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風を撃った男

作者: あかみんご
掲載日:2026/06/22

1.


夕暮れの山は、妙に静かだった。


老人は岩陰に膝をつき、猟銃を構えていた。

視線の先、斜面を横切る獣道に若い牡鹿が立っている。


まだ距離はある。

焦る必要はない。

風向きも悪くない。


老人はゆっくりと頬を銃床へ当てた。

照星と照門の向こうで、鹿が耳を動かす。


引き金に指をかける。

だが次の瞬間、鹿は何かに怯えたように顔を上げると、森の奥へ跳ねて消えた。


「……ちっ」


舌打ちして顔を上げる。

獲物を逃したことより、鹿の様子が気になった。

あの動きは、人間の気配に気づいた時のものではない。


もっと切迫した、逃避そのものの動きだった。

老人はゆっくり立ち上がる。


膝が軋んだ。

腰も痛む。


若い頃なら斜面を駆け下りて追えたが、今はそうもいかない。

もう何年も前から、山で勝つのは自分ではなく時間の方だった。


帽子を直し、ふと空を見上げる。

そこで、老人の動きが止まった。


西の空だった。

山並みの向こうに、巨大な積乱雲が湧き上がっている。


夏には珍しくもない光景だ。

だが、その形が気に入らなかった。


雲は空へ広がるのではなく、一本の黒い柱を隠すように下へ垂れ込めている。

まるで何かが地上から天へ向かって伸びているようだった。


老人は目を細めた。


夕日に照らされた雲の底が、鈍い鉛色に沈んでいる。

遠すぎて音は聞こえない。


だが、嫌になるほど見覚えがあった。

何十年も前のことだ。


若かった頃。

まだ耳もよく聞こえ、足も速かった頃。


あの日も、こんな空だった。

山の向こうに黒い雲が立ち上がっていた。


誰も気に留めなかった。

夏の嵐だろうと笑っていた。


そして夜が来て―――。


老人は無意識に銃を握り直した。

節くれ立った指が白くなる。


風が吹く。

森の梢がざわめく。

その音に混じって、何か別のものが聞こえた気がした。

遠い昔の記憶だったかもしれない。


家が軋む音。

誰かの叫び声。

吹き飛ばされる屋根。

渦巻く土煙。


そして―――風の中に、一瞬だけ見えた巨大な影。


老人は首を振った。


昔のことだ。

何十年も昔の。

誰も信じなかった話だ。


自分だって、何度忘れようとしたか分からない。

それでも、老人は再び空を見た。


黒雲はなおも膨れ上がっている。

夕焼けを食い潰すように。

まるで山々の向こうから、何か巨大なものがこちらを見ているかのようだった。


老人はしばらく黙って立ち尽くした。

やがて低く呟く。


「……帰ってきやがったな」


その声は風にさらわれ、誰の耳にも届かなかった。


2.


山を下りるころには、空はすっかり鈍い色になっていた。


雲はさらに大きくなっている。

西の空の半分が、まるで墨を流したように黒ずんでいた。


老人は何度も振り返った。

そのたびに胸の奥が重くなる。


嫌な予感ではない。

もっと古いものだった。

傷跡が疼くような感覚だ。


村へ着くと、いつもより人の動きが慌ただしかった。


家々の戸板を打ちつける音。

井戸から水を汲む女たち。

荷車へ荷物を積む男たち。


広場には村長が立ち、声を張り上げていた。


「今夜のうちに避難小屋を開ける!早めに移れ!」


老人は人混みをかき分ける。


「村長」


呼びかけても聞こえない。

耳が遠いのは自分だけではないらしい。


老人は肩を掴んだ。

村長が振り返る。


「ああ、ユエさん」

「西を見たか」

「見たとも」


村長は空を見上げた。


「大荒れになるな」

「違う」


老人は言った。


「ありゃあ、あいつだ」


村長の顔が曇る。


「あいつ?」

「三十八年前の」


その瞬間、村長は目を逸らした。

聞き飽きた話だ、と言わんばかりに。


「またその話か」

「またじゃねえ」


老人は声を荒げた。


「同じだ。雲の形も、風の匂いも」

「ただの竜巻だ」


村長は疲れたように首を振った。


「気象見張りの連中もそう言ってる」

「違う」

「違わん」


二人の間に沈黙が落ちた。

広場を吹き抜ける風が冷たい。

やがて村長は少しだけ声を落とした。


「あんたが辛いのは分かる」


老人の表情が固まる。


「だが、もう何十年も前の話だ」


それ以上は何も言わなかった。

村長は別の村人のもとへ向かっていった。


老人だけが取り残される。

広場の端では若い男たちが戸板を運んでいた。


老人が近づくと、そのうちの一人が苦笑する。


「爺さん、また竜の話か?」


周囲から小さな笑いが漏れる。


「今度こそ仕留めてくれよ」

「弾は残ってるのか?」

「竜巻相手にゃ、鹿撃ち銃じゃ足りねえぞ」


悪意はなかった。

からかっているだけだ。

それが余計に老人を苛立たせた。


老人は睨みつける。

だが若者たちはすぐ仕事へ戻ってしまう。

誰も本気で相手にしていない。


老人は拳を握った。

爪が掌へ食い込む。


三十八年前。


あの日も同じだった。

誰も信じなかった。

異変に気づいた者はいた。

空がおかしいと言った者もいた。


だが皆「ただの嵐だろう」で済ませた。

そして夜が来た。

風が村を呑み込んだ。


家が飛んだ。

木が飛んだ。

人が飛んだ。


老人は今でも覚えている。


風の壁の向こう。

渦の中心。

雷光に照らされた巨大な影を。


獣のようなものが、確かにいた。


長い首。

ねじれた角。

無数の眼。


あれは夢ではない。

今でも断言できる。

だが、生き残った者は誰も見ていなかった。


見たと言うのは老人だけだった。

だから、誰も信じなかった。


老人は広場を離れた。


家路につく。

背後では避難の準備が続いている。


木槌の音。

怒鳴り声。

家畜の鳴き声。


村は嵐に備えて動いている。


しかし、誰も知らない。

本当に来るものが何なのかを。


老人だけが西の空を見た。

黒雲の底で、何かが蠢いた気がした。


目の錯覚かもしれない。

だがその瞬間、老人の中で何かが決まった。

逃げる者たちの背を見ながら、老人は静かに家の方角へ歩き出す。


蔵へ向かうためだった。

何十年も開けていない、あの蔵へ。


3.


家は村の外れにあった。

他の家々から少し離れた、古びた木造の家だ。

老人が門をくぐると、犬小屋は空のまま風に揺れていた。


愛犬が死んでから、もう五年になる。

新しい犬は飼わなかった。

どうせ先に置いていくことになる。

そんなことを考える歳だった。


老人は家の脇を通り過ぎる。

向かう先は裏手の蔵だった。

低い石垣の向こう。蔦に半ば飲まれた古い建物。


扉の前に立つ。

しばらく動かなかった。


風が吹く。


空はますます暗くなっている。

蔵の扉には錆びた南京錠が掛かっていた。


老人は懐から鍵を取り出す。

鍵穴に差し込む。だが回さない。


ただ握ったまま立ち尽くす。

何十年ぶりだったか。最後にこの扉を開けた日を思い出せない。


いや、本当は覚えている。

忘れようとしていただけだ。


老人はゆっくり目を閉じた。


三十八年前。

嵐の翌日。


村は潰れていた。


倒木。

瓦礫。

泥。


あちこちから泣き声が聞こえた。

彼は半狂乱で家族を探していた。


妻を。

娘を。


どこかにいるはずだと信じて。

だが、見つかったのは壊れた柱だけだった。


しばらく経ってから、彼は祖父に自分が見たものを話した。

村でも最年長だった老人、祖父は黙って話を聞いていた。

その後で、祖父は自分を蔵へと連れていった。


痩せた背中。

震える手。


その祖父が一本の銃を取り出した。

そして言った。


―――いいか、よく聞け。


彼は覚えている。

その言葉を。


妻を失った悲しみよりも。

娘を失った絶望よりも。

なぜか鮮明に。


―――あれは風じゃない。

―――昔から山に棲む妖獣だ。

―――心臓を撃たねば、また来る。


祖父の声は震えていた。

恐怖ではない。

悔恨だった。


―――わしも撃った。


彼は顔を上げた。

祖父は窓の外の黒雲を見ていた。

まるで遠い昔を見ているようだった。


祖父はゆっくりと手にした銃へ目を向けた。


―――だが、外した。


長い沈黙。


―――いや。


祖父は首を振った。


―――当たったのかもしれん。

―――だが殺せなんだ。

―――それから来なかった。

―――だから終わったものと思うておった。


彼は何も言えなかった。


―――だが違った。


祖父は空を見上げる。

その目には諦めがあった。


―――わしにはもう無理だ。

―――次は、お前の番だ。


そして祖父は蔵の奥から銀色の弾丸を取り出し、それを彼へ渡した。


―――お前が持て。


それが最後だった。

祖父はその年の冬に死んだ。

老人はその弾丸を使わなかった。


いや、使えなかった。


錠前が開く。

乾いた音がした。

老人はゆっくり扉を押した。


重い音を立てながら蔵が口を開く。


中は暗い。

埃の匂い。

乾いた木の匂い。

長い年月の匂い。


差し込む夕日が細い筋となって床を照らしていた。

老人は奥へ進む。


棚。

農具。

古い罠。

壊れた樽。

そして一番奥。

布に包まれた細長い箱。


老人は膝をつく。


震える手で布を払う。

埃が舞った。

箱を開く。


中には、古い鹿撃ち銃が収められていた。


黒く変色した木製銃床。

長い銃身。

今ではほとんど見かけない古い型だ。


老人はそれを持ち上げる。

ずしりと重い。

懐かしい重みだった。


若い頃は軽く感じたものだ。

今では肩に食い込む。

銃を抱えたまま、しばらく動かなかった。


まるで死んだ友人と再会したようだった。

そして箱の隅に、小さな金属筒がある。

老人は蓋を開ける。


中には一発の弾丸。

銀色。曇り一つない。

三十八年前と同じ姿。

祖父が残した最後の遺物。

老人はそれを掌に乗せる。


冷たい。

驚くほど冷たい。


窓の外で雷が鳴った。


遠い。

だが、確実に近づいている。

老人は弾丸を見つめる。


ふと笑った。

自嘲に近い笑いだった。


「馬鹿げてる」


風を撃つ。

そんなことができるはずがない。

若い頃の自分なら笑っていただろう。


今でも半分はそう思っている。

だが、老人は窓の外を見る。


西の空は完全に黒くなっていた。

その雲の奥に、何かがいる。

そんな気がしてならなかった。


老人は弾丸を握りしめる。

そしてゆっくりと薬室を開いた。


長い歳月の末に、初めて、その一発を銃へ込めるために。


4.


蔵を出るころには、日が沈みかけていた。

風はさらに強くなっている。

庭の草が波のように揺れていた。


老人は銃を抱えたまま、軒先へ腰を下ろす。

膝の上に銃を置き、銃身を布で磨く。


昔からの癖だった。

獲物を狙う前には、必ず手入れをする。

もう何十年も繰り返してきた。

それなのに今日は妙に手が重かった。


門が軋む音がした。


顔を上げると、若い男が立っていた。

村の木こり見習い、ユアンだった。

二十歳になったばかりの若者で、

子供の頃から老人がよく山へ連れて行っていた男だった。


「やっぱりここか」


ユアンはそう言って庭へ入ってくる。

若者の視線はすぐに膝の上の銃、そしてその横にある空の薬莢箱へ向いた。

銀の弾丸は、既に銃の中にある。


ユアンの表情が変わった。


「本気なのか」


老人は布を動かし続ける。


「何がだ」

「分かってるだろ」


風が吹く。

庭木が大きく揺れた。


ユアンはしばらく黙っていた。

やがて低い声で言う。


「山へ行く気だな」


老人はようやく顔を上げた。


「狩りだ」

「竜巻をか」

「そうだ」

「撃てるわけない」


村人たちの嘲笑とは違う。

本気で心配している声だった。

だからこそ、老人も腹を立てなかった。


「そうかもしれん」


老人は意外なほどあっさり答えた。

ユアンが眉をひそめる。


「じゃあ、なんで行く」


老人は答えない。

銃身を見つめる。

そこに映る曇った自分の顔を。


皺だらけの顔。

濁った目。

いつ死んでもおかしくない老いぼれの顔だった。


ユアンが続ける。


「村長は避難所へ来いと言ってる」

「行かん」

「死ぬぞ」

「かもな」


若者の顔が歪む。

怒りなのか。

悲しみなのか。

老人には分からなかった。


しばらく沈黙が続く。


風だけが鳴っている。

やがてユアンがぽつりと言った。


「ずっと聞きたかった」


老人は顔を上げない。


「本当に見たのか」


風が止んだ気がした。


「何をだ」

「妖獣を」


老人の手が止まる。


遠くで雷が光った。

空の向こう。

黒雲の奥。


一瞬だけ、世界が白く染まる。

老人はその光を見つめていた。


三十八年前の夜を思い出していた。


風の壁。

雷。

崩れる家。


そして―――渦の中心にいた何か。


長い首。

歪な角。

獣とも竜ともつかない影。


夢だったのかもしれない。

恐怖が見せた幻だったのかもしれない。


何十年も考え続けた。

答えは出ていない。

それでも、老人は静かに言った。


「見た」


ユアンは何も言わない。


「今でも見間違いだったとは思わん」

「……そうか」


若者は頷いた。


笑わなかった。

否定もしなかった。

ただ受け止めた。


「ずっと考えてた」


老人は顔を上げる。

若者の目は真剣だった。


「ユエさんは復讐したいんだと思ってた」


囲炉裏の灰がかすかに揺れる。


「違うのか」


老人はしばらく考えた。

そして静かに首を振る。


「わからん」


自分でも意外な答えだった。

だが嘘ではなかった。

復讐したいなら、もっと昔に山へ行っていた。

もっと若い頃に。

もっと力があった頃に。


だが行かなかった、ずっと。


三十八年間。


「じゃあ何だ」


ユアンが聞く。

老人は窓の外を見る。


黒い夜。

流れる雲。

時折走る稲光。

その向こうに見えない山。


見えない過去。

見えない答え。


老人は低く呟いた。


「確かめたい」


ユアンは黙る。


「俺はあの日、本当に何を見たのか」


風が鳴る。

まるで家の周りを何かが歩いているようだった。


「獣だったのか」


老人は言う。


「ただの風だったのか」


そして少しだけ笑った。

疲れた笑いだった。


「今さらだろうがな」


ユアンは何も言わない。

老人も続けない。


しばらく沈黙だけが続く。

やがて若者がぽつりと漏らした。


「怖いんだな」


老人は眉を上げる。


「何がだ」

「答えが」


風の音だけが部屋を満たした。

老人は否定できなかった。

もし山へ行って何もなかったら。


ただの竜巻だったら。

三十八年間抱き続けたものは全て空になる。


だが逆に。もし本当にいたなら。

今度こそ向き合わなければならない。

どちらも怖かった。


「そうかもな」


ようやく、老人はそうこぼした。


ユアンはゆっくりと立ち上がり、門の方へ歩き出す。

もう止められないと理解した顔だった。


だが、途中で立ち止まり、振り返った。


「ユエさん」

「なんだ」

「もし本当にいるなら」


風が吹く。

黒雲が空を覆っていく。

ユアンは真っ直ぐ老人を見た。


「仕留めてこい」


老人は返事をしなかった。

ただ小さく鼻を鳴らした。それが返事だった。


「そして、必ず帰ってこいよ」


ユアンはそれだけ言うと、今度こそ門を出て行った。

再び一人になった老人は、ゆっくりと立ち上がった。

銃を手に取り、肩へ掛ける。


不思議だった。

先ほどまで重かった銃が、少しだけ軽くなっている。


理由は分かっていた。

自分は復讐のために行くのではない。


勝つためですらない。

ただ、人生の最後に一度だけ、あの日から逃げ続けた問いに答えを出すために行くのだ。

老人は帽子を被り、戸を開けた。

夜の風が全身を打つ。


山は暗く、雲は低い。

老人は銃を握り直し、山へ向かって歩き始めた。


5.


戸を出てからしばらくは、まだ村の気配があった。

避難する人々の灯り。

家畜の鳴き声。

戸板を打ち付ける音。


だが山道へ入ると、それらは次第に遠ざかっていく。

老人は一人だった。


雨はまだ降っていない。

だが空気は重い。

湿った風が肌へまとわりつく。

まるで嵐そのものが息を潜めているようだった。


老人は黙々と歩く。

銃を杖代わりにしながら。

若い頃には何度も通った道だ。


鹿を追い。熊を追い。

数え切れないほど登った山。


だが、今夜の山は別の顔をしていた。


途中で立ち止まる。

道の真ん中に鹿がいた。

大きな雌鹿だった。


逃げない。

ただ、こちらを見ている。


老人も見返した。

しばらくそうしていた。


やがて鹿は山の反対側へ走り去る。

その姿を見て老人は眉をひそめた。

逃げる方向がおかしい。

村とは逆だった。


さらに登る。


すると、今度は狐を見る。

野兎を見る。

猪を見る。

どれも同じだった。

皆、何かから逃げている。


山の奥から。

老人が向かう方向から。

風が強くなった。

梢が唸る。

枝がぶつかり合う。

葉が千切れて宙を舞う。


だが老人には、半分も聞こえない。

若い頃から耳が悪かった。

今では雷鳴すら遠い。


だから、不思議な感覚だった。


周囲では嵐が荒れ狂っているはずなのに、

自分の世界だけが静かだった。


木々は激しく揺れている。

草は伏せている。

雲は流れている。


しかし音がない。

まるで、世界が息を潜めているようだった。


老人はふと思った。

昔からそうだった。


獣を追う時も、耳ではなく目で山を読んできた。


風を見る。

草を見る。

鳥を見る。


それだけで十分だった。


山腹まで登った頃、空が光った。


雷だった。


一瞬だけ夜が昼になる。

その刹那、老人は遠くの尾根を見た。

何かがいた気がした。


巨大な影。

木々より高い何か。

四足の獣にも見えた。

首をもたげた竜にも見えた。


だが次の瞬間には闇が戻る。

何もない。


老人は立ち尽くした。


幻か。見間違いか。

それとも。


老人は首を振る。


今さら確かめる術はない。

山頂へ行けば分かる。

そう思って、再び歩き始めた。


やがて、森が途切れた。

山頂近くの岩場だった。


木が育たない場所。

風を遮るものがない。


そこで初めて老人は足を止める。


眼下に村が見えた。

暗闇の中に小さな灯りが点在している。


人々は避難しているだろう。

もう自分を探している者はいない。


戻ろうと思えばまだ戻れる、今なら。

老人は村を見下ろした。


三十八年前。


失った家族もあそこにいた。

若かった自分もいた。


あの日の続きを求めて、自分はここまで来てしまった。


風向きが変わった。


老人の帽子が飛ばされそうになる。


空を見る。

黒雲が渦を巻いていた。


明らかにおかしい。

普通の嵐ではない。


雲全体が一つの巨大な生き物のように蠢いている。

中心がある。

意志がある。

そんな錯覚を覚える。


そして老人は気づく。

雲の流れが向かっている先を。


それは村だった。

真っ直ぐに。

迷いなく。


獲物を見つけた獣のように。


老人は銃を握り直す。

指の関節が鳴る。


そして山頂への最後の坂を登り始める。

その時、背後から誰かに呼ばれた気がした。


妻の声だった。

あるいは、娘の声だった。


振り返る。


もちろん誰もいない。

風だけが吹いている。


だが老人は少しだけ笑った。


「もう少しだ」


誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。

そして再び前を向く。


山頂はすぐそこだった。

雲の中心もまた。


6.


山頂へ辿り着いた時、老人は膝をついた。

思った以上に体力を使っていた。


胸が苦しい。

息が続かない。

若い頃なら笑って登れた坂だった。


だが今は違う。

老人は岩へ手をつきながら立ち上がる。


そして顔を上げた。

そこには空があった。


いや、空だったものがあった。


黒雲が渦を巻いている。

山全体を覆うほどの巨大な渦。

中心だけが異様に暗い。


夜よりも深い闇。

底の見えない穴。


世界そのものに穿たれた傷のようだった。


老人は黙って見上げた。


恐怖はなかった。

ここまで来る間に置いてきた。

今さら逃げる場所などない。


渦が近づいてくる。

岩が転がる。

木々が引き抜かれる。

土が巻き上がる。


だが、老人の耳にはほとんど届かない。


世界は静かだった。

ただ景色だけが狂っている。


その異様さに、ふと笑いそうになる。


まるで夢だ。

あるいは死の間際に見る幻。


稲妻が走った。

その光の中で、老人は見た。


渦の中心を。

闇の奥を。


そこに、確かに何かがいた。


長い首。

ねじれた角。

獣の顔。

無数の眼。

雲と風でできた巨体。


三十八年前の夜と同じ姿。


いや、もっとはっきり見える。

老人は目を細めた。

そして不思議なことに気づく。


恐ろしくない。


ずっと憎んでいたはずなのに。

ずっと追い続けていたはずなのに。

怒りが湧かない。


獣もまたこちらを見ていた。

そんな気がした。


山より大きな存在。

人間など塵ほどにも思わぬ存在。


それが一瞬だけ、確かに老人を認識した。


老人は悟る。


あの日もそうだったのだ。

獣は自分の家族を狙ったわけではない。

村を憎んでいたわけでもない。


ただ、通り過ぎただけだ。


嵐が森を倒すように。

洪水が家を流すように。

人の悲しみなど知らぬまま。


それだけだった。


その瞬間、老人の胸にあった何かが崩れた。

三十八年間抱えていた怒り。

執念。

復讐心。

それらが静かに消えていく。

残ったのは、ただ一つの事実だった。


自分は見間違えていなかった。

確かにいたのだ。


ここに。

今も。

老人は銃を構える。

手は震えていた。


老いのせいか。風のせいか。

分からない。


照準の先。

渦の中心。

獣の胸。

あるいは心臓。

祖父が言っていた場所。


だが狙いは定まらない。

風が強すぎる。

いや、そもそも当たるはずがない。


相手は山ほどもある。

こちらは老いぼれ一人だ。


老人はゆっくり息を吐いた。

そして銃を下ろした。

しばらく目を閉じる。


暗闇の中で、懐かしい顔が浮かぶ。


妻。

娘。

失われた家。

春の畑。

夕暮れの食卓。


もう何十年も思い出せなかった、細かな記憶。

顔よりも先に忘れていた日常。

それらが静かに戻ってくる。


老人は微かに笑った。

ようやく思い出した。


自分が守りたかったのは、復讐ではない。

あの暮らしだった。

あの時間だった。

もう戻らないものだった。


目を開く。


獣がいる。

風がいる。

空がある。


老人は銃を持ち上げる。

今度は照準を覗かない。


ただ真っ直ぐ前を見る。

そして静かに呟く。


「ようやく会えたな」


その声は風に消える。

あるいは届いたのかもしれない。


引き金を引く。


閃光。

反動。


一発の銃声。


老人には聞こえない。

銀の弾丸は闇の中へ吸い込まれる。


獣へ向かったのか。

風へ向かったのか。

空へ向かったのか。


誰にも分からない。


ただその瞬間、巨大な渦が一度だけ静止した。

まるで時が止まったかのように。


そして、世界は白く染まった。


稲妻だったのか。

風だったのか。

あるいは別の何かだったのか。

老人には分からなかった。


だが最後に見たのは、

遠い昔と同じようでいて、まるで違う景色だった。


恐怖ではなく、静かな夜明けのような光だった。


7.


翌朝。


ユアンは避難小屋の中で目を覚ました。

外に出ると、昨夜の嵐が嘘のようだった。


空は青い。

雲は高く流れている。

風も穏やかだった。


昨夜、あれほど荒れ狂っていた空が、何事もなかったような顔をしている。

同じく避難していた村人たちが外へ出始める。


家を確認する者。

畑を見に行く者。

子供たちの声。

牛の鳴き声。


いつもの朝だった。少なくとも表面上は。


村長が広場へ出てきた。

周囲を見回し、呟く。


「助かったな……」


誰も反論しなかった。

被害はある。

折れた木もある。

屋根を飛ばされた家もある。


だが、村は残っていた。


人々は家から出てきている。

子供たちは泣いていない。

牛も生きている。

それだけで十分だ。


驚きと興奮に走り回る子どもたちを、目で追いかけていた時だった。

ユアンの顔色が変わる。


老人の家が見えた。

戸が開いたままになっている。

誰もいない。


胸騒ぎがした。


彼は駆け出した。

呼び止める声も聞かずに。


8.


山道は昨夜の傷跡だらけだった。

折れた枝。

抉れた地面。

転がる岩。


ユアンは息を切らしながら登る。


途中で何度も滑った。

それでも止まらない。


老人が登った道を追う。


昨夜の風の中を。

老人が一人で歩いた道を。


やがて山頂へ辿り着く。

そこで足が止まった。


誰もいない。

岩場には朝日だけが降り注いでいた。


風が吹く。

草が揺れる。

それだけだった。


「ユエさん」


呼ぶ。

返事はない。

もう一度呼ぶ。


やはり何も返らない。

山は静かなままだった。


視線を巡らせる。

すると岩場の端に何かが見えた。


一本の銃だった。


古い銃。

長い銃身。

使い込まれた木製の銃床。


老人が昨夜持っていたものだ。


ユアンは駆け寄る。

拾い上げる。

重い。

少し冷たかった。


そして気づく。

その先にあるものに。

岩だった。

山頂の大岩。

そこへ深い傷が刻まれている。


一本や二本ではない。


まるで、巨大な獣が爪で引き裂いたような痕跡。

人間の手では到底つけられない大きさだった。


岩の表面は抉れ、その周囲には黒い染みが飛び散っている。


泥にも見える。

煤にも見える。

乾いた血にも見えた。


ユアンは立ち尽くした。


何も言えない。

何も分からない。


昨夜、ここで何が起きたのか。

老人が何を見たのか。

何と戦ったのか。

何一つ分からなかった。


ただ一つだけ。手の中の銃を見て、

彼はあることに気づく。


ゆっくり薬室を開く。

中は空だった。

三十八年間撃たれなかった一発。

その弾だけがなくなっている。


風が吹いた。


ユアンは顔を上げる。

空はどこまでも青かった。


山々は静かだった。

まるで何事もなかったかのように。


彼は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


やがて銃を抱え、ゆっくりと山を下り始める。

背後には岩と空だけが残る。


そして、その山頂で何があったのかを知る者は、もうどこにもいなかった。


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