勝利の代償
蝉の声が、アスファルトの熱をぐらぐらと揺らしていた。
瀬名快斗は、その耳鳴りのような鳴き声の中で、ただ一点を見つめていた。白球の赤い縫い目。それが今の彼の世界の全てだった。
二年生の夏。
西東京、県予選、決勝。九回裏、ツーアウト、満塁。
スコアは3対2。あと一人。
その言葉の、なんと重いことか。
彼の右腕は神に愛されていた。150キロに迫る豪速球。打者の手元でえぐるように曲がるスライダー。誰もが彼を天才と呼んだ。
だが、神は彼に全てを与えはしなかった。
その心臓は、あまりに脆いガラスでできていた。
キャッチャーのサインに、瀬名は首を振れない。思考が真っ白になる。指先から血の気が引き、ボールの縫い目の感触が消えていく。
あと一球。そのコールがグラウンドに響いた瞬間、彼の身体は意思とは無関係に、暴投を投げた。
ボールがキャッチャーミットのはるか後方を転がっていく、スローモーションの映像。サヨナラ負け。泣き崩れる仲間たち。その光景が、彼の網膜に焼き付いて離れない。
その夏、瀬名快斗の高校野球は終わった。
一年という時間が流れた。
季節は巡り、また同じ夏が来た。
三年生になった瀬名にとって、それは本当に最後の夏だった。
彼の右腕は衰えるどころか、さらに凄みを増していた。だが、彼の心の傷は癒えるどころか、より深く膿んでいた。
あの最後の一球の悪夢。
仲間たちの善意の励まし。監督の無言の信頼。その全てが、彼のガラスのハートに無数のひび割れを増やしていく。
そして運命は、残酷なほどに同じ舞台を用意した。
三年の夏。県予見、決勝。
相手は奇しくも昨年と同じ宿敵。
その試合を翌日に控えた夜だった。
眠れずに一人、誰もいないグラウンドでシャドーピッチングを繰り返す彼の前に、その男は音もなく現れた。
上質なコートを着こなした、年齢不詳の男。ミスターX。
「――また同じ顔をしているな、瀬名快斗君」
男は闇の中で静かに微笑んだ。
「君はまた、勝つことを恐れている」
「……あんたは誰だ」
「私は君の味方だよ。君のその素晴らしい才能が、たかが心の弱さごときで朽ちていくのを見過ごせない、ただの好事家だ」
ミスターXは瀬名に向き直った。その瞳は、闇の中で不気味なほど静かだった。
「君が全てを賭けてでも勝利を掴みたいと思うのならば、私に協力させてはもらえないだろうか」
「……何をする気だ」
「私はスポーツ心理学者、とでも思ってくれたまえ。君のその弱さを完全に消し去る方法がある。明日、一試合だけ君の心から恐怖、不安、プレッシャー、その全ての感情を消し去る、特別なメンタルトレーニングを授けよう」
その言葉は悪魔の囁きそのものだった。
瀬名は唾を飲み込んだ。
「……代償は?」
「ああ、そうだとも」ミスターXは満足げに頷いた。「どんな芸術にも、それ相応の代償はつきものだよ」
彼は静かに告げた。
「代償として、君はこれから野球を愛する心、仲間と勝利を分かち合う喜び、その全ての感情を永遠に失うことになる。君は完璧なピッチングマシーンにはなれる。チームを勝利に導き、英雄となるだろう。だが、君の心は完全に凍り付く。その空っぽの栄光のために、君は君の魂を差し出す覚悟があるかね?」
瀬名は答えられなかった。
脳裏に仲間たちの笑顔が浮かぶ。三年間、共に汗と泥にまみれた、あいつらの顔。あいつらの夢を、俺のせいでこれ以上壊すわけにはいかない。
だが、魂を売る? 野球を愛する心を失う?
それは投手、瀬名快斗の死を意味する。
ミスターXは彼の葛藤を楽しむように眺めていた。
「君にとって勝利とは何か。仲間の夢とは、君が犠牲になることで叶えられるべきものなのか。君の才能の本当の価値を決めるのは、誰だ?」
哲学的な問い。その言葉が、瀬名の最後の理性を麻痺させていく。
彼は震える唇で、ただ一言、こう答えるのが精一杯だった。
「……お願いします」
翌日。決勝戦のマウンド。
瀬名快斗の心は無だった。
超満員のスタンドの熱気も、相手チームの野次も、彼の耳には届かない。
彼はただ、キャッチャーミットという一点だけを見つめ、そこに完璧なボールを投げ込むだけの機械だった。
試合は一方的だった。
彼の投げるボールは、凄まじい威力を持ちながら、まるで意思を持ったかのようにミットに吸い込まれていく。相手チームのバットは、一度もボールを捉えることはなかった。
九回、最後の打者を空振りの三振に切って取った瞬間。
彼は打者27人を完璧に抑えきり、完全試合を達成していた。
サイレンが鳴り響く。
彼のチームの甲子園出場が決まった。
チームメイトが歓喜の雄叫びを上げ、マウンドに殺到する。
監督がベンチで男泣きに泣いている。スタンドの控えの選手たちも、抱き合って泣いている。
その歓喜の輪の中心で、瀬名は独りその光景を眺めていた。
仲間たちが彼を担ぎ上げ、宙に三度舞う。
彼は泣きじゃくるチームメイトの顔を見下ろした。その一人一人の表情を、まるで見たこともない外国の映画でも見るかのように、ただ観察していた。
これが、喜びか。
これが、感動か。
これが、俺が魂と引き換えに手に入れたものか。
彼の心には、何の感情も湧き上がらない。
ただ、どこまでも冷たい虚無と、そして自分がもはや彼らとは違う世界の住人になってしまったのだという、絶対的な孤独感だけが広がっていた。
試合後、一人静まり返ったロッカールーム。
そこにミスターXが音もなく現れた。
「素晴らしい芸術だったよ、瀬名君」
彼は満足げに微笑むと、一枚の黒いカードを彼のロッカーに滑り込ませた。
「君のその才能と決断には、我々も正しい値段』をつけさせてもらった。君は最高の作品だ」
瀬名はそのカードを手に取った。
そこにはただ一つの、不気味な天秤の紋章だけが描かれていた。
彼は手に入れた。
完璧な勝利と、空っぽの栄光を。
そして彼はまだ知らない。
これから彼の人生が、その代償を永遠に支払い続ける地獄の始まりだということを。
作者の窓末です。
実は、この物語には少しだけ裏話があります。
この『勝利の代償』は、今私が連載している『ヒトの値段』よりも前に執筆した物語です。
一人の少年の魂の代償を描き終えた時、私の中には答えの出ない問いが生まれてしまいました。
「人間の本当の価値とは、一体何なのだろう?」と。
その問いに取り憑かれた私が、答えを探すためだけに書き始めたのが、本編である『ヒトの値段』という、より長くそして深い地獄の記録です。
もし、この瀬名快斗という少年の魂の行方に何かを感じてくださった方がいらっしゃいましたら。
その問いの答えを探す旅にお付き合いいただけると、作者としてこれ以上の喜びはありません。
本編『ヒトの値段』への入り口は、私のプロフィールページにございます。