8、出雲松江藩
次の任地への移封は、寛永15(1638)年 松本には5年いたことになる。出雲松江藩は18万6000石でいよいよ国持大名に成りあがった。同時に隠岐1万4000石も代理統治することになり、20万石を治める立場になった。
この出雲藩に来たことは実の姉である喜佐姫が結城秀康の娘として、長州藩主毛利秀就の正室として嫁いできていて、両家が縁戚関係であったことも重要な理由になっていた。月照院にしてみれば娘は聴衆の藩主の正室で、息子は出雲の藩主なので、大変な誉れであった。
一方、幕府は東の鳥取藩・西の長州藩・南の岡山藩・広島藩などに睨みを利かせるために直政を置いたと言われている。
幕府から西国大名の監督を期待された直政は大名間の仲裁役を務めた。寛永18年に江戸への参勤途中で後から参勤して来た義兄の秀就へ書状を送り、幕府からの指示ということで自分を追い抜いて先に行くことを勧めた。また明暦3年(1657年)に起こった土佐藩と伊予宇和島藩の国境争いで土佐藩の縁戚の伊予今治藩主松平定房から内済を依頼され、幕府の老中松平信綱と内談の上で内済を行い、2年後の万治2年(1659年)に家臣を通じて内済決定の覚書を当事者間で作成した。油口と言われた直政の力が発揮された一軒である。
西国では讃岐のように蕎麦よりもうどんを特産物としているところが多いが、西国の中では出雲はわずかながら蕎麦を特産物にしているめずらしい地域の一つだ。
この出雲そばのルーツは信州松本から出雲松江に直政が入る際に、蕎麦職人を連れて来たことで、出雲にも蕎麦の文化が生まれたと言われている。しかし松本の前に大野藩にいたことも関係しているように思われる。元来、蕎麦好きの直政は蕎麦の種を大野から持ち歩いたか、あるいは出雲にて大野から取り寄せたことも考えられる。
いよいよ国持大名に上り詰めた直政は出雲松平藩の藩祖として君臨した。直政の前には出雲の国は堀尾氏が入り、その後小浜にいた京極忠高が入っている。京極家のあとを受けて直政が出雲に入ったことは越前松平家との因縁が考えられる。
出雲藩の藩政は前藩主京極忠高の政策を継続したものが多い。
斐伊川の普請工事は明暦3年に京極高経が若狭から連れてきた職人を使って着手した若狭土手を直政の手で完成させ、松江城の城下町を改造した。
農業も重視し、正保3年(1646年)から慶安3年(1650年)にかけて水田灌漑のため石見銀山から鉱夫を連れてきて水路工事を行ったり、意宇川の水害に悩む村人の要望を聞き入れて、慶安3年から承応元年(1652年)まで日吉切通しの工事に取り組み新流路を完成させるなどの政策を行っている。
寺社復興も奨励し、隠岐にある後鳥羽天皇陵の修繕、および新社殿の造営を行い、寛文2年(1662年)から出雲大社の社殿造営も手掛けたが、完成は7年かかり次代に持ち越された
直政は幕府への忠誠を誓う親藩大名だったので、島原天草一揆の幕府の禁制にならい、領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものだった。
寛文3年(1663年)3月25日、幕命を受けて大沢基将と共に霊元天皇即位の賀使となり、上洛した。5月26日に従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任した。
しかし11月26日に病となり、寛文6年(1666年)2月3日、江戸赤坂(現在の東京都千代田区永田町)の上屋敷にて病死した。享年66。家督は長男の綱隆が継いだ。。




