゃないけど、今日はさ、朝からちょっと調子もよくないしさ、…えーと、なんちゅうか…」
俺はしどろもどろで取り繕った。必死で頭を回転させた結果、…ここはなにか妥協案が必要かもしれないと思い至った。信哉くん、すまんが少しだけ妥協案を提示させてもらう!すまん!
「だからさ、今日は…、今日は腕枕で、ね。抱っこだけで。な?な?」
穂香が、うるうるした瞳だけを布団から出して、少し考える。
「…じゃあ、今日は抱っこで許す。」
しぶしぶといった感じで、答える穂香に追加条件。
「それに、カゼひくといけないからさ、シャツ着て寝よ、な?穂香が風邪引くと、僕、つらいから…」
穂香は、不満げにベッド下のTシャツを拾って、布団の中でもぞもぞと着始めた。俺は横を向いて気付かれないように、死ぬほど大きなため息をついた。と、とりあえず回避した!褒めてくれ、俺を!
とりあえず、今日は寝れるぞーっ!
俺の腕枕の下で、胸に顔をうずめる穂香は、確かに可愛らしかった。もしも俺の彼女だったら何の躊躇もなく…。しかし、彼女は信哉くんのものなのだ。俺が不義理をするわけにはいかない!
信哉くんの方は大丈夫だろうか…、そう思いながら、俺は眠りについた。
『僕の夜』
肉体的にも、精神的にも、非常に疲れきった状態で、僕はなんとか自宅に帰りついた。駐車場にバックで入れるのに、何回も切り返した。後ろからは、妙に不安そうに2人が覗き込んできたが、とにかくぶつけないことが最優先で、僕はもう必死だった。
家に入ってからは、もう速攻で自分の部屋にダッシュし、その少し豪華なイスに体を投げ出した。うああ、疲れた。とりあえず夕食までここでゆっくり休みながら、今晩の作戦を練ろう。
お互い、情報交換をしたような気でいたが、やはりあまりの異常事態に、頭はしっかり回っていなかった。意外に、伝えるべき日常の情報を伝え合えていなかったことに、実際に遭遇して初めて気がついた。
ということは、元喜さんの方もかなり苦戦しているのではないかと思われた。特に、穂香はいろんな意味で積極的だからなぁ…。
まぁ、とにかく今はこっちの対応だ。今、夕方5時。多分、景子さんは夕食を作り始めているだろう。夕食を一緒に食べるのは、多分無難にすごせば大丈夫。問題はその後だな。入浴は?
おっと!まずい、穂香が一緒にシャワーを浴びようと言い出すことを、元喜さんに伝えていなかった。しかし、伝えたからといってどうにもならないか。がんばって回避してください、元喜さん。
で、こっちの入浴は?まさか一緒に入ろう、なんてことはないだろうな。たとえ少々のラブラブ夫婦だったとしても、美唯もいるしな。美唯は誰と入るのだろう?景子さんとならいいのだが、僕と、となると面倒だ。幼児と一緒に入ったことなんかないぞ。
そこは、景子さん担当であることを祈ろう。とにかく、入浴をさっさと済ませたら、あとはここに篭るのが吉だ。仕事があるとか言って、深夜まで篭っていれば、景子さんは先に寝るだろう。それを確認して、布団に入ればOKだ。ひきこもり作戦だな。まずは夕食まで、ゆっくりしよう。
「とうちゃーん!ごはーん!」
ガチャ!とドアが突然開いて、美唯が入ってきた。おお!早いな!と思って時計を見ると、時間はもう7時を差していた。どうも、イスに座ってうたた寝をしていたようだ。よしよし、今日の夜更かしの前にゆっくり休めた。
僕は、背伸びをしながらトントンと階段を降り、ダイニングに向かった。
「あら、あなた。どうしたの?眠そうな顔をして。お疲れ?」
景子さんが、ちらりとこっちを見ながら食器を並べている。小さな美唯が、お箸を並べたりするのを手伝っている。かわいいもんだ。
「ああ、ちょっとね。」
僕は無難に返して、リビングのソファに腰掛けた。とにかく、無難が一番。テレビのニュース番組を見ながら、準備が整うのを待つ。
「さ、できたわよ。食べましょ。」
彼女のその言葉を聞いて、僕はテーブルの食器の大きさや配置を確認し、自分の席を推定した。よし、間違ってない。
「いただきまーす。」
声をそろえて、食事の挨拶。なんて家庭的な世界なんだろう。しかも、なんだこのメニューは。ご飯、味噌汁、チーズinハンバーグのベーコン巻き、付け合せの色とりどりの温野菜、胡瓜とワカメの酢の物。充実しすぎだ。誰かさんの、即席一品料理とは大違いだ。あ、いやいや、そんなことないぞ。穂香のスパゲティも絶品だぞ。すまんってば、穂香。
非常に美味い食事を済ませた後、僕は少しソファで様子を眺めていた。いつもなら穂香に「手伝ってよー!」と怒られるのだが、花田家はどうだ?さりげなく様子を見ていたが、彼女はさっさっと手際よく食卓を片付け、洗い物を始めた。何を言うでもなく、不思議がるでもなく。
よし、ここはもう脱出しても大丈夫そうだ。
「ごちそうさま。すごく美味しかったよ。」
僕はそう言い残して、さっさと二階に避難する事にした。と、そこで彼女に呼び止められてギクッとした。
「あ、あなた。」
何か?まずいことでも?
「明日の美唯の発表会、忘れないでね。2時には会場に行っとかないといけないから。」
僕は、ほっとした。
「あ、ああ、発表会ね。大丈夫、忘れてないよ。」
僕はそれだけ言って、さっと二階に上がった。よし、順調!
僕はまたイスに座って、ぼーっとしていた。僕は、元喜さんの部屋という避難場所があるから、随分楽だろうと思う。それに比べて元喜さんは、ずっと穂香を顔をつき合わせていなくちゃいけない。避難場所はない。きっついだろうなー、と内心非常に不安ながらそう思った。
僕は、イスの上でほんにゃりしながら、この心と体の入れ替わり問題を考えていた。原因は全くわからない。故に、解決策も全くわからない。弱ったことだ。ただ、夜中に入れ替わったようだから、また夜中に入れ替わる要素も考えられなくもない。よって、本当は早く寝てしまいたいのだが、作戦上そうもいかない。元喜さんの方も、そう簡単に早くは寝られないだろう。
うーん、と何度も頭をひねって考えているうちに、一階から声がした。
「美唯ー、とうさんと先にお風呂に入ってなさーい。」
僕か!やっぱり!
あいたー、幼女と入浴かー。こればっかりは元喜さんにも、穂香にも許してもらいたいものだ。やむを得ない、不可抗力です。
そう考えているうちに、ドカ!と威勢良くドアが開いて、美唯がパジャマや下着を手に立っていた。
「とうちゃん!おふろっ!」
「わ、わかった。美唯、先に行ってなさい。俺もすぐに行くから。」
とりあえず寝室に行って、クローゼットから下着やパジャマのありかをごそごそ捜した。景子さんはまだ一階の後片付けのようだし、僕は落ち着いてそれらを探し当てた。スタスタと一階に降りると、浴室らしき場所の前で美唯が、はだかんぼうで仁王立ちしていた。
「とうちゃん、おそーい!」
僕は、愛想笑いを浮かべながら、ああ、わかった、わかった、と浴室に入った。さて、どうするのだろう?体を洗ってやったりするのか?5歳か…。むう、わからない。様子を見ながらだ。
服を脱いで、ガラリと浴室に入って驚いた。うおぉ、広い風呂だ!さすが一戸建て!なんだかジャグジーっぽい、ゆとりのある設計。こりゃ一人ならゆっくり出来そうだなぁ~。はぁ~、ビバノンノン。
とは言っていられない。とにかく、僕は早めに体を洗って、美唯をどう扱うか、様子を見た。一人で体を洗う気配はない。ざばざば、と浴びるだけで、あとはほぼ遊んでいるに近い。これは観念して洗ってやろう…。
「じゃ、美唯、頭から?体から?」
僕は、平静を装って聞いてみた。美唯は不思議そうな顔をして、頭を指差した。
「はい、目をつぶってー。」
シャンプーを手に取り、小さな頭を優しくわしわし、と洗ってやる。小さな浴室イスに腰掛けてじっと洗ってもらっている姿は、さすがの僕にも可愛らしいものだ、と思えた。
「じゃ、お湯、かけるよー。」
僕はゆっくりとお湯をかけながら、頭を洗い流してやった。綺麗に流した後、美唯がキョトンとした顔でこっちを見た。
「きょう、とうちゃん、やさしいねー。いっつもは、なんもいわずにざばー!てかけるのに。」
そ、そうなんだ。まぁ、いいじゃないか。そういうとうちゃんでも。
「そ、そうか?ははは。」
僕は笑って誤魔化し、そのまま、体を洗ってやった。5歳とはいえ、女の子なのでいろいろ気は遣ったが、洗われている当の本人は、別に何を気にしている風でもない。ま、そりゃそうか。お父さんとのお風呂なんて、普通だもんな。
無事、一通り洗い終わって、僕は一安心。大きな湯船に浸かって、ほぅ~、とひとごこちついた。こりゃぁ、いいや~。
「あら、美唯、もう洗ってもらったの?早いわねぇ~。」
バタンと開く浴室のドアの音と声に、僕はブハッ!と湯船に溺れそうになった。思わず振り返った僕の視界に、全裸の景子さんが映った。
ぐはぁ!待ぁってぇーっ!なんで入ってくんの!?!
髪を結い上げただけの全裸の景子さんは、穂香と違って全てに大人の色香を纏わせた、しかしハリのある豊かな肢体をしていた。いきなり目の当たりにしてしまった僕は、思わず鼻血を吹いてやしないかと、口と鼻を押さえて、背を向けた。
「きれい、きれい、なったねー。とうさん、洗ってくれたの?よかったねー。」
そう言いながら、美唯の相手をしている彼女に背を向け、僕はじりじりっと浴槽をドア側に移動した。
「ぼ…俺、もう上がるから。」
ザバッと立ち上がる僕に、彼女が声を掛けた。
「あら、早いのねぇ。もっとゆっくり浸かったらいいのに。ねぇ美唯。3人で一緒に入ろうと思ったのにねぇ。」
入れません!それはムリです!早くここから出させてくださーい!
「あ、いや、もういいよ。」
僕はそそくさと、彼女の方を見ないようにして浴室を出た。大慌てで、体を拭いて、下着だけを着たまま、脱兎のごとく脱衣所を飛び出した。
ご、5歳の子供がいても、そういうことってあるんだ…。まったくもって油断した。すみません、元喜さん。ほんの少しだけ見てしまいました。が、これは不可抗力です。勘弁してください。僕は、心の中で頭を下げていた。それにしても、穂香とは違う意味で綺麗だったなぁー…。あ、穂香、ごめん、ごめんなさい。
僕はぐったりと自室のイスに座っていた。
風呂で疲れた。
当分、ぐんにゃりと放心していた。目の前を、景子さんの肢体がちらつく。いかん!いかぁーん!煩悩滅却!心魔退散!僕は、うあぁぁあ、と頭を掻き毟った。
と、とりあえず忘れよう!忘れて、あとは就寝作戦のみだ。基本、自室に篭り、ときどきお茶でも飲みに行く振りをして、寝室を覗き、景子さんが寝るまで待つ!そして、安全域に達したら、ベッドに入ってグッドエンド、だ。
僕は、自分で自分に親指を立てて、OKマークを出した。
作戦通り、その後の家の中は静かなものだった。僕は時々一階に降りて冷蔵庫からお茶を出して飲み、そのついでに寝室を覗いた。
何回かそれを繰り返すうちに、美唯の声も消え、家は静まり返った。意外にも、寝室の電気も早々に消えた。まだ10時だが、早い就寝だ。いいことだな。
もう少し様子を見て、完全に寝たのを見計らって寝よう。そのまま僕は、10時半を過ぎ、11時近くまで、自室で待った。静かだ。電気も消えたまま。よし、これなら大丈夫だろう。
自室の電気を消して、僕は寝室に向かった。暗い寝室では、景子さんがすでにベッドに入って寝息らしき音を立てている。作戦成功だ。
僕は、彼女を起こさないように、そうぅっとベッドに忍び込んだ。仰向けに寝転んで、ほぅ、とため息をついた。元喜さんは、どうだろうか。結構苦戦しているだろうな。穂香、あんまり迫るなよ。頼む。元喜さん、信じてます。そんないろんな想いが交錯して、僕は目を瞑ったまま多分ブツブツ言っていたのだろう。
いつの間にか彼女が、こちらを向いているのに気がつかなかった。
すす、と音を立てずに彼女の顔が僕の首元まで来ていることに、僕が気づいた時はもう遅かった。彼女の左手が、僕の胸の上にすぅと乗せられた時に、初めて僕は彼女が間近にいることに気付いたのである。
ビクリ、とする僕の首元に、景子さんの大人の吐息というやつが吹きかけられた。
おおぅ、ぞくぞくっとする。やめてー。
彼女は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、僕の胸の上で手を動かした。そして、何度も僕の首元に吐息が吹きかかった。少しだけにじり寄ってきた彼女の豊かな胸が、僕の左腕に押し付けられる。僕は思わず身をくねって避けるようにしてしまった。
彼女はそれに気付いたのか、その左足を少し僕の両足の間に挟みいれるようにして、呟いた。
「あなた、腕枕、して?」
僕は内心、冷や汗だらだらだった。甘かった。そのまま、土曜の夜が過ぎるなんて、思ってはいけなかった。ここはなんとも拒否できない空気。う、腕枕までは勘弁してもらおうか。すみません、元喜さん。
僕は、すっと左腕を上にあげて、彼女の頭の下に差し込んだ。下ろした手を、少し彼女の肩にかける程度にとどめ、僕はそのまま硬直した。これで、このまま寝ましょう!ね!そうしましょう!
彼女は、その豊かな胸と腰を少し僕に押し付けるように、ぎゅうっと近づいてきた。こ、これは、抱かねばならぬような、夫婦間のサインとか言うやつですか?ど、どうやってこれから逃げたらいいんですか?元喜さん、教えてください、後生です。
と、彼女の左手がすっと下に下がって、キンキンになっている“僕”に触れた。
むおぉっっ!耐えろっ!!耐え抜けっ!!もう、このまま無視するしか、僕には方法が見つからないッ!
僕は、もう冷や汗だらだらで、この極限の緊張状態に総力で集中した。
しばらくの間、そうやって密着状態で緊張の時間が過ぎた後、彼女は、ほうぅ、と大きな吐息を吐いて、僕から少し離れた。
くっ、と顔をあげて、艶かしい唇を僕の顔に近づけた。
キッ、キスはできませんっ!僕は目を瞑ったまま、しかめっ面で、ぶるぶると震えた。
「あなた、どうしたの?汗ぐっしょり。もしかして、体調でもわるいの?」
僕は、ここぞとばかりに息を切らしたように答えた。
「あ、ああ、…少し調子が、ね…」
上手いっ、僕。景子さんは心配そうに僕の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど…。パジャマ着替えて、早めに寝た方がいいかもしれないわね。」
さ、さすが、オトナだ。なんてオトナな反応なんだ。ここで穂香なら「もっと汗かこうー!」とか言いそうだ。
僕は、ああ、そうするよ、と言って、起き上がりパジャマを着替えた。多分、あれは夫婦間の夜のサインだったに違いない。僕は、多分彼女にとても寂しい思いをさせてしまったのではないかと思った。
もう一度、ベッドにもぐりこんだ時には、景子さんは、大丈夫?とだけ声をかけて、横になった。
「じゃ、おやすみなさい、あなた。」
そういって、寂しそうに背を向ける彼女に、僕は心の中で詫びた。ごめんなさい。今はどうしても応えられない事情があるんです。そう、心の中で頭を下げて、僕も静かに眠りに入った。
『2回目の会合』
よく晴れた、天気のいい朝だった。
信哉は、昨日元喜と話をしたベンチに腰掛けていた。昨日の時間より少し早い。多分、まだ少し待たなくてはいけないだろうと踏んでいた信哉は、遠くから姿を現した元喜に驚いた。
「元喜さん、随分早く出れたんですね。穂香がごねませんでした?」
やぁ、と手を上げた元喜は、やれやれ、といった表情で、信哉の隣に立った。
「いや、それがさ、朝から彼女、すんごく機嫌悪くて。逆に出て行け!って感じで放り出されちまったよ。」
はぁ、とため息をつくように、元喜は信哉の隣に腰掛けた。自分というものは、外から見るとこんな感じの見た目や、声なんだ、と信哉は妙に冷静に分析していた。
「やっぱ、昨日、強引に誘いを断ったのがいけなかったのかなぁ。でも、俺にはもうあれ以上の回避は無理だったよ。信哉くん。大変だな、キミも。」
信哉には、予想通りという感じだった。まぁ、恐らく穂香が裸で布団にもぐりこんできたかなにかを、元喜さんが強引に寝かしつけたのだろう。それで不機嫌なのかもしれない。
「いや、仕方ないですよ。大変だったでしょ、穂香の扱いも。あいつ、能天気で強引だから。お疲れ様でした。お察しします。」
それでもなんとか無事に夜を過ごしたのだと言うことに、信哉は真剣に感謝していた。
「そっちの方はどうだった?景子は何か気付いてなかったかい?」
信哉は照れくさそうに昨晩の報告をした。
「大丈夫です。特に気付かれるとか、そういった心配はないと思います。いろいろ大変でしたけど。夜は、布団に入るなり腕枕をせがまれました。」
元喜が、おっ、といった顔をした。
「あぁ、それは景子からのサインだな。よくかわせたな。土曜の夜だから、あるかなとは思っていたが。」
信哉は、鼻の頭をポリポリと掻きながら報告した。
「それが、もう僕、腕枕だけで汗びっしょりになっちゃって、逆に奥さんに体調悪いんじゃないかって心配されちゃって…。おかげで無事回避できました。さすが、大人の女性は違いますね。対応が大人です。これが穂香なら、かわせなかったと思いますよ。」
元喜も、少し安心したように息をついた。
「そうか、お互い、とりあえず最初の難関は突破したわけだ。」
「毎晩、これがあるかと思うと、ゾッとしますけどね…」
2人は、ハハハ、と冷や汗を流しながらの苦笑いをした。
しばらく、昨日の報告をし合ったあと、わずかな沈黙が訪れた。
解決策。この話をどうすればいいのか、2人とも分からなかったからだ。とりあえず一晩寝てみたが、残念ながら戻る気配はなさそうだった。2人とも実は少し期待していたのだが…。
この沈黙は、やむを得ない沈黙だ。多分、時間がある時は2人とも解決策をずっと考えていたはずだ。それでも何も出てこないということは、打つ手ナシと言うに等しい。仕方ない。こんなもの、体験談もなければ、相談先なんかもっとない。
病院に行ってみるという案もあったが、恐らくその結果は見えている。それぞれの頭の中を精神的に疑われた挙句、精神病理学的に、それぞれ別個に対応されてしまうだろう。入れ替わった、などという戯言が通じる世界とはとても思えない。
2人はほぼ同時に、お互いの顔を見合わせて、苦笑して俯いた。
「まずはだ。」
何かしらしゃべらないといけまい、という感じで元喜が口を開いた。
「今日も休みだから、昨日の経験を活かせばなんとか乗り切れるだろう。今日は特に何か予定していたかい?」
信哉は少し考えたが、特に何も思い当たらない。多分、だらだら過ごす程度だろう。
「いえ、特にありませんね。部屋で過ごすなり、どこかで暇をつぶすなり、ご自由に、と言うところです。」
「その、ご自由に、が一番間が持たないんだけどなぁ…ははは。」
元喜が、まいったな、と頭を掻きながら答えた。
「元喜さんのほうは、娘さんのピアノの発表会ですよね?だから僕、昼までには帰らないと。」
元喜は、思い出したように手をぽんと叩いた。
「あ、そうか。忘れてた。美唯のピアノ発表会だ。って言ってもね、5歳だから『きらきら星』程度だけど。そうだ、録画しなきゃ。信哉くん、悪いが、ビデオ録っといてくれ。」
「ビデオですか。構いませんけど。どこにあります?」
元喜は、身振り手ぶりで自分の書斎の様子を説明し始めた。
「…で、ここの棚の一番下に、ビデオ関連の機材が一式あるからさ。一応、バッテリーは常時満タンにチャージしてあると思う。テープも入っているので続きに録ったらいいと思うから。」
信哉は、ああ、あの辺だな、と頷いた。
「なるほど、分かりました。帰ったらすぐに確認してみます。」
「使い方とかは、大丈夫かな。まぁ、若いから大丈夫かな。」
「あ、それは大丈夫と思います。そういう関連の機材はわりとわかる方ですから。」
元喜は、安心したように微笑んだ。
「助かるよ。よろしく頼む。」
信哉は、にっこりと微笑んだが、突如、形相を変えて大声を出した。
「そうだ!元喜さん!今日のことは、とりあえず良いとして!」
元喜は、突然の大声に驚いてしまった。
「な、なに?」
信哉は、手をわなわなと震わせながら、うろたえた。
「明日ですよ!明日!僕の予定の方は大学の講義を聞いていればいいんで、大したことはないと思うんですが、元喜さんの方は仕事でしょ!?僕、わかんないですよ!机の上の書類を見ちゃったんですけど、何がなにやらさっぱり!どうしたらいいんですか?」
元喜は、信哉の剣幕に思わずのけぞってしまった、がごもっともだ。よく考えたら、突然仕事の事を経験も知識もない信哉が処理できるとは思えなかった。
「そ、そりゃそうだ。仮にも10年勤めてるからなぁ。これは経験がないと、無理だろうな…やっぱり。」
元喜も頷きながら、頭を抱えてしまった。
「資料、見てみたの?全然、分からなかった?…よね。多分。」
「はい、全く。まず、専門用語がわかりません。」
「そうか…、明日は、明後日のプレゼンの準備と、展示会の打ち合わせと、新商品企画案の会議か…。絶対、無理だな。かといって、俺が行くわけにもいかんしなぁ。…ううむ、こ、これは、…とりあえず出社して、体調悪いとか言って帰るか。朝、電話して休むって手もあるが、そうなると景子が心配して病院行けだのなんだの言ってくるぞ。」
信哉も聞きながら、それしか手はないような気がしていた。
「上手く演技をすれば、2~3日休んでいいよ、とか言われるかもしれんしな。プレゼンは誰か代わりがいるだろうし、展示会も来週だ。俺的には、戻った時の居心地が悪いが、まぁ、今は背に腹は代えられんわな。」
仕方ない、といった感じで元喜は、困った顔で微笑んだ。
「すみません、力不足で…」
真剣に謝ってくる信哉に、元喜はポンと肩をたたいた。
「気にすんなって。しょうがないだろ。君のせいでもないし、誰だってそんなこと急に出来るわけがない。俺だって、突然どっかの会社に放り込まれて、ハイ仕事して!って言われたって出来やしないよ。はっはっは。」
申し訳なさそうに信哉は頭を下げた。
「じゃ、明日はなるべく途中で帰れるようにしてみます。僕の方は、コマ割り表が机の一番上の引き出しに入ってると思うので、それを見てみてください。まぁ、大学の講義ですから、極端な話、2~3回欠席したって大丈夫ですんで、なんなら部屋にずっと居て下さっててもいいですよ。」
「ああ、見とく。まぁ、信哉くんにばかり苦労をかけてもいけないんでね。俺も一応出席して、返事くらいはしておくよ。代返頼むのと大差ないがね。」
そう言って、元喜は笑った。
2人はその後、思いつく限りの情報交換をした。そうは言っても、自分の生活で普通だと思っていることを、他人に説明すると言うのは難しいものだ。それがあくまでも「普通」であって「他人とは違う」ことかどうかそのものがわからないのだから。
この辺は結局、行き当たりばったりでがんばって乗り切るしかない。元に戻るまでは。
果たして元に戻るのだろうか…?
2人は、同じ不安を抱えながら、またがんばろう、と握手をして分かれた。お互いに、自分の手とは他人にとってこんな感触だったのだな、と思いながら。
『怒りの穂香』
俺は、なんだかやたらと機嫌の悪い穂香の顔色を伺うかのように、こそっと玄関を開けた。
「ただいまー…」
リビングをみると、穂香はゴロリと横になって、テレビを見ていた。俺が帰ってきたのを発見すると、やはりプリプリと怒ったように言った。
「どこいってたのさ!ホノカ、ほったらかして!シンくんのバカ!」
いやいや、キミが俺を追い出したんでしょ。とは言っても、この怒りをなだめるには、ケンカをしていてはいけない。
「いや、ごめん、ごめん。だから早めに帰ってきたじゃん。」
ご機嫌をとるように下手に、下手に。俺はとりあえず、今日どうするか考えながらベッドに座った。穂香はぶすっとしたまま、テレビを見ている。まぁ、彼女の方からなにも言ってこないのなら、逆に楽だ。このまま、ぼーっと過ごせばいい。どうしても外出をというのなら、ショッピングにでも出かけようと思っていた。
まぁ、様子見だな。と、思っていたら、穂香が非常に不機嫌そうにぶすっと言った。
「あのさ、シンくん。ちょっとさ。聞くけどさ。」
俺はとりあえず、ニコニコと笑顔を絶やさず、答えた。
「ん?なに?」
穂香は、テーブルに座り直し、右手でひじをついてその上に顎を乗せた。そして、かなり、かなり不機嫌そうに言った次の言葉に、俺は息が止まった。
「ケイコ、って誰さ。」
ぐはぁ!オレは一瞬、心臓が数秒止まった気がした。
「はい?な、なに?」
俺はとぼけるように、聞きなおした。
「聞こえなかったの?ケイコ、って誰さ、って聞いたんだけど。」
その口調には、静かながら非常に恐怖を感じさせる怒気が込められていた。
「え?け、景子?い、いやぁ、知らないなぁ。…な、なんで?」
じろっ!と顎を右手に乗せたまま、穂香がこっちを睨んできた。
「知らない?ホントに?なに、慌ててんのよ。」
俺は、手汗をべっとりかきながら、できるだけ平静に答えた。
「ホ、ホント、ホント。慌ててない、ない。し、知らないなぁ。…だから、なんで?」
穂香は顎を乗せていた右手を、バン!と俺の右ひざの上に置いた。
「ホント?あんだけ寝言で、ケイコー、ケイコー、って言っといて!?」
寝言か!うはぁ!これは想定外っ!しかも、予防法がないっ!
「けいこ、…けいこ、って言ってた?けいこ、ケイコ、…ね。」
ギロリと穂香が俺を上目遣いに睨む。
「け、ケイコ、…な、なんかの“稽古”でもしてたのかな。はは、はは、はは。」
「稽古ぉ~?また、ワケのわかんないこと言って、ナニ誤魔化そうとしてんのさ!」
穂香の右手が、力強く俺の右ひざを抓る。
「あいててててて!いや、ホント!ホントに覚えがないんだってば!」
俺は抓られた右ひざをさすりながら、必死で逃げの手を考えていた。
「あっきれた。ホントに、覚えがないってのね。マジで。あ、そう。あー、そう。ふーん。ふーーーん。そーうなの。バックレるわけね。ん、ならさ。」
穂香が今度は、見くだすように顔をあげて俺の方を見下ろした。
「じゃ、ミユ、って誰さ。」
ぐはぁっ!そっちもキタか!
「え?え?み、美唯?えっと、えー、なんだろ、みゆ、えー…」
今度は左の太ももを思いっきり抓られた。
「ケイコにミユだぁー?なぁに、2人も女の子の名前を寝言で叫んでんのさー?!ちょっとお!シンくん!」
「あいてててててててててて!待った!ちょっと、待った!落ち着いて!」
許さないわよ、という顔で穂香は俺の制止を聞かなかった。
「落ち着いていられますか、っちゅうの!どーいうコトさ!シンくんってば、ホノカ一途っていってたじゃん!そ、れ、をー!」
今度は両手で両太ももを抓られた。
「いててーっ!待ってー!ちょっと、待ってー!一途っ!一途ですっ!そこに間違いはありませーーーん!」
一旦緩んだ抓り攻撃に、俺はゼエゼエ言いながら、彼女の剣幕を平手で押しとどめた。
「穂香、落ち着け、これは何かの間違いだ。僕が(そう、信哉くんが)穂香に一途なのは、神に誓って本当だ。公明正大、真実だ。そこはまず信じよう。な、穂香。」
俺はごくりを唾を飲み込みながら、ぐっと平手で彼女を制しながら、真摯な姿勢で訴えた。俺の真摯さに、彼女の勢いも少しだけ弱まった気がする。
「そ、そしてだ。景子と美唯という女性にも、僕が(そう、信哉くんが)全く心当たりがないことも、神に誓って本当だ。」
穂香がまた、思いっきり両太ももを抓ろうとした。
「待ったっ!待ったぁっ!じゃ、なんで寝言でまで言ってたのか、そう言いたいんだろ?だろ?」
「そうよっ!知らないのに、夢にまで見るわけ!?」
俺は、平手でぐっぐっと、彼女を制しながら分析するような口調で、極力落ち着いて話した。
「そ、そこなんだよな。そこが僕も不思議でならない。待ったっ!本当だ!信じてくれっ!」
歯軋りをしながら、手をわきわきと、いつ抓ってやろうかと身構える穂香に俺は何度も静止をかけた。
「あの、あ、あれだ、むかーしの小学校の頃の友達とか、突然夢に出たりするだろ?忘れてたようなヤツとか。そういうやつかもしんないし、イヤ、ホント、まったく見に覚えないからっ!信じてっ!な!」
鋭い視線のまま、穂香が言った。
「ホントだろね。ホントに、ホントだろね。」
俺はなぞるように言い返した。
「ホント!ホントに、ホント!」
穂香は確認するように繰り返した。
「ホントだね、信じていいんだね、ホントに。」
そう言った途端、穂香の目からポロリと涙が零れ落ちた。
「ホント、だろね。シンくん。信じて、いいん、だろね。ねぇ。」
ポロッ、ポロッ、と涙をこぼしながら、穂香はしゃがみこんだ。
「本当だ。神に誓って、本当だ。僕(信哉くん)は、穂香だけだ。」
両手を俺の太ももに置いたまま、穂香は崩れ落ちるように座り込んだ。
「だってさ、…だってさ。シンくん、昨日抱いてくれなかったじゃん。それだけでも不安だったのにさ。夜中にシンくん、2人も女の人の名前呼んでさ。ホノカ、苦しくて死んじゃうかと思ったんだから。」
そういって、穂香は泣き崩れた。
俺は、彼女が妙に愛しく感じて、その頭を優しく撫でてやった。
「ごめん、穂香。つらい思いをさせて。僕が悪かった。でも、安心して。そして信じてくれ。僕は穂香一途だし、寝言の女性の覚えも一切ない。僕(信哉くん)は、穂香を心から愛している。そこに嘘偽りは一切ない。ごめんよ。」
そう言って、俺は彼女の肩を優しく抱きしめてやった。
これくらいは許してやってくれよな、信哉くん。
後編に続く