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『シリル。僕は将来、絶対に王国魔術師になる』
丘の上で、少年は爽やかな風に金色の髪を靡かせながら、決意を口にした。その瞳は年相応の無垢な輝きを湛えながらも、強い意志を秘めていた。
少年の横に座る使い魔である黒猫――シリルは、ついにこの日が来たか、とやや緊張して居住まいを正したが、すぐにフッと笑った。
『ああ、ギディオンならきっとなれるよ。俺が保証する』
シリルが力強く言うと、少年――ギディオンは少し目を丸くしたが次には相好を崩し、天使のように愛らしい笑みを満面に浮かべた。
『こんな無謀な目標をバカにしないでくれるのはシリルだけだ』
『言っとくけど、安易な励ましやお世辞じゃなくて本心だからな』
『分かってるよ。シリルは見え透いたお世辞は言わない。いや、言えない、かな。表情と尻尾に出るからすぐに分かる』
尻尾の先を指先で軽くつつきながら、クスクスとギディオンが笑う。ギディオンに悪意がないことはもちろん分かっているが、小馬鹿にされたような気持ちになって、シリルは少しむくれてそっぽを向いた。
『どうせ俺はバカ正直だよ』
『すねないでよ。褒めてるんだからさ。……僕の周りはみんな嘘つきばかりだから、シリルの正直さは本当に救いなんだよ』
寂しげに笑って、ギディオンはシリルの頭を撫でた。
これまでギディオンが周囲の人間にどれだけ傷つけられてきたかを間近で見てきたシリルは、何も言えなかった。
言葉の代わりに、シリルは慰めるようにギディオンの頬をその小さな舌で舐めた。
こうすれば、たちまちギディオンの顔に笑みが浮かぶことを知っているからだ。
『ふふっ、くすぐったいよ』
そう言いながら、絶対に止めはしない。だから、ギディオンの顔から湿っぽい雰囲気が消えるまで舐め続ける。
『……ねぇ、シリル』
しばらくして、悲しげな色が消えた頬に穏やかな表情を浮かべ、ギディオンが言った。
『もし僕が王国魔術師になったら、僕の願いごとをひとつだけ叶えて』
『どんな願いごとだ?』
『それは僕が王国魔術師になってからのお楽しみ』
口元に幼い人差し指をあてて、ギディオンが言う。
願いごとの内容が気にならないといえば嘘になるが、この無垢な笑みを前にして追及する気にはならなかった。
きっと子どもらしい他愛もない願いごとなのだろう。
シリルは小さく微笑んだ。
『それじゃあ、その日を楽しみにしているよ』
『うん、楽しみにしていて』
ギディオンが人差し指を差し出す。
この国の子どもたちは約束を交わす時に、指先と指先を交差して重ねるのだ。
指がないシリルは代わりに尻尾をその指先にするりと巻きつけた。
『ああ、約束だ』
それは、主と使い魔の契約を介さない、純粋な約束だった。
――まさかこの約束を後悔する日が訪れようとは、この時のシリルは夢にも思っていなかった……。
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「シリル。お前のご主人様、すごいことになってるぞ」
窓辺で体を丸めてうとうとしていると、噂好きのカラス――コゼットが飛んできて言った。
シリルはゆっくりと顔を上げた。
「何かあったのか?」
前足でまだ眠気の残る目元をこすりながら訊くと、コゼットがニヤリと目を細めた。
「なんと、王国大魔術師の仲間入りだってよ! しかも史上最年少だ!」
「へぇ」
「なんだ、あんまり驚いていないんだな」
目を丸くしつつも驚きの薄いシリルに、コゼットは不満そうに言った。
それもそうだろう。王国大魔術師と呼ばれる魔術師は国に五人しかおらず、若くても三十五を超えている。その国で優秀な魔術師に与えられる称号であるため、当然のことではある。
しかし、シリルの主人であるギディオン・モーランは弱冠二十三歳。そのあり得ない若さに普通なら驚くだろう。
だが、長年ギディオンの使い魔として傍にいたシリルからすれば、さほど驚くことではなかった。
いや、正しくは『この物語を知る』シリルからすれば、だ。
「驚くも何も、だってあの人だもんなぁ。いつかこういう日が来るとは思ってた」
「いや、その言い方だと何かお前のご主人様が犯罪者みたいなんだけど……」
「まあ、あの強さはどんな凶悪犯も逃げ出すレベルだからな」
伝説級の強さをこれまで何度も目の当たりにしてきたシリルは、苦笑まじりに溜め息をつく。
一度、学生時代にギディオンを妬んだ上級生が使い魔のシリルに危害を加えた時などすごい怒り様で、建物にひびが入るほどの地震を起こしたほどだ。
「あの顔でもともとモテてたけど、今回の件でさらに女たちは奴の虜だ。それにしても、あれだけ上玉な女たちに言い寄られても顔色ひとつ変えないとは、お前のご主人様は本当にクールだな。いや、クールっていうかもはや冷酷と言っていいレベルだ。知ってるか? あいつの腕に抱きついてきた女を冷たく振り払って『気安くさわるな』っていうのなんか日常茶飯事らしいぜ」
非難がましく耳打ちするコゼットだが、軽薄な好奇心は隠せていない。今日仕入れたばかりの情報を誰かに言いたくて言いたくてたまらなかったのだろう。
噂好きで嘘か本当かも分からない情報をペラペラとしゃべる奴なのにどこか憎めないのは、きっとそのせいだ。
シリルは苦笑した。
「まぁ、そう言うなよ。家庭の事情で人間不信なところがあるから」
「確かにあの冷たい目は人間を信じてない、いや、完全に嫌悪してる目だもんな。人間じゃない俺にさえあの冷たい睨みを向けてくるくらいだ。もしかしたら、この世の全てが憎いのかもしれない」
うんうん、と自分の説に納得するコゼット。
その推論はあながち間違いではない。
なぜなら、ギディオンはこの物語『グランド・マギ』で世界を憎み、世界を滅ぼす冷酷無慈悲な最凶のラスボスなのだから……。
シリルは前世でプレイしたゲーム『グランド・マギ』のバッドエンドを思い出しながら、思わず身震いした。
そんなシリルを見てコゼットは同情の目を向けた。
「可哀想にな。あんな冷酷な大魔術師の使い魔とは、お前もついてないな」
「いや、別にそんなことは……」
「その上、家に閉じ込められて。俺だったら三日で発狂するぜ」
「いや、もともと俺、引きこもりタイプだから割と平気。仕事が休みの日も家でゴロゴロ、スマホでゲームしてたりしてたし」
「スマホ?」
聞き慣れない言葉に目をパチパチと瞬かせるコゼットに慌てて「な、なんでもない」と答える。
「ま、まぁ、とりあえず、この生活に大きな不満はないってこと!」
「そうか? ならいいが、もしこの家を出たくなったらいつでも言えよ。特別に俺の子分として面倒みてやる」
羽を胸に手をあてて言うコゼットに、シリルは目を細めた。
「ありがとうな。その時はお願いするよ」
「おう、任せておけ。……って、噂をすれば何とやらだな。ご主人様のお帰りだ」
窓の外を見下ろしながらコゼットが言うので、シリルも横から顔を出して下を見る。すると、家に向かってくるギディオンの姿が見えた。
森で一番の大樹を魔術で隠れ家としており、シリルたちがいる場所がその上の方であるため、ギディオンは気づいていないようだ。
「それじゃあ、俺はここで失敬するぜ」
「ああ、気をつけて」
コゼットを見送ってから、シリルはすぐに壁に取り付けられた棚を渡るようにしながら、ぴょんぴょんと飛び移っていき、下の玄関まで向かった。
足が床に着地したと同時に、玄関の扉が開いた。
「おかえり。久しぶりに王宮まで行ったから疲れただろう」
無表情で、ふぅ、と小さく溜め息をつきながら扉を閉めるギディオンに、労るように声をかける。すると、ギディオンは無言で視線をスッとこちらに落とした。
しかし、沈黙はほんの一瞬だった。
「シリル〜〜〜〜!」
今までの冷たい無表情が嘘のように消え去り、緩みきった顔でシリルを抱き上げると、そのまま勢いよく頬ずりしてきた。
「はぁぁぁ、なんて可愛い、僕の天使……! 会いたかったよ! シリルの久しぶりの匂い、最高すぎる……!」
「や、やめろー!」
シリルの腹に顔をうずめ、全身の匂いを吸い取るかのように深く呼吸するので、シリルは背中を弓なりに反らして距離を取ろうとした。しかし、人間と猫、その力の差はたとえ渾身の力を振り絞っても容易く手の平に収められてしまうほどだ。