9-記録に眠る影の名
――――勝利の余韻に包まれた、王都の夜。
グランディール侯爵邸の書斎では、セインがひとり、古い文献の山に囲まれていた。
クリーメルとの決着はついた。
だが、セインの目は晴れなかった。
「……早すぎる。動きが、妙に整いすぎていた」
レイラが受け取った告発状。
裁定院の動き。
王太子の急速な崩壊。
どれも、段取りとしてはうまくいきすぎていた。
まるで誰かが、裏でそれを後押ししたかのように。
彼は書棚の奥から、ひとつの封印された文書箱を取り出した。
かつて自らの一族──旧王家エルファン家が粛清された記録を収めたもの。
そこには、誰の目にも触れさせてはならない「処刑記録」が眠っている。
だが、その最下段に──
『特別追放記録:コード名“エイビス”』
その一行があった。
「……お前の名が、まだ記録に残っていたか」
エイビス。
かつてセインの祖父と並んで旧王家を支えていた影の参謀。
彼は王家の粛清時、セインの祖父とは対照的に裏切り、現王家に膝を屈して生き延びた。
だが同時に、セインの母を密告で死に追いやった張本人でもある。
──そして今も、王宮内に生きている。
偽名と仮面を使い、記録の裏側に潜む者。
「王政を倒すために、記録を守ってきたつもりが……記録の中にまた、奴の爪が残っていたとは」
セインは記録箱を閉じ、立ち上がる。
彼はこのとき、はじめてレイラに真の意味で並び立つ覚悟を決めた。
(これは、もう私ひとりの記録ではない。
彼女の戦いも、ここから歴史になる)
そのころ、王都の地下、秘密の会議室。
一人の老いた男が、薄笑いを浮かべながら書簡を燃やしていた。
銀縁の仮面。背を曲げたその姿。
だがその目は、若き日の知略をいまだ宿していた。
「グランディール令嬢、そしてセイン。……まだ動かすには早すぎたか」
エイビスは灰を手のひらで揉み潰す。
「だが、真実を掘れば掘るほど、貴様らの足元は崩れていく。
記録はな、使い方ひとつで毒にもなるのだよ」
影がまた、動き出した。
エイビスは燃え尽きた書簡の灰を、銀皿に落としながら、部屋の奥へと歩を進める。
その背中には、貴族でも王族でもない、記録を操る者の孤独な威圧があった。
扉の先は、厚い鉄扉で守られた別室。
開かれたそこには、膨大な量の写本と、巻物と、そして──偽造された過去が静かに並んでいた。
「……すでに数十年分の記録は書き換えが済んでいる。
この国の歴史の大半は、我らが選んだ言葉で構成されている」
呟きながら、エイビスは一冊の黒革の帳面を取り出した。
その表紙には、魔封金の文様。
記録の改竄を可能にする特殊写本、名を──
《黒写本》
「レイラ=グランディール……彼女の血統も、行動も、すでに一部正史から削除され始めている。
やがて、王家の記録にも存在しない女になる」
部屋の奥、古代文字で封印された一角に、黒衣の者が一人、跪いていた。
「命を……」
「必要な時が来れば、レイラの生まれ故郷ごと消し去れ。
すべては記録に存在しない者を作るための準備だ。
正義の女神など、存在しない世界を──再構築する」
「畏まりました、主」
エイビスは仮面を指先でなぞった。
「セイン……。お前の目が、まだ本物かどうか、確かめてやろう」
そして彼の背後の壁に──ひとつの肖像画が飾られていた。
旧王家の玉座に座る、一人の少年。
それはセインの母とされる人物と、その腕に抱かれた赤子の姿だった。
「我が記録が真実であった頃、私は未来に忠誠を誓った……
だが今は違う。忘れさせることこそが、最も美しい正義だ」
仮面の男は、蝋燭の炎にその横顔を照らされながら、誰にも届かぬ声で笑った。