7、忠直改易 大野藩 信濃松本藩
直政が姉ヶ崎に行って7年、越前では忠直の乱行はエスカレートしていったといわれている。大坂の陣の終了後、天下の銘品ではあったが、「初花」という茶器を頂き、弟は25万石に出世した。さらに幕府では年下の叔父義直・頼宣・頼房が御三家を形成し、それまで越前松平家は将軍家に継ぐ『制外の家』であったものが、御三家の末席に置かれるようになったのである。そのあたりから忠直は酒肴に溺れ、藩政をないがしろにしていく。
それまでは若いながら、家臣たちに支えられ芝原用水を整備して城下の飲み水を配給したり、鳥羽野と呼ばれた湿地を干拓して田畑に生まれ変わらせたりした。一生懸命に藩のために、民のやめにやってきたのだが、気持ちが反れてしまったようだった。理由もなしに家臣を手討ちにしたり、妻の勝姫の侍女を切ったり、乱行が続いたと言われている。極めつけは江戸への参勤の途中、関ケ原辺りで引き返し、秀忠の命でまた参勤に出たが、また関ケ原で引き返した。
家臣たちは藩が存続することを第一に考えた。68万石の大藩には、実に多くの侍たちが家臣として仕官している。現在ならば県職員として県庁や出先機関で働く地方公務員といったところである。この多くの家臣たちが路頭に迷わないようにすることが、藩主の大きな役割なのだが、その藩主が酒肴に溺れ乱行の兆しがあるので、家臣の一部は藩主の方を御乱行として隠居させ、藩そのものの存続を優先させることを選んだようだ。家臣が共謀して藩主忠直が奇行に走った時に、
『殿が御乱行でございます。』と時代劇にあるセリフのように大きな声で叫び、みんなで藩主を奥座敷に幽閉してしまった。後は幕府の裁定を待てばいいのである。
幕府から越前に派遣されていた付家老たちが、江戸の秀忠に報告し、秀忠が忠直に下した裁定は
「豊後の国に配流、隠居、5000石」というものだった。実質的には改易に等しかった。そして「越前国には越後高田藩より松平忠昌が入り50万石、越後高田藩には忠直の長男、光長が入り25万石」という非情なものだった。越前松平藩と越後高田藩が兄弟で入れ替わる形となった。
越前北の庄藩は忠昌が入国して北の庄城内に『福の井』という井戸を掘って以降、敗北を連想する北登いう文字を廃して、福井藩と改名している。越前福井藩の藩祖は忠昌であるとする説も多い。
越前の国が68万石から50万石に減った18万石分は、3男直政が姉ヶ崎1万石から大野藩に入り5万石、4男直基が勝山藩に入り3万石、5男直良が木本藩に入り2.5万石、家老本多成重が丸岡藩を作り4.8万石、小浜の京極忠高が敦賀郡2.2万石を加増された。
直政にとってみれば兄の失脚でチャンスが訪れ、領地が5倍に膨れ上がったのだ。
この時も生母の月照院は姉ヶ崎から奥越の大野について来ている。これも家光の影響が大きかった。裁定を下したのは2代将軍秀忠だが、直政の加増をさせたのは同じ年に将軍につく家光だった。直政は姉ヶ崎にいた時に江戸に頻繁に出向いて、家光と交流を持ったことが順調な出世に役立ったようだ。後に周りの大名たちが彼のことを『油口』と呼んだのは上司にうまく取り入り、口がうまく、交渉することに長けていたことから付けられたあだ名である。直政の順調な加増が周りの大名たちの嫉妬をかったことが想像できる。
また直政の好物は蕎麦だったと伝わっている。越前大野は美しい湧水と美味しいそばの産地である。大野で美味しいそばに出会い、蕎麦栽培を奨励した。その後出世して大きな藩に渡り歩いていくが、直政の人生で蕎麦は大きな役割を果たす。
大野藩での直政の生活は豊かなものだった。広い大野盆地は豊かな湧水があり、稲作を中心に豊作が続いた。参勤交代で江戸に出ると幕府で将軍家光と懇意にし、従兄同士の関係を深めていった。また家光が京に上って朝廷との会議に入るときには、二条城へはせ参じて対面した。本家福井藩よりも幕府との繋がりは強くなったかもしれない。
そんな繋がりからか直政は10年間で大野を出て、寛永10(1633)年、信濃松本藩7万石に移封する。着々と出世を続けた。長兄の忠直が豊後に配流してわずか5000石で生き続けるが、没落していく中で弟たちが出世を遂げるのは皮肉なものだった。この頃には生母の月照院が心配する生い立ちの身分の低さが話題になることもなく、天下に名を轟かせるようになっていく。
直政の好物の蕎麦はこの松本でも特産物だった。冬の気温が低い松本の気候は蕎麦の栽培に適し。奈良時代から栽培されていた。ただ、古来蕎麦がきや蕎麦団子として食べられてきたが、江戸時代になるとそば切りが始まり信州そばが盛んになっていく。大野でも独特の小粒の薫り高い蕎麦の実が使われて独特の美味しいそばを食べてきたが、松本でも美味しいそばを食べていたようだった。そのことと次の任地とは直接関係はなさそうだ。




