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チェックメイト五分前

1815年6月18日、午前11時。ベルギー、ワーテルローの丘。


 前夜からの豪雨は止んだが、大地は底なしの泥濘ていねいと化していた。


 連合軍総司令官ウェリントン公爵は双眼鏡を覗いていた。

 平原の向こうには、皇帝ナポレオンが率いるフランス軍の精鋭七万二千が布陣を終えていた。


 ナポレオンは、敗退したプロイセン軍の追撃に三万以上の別動隊を割いたため手元を減らしていたが、それでも眼前に並ぶフランス軍の威容は圧倒的だった。


 ウェリントンが手元に集めた軍勢のうち、イギリス軍は四割に満たなかった。ウェリントンの精鋭歩兵の大部分は米英戦争に駆り出され、彼の混成部隊の六割は、低地諸国の軍勢だった。


 精鋭の使えないウェリントンは、手堅い逆斜面陣地に籠もってナポレオンに対峙する決意を固めるしかなかった。



午前11時30分:ウーグモン農場の罠


 フランス軍の巨砲が一斉に火を噴き、ウェリントン軍の右翼を守るウーグモン農場へ、ナポレオンの弟ジェロームの師団が殺到する。


 ウェリントンはイギリスの近衛旅団を立てこもらせて、フランス軍の猛攻を受け止め続けた。

 陽動として攻撃したはずのフランス軍が、この頑強な「盾」に意地になって突撃を繰り返し、兵力を無駄に消費していく。



午後1時30分:デルロン軍団の巨大な壁


 ウーグモンに敵が引き寄せられたと見たナポレオンは、中央やや右へ向けて、デルロン伯爵率いる1万6,000人の巨大な歩兵密集隊形を前進させた。


 この巨大な人間の津波の正面に立たされたのが、オランダ・ベルギーの混成部隊だった。

 彼らはイギリス軍の「肉壁」として、フランス軍の凄まじい砲撃に身を晒されながらも、一歩も引かずに銃火を浴びせ続ける。


 イギリスのピクトン将軍率いる歩兵や、スコッツ・グレイズ(重騎兵隊)とスコットランドの誇り高き歩兵たちの決死の突撃によって、このフランス軍の大攻勢は辛うじて押し戻されたが、防衛線の消耗はすでに限界を超えつつあった。



午後3時00分:ラ・エー・サントの孤立


 中央の前線基地ラ・エー・サントでは、イギリス直轄の精鋭部隊(KGL)が、迫り来るフランス歩兵を相手に、一発の無駄弾も許されない絶望的な防衛戦を続けていた。


 このKGL(国王のドイツ人軍団)とは、ナポレオンに故郷を奪われ、大英帝国へと亡命して復讐を誓ったドイツ人志願兵の精鋭部隊である。イギリス軍最高峰の射撃練度を誇る彼らだったが、泥濘の混乱によって専用のライフル弾の補給が途絶え、完全に孤立無援となっていた。


 このとき、戦場全体を覆う煙の向こうで、ウェリントン軍の後方に「後退する負傷兵と輜重車」の列が見えた。


 これを「ウェリントン軍の全面退却」と見誤ったフランス軍のネイ元帥が、勝利を焦って立ち上がる

「騎兵部隊、俺に続け! 敵の中央を粉砕する!」



午後3時45分


 地響きとともに殺到する一万騎の鉄の胸当てが、ウェリントンの防衛線中央を完全に機能停止させていた。


 イギリス兵は銃剣を外に向けた四角い陣形「方陣スクエア」を組んで耐えるしかなかったが、それは同時に、「一歩も動けない肉の標的」が完成したことを意味していた。


 フランス軍の砲兵が、動けないイギリス兵の塊に向けて、至近距離から散弾(キャニスター弾)を容赦なくぶっ放す。

 大砲が火を噴くたびに、人間の四肢が引きちぎられ、歩兵大隊の列は文字通り「消滅」していった。死傷率は瞬く間に七割を超えた。


 この地獄の光景に、中央から左翼を任されていたハノーファーの民兵やオランダ・ベルギーの混成部隊の精神は限界を迎えようとしていた。


 恐怖という名の伝染病が肉壁の間に広がる。何千人ものイギリス人以外の部隊が武器を捨て、後方に向かって一斉に逃げ出し始めた。ウェリントンの防衛線は、いまや紙一枚の薄さしか残っていなかった。


「予備の弾を、一発でもいいから送ってください!」

 戦場の「へそ」であるラ・エー・サントの農場に立てこもるKGL(国王のドイツ人軍団)からも、絶望的な伝令が走る。だが、ウェリントンに弾薬を送れる余裕などどこにもない。


 ウェリントンは震える手で懐中時計を取り出した。針は午後4時を回ろうとしている。

 絞り出すような悲鳴が漏れた。


「プロイセン軍が来てくれなければ……!」


 ナポレオンは双眼鏡を覗き、全線で方陣に釘付けにされ、すり潰されていくイギリス軍の惨状を見て勝利を確信し、指示を下す。

「仕上げだ。敵の中央を完全に叩き割る準備をせよ」


 チェックメイトまで、あと五分。フランス軍の「大勝利」のシナリオが完成するはずだった。

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