5-沈黙の紋章と、封じられた血
――――秋の風が、グランディール侯爵邸の中庭を吹き抜けた。
紅葉の葉が舞う庭園で、レイラは手にした一枚の書簡を見つめていた。
古い羊皮紙。端がかすかに焦げ、封蝋はすでに割られている。
それは、王都のとある古書店から匿名で届いたものだった。
中身は、ごく短い言葉だけだった。
『王位簒奪の夜、処刑を逃れた一人の赤子がいた』
『その者の名に、エルファン家の意志は今も宿る』
──エルファン家。
百年前に滅びた、王家の前の名。
それは貴族たちの間でも禁句に近く、記録の多くは焚書に遭っている。
レイラが魔眼を使っても、王城の書庫にはほとんど何も残っていなかった。
(なぜ、今になって……?)
レイラはふと、最近よく現れる黒衣の青年を思い出した。
セイン。
あの知識。あの観察眼。あの、時折見せる異常なほど王政に冷たい目。
(──まさか、彼が……?)
考えすぎだと頭ではわかっていた。
けれど、心のどこかで釘を打たれるような違和感が残っていた。
ちょうどそのときだった。
庭園の石畳を踏む音が近づき、セイン本人が現れた。
「また、独りで難しい顔をしていますね、レイラ嬢」
「あなたこそ、いつも絶妙なタイミングで現れますわね。まるで……」
レイラはわずかに笑みを浮かべ、書簡を背中に隠した。
「……わたくしを観察しているかのように」
「失礼。私としては、ただ気になっているだけです。あなたがどこまで、あの王座の深さを覗けるか」
「その深さを、あなたはどこまでご存じで?」
問いかけると、セインは一瞬だけ言葉を失った。
だが次に返ってきたのは、いつもの冷静な声。
「私はただの学者です。ただ、先代の歴史には……人より少し詳しいだけ」
「少しにしては、あまりにも記録の断片を持ちすぎていらっしゃる。
そして、あなたは王家にまつわる話題になると、必ずほんの僅かだけ間が空く。
まるで……怒りか痛みを飲み込むような沈黙が」
レイラの瞳が、セインの瞳をまっすぐに捉える。
魔眼ではなく、ただの人間としての直感で。
「……あなたの本当の姓は?」
風が吹いた。セインの前髪が揺れ、沈黙が落ちる。
だが、彼は答えなかった。
ただ、わずかに唇を引き結んだまま、視線を逸らさずに言った。
「……それを知って、どうする?」
「決めかねています」
レイラは隠していた書簡を取り出し、セインの前に差し出した。
「けれど、これが貴方自身の記録なら──わたくしは、ただ傍観者ではいられません」
セインはそれを見て、驚くこともなく、静かに受け取った。
「……なるほど。やはり、あなたには隠しきれないか」
そして彼は、ついに一歩、己の殻を破った。
「エルファン。それが私の消された姓です」
「……!」
「私は王族ではありません。王になるつもりも、復讐者を名乗る気もない。
ただ……歴史を焼き捨て、上に乗ってあぐらをかく者たちに、終わりを告げたいだけです」
それは、告白ではなく、誓いだった。
王にすがらず、王にならず、正義をただ記し続ける者。
レイラは黙ってセインの目を見て、ほんのわずかに笑った。
「なら、よろしいですわ」
「……え?」
「わたくしも復讐には興味がございませんの。
けれど記録を書き換えることには、大いに興味がございます」
そして彼女は、少しだけセインに歩み寄った。
「あなたの名前が王の血から来ていようと、魔眼で見えるのは嘘だけです。
今のあなたが本当のあなたであるなら、わたくしはその隣に立ちます」
風が止まり、時間が一瞬だけ凪いだ。
セインは、静かに目を閉じた。
そして──
「……ありがとう」
その一言だけを、穏やかに返した。