1、出生
その年の夏は厳しく、暦の上では秋になっていたが、灼熱の太陽は旅人の体力を容赦なく奪っていた。余呉湖から吹く風も生暖かく、涼しさを感じるまでには至らなかった。
慶長6(1601)年8月5日、結城秀康の軍勢は伏見での徳川家康との対面を終えて、新しく授かった越前の地を目指して近江の国で北進を続けていた。関ケ原の戦いにおいて、宇都宮で上杉勢の進軍を押さえた結城秀康の活躍を、家康は第一の戦功と評価し、越前68万石を与えたのだった。
結城秀康は德川家康の次男として生まれたが、庶子であったため家臣の家で育ち、秀吉との小牧長久手の戦いの後、羽柴家に養子として出され、さらに羽柴家で鶴松が生まれると関東の結城家に再び養子に出された。家康からは何の愛情も受けず、次男として戦略上の道具として扱われてきた。
そんな秀康が徳川軍で戦功をあげ、ようやく父家康から褒められたのだ。伏見の城で新しい領地を授けられた喜びは誰にも負けないものがあった。
隊列が近江の国、伊香郡中河内村に差し掛かった頃、馬上の秀康に結城家からの家臣である本多作座が話しかけた。
「殿、次の河内村の宿に一泊でございます。」と言うと結城秀康は馬を止めて馬を降りると、後ろの籠に近寄り
「お駒、大事ないか?」と問いかけた。籠に中には身重のお駒と言う女が大きな腹を抱えて、籠の揺れに耐えていた。
「殿、大事ございません。」と言う声がしたが、その声は細々として力がなかった。秀康は
「もうじき宿に入る。もう少しの辛抱じゃ。」と慰めた。
お駒は阿波の国の豪族、三谷家の娘だったが、父である三谷長基は德川家に敵対したので阿波の国から逃亡して、残されたこのお駒は京の二条で遊女となった。そのお駒を見初めた結城秀康が身請けして、側室の一人にしていたのだ。
宿場町に着いた一行は格式ある本陣には秀康とその家族と上級家臣たちが入り、中級の家臣は脇本陣に、下級家臣たちは一般の宿に分散して入った。今回の一行は50人ほどだが、数回に分かれて越前に入る事になっている。関東の結城家からは100人ほどが、そして江戸からは幕府が付家老をはじめ、大藩を運営するための必要だという事で遣された家臣団が50人ほど、そして関ケ原の戦いに備えて仕官させた武士団50人ほど、総勢200人ほどが、数回に分けて越前北の庄に入る事になっている。
本陣に入った秀康の家族の中には正室の鶴姫と6歳の長男長吉丸と3歳の次男虎松は含まれてなく、3人とも江戸の屋敷に残してきた。今回伏見から同行したのは身重の側室、お駒とお駒が3年前に産んだ長女喜佐姫だけだった。身重のお駒を京に残しておくわけにもいかず、正室たちよりも先に越前入りすることになってしまった。
秀康は宿にはいると玄関に座り、店の女中に足を洗わせた。丸一日馬に乗って歩き続けると、疲れが足の裏を固くする。その固くなった足の裏を中心に、お湯で洗って手ぬぐいで拭いてもらうと一気に疲れが飛ぶほど気持ちが良い。明日を拭いてもらったものから奥の部屋に入っていく。家老の直属の係の者が部屋割りを考え、テキパキと案内していく。
「殿、殿は一番奥の鶴の間でお駒様と一緒にお願いします。」と言うと女中に案内されて、秀康が奥へ歩いていく。家老職の2人が足を洗い終わると、
「御家老様たちはお二人で松の間をご利用ください。」と声をかけた。また女中が2人を案内して奥へ進んで行った。本陣に入る10人が入り終わるのはすぐだったが、下級武士たちが泊まる安宿は、雑魚寝に近い形なので人数も多く、入り終わるまでに時間もかかった。
本陣の奥の間に入った秀康は、すぐに風呂に入り汗を流した後、お駒とくつろいで準備された酒を飲みながら夕食を食べていた。近江の奥地の山間の宿では海の食材はなく、琵琶湖でとれた淡水魚と畑でとれた野菜が中心の質素なものだったが、アユの塩焼きは絶品だったようだ。
「この小ぶりのアユは美味いな。頭から丸かじりしても柔らかく、腹のワタの苦みが絶妙だ。小さいアユを厳選しておるのか。」と宿の主人に聞くと主人は褒められたうれしさで笑顔をほとばしり
「左様でございます。あまり大きなアユは骨も堅く、味も大味になります。小さめのアユは骨が柔らかいので丸ごと食べても大丈夫です。それに奥様が身重であると聞いていましたので、食べやすくて滋養をとれるものとして考えさせていただきました。」と答えた。秀康は大いに喜び、お駒にも食べるように勧めた。お駒は稚アユの中からより小さいものを選んで口にしていた。その様子を見て秀康はアユをお替りをして7匹も食べた。
しかし秀康にお酒をお酌していたお駒に突然変化が現れた。口数が減って顔色が青白くなり、お腹に手をやりながら呼吸が激しくなってきた。
「殿、少し辛いので横になって良いですか。」とお駒が言うと、慌てた秀康はお駒の手を取って
「大丈夫か? すぐに横になれ。誰か、誰か隣の部屋に布団を敷け。」と命じて本陣は緊張に包まれた。主人はアユで食あたりでも起きたのかと心配したが、すぐに同行していた医者が産気づいた模様だと診断すると、宿の主人を通じて近くの産婆が呼ばれた。台所では湯を沸かし、布団が敷かれた部屋では女たちがお産に備えて忙しく動き始めた。
「予定日はまだ20日ほど後ではなかったのか。」と秀康が家老の田島に聞くと、
「やはり籠でも旅することは体に負担があったのでしょう。伏見で診てもらった医師も越前までの旅は危険が伴うと申しておりました。」と答え、お駒のことを案じた。
ばたばたと朝方までお産は続いたが、辺りが明るくなりかけた頃、元気な赤ん坊の泣き声が、宿の建物の中に響いた。用意されていた温かい産湯で、きれいに洗われた赤子を、産着にくるんで女中が秀康の前に現れた。
「殿、おめでとうございます。丸々と元気な男の子でございます。」と言って抱きかかえていた男の子の顔を秀康に向けた。秀康は3人目の男の子に喜びを隠せなかったが、近くにいた喜佐姫の様子も気になって
「喜佐姫、弟が生まれたぞ。仲良くしてやれよ。」と喜びを共にするように諭した。喜佐姫はきょとんとした表情で何が起こったのか分からない様子だった。しかし母が無事だと聞くと少し安心したような表情を浮かべた。
しばらくするとお産を終えた駒に会えるという事で、秀康は喜佐姫を連れて産室に入った。お駒は激しいお産を終えたばかりなので、まだ額には汗を蓄えていたが、隣に寝かせられた生まれたばかりの男の子を見て
「殿、男の子でございます。世継ぎではございませんが、必ずや結城家のご発展に寄与することでしょう。」と息を切らしながら話した。すると秀康は
「よく頑張ったな。疲れているのだからもう話さなくてもよい。静かに休め。」と大仕事をねぎらった。お駒は続けて
「殿、この子に名前をお願いいたします。秀康様のお子で、家康様のお孫でございます。」と言うと秀康はしばらく考えて
「河内の村で生まれたのだから、河内丸というのはどうだ。」と述べるとお駒は笑顔でかぶりを振った。
お駒は産後という事で大事を取ってしばらくは河内村の本陣のこの宿に、しばらく留まることになり、身の回りの世話をする数人の女中を供として、河内丸と喜佐姫もいっしょに残った。行程を急ぐ秀康たち本隊は北の庄へ向けて翌日には出立した。




