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5、初陣

家康との対面から3年、慶長19(1614)年、直政は13歳になっていた。北の庄の城では母の駒(月照院)も一緒に暮らしていた。駒(月照院)は結城秀康が身請けした京の遊女だったが、元は阿波の武家の娘だった。直政を産んで秀康の側室の一人になって、北の庄の城に部屋を与えられていた。直政を産む前には喜佐姫と言う姫も産んでいる。夫の結城秀康が突然死んでから出家して月照院と名乗っている。

 いつものように直政が外の広場で剣や槍、弓の鍛錬をしていると、母のお駒(月照院)が直政の所に近づいてきた。

「直政、大阪城で戦があるみたいよ。豊臣家の淀君と秀頼が大阪城で浪人たちを大勢仕官させ、戦いに備えているらしいです。それに大御所様が江戸に参勤するように命令しても、無視して参勤しないので、いよいよ幕府は軍勢を大阪に派遣するらしいのです。本多富正が言ってました。直政、忠直様にお願いして、元服を急ぎなさい。戦に参戦するのです。手柄を上げなければいけません。」と言って兄の忠直に元服を急ぐように頼むことを急かした。


 直政と月照院は兄であり藩主である忠直の部屋を訪れた。68万石の大藩の藩主の部屋は豪華絢爛な部屋で、調度品も超一流で、襖絵も幕府の城と遜色がなかった。直政は

「兄上、お願いがございます。大阪の城で戦が始まるやに聞いています。何としてもその戦いの武将の中の一員に加えていただきたく思います。そこで、私の元服の式を急いで行っていただきたいと思っています。いかがでございましょうか。」と口上すると隣に控えていた月照院も頭を下げたまま

「直政も忠直様と同じように秀康様の血を引くものでございます。必ずや勇猛果敢な精神で戦を勝利に導くでありましょう。どうか直政の元服をお急ぎください。」と続けた。

忠直は眉をひそめて

「そう、急がなくても良いのではないか。戦は危険な場所だ。死ぬかもしれない。お前はまだ13歳だ。死んでしまったらもともこもないぞ。急ぐな。」となだめると月照院は

「わが息子は、秀康様の血を引く武者でありますが、残念なことに私の身分が低かったことから、家中で不当に低い扱いを受けております。早く大きな手柄を上げて、周りにその価値を示さなくてはなりません。どうかこの願いを叶えていただきたい。」と涙を浮かべながら懇願した。忠直は月照院の迫力に

「そこまで言うならば、早めよう。では本多富正に準備を整えさせる。」と言って約束してくれた。


 翌週、いよいよ元服の式典が北ノ庄城の100畳以上ある大広間で、兄弟たちやそれぞれの家族、そして多くの家臣たちが参列して執り行われた。この部屋は北ノ庄城の最も威厳のある部屋で、様々な式典が行われる部屋である。江戸城の対面の間に似せて作られており、襖や欄間、上段の調度品にいたるまで最高級品が使われている。越前松平藩の威厳を来訪者に見せつけている。その部屋に烏帽子をかぶり羽織袴の正装で式に臨んだ直政が大廊下から会場に入ると、立会人の忠直が言葉を述べた。

「ただいまより松平忠直立会いの下、松平直政の元服式を取り行う。直政は前で出よ。」という言葉が広い部屋に響き渡った。廊下に面した障子や襖は開けられ、中庭の見事な松やその向こうには城の周りを囲む濠の水が見える。壮大な北の庄城の緑を吹き抜ける風がこの大広間に入り込み、中央の青年の白い裃を揺らした。直政が中央にゆっくりと進み出ると立会人の忠直が

「本日、成年になるにあたり、武士として心構えができているかどうか、その意気込みを述べて見よ。」と厳しい口調で申し付けた。会場の参加者はまだ幼い表情が残る直政を心配して、彼の顔を覗き込んだ。そんな中でも、生母である月照院は心の中で

『落ち着いてやりなさい。あなたはあの勇猛果敢で天下にその無双ぶりが響き渡った秀康様の息子なのです。しかも駿府の大御所様はあなたの祖父なのです。何を怖れることがありますか。堂々とおやりなさい。』と念じていた。

 忠直の言葉を聞いた直政はゆっくりと深呼吸をして、気持ちを落ち着かせるとゆっくりと口を開いた。

「私は父秀康の三男、松平直政であります。祖父は駿府の大御所、徳川家康公、その偉大な血統を受け継ぐ武将として生まれました。物心ついた時から、徳川幕府や越前藩のお力となるべき、武芸と学問に励んでまいりました。この度元服式を終えて、成人男子としていつでも、徳川一門のために命を懸けて戦う覚悟を固めたところです。若輩者ではございますが、今後ともご参集の皆様の厳しいご指導を頂き、立派な徳川一門の武士になることをお誓いいたします。」と会場に響き渡る声で宣言した。

立会人の忠直はその言葉を聞いて感心したように笑みを浮かべ直政の前に進み出ると、お盆を持って一緒に出てきた家臣から水引に結われた記念品を渡した。記念品は武士としての証である矢と弓の弦、そして短剣だった。記念品を受け取ると感謝の言葉を述べて式典は終了した。

 部屋の片隅で見守っていた生母月照院は直政の姿を見て、その立派に成長した姿が父である結城秀康の勇猛果敢な武者の姿を重ねた。


 元服の式を終えるといよいよ成年として藩の仕事にも参加する。直政が最初に着いた仕事は戦備品を調達整備する部署の補佐役だった。今でいうなら副部長待遇と言ったところだ。藩主の弟という事で、役職なしには出来ないがまだ13歳の青年を部長待遇には出来ない。そこで、優秀な家臣に指導をしてもらって、戦時に備える役職に就いた。

 直政は戦蔵の中の戦備品を確認し、それぞれの備品をどのように使うのかも学んでいった。この頃の戦争は鉄砲伝来によって革命的な変化を遂げている。種子島に鉄砲がもたらされて以来、優れた日本の鉄加工技術で同じような鉄砲が国内生産されるようになる。それまで畑で使う鍬、武士が使う刀、槍などを製造していた近江の大友や泉州の堺で、大量の鉄砲が製造され、全国の大名は先を争って購入・整備している。そのためこの頃の日本は世界有数の軍事国家となっている。大型の大砲はまだ外国製品を使っていることが多いが、すぐに国内生産できるようになっていく。ヨーロッパ諸国が迂闊に日本に戦争を仕掛けて、占領しようとする事ができなかったのは、この軍事的な革命があったからだ。

 直政は戦蔵の中で鉄砲の仕組みや撃ち方、管理の仕方なども体験して、その他古来からの戦争道具も含めて知識を深めていった。


 11月になっていよいよ江戸から家康・秀忠が指揮する幕府軍が大坂城を目指して出立した。まずは京に入り軍の体勢を整えて大坂に臨む予定だった。

その情報と参戦の命令はすぐに越前の地にも届けられ、遅れないように急いで戦争準備が整えられた。この時も直政が活躍して、戦蔵から戦備品が出され、各家臣たちに配布された。家臣たちは藩主から渡された支度金以外に自分で用意した軍資金で、旅支度を整え戦備品を買い足した。

11月末、忠直を大将にした大軍勢が大坂に向けて北の庄を出立した。直政もその軍勢の一人として越前を馬に乗って出立した。ただこの頃の武士たちは関ケ原の戦い以来、15年経っていて戦争の経験をしたことのある武士は少なかった。関ケ原の時に主力だった35歳ぐらいの人は50歳。この頃の50歳は老人であり、死んでいくものも多かった。不安な出立であったに違いない。


 出立に先立ち、直政は月照院に呼ばれ、月照院の部屋で別れの言葉を聞いた。この時には14歳になっていた直政を近くに寄せ、二度と帰らぬ戦いになるかもしれない息子の顔をまじまじと眺め、無事を願って安全祈願の黒龍神社のお守りを手渡した。

「死ぬのではありませんよ。必ず生きて帰りなさい。貴方は大御所様の孫なのですから、必ずや出世して、国持の大名になれるはずです。」と言って抱きしめた。そして次には戦勝を祈願したお守りも渡した。この時には月照院は目の色を変えて直政の両肩を両手で押さえて言い聞かせるように語り掛けた。

「良いですか、直政。祖父(家康)の目にかなうよう、卑しき母の子として生まれたと後ろ指を差されることのないように しっかりと手柄を立ててきなさい。」と激励して武運を祈った。

直政が部屋を出ると月照院は家来の神谷兵庫を呼んだ。部屋に来た神谷に

「神谷、お主の働きで直政は装備品を調達して出陣できるのだ。礼を言います。直政を頼みましたよ.」と礼を述べた。実は月照院の指示を受けて神谷は、京の西本願寺に軍用金を用立ててくれるように頼んでいたのだった。西本願寺からは2千両もの大金を借りてきたので初陣ながら立派に出陣できたのだ。


 忠直軍の一角として出陣した直政たちは北陸道を南下し、大垣から東海道を進んで京に入り、徳川本隊と合流した。さらに南に下って大坂に入った。大坂冬の陣の始まりだった。

 慶長19(1614)年12月4日から始まる冬の陣には豊臣勢力と徳川勢力が大坂城の中と周辺に分かれて、大軍同士の戦いとなった。直政も忠直の軍勢の一員として戦いに参加したが、まだ14歳の彼は血気盛んだが、一対一の戦いになると百戦錬磨の武将たちにはかなわなかった。そこで後方での待機が主だった。

 激しい戦いが行われたのは大坂城の南側、真田丸と言う出城を築いた真田信繁(幸村)との戦いだった。この戦いで井伊直孝の軍で大きな犠牲が出て徳川軍は退却を余儀なくされた。この時本多富正・本多成重の家老たちと忠直の不仲があり、軍の指揮も忠直が思うようにできていなかったことが、忠直は不満だったようだが、直政はとりあえず初陣を無事に終えた。

 しかし翌年の大坂夏の陣では5月6日、八尾・若江の戦いで味方が攻撃されているにもかかわらず、味方を助けなかった忠直は家康の陣地に呼ばれ、叱責を受けた。汚名返上に燃えた忠直は翌日の5月7日、天王寺・岡山の戦いで先陣に自ら打ち出ると、敵の奇襲を受け、周りに味方がいない状態になり、危機に陥った。しかし反撃をすると敵の真田信繁も前線に出て来て激しい戦いになり、忠直の家臣が敵、真田信繁の首を打ち取った。

 この時、後方に構えていた直政も前線に出て勇敢に戦い、騎馬武者二人と敵の首30余りを獲ると言う戦果を上げた。

 彼らの活躍もあり、徳川軍は豊臣軍を破り、大阪城を落城させ淀君も秀頼も死んで、豊臣は滅び、徳川に反旗を翻す勢力は無くなり、日本の歴史上最も長い平和な世の中を生み出すことになる。


 後日行われた二条城での会議で、忠直は大阪の陣、第一の働きを家康から認められ、「初花」という天下第一の茶道具と高木貞宗作の脇差を与えられ、秀忠からも牧谿作の落雁の絵が授けられた。「初花」は中国伝来の銘品で楊貴妃がお香を入れたと言われ、室町幕府にもたらされ、そこから織田家、豊臣家。徳川家と渡り歩いた名品中の名品であった。ただ弟の忠昌も戦功が認められ、高田藩25万石の領地を与えられたことで忠直は不満を持ったようだった。しかもこの時期に忠直から見れば年下の叔父にあたる徳川義直、頼貞、頼房が尾張藩、紀伊藩、水戸藩の御三家を構成し、幕府内での地位も忠直よりも上になった。忠直は幼いころから父である結城秀康が長男信康切腹後、長子として家康から将軍職を委譲されていれば、自分が3代将軍になっていたはずだと言う思いを持っていた。この時の忠直の不満が後に秀忠への態度に現れてしまうことになってしまうのは、越前松平藩にとって不幸な道を歩むことにつながってしまう。


 一方、三男の直政も戦功を褒められ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。この打飼袋は直政の家宝として移封して渡り歩く城に大切に持っていかれる。

忠直も直政の活躍を賞賛し、元和2年(1616年)に自身の領内に1万石の所領(越前大野郡木本)を与えた。14歳の少年が母の期待に応えて、家康の目にかない、手柄を上げた瞬間であり、直政が天下に認められた出来事となった。



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