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その可愛さは画面越しでも容易に胸を貫くほどで、疲労のあまり表情をなくした顔に微笑みを運んでくれた。
ペット禁のアパートだったので、残念ながら猫を飼うことはできなかったが、毎日の動画と、たまの休みの猫カフェで、存分に癒やしてもらい辛い社畜生活を乗り切ることができた。
(いや、過労で死んだから乗り切れてはいないか……)
なにはともあれ、猫の可愛さがいかに人間の心を癒やすかは身を持って知っている。
だからこそ、ギディオンを心の闇から救い出し、人類滅亡エンドを回避できると確信していた。
事実、自分を癒やしてくれた猫たちを手本にしてギディオンにペットセラピーを施してきたが、それは抜群の効果を発揮していた。
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「食ったぁ〜」
腹いっぱいごちそうを食べたシリルは、ギディオンの膝の上でごろりと仰向けに寝転がった。
「ふふ、シリルが満足そうで僕も嬉しいよ」
シリルの腹を撫でながらギディオンが愛おしげに目を細める。
その腕に顔を擦りつけると、ギディオンの目尻がさらに緩んだ。
やはりペットセラピーの効果は絶大だ。今のギディオンに世界滅亡を望む心など皆無に違いない。
こうして人知れず世界を救っている自分を褒めてやりたいし、何なら全人類から称賛を受けたいくらいだ。
シリルはフンと得意げに鼻を鳴らした。
「それにしても、悪いな。せっかくギディオンのお祝いなのに、俺からは何もしてあげられなくて」
「いいんだよ。気にしないで。……あとでたっぷりしてもらうから」
「え?」
「ううん。何にもない。それより食べすぎて疲れたでしょう? 今日は早く休むといいよ」
そう言ってギディオンがシリルの顔の前に手をかざすと、温かな光が体を包んだ。
恐らくヒーリング系の魔術の一種だろう。そのひだまりのような温もりに、シリルはうとうとと眠ってしまった。
目を覚ますと、シリルはベッドの上にいた。いつもギディオンと一緒に寝ているベッドだ。しかし、なぜだか体に妙な違和感を覚えた。
そうだ、今日は異様に寒いのだ。人間に触られすぎて毛を短く切られた時のことを思い出すほどの寒さだ。
「……っ、さむ」
思わず手でシーツを引っ張った。
(……ん? 手?)
シリルは自身の手を見て飛び起きた。
「えっ!」
自分の前足をまじまじと見つめる。しかしそこには魅惑の肉球付きの猫の足はなく、代わりに人間の手があった。
「え? え? ええっ?」
体や顔をくまなく触るが、どこにもふわふわの毛並みはなく、つるりとしたその肌は人間そのものだった。
慌ててベッドから飛び出て鏡に向かう。そこには冴えない男の姿があった。
「な、なんで? ……痛っ!」
勢いよく鏡に顔を近づけた拍子に、額をぶつけた。その痛みにこれが夢でないことはよく分かった。
もしかするとこれまでの使い魔だったというのは自分の悪い夢だったのではないかと思ったが、その考えはすぐに却下された。
なぜなら……――。
「なんだ、この中途半端に残った猫耳と尻尾は!」
頭上の両耳を引っ張りながら半狂乱で叫んでいると、部屋のドアが開き、ギディオンが現れた。
「あ……」
目を見開いてこちらを凝視するギディオンに、血の気がサァと引いた。
ギディオンは使い魔であるシリルには優しいが、人間には冷たい。相手が人間で全裸の不法侵入者となれば、なおさら容赦はしないだろう。
「あ、あの、ギディオン……」
震える声で慌ててこの信じられない状況を説明しようとしたが、それよりも早くギディオンが動いた。
弁解の余地すら与えないような凄まじい勢いで駆け寄ってくるギディオンに「ひぃ……!」と小さく悲鳴を漏らした。
(だ、だめだ……! 俺、殺される……!)
死を悟ったシリルはぎゅっと目をつむった。
しかし、
「ああ……っ! 人間版シリルも超絶可愛い……!」
「……は?」
いつものようにシリルを抱きしめ頬ずりするギディオンに、しばし呆然となった。
人間になったシリルへの興奮がようやく落ち着いたところで、ギディオンからこの姿について説明をしてもらった。
「……つまり、王国魔術師しか使うことが許されない禁忌の魔術で俺をこの姿にしたと」
ベッドの上で借りたシャツの袖を折り曲げながらシリルが言うと、隣に座るギディオンが満面の笑みで頷いた。
「そういうことだよ。さすが僕のシリル。飲み込みが早い。賢いね」
聞いた話をただまとめただけのシリルの頭を撫でながら目尻を下げるその顔はいつもと同じだ。
いくら自分が仕掛けた魔術とは言え、愛猫もとい使い魔がこんな冴えない男、しかも猫耳と尻尾付きという気色悪いオプション付きの姿になっても全く態度を変えないとは、我が主ながら恐ろしい。
(普通なら着ぐるみからおっさんが出てくるのを見た子どもくらいのショックを受けそうなものだけど……)
「それで、俺をこんな姿にした目的は何?」
人間の姿のせいか、同じ男に頭を撫で回されるのは気持ちがいいものではない。むしろ不愉快でもある。シリルはギディオンの手をぱしっと払い除けながら訊いた。
「目的? 決まってるじゃない。――あの日の約束を守ってもらうためだよ」
にこりと微笑みを深めると、ギディオンはシリルをそのままベッドに押し倒した。
上に覆い被さるギディオンに唖然としつつも、なぜか嫌な予感に背筋が粟立った。
「……えっと、約束、とは?」
「覚えてないの? 悲しいなぁ」
悲しいと言いながら微塵も悲嘆を感じない笑みを浮かべるギディオンに、冷や汗が流れる。
「子どもの頃に言ったじゃないか。もし僕が大魔術師になったら何でもお願いを聞いてくれるって」
その言葉を聞いて、ようやく丘の上で交わした約束のことを思い出した。
決してあの日の約束を忘れていたわけではない。ただ、ギディオンが纏う空気がどこか不穏で、あの純粋無垢な約束とすぐに結びつかなかったのだ。
それには理由があった。
「あ、ああ、言ったな。……ちなみに、そのお願いっていうのは〝ソレ〟とは関係ないよな?」
膨れ上がったズボンに視線をやりながら、恐る恐る訊く。
下半身の膨らみも、さっきから全身を舐め回すような視線も、どうかその願いとは無関係でありますように……! と切に願うシリル。
しかし、神は残酷だった。
「ふふっ、さすが僕のシリル。賢いね。その通り、僕の願いに関係大アリだ」
「ぎゃぁぁぁ!」
言葉にせずとも答えが分かったシリルは、半狂乱で叫んだ。
「こ、こここ、この変態ッ! 動物をなんて目で見てんだ!」
「何を言ってるの? シリルは今、人間の姿じゃない。まぁ、もっともシリルのことを動物だなんて思ったことは一度もないけどね」
「なにとんでもない告白してくれてんだ!」
どうやら猫の可愛さで人類滅亡を願う心の闇は癒やせたが、代わりにとんでもない新たな心の闇を生んでしまったようだ。
「や、やだやだ! 絶対に無理! というかそんな大きいのが俺の中にはいるわけないじゃん!」
「ふふふ。そんな大きいの入らない……なんて誘ってるみたいだね」
「なんでそうなる! 普通に考えて全力の拒否だろうが!」
うっとりと目を細めるギディオンに半泣きで訴えるが、全く話が通じない。
「まぁでも、いくら拒否してもだめだけどね。だって僕らは魔術師と使い魔。僕の命令は絶対だ」
そう言ってシリルの胸元に手をかざすと、鎖骨下に契約紋が光を帯びて浮かび上がった。
(い、嫌な予感しかしない……!)
シリルはゴクリと唾を飲み込んだ。
「使い魔シリル・モーラン、契約の名のもとに命ずる。――自ら脚を開き我が欲望を受け入れろ」
「うわぁぁぁ! 格調高く何とんでもない命令してんだぁぁぁぁ!」
しかしどんなに叫ぼうとも、使い魔のシリルが主であるギディオンに逆らえるはずもなかった……。