6-療養令嬢と黒き使者
――――灰色の雲が垂れ込める、王都郊外の古い療養院。
静まり返った石造りの建物の奥、分厚いカーテンで閉ざされた一室に、クリーメルは横たわっていた。
かつては社交界の華。第一王子の傍らで微笑み、貴族の間で「天使のような令嬢」とまで呼ばれた女。
だが今は──
「虚偽の告発による婚約破棄事件の共犯」として、事実上の幽閉状態。
部屋の扉には番兵が立ち、外との接触は一切禁じられていた。
だが。
「──遅かったわね」
その声が響いたのは、深夜。
クリーメルのもとに、黒き使者が現れたのは、満月を雲が覆い隠した静かな時間だった。
カーテンの隙間からするりと忍び込んできた男。
黒い外套、フードで顔を覆い、足音すら響かせないその男は、膝を折って恭しく一礼した。
「クリーメル様。ご機嫌、麗しゅう」
「挨拶などいらない。……例の準備は?」
「整っております。グランディール家の動向、王都裁定院の監察情報、魔眼に関する基礎解析──すべて、予定通りです」
クリーメルは微笑んだ。かつての愛らしい笑みではない。
そこには、失った地位と誇りを取り戻す女の、確かな執念があった。
「レイラ=グランディール。あの女が、わたくしを泥の中に突き落としたのよ」
「承知しております」
「なのに……社交界ではあの女を持ち上げる声が日々増えている。
自らの才覚で誤解を跳ね返した新時代の令嬢ですって?」
嘲るように吐き捨てる。
「──ならば、才覚の証など潰してしまえばいい。
あの女が神輿にされている理由を、一つひとつ壊してやる」
「そのためには、やはり……」
「ええ。舞台が要るわ。派手な舞台でなければ、人は真実を疑わない」
クリーメルはベッドサイドに置かれた、銀のブローチを指で撫でた。
第一王子から贈られたもの──今では王家への皮肉の象徴。
「選定式がふさわしいわね。
次代の貴族たちが新たな立場を与えられるその舞台で、わたくしが被害者として戻れば、
レイラはまた悪役に見えるわ」
黒き使者は頷いた。
「療養記録の終了命令を得るために、王太子殿下への接触が必要です。可能でしょうか?」
「問題ありませんわ。殿下は、まだわたくしに罪悪感を抱いていますもの」
「……して、クリーメル様。貴女が彼女に抱く怒りはただの嫉妬ですか?それとも──」
「違うわ。レイラは、あの場でわたくしよりも賢く、強かった。
それが、許せなかった。
わたくしは選ばれた側の人間でありながら……捨てられたのよ」
その声は怒りと共に、わずかな哀しみを含んでいた。
「──だから奪うの。すべて。彼女の才覚を、信頼を、居場所を。
わたくしがそうされたように、すべてを壊してやる」
使者は黙ってうなずき、黒い懐から小さな小瓶を取り出した。
「では、再登場の準備を。服従と憐憫を引き出すには……ほんの少しの薬と、涙があれば十分です」
クリーメルは静かに頷き、手鏡を取り上げて自分の目を見つめた。
「仮面の裏のわたくしが何者でも関係ない。必要なのは、人々にどう見えるか
──ただ、それだけですわ」