聖女の私が、魔女を焼こうとした教会を捨てた理由
少女の母親が膝をついたとき、エリシアは初めて、治療室の扉に鍵が掛けられていることを知った。
「お願いします。娘を助けてください。さっきから、息がうまくできなくて……!」
母親の腕に抱かれた少女は、七つか八つほどに見えた。汗で額に張りついた金髪の下で、青白い唇が小さく開閉している。息を吸うたびに胸がひゅうひゅうと鳴り、薄い肩が苦しそうに上下した。
エリシアは祭壇の前から駆け寄った。長い銀髪が肩を滑り、白い聖衣の裾が磨き上げられた床を擦る。十九歳になったばかりの彼女は、王都でも名の知られた治癒術師だった。人々はその力を奇跡と呼び、本人もまた、授かった力を病人のために使うことこそ自分の務めだと信じていた。
「こちらへ。すぐに診ます」
ところが、受付にいた司祭が彼女の前に立った。
「エリシア様、まだ寄進の確認が済んでおりません」
「後にしてください。この子は呼吸が――」
「枢機卿様のご指示です。例外を認めれば、ほかの方々にも示しがつきません」
司祭は困り果てたような顔をしていた。四十を過ぎたばかりの、いつも控えめな男だった。彼が悪意を持って少女を苦しめているようには見えなかったからこそ、エリシアは余計に戸惑った。
母親が震える手で布袋を差し出した。口の緩んだ袋から銅貨が三枚、床に転がる。
「これしかありません。収穫が終われば、残りは必ずお支払いします。どうか今だけ……」
司祭が首を振ろうとした瞬間、少女の身体がびくりと震えた。
エリシアは彼の脇をすり抜けた。
「責任は私が取ります」
少女の胸に手を当て、祈りの言葉を唱える。指先から淡い金色の光がこぼれ、浅く乱れていた呼吸が少しずつ整っていった。母親は娘の手を握りしめ、声を殺して泣いた。
しかし、胸の奥に残る濁った音は消えなかった。魔法で呼吸を助けることはできても、炎症そのものが治まりきっていない。
「薬庫を開けてください。肺の病に使う薬があるはずです」
司祭は視線を落とした。
「薬の支給にも、所定の寄進が必要です」
「今、私が診たでしょう。治療の途中なんです」
「申し訳ありません」
彼の腰には鍵束が下がっていた。
エリシアは奥の廊下を見た。普段なら自由に出入りできるはずの治療室に、重い錠前が取りつけられている。その隣の薬庫にも、同じような鍵が掛かっていた。
いつから、こんなことになっていたのだろう。
「枢機卿様には私から説明します」
「どうか、それ以上は……」
司祭の声は小さかった。
「私にも、養わなければならない家族がおります」
エリシアは何も言えなくなった。
結局、薬は渡されなかった。母親は何度も頭を下げ、まだ熱のある娘を抱いて教会を出ていった。門の外では小雨が降り始めていたが、母親は外套を娘に掛けると、自分は濡れたまま歩いていった。
エリシアは、その背中が見えなくなるまで動けなかった。
これまで何百人もの患者を治してきた。治療を終えるたび、人々は感謝し、神の慈悲を讃えた。彼女自身も、誰かの苦しみを和らげられたことを誇りに思っていた。
だが、治療室に入れなかった人々については、何も知らなかった。
知らされなかったのか。それとも、知ろうとしなかったのか。
その夜、祈りの言葉を唱えようとしても、少女の苦しげな息遣いばかりが耳に残った。
◇
翌朝、エリシアは普段の聖衣を脱ぎ、飾りのない灰色の外套を羽織って市場へ向かった。腰まで届く銀髪を後ろで結び、胸元の聖印も服の内側に隠したつもりだったが、淡い青の瞳と目立つ髪色のせいで、何人かの商人にはすぐ気づかれた。
彼女が探していたのは、昨日の母娘だった。けれど、名前も住まいも聞いていない。どこの村から来たのかさえ知らなかった。
「おや、聖女様じゃないか」
野菜を積んだ荷車のそばから、しわがれた声がした。
振り返ると、腰の曲がった老婆が立っていた。灰色の髪を布でまとめ、継ぎ当てだらけの緑の上着を着ている。エリシアには見覚えがあった。
「マルタさん? 膝はもう大丈夫なんですか?」
「ああ、ずいぶん楽になったよ」
マルタは杖を持ち上げ、試すように数歩歩いてみせた。
「森のミレヤに診てもらってね」
「ミレヤ……あの、魔女と呼ばれている人ですか?」
老婆はうなずいた。エリシアが眉をひそめると、荷車に手を置き、まっすぐ彼女を見た。
「聖女様。あんたが悪い人じゃないことは、みんな知ってるよ」
「……はい」
「でもね、教会の門まで行って、財布の中を見せて、何もしてもらえず帰る人間もいるんだ。それだけは知っておくれ」
責める口調ではなかった。
それが、かえって胸に残った。
マルタは荷車を引きながら去っていった。エリシアはしばらくその場に立ち尽くしたあと、森へ続く道を歩き始めた。
町外れを過ぎると、舗装された道は土に変わった。雨に濡れた落ち葉が靴の裏に張りつき、木々の間から薬草に似た青い匂いが漂ってくる。森の奥へ進むにつれ、教会の鐘の音も聞こえなくなった。
やがて、小さな畑と木造の家が見えた。
屋根の下には乾燥させた薬草が吊るされ、窓辺には洗った包帯が干されている。入口の前では、黒髪の女性が男の子の膝に包帯を巻いていた。
「もう少し我慢してね。ここを結んだら終わりだから」
女性は腰まで届く黒髪を無造作に束ね、深緑色のチュニックに茶色の革の前掛けをつけていた。袖を肘まで捲り上げた腕には、細かな傷がいくつもある。年齢は二十代半ばほどだろうか。切れ長の琥珀色の瞳が、エリシアへ向けられた。
「あら。ずいぶん珍しいお客さんね」
女性は包帯を押さえたまま言った。
「聖女様がこんな森まで来るなんて。私を捕まえに来たの?」
「あなたが危険な術を使っていると聞きました」
「危険な術ねえ」
女性は困ったように笑い、手元へ目を戻した。
「じゃあ、その危険な包帯がほどけないように、端を持っていてくれる?」
「……え?」
「そこ。白い布の端よ」
言われるまま、エリシアはしゃがみ込んだ。
包帯を押さえると、女性は手際よく結び目を作った。
「はい、終わり。今日は走り回らないこと。分かった?」
「うん!」
男の子が元気よく返事をして帰っていくと、女性はようやく立ち上がった。
「助かったわ。私はミレヤ。あなたは……聞くまでもないかしら」
「エリシアです」
「知ってる。町中にあなたの絵が飾ってあるもの」
ミレヤは手を洗いながら笑った。
「実物のほうが、少し疲れた顔をしてるけどね」
エリシアは返事に困った。
教会では、誰もそんなことを言わなかったからだ。
◇
小屋の中は狭かったが、清潔に整えられていた。壁には薬草の束が吊るされ、棚には小瓶と木箱が並んでいる。寝台は三つしかなく、隣の部屋では大きな鍋が静かに煮えていた。
エリシアは奥の寝台を見て足を止めた。
昨日の少女が眠っていた。
金色の髪は枕に広がり、頬にはまだ熱の赤みが残っている。寝台のそばには母親が座っていた。
エリシアに気づくと、母親は反射的に娘を庇った。
「……また、追い返されるんですか」
エリシアは息を詰まらせた。
昨日は何度も礼を言ってくれた女性だった。今、その目には明らかな怯えがある。
「いいえ」
エリシアはゆっくり首を振った。
「昨日は薬を渡せませんでした。今日は、できることを一緒に考えさせてください」
ミレヤが少女の額に触れた。
「昨夜より熱は下がったけど、まだ安心できないわ。肺の炎症が残ってる。エリシア、呼吸を少し楽にしてあげられる?」
「はい」
エリシアは少女のそばに膝をついた。金色の光を胸元に灯し、乱れた呼吸を整える。ミレヤはその間に薬を調合し、母親へ飲ませ方を説明した。
二人の手つきはまるで違った。エリシアの魔法は病人の苦痛を和らげるのに優れていたが、病状によっては薬と休養が欠かせない。ミレヤはその違いを当然のこととして受け入れ、必要なものを組み合わせていた。
やがて少女は静かな寝息を立て始めた。
母親はその小さな手を握り、何度も礼を言った。
エリシアは、今度こそ安心してよいのか確かめるように、少女の呼吸をしばらく見守った。
患者たちが帰ったあと、エリシアはミレヤに尋ねた。
「どうして、あなたは代金を取らないのですか?」
ミレヤは乾燥した葉を刻む手を止めた。
「取るわよ」
「……え?」
「薬草を集めるにも、鍋を直すにも、お金がいるもの。払える人からは材料代をもらうし、畑仕事を手伝ってもらうこともある」
刻んだ葉を小皿に移し、ミレヤは続けた。
「でも、払えない子を追い返したら、その子はどこへ行くの?」
エリシアは答えられなかった。
「教会にも費用が必要です。孤児院もありますし、冬には炊き出しも行っています。薬だって、無限にあるわけではありません」
「そうね」
ミレヤはあっさり認めた。
「だから、何にどれだけ使っているか確かめなさい」
「確かめる……?」
「足りないなら、何が足りないのか。誰が決めているのか。払えない人がどうなっているのか。知らないまま信じるのと、知ったうえで信じるのは違うでしょう?」
エリシアは胸元の聖印に触れた。
孤児だった自分を拾い、育ててくれたのは教会だった。読み書きを教え、治癒魔法の才能を見つけてくれたのも、枢機卿ヴァレリウスだった。
彼が間違っているとは思いたくない。
けれど、昨日の母親の顔が頭から離れなかった。
「……調べてみます」
「それがいいわ」
ミレヤは笑い、もう一度薬草を刻み始めた。
「それで、聖女様。お茶くらい飲んでいく?」
「え?」
「せっかく森まで来たんでしょう。帰り道は長いわよ」
エリシアは少し迷ったあと、頷いた。
ミレヤが差し出した木の杯には、温かな薬草茶が注がれていた。口に含むと、思った以上に苦かった。
「……っ!」
「苦い?」
「い、いえ……」
「無理しなくていいわよ」
ミレヤは声を立てて笑った。
「蜂蜜を入れましょうか、聖女様」
「……お願いします」
その日、エリシアは久しぶりに、誰かの前で失敗を隠さずに笑った。
◇
教会の帳簿を調べ始めて三日目、エリシアは自分の名前が付いた料金表を見つけた。
特別祝福。奇跡の聖女による治療。
寄進額は、普通の農家が数か月働いても簡単には払えない金額だった。さらに未納者の一覧には、治療を断られた患者の名前が並んでいる。借金の代わりに畑を差し押さえられた者、薬を受け取れずに帰された者、治療を待つ間に亡くなった者。
エリシアは帳簿を閉じた。
手が震えていた。
「そこは、あなたが見る必要のない場所です」
背後から声がした。
振り返ると、枢機卿ヴァレリウスが立っていた。五十代半ばの男で、灰色が混じった金髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、深紅の法衣に金の刺繍を施している。首から下げた大きな聖印が、蝋燭の光を受けて鈍く輝いていた。
穏やかな青い瞳。
幼い頃、熱を出したエリシアの枕元に何度も来てくれた人だった。
「ヴァレリウス様……」
「教会には孤児院があります。冬には炊き出しも行っています。薬も人手も無限ではありません。誰かが費用を負担しなければ、救える命まで失うのですよ」
エリシアはすぐには反論できなかった。
それが事実であることを、彼女自身が知っていたからだ。
「……はい。分かっています」
「ならば、これ以上調べる必要はありません」
ヴァレリウスは帳簿へ手を伸ばした。
エリシアは、その上に自分の手を置いた。
枢機卿の動きが止まる。
「でも、どうして私には教えてくださらなかったのですか?」
「あなたは人々の希望なのです」
彼はいつもの優しい声で答えた。
「希望には、知らないほうがよいこともあります」
エリシアはその顔を見つめた。
「……それは、私を守るためですか?」
「もちろんです」
「それとも、私が疑わないようにするためですか?」
ヴァレリウスの表情から、ゆっくり笑みが消えた。
「森の魔女と会うのはやめなさい」
エリシアは返事をしなかった。
彼の命令に従わなかったのは、生まれて初めてだった。
◇
それから、エリシアは治療室ではなく、受付に立つようになった。
診療を求めて来た人々の名前を書き留め、病状を尋ね、薬の配分を確かめた。
協力してくれる若い司祭もいた。反対する者もいた。ある日、薬が足りなくなったとき、エリシアは全員を治療室へ入れようとして、ミレヤに止められた。
「待ちなさい」
ミレヤは患者の一覧を指さした。
「この人と、この人はすぐに診ないと危険。こっちの人は明日の朝でも大丈夫そう」
「でも、全員が困っているんです」
「分かってるわ」
「だったら、どうして――」
「今ある薬で全員を治療しようとしたら、重症の人に必要な分がなくなるの」
エリシアは言葉を失った。
ミレヤは声を荒らげなかった。
「助けたい気持ちは大事。でも、誰を先に診るか決めるのも、治療する側の責任よ」
「……私には、できません」
エリシアは俯いた。
「誰かを後回しにするなんて……」
ミレヤはしばらく黙っていた。
それから、隣の椅子を引いた。
「じゃあ、一緒に考えましょう」
「……一緒に?」
「そう。病状で順番を決める。財布の厚さじゃなくて」
エリシアは顔を上げた。
ミレヤは紙と羽根ペンを差し出した。
「まず、今ある薬の量を書いて」
エリシアは頷いた。
その夜、二人は遅くまで机に向かっていた。薬草の在庫、治療に必要な量、優先すべき症状。エリシアは何度も計算を間違え、そのたびにミレヤから訂正された。
「……字は綺麗なのに、計算は雑ね」
「今、褒めるところはそこですか?」
「じゃあ、褒めるのはやめるわ」
「……少しくらい褒めてください」
ミレヤが笑った。エリシアも、つられて笑った。
教会の中では、誰も自分にこんなふうに話しかけなかった。聖女様、奇跡の御方、神に選ばれた少女。けれど、ミレヤは違う。間違えれば間違えたと言い、分からなければ一緒に考えてくれる。
エリシアはそのことが、少し嬉しかった。
「ねえ、エリシア」
ミレヤが不意に尋ねた。
「あなた、友達っている?」
「友達……ですか?」
「そう。仕事を抜きにして、一緒にご飯を食べたり、くだらないことで笑ったりする相手」
エリシアはしばらく考え込んだ。
「司祭の皆さんは、いつも親切にしてくださいます」
「それは同僚でしょう?」
「……そうですね」
ミレヤは彼女の顔を見て、少しだけ表情を和らげた。
「じゃあ、今度の休み、一緒に市場へ行かない?」
「市場へ? 薬草を買いにですか?」
「違うわよ。焼き菓子でも食べに行くの」
「……お仕事ではなく?」
「そう。友達として」
エリシアは目を丸くした。
聖女として祈りを頼まれたことは数えきれないほどある。けれど、ただ一緒に遊ぼうと誘われたのは、いつ以来だろう。
「……私で、いいんですか?」
「あなたがいいのよ。エリシア」
ミレヤは笑った。
「ただし、遅刻したら置いていくからね」
「そ、それは困ります!」
二人の笑い声が、小さな診療小屋に響いた。
◇
約束の日、エリシアは待ち合わせの時間より一時間も早く市場へ着いた。
普段の聖衣では目立つと思い、淡い青のワンピースに白いカーディガンを合わせている。銀髪は後ろで一つに結び、胸元の聖印も小さなものに替えた。
それでも、通りかかった人々は彼女を見て振り返った。
エリシアは落ち着かず、何度も時計塔を見上げた。
「……早すぎましたね」
そう呟いたところで、背後から声がした。
「何が?」
「ひゃっ!」
振り返ると、ミレヤが立っていた。
いつもの前掛けはなく、深緑色の長袖の服に茶色のスカートを合わせている。黒髪は緩く編まれ、肩の上に流れていた。
「そんなに驚かなくてもいいでしょう」
「ミレヤさんこそ、どうしてこんなに早く……」
「あなたが早く来そうな気がしたから」
ミレヤは楽しそうに笑った。
「やっぱりね」
エリシアは頬を膨らませた。
「……私、そんなに分かりやすいですか?」
「ええ。とっても」
二人は市場を歩いた。
焼き菓子の店で蜂蜜入りのパンを買い、布屋の前で足を止め、広場の噴水のそばで休んだ。ミレヤは店主たちと気軽に言葉を交わし、エリシアはその様子を少し羨ましそうに眺めていた。
「どうしたの?」
「……皆さん、あなたと楽しそうに話すんですね」
「あなたも話せばいいじゃない」
「でも、私が話しかけると、皆さん緊張してしまうので……」
ミレヤは少し考えたあと、エリシアの手を引いた。
「じゃあ、練習しましょう」
「練習?」
「そう。まずは、あそこの果物屋さんに行って、リンゴを二つ買ってきて」
「……それだけですか?」
「それだけ。でも、聖女様としてじゃなく、普通のお客さんとしてね」
エリシアは戸惑いながらも、果物屋へ向かった。
店主は彼女を見るなり、慌てて頭を下げた。
「せ、聖女様! 何かご用でしょうか!」
「え、ええと……リンゴを、二つください」
「もちろんです! お代などいただけません!」
「いえ、ちゃんとお支払いします!」
エリシアが必死に銅貨を差し出すと、店主は困ったように笑った。
少し離れたところで、ミレヤが肩を震わせていた。
戻ってきたエリシアは、リンゴの入った袋を抱えたまま抗議した。
「笑っていましたね!」
「だって、あんなに真剣な顔でリンゴを買う人、初めて見たんだもの」
「私だって、初めてだったんです!」
「リンゴを買うのが?」
「普通のお客さんとして、です!」
ミレヤは声を立てて笑った。
エリシアも、しばらくしてから笑った。
その日の帰り道、二人は森へ続く坂道を並んで歩いた。
「……楽しかったです」
エリシアが言った。
「それならよかった」
「また、一緒に行ってもいいですか?」
ミレヤは横目で彼女を見た。
「もちろん。次は、もっと上手にリンゴを買えるといいわね」
「……そこは忘れてください」
「無理ね。しばらくは思い出して笑うと思う」
エリシアは困ったように笑った。
教会へ戻る道が、いつもより短く感じられた。
◇
魔女が子供に呪いをかけているという噂が流れ始めたのは、その数日後だった。
教会は、森で治療を受けた者への祝福を停止すると告げた。薬を求めて来た村人が追い返され、ミレヤの小屋には石が投げ込まれた。
エリシアが駆けつけたとき、薬草畑は踏み荒らされていた。割れた瓶、散乱した包帯、倒れた棚。小屋の中に、ミレヤの姿はなかった。
「……ミレヤ?」
返事はない。
入口の柱には、教会の紋章が刻まれた告知書が打ちつけられていた。
異端の魔女を捕縛。
日没、中央広場にて裁き。
エリシアは紙を握りしめた。
指先が冷たくなった。
あの人は、ただ病人を治していただけなのに。
けれど、エリシアには分かっていた。問題は、ミレヤが治療したことではない。教会の外にも人を救う方法があると、村人たちが知り始めたことだった。
そして、ミレヤは自分の友達だった。
初めて、聖女ではなくエリシアとして接してくれた人。
間違えれば叱り、失敗すれば笑い、一緒に考えてくれた人。
市場で焼き菓子を食べたときの笑顔が、頭に浮かんだ。
「……絶対に、助けます」
エリシアは告知書を握りしめ、町へ向かって走り出した。
◇
中央広場には、大勢の人々が集まっていた。
石畳の中央に薪が積まれ、その上に一本の柱が立てられている。
ミレヤは柱に縛られていた。黒髪は乱れ、頬には青あざがある。いつもの緑色の服は泥で汚れ、手首には縄が食い込んでいた。
エリシアが人混みをかき分けると、ヴァレリウスが振り返った。
「エリシア」
枢機卿は穏やかに微笑んだ。
「来てくれましたか」
その手には、火のついた松明が握られていた。
「この女は、人々を惑わせています。あなたが火をつければ、皆も安心するでしょう」
エリシアは松明を見た。
炎が揺れている。
幼い頃、冬の礼拝堂でヴァレリウスが暖炉に薪をくべてくれたことを思い出した。寒さで震える自分に、温かいスープを運んでくれたことも。
彼は確かに、自分を救ってくれた人だった。
その事実は、今も変わらない。
だからこそ、エリシアは苦しかった。
「……ヴァレリウス様」
彼女は松明を受け取った。
群衆が静まり返る。
ミレヤが顔を上げた。
琥珀色の瞳が、エリシアを見つめる。
彼女は何も言わなかった。
ただ、小さく首を振った。
無茶をするな、と言っているようだった。
エリシアは一歩前へ出た。
そして、松明を石畳の上に置いた。
「私は、あなたに育てていただきました」
ヴァレリウスの眉が動いた。
「そのことには、今も感謝しています」
エリシアは震える指を握りしめた。
「でも、感謝しているからといって、あなたの命令がすべて正しいことにはなりません」
広場がざわめいた。
ヴァレリウスの声が低くなる。
「エリシア。自分が何を言っているのか、分かっていますか?」
「……はい」
エリシアは懐から紙の束を取り出した。
「ここに、教会の治療記録があります」
彼女は一人ずつ名前を読み上げた。治療を拒否された人、借金の代わりに畑を失った人、薬を受け取れずに亡くなった人。
名前を読むたびに、群衆の中から声が上がった。
「……その人、知ってる」
「うちの隣の家だ」
「父さんも、教会へ行ったのに……」
ヴァレリウスが叫んだ。
「偽造です! その女に惑わされているのです!」
「いいえ」
群衆の中から、若い司祭が進み出た。
エリシアと一緒に帳簿を調べていた男だった。
彼は両手で原本を抱えていた。
「ここに、教会の正式な記録があります」
ヴァレリウスの顔色が変わった。
「お前……!」
若い司祭は怯えながらも、エリシアの隣に立った。
「私は、受付で何人もの患者を追い返しました。規則だから仕方がないと思っていました」
彼は群衆へ頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
広場が静まり返った。
エリシアは彼を見た。
この司祭もまた、職を失うことを恐れていた。それでも、今は自分の意志でここに立っている。
エリシアは再びヴァレリウスへ向き直った。
「教会にお金が必要なのは分かっています。薬も、人手も、無限ではありません」
彼女は一度、息を整えた。
「でも、払えない人を追い返したことを隠して、私の名前で『すべての人に慈悲を』と説いていた。それは違うと思います」
ヴァレリウスは黙っていた。
「私は、これからも人を治療したいです。でも、誰が治療を受けられなかったのか、知らないまま聖女と呼ばれるのは、もう嫌です」
枢機卿が兵士に合図した。
「その女を捕らえなさい」
二人の兵士が前に出た。
エリシアの身体が強張る。
彼女は戦うための魔法を習ったことがなかった。人を傷つけることも、命令に逆らうことも、怖かった。
それでも、足を引かなかった。
「待ってください!」
声を上げたのは、群衆の中にいた母親だった。
あの日、娘を抱いて教会へ来た女性だ。
彼女は少女の手を握っていた。少女はまだ少し痩せていたが、自分の足で立っている。
「この人は、娘を助けてくれました」
母親はミレヤを指さした。
「教会で薬をもらえなかったあと、森で治療してくれたんです」
老婆のマルタも杖をついて前へ出た。
「私の膝もだよ」
別の男が声を上げた。
「うちの息子も助けてもらった!」
次々と声が続いた。
兵士たちは顔を見合わせた。
誰も、すぐには動けなかった。
エリシアはその隙にミレヤのもとへ駆け寄った。
「……遅い」
ミレヤが小さく呟いた。
エリシアは泣きそうになりながら笑った。
「助けに来た人に、最初に言うことがそれですか?」
「だって、心配したんだもの」
「……私だって、心配しました」
エリシアは拘束具に手をかざした。
金色の光が金具を包み、留め具がゆっくり外れる。
ミレヤの身体が傾いた。
エリシアは慌てて抱き止めた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと、腕が痛いだけ」
「それなら、あとで診ます」
「……聖女様に?」
「いいえ」
エリシアは首を振った。
「友達として、です」
ミレヤは目を丸くした。
それから、少し困ったように笑った。
「……そう。じゃあ、お願いしようかしら」
◇
ヴァレリウスはその後も、自分の正しさを訴え続けた。
教会の不正が明らかになったからといって、すべてがすぐに変わったわけではない。彼を信じ続ける人もいた。エリシアを裏切り者と呼ぶ者もいた。
町の評議会が帳簿を押収し、調査を始めるまでには時間がかかった。
その間、エリシアは教会を離れ、ミレヤの小屋で治療を手伝った。
最初は、何もかもが不便だった。薬草を刻めば指を切り、包帯を巻けば緩すぎると叱られた。患者の数が増えると、薬の配分をめぐってミレヤと何度も言い争った。
それでも、エリシアは逃げなかった。
知らなかったことを、一つずつ覚えていった。
◇
半年後、村と森の境に、小さな診療所が建った。
白い壁に緑色の屋根。窓辺には薬草の鉢植えが並び、入口には木製の看板が掛けられている。
建物は村人たちの寄付と手仕事で建てられた。薬代を払える人には実費をお願いし、払えない人には共同の基金を使う。重症の患者を優先し、治療の順番は病状で決める。
それでも、薬が足りない日はあった。助けられない患者もいた。
エリシアは以前よりよく泣くようになった。けれど、以前よりよく働くようにもなった。
ある朝、診療所の前に一人の少女がやって来た。
金色の髪を二つに結び、青いワンピースを着ている。あの日、教会で呼吸が苦しくなっていた少女だった。
「エリシアお姉ちゃん!」
少女は嬉しそうに駆け寄った。
両手には卵が三つ抱えられている。
「お母さんが、二人で食べてって!」
エリシアはしゃがみ込み、卵を受け取った。
「ありがとう。お母さんにもよろしく伝えてね」
すると、背後からミレヤが顔を出した。
「ちょっと待って。その前に、朝ご飯は食べてきた?」
「食べたよ!」
「本当に?」
「うん! パンとスープ!」
ミレヤは満足そうに頷いた。
「なら、ありがたくいただくわ」
少女が走り去ると、エリシアは卵を見つめた。
「前の私なら、これも寄付として記録したでしょうね」
「今は?」
ミレヤが尋ねる。
エリシアは少し考えた。
「お礼として受け取ります」
「それで?」
「一つは、あなたの分です」
「二つは?」
「私の分です」
ミレヤが眉を上げた。
「どうして?」
「昨日は私のほうが遅くまで働きましたから」
一瞬の沈黙。
それから、ミレヤが吹き出した。
「……ずいぶん言うようになったわね、聖女様」
「その呼び方、やめてください」
「どうして? 嫌なの?」
エリシアは少し考えた。
かつては、その名を呼ばれることが誇らしかった。人々が自分を頼り、感謝してくれる。その期待に応えることが、正しい生き方だと思っていた。
けれど今は、誰かを救えなかった夜のことも知っている。自分が知らないまま、門の外で帰されていた人々のことも。
聖女と呼ばれる資格があるのか、今でも分からなかった。
「……嫌ではありません」
エリシアは答えた。
「でも、その名前に恥ずかしくない仕事をしたいんです」
ミレヤはしばらく彼女を見つめていた。
それから、穏やかに笑った。
「なら、今日も頑張りましょうか」
「はい」
そのとき、診療所の扉が開いた。
杖をついた老人が、おそるおそる顔をのぞかせる。
「あの……診てもらいたいんですが」
エリシアはすぐに立ち上がった。
もう、豪華な聖衣は着ていない。白いブラウスに淡い青のスカート。袖は肘まで捲られ、長い銀髪は邪魔にならないように後ろで結んでいる。
胸元には、昔から持っている小さな銀の聖印だけが揺れていた。
「どうぞ、お入りください」
老人は戸惑ったように足を止めた。
「……その、先にお金を払わなくても?」
エリシアは老人の顔を見た。
痩せた頬。擦り切れた外套。杖を握る、節くれだった指。
彼がどれほど長い道を歩いてきたのかは分からない。それでも、今ここへ来るまでに、何度も迷ったのかもしれなかった。
「まず、お身体を診せてください」
エリシアは椅子を引いた。
「費用のことは、そのあとで一緒に考えましょう」
老人の表情が、少しだけ緩んだ。
ミレヤが隣で薬箱を開く。
「今日はどうされましたか?」
エリシアが尋ねると、老人はようやく椅子に腰を下ろした。
窓の外では、朝日が薬草畑を照らしていた。
エリシアは、聖女であることの意味をまだ知らない。きっと、これからも迷うだろう。正しい答えが見つからず、眠れない夜もあるはずだ。
けれど、目の前の人の声を聞くことから逃げないと、今は決めている。
診療所の扉は、今日も開いていた。
――完――
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!
この物語についてのご感想をお聞かせいただけると嬉しいです。特に気に入ったシーン、登場人物、場面などがありましたら、ぜひ教えてください。
コメント、感想、評価は大歓迎です。今後の執筆活動の励みになります。
この短い物語にご参加いただき、ありがとうございました!




