3-謎の青年セインと奇妙な取引
王都エルグレアは、今日も穏やかな陽光に包まれていた。
だが、グランディール侯爵邸の応接間では、その空気とは裏腹に、重苦しい沈黙が流れていた。
「──殿下との婚約破棄は正式に撤回されましたが……これから、貴女に対する監視はしばらく続くでしょう」
そう告げたのは、王城から遣わされた特使だった。
「疑いが晴れたとはいえ、貴女の魔眼という特異能力が王族にとっても未知の存在であることには変わりありませんから」
「……ふふ、光栄ですわね。自国の王子に冤罪をかけられた上に、今度は警戒対象……と」
レイラは、紅茶に口をつけながら、皮肉気に微笑んだ。
けれど内心は、むしろ面白くなってきたという感情が勝っていた。
まぁ、ゲームの中だから当たり前なのだろう。
──この国、腐っている。
だからこそ、変えられる余地がある。
レイラは静かにカップを置くと、ふと窓の外に目をやった。
そして、彼女は見つける。
庭園の柵の影、木陰の中に、ひとりの青年が立っているのを。
黒いローブに銀の縁飾り。すらりとした体躯に、長めの前髪が影を落とす。
そしてその瞳──
こちらの視線を感じているとしか思えない鋭い青が、まっすぐにレイラを射抜いていた。
こんな青年、ゲームには出てきていない。
「……あの方は?」
「さあ。使用人ではないはずですが……?」
不審に思ったレイラが玄関に回ると、その青年はまるで先回りしていたかのように、屋敷の門の前に立っていた。
「お初にお目にかかります。レイラ=グランディール嬢。あなたに興味があって来ました」
青年は恭しく頭を下げた。その所作は洗練されていて、貴族とは思えぬ質素さと、侍従とは思えぬ気品がある。
「……名乗りもせずに興味があるとは、随分と無礼ですわね?」
「失礼。私はセイン。ただの旅の学者です」
「旅の……?」
「ですが、王宮の腐敗と、貴族社会の歪みを分析するのが、今の研究対象です。そして──貴女のことも、少々」
レイラは目を細めた。何者か知らぬ男が、これほど正面から言ってのけるとは。
「……それで、その研究とやらに、わたくしがどう関係するのかしら?」
セインは微笑んだ。
まるで、彼女がどこまで深くまで物事を読めるか、試しているような目だった。
「あなたには見抜く目がある。そして私は、隠す必要のある知識を持っている」
「取引、ですの?」
「その通り。あなたはこの先、何度も歪んだ真実に立ち向かうことになるでしょう。味方は多くありません。ですが、私と手を組めば──」
彼は懐から一枚の写本を取り出す。そこには、レイラの冤罪事件が起きる前に書かれていた、断罪予定者リストが記されていた。
「……これが、答えです。あなたは偶然選ばれたのではなく、誰かの意図によって狙われたのです」
レイラの指先が、ピクリと動く。
その瞬間──彼女の中で、今の時代そのものを敵とする覚悟が、静かに芽吹いた。
「……ふふ。面白い方ですわね、セイン様」
「光栄です、レイラ嬢」
レイラは写本に目を通しながら、目を伏せたまま言葉を継いだ。
「……断罪予定者リストですって? こんなものが本当に存在するとは。まるで、この国全体が芝居小屋ですわね」
「実際そうです。立場や発言力を削ぎ落としたい者には、芝居の舞台を用意して自ら落ちたように見せかける。よくできた構図です」
セインは、風に揺れる黒いローブの裾を軽く押さえながら微笑んだ。
「あなたが舞台の上で役を拒否したのは、誤算だったのでしょうね。だからこそ、あなたに興味がある」
「好奇心は、時に命取りになりますわ。セイン様。わたくし、次に罪をでっち上げられたときは、おそらく処刑でしょうし」
「処刑される前に、手を打てばいい。あなたには、切れる頭と、他者を見抜く目がある。あとは信じられる味方がいれば、敵ではなくなる」
「つまり……あなたは信じられる味方を名乗ると?」
「いいえ。信じるかどうかは、あなたが決める。私はただ、選択肢を増やしに来ただけです」
その言葉に、レイラの唇がわずかに動いた。
「……あなた、口がうまいですわね。まるで詐欺師か、悪魔みたい」
「光栄です」
即答されて、レイラは思わず小さく笑った。
「──なるほど。どうやら、あなたは貴族ではないけれど、ただの庶民でもない」
「ええ。名も家柄も今の私には必要ない。ただ、未来が見たいのです。王族でも貴族でもなく、本当に賢い者たちがこの国を導く世界を」
レイラは写本を閉じ、ゆっくりと胸元に抱えた。
「セイン様。ひとつ、確かめてもよろしいかしら?」
「どうぞ」
「あなたは、わたくしが国を変えるほどの力を持てると思っている?」
一拍の沈黙の後──セインは微笑んだまま、まっすぐに彼女を見て言った。
「いいえ。今のあなたにはその力はない」
「……」
「でも、得ようとする意思がある。だから私は、見届けたい。あなたがどこまで辿り着くのかを」
それは、レイラが最も欲しかった言葉だった。
称賛でも、服従でもない。過小評価でも、憐憫でもない。
ただまっすぐに、可能性を信じてくれる目。
──信頼ではない。でも、敵ではない。
「……取引は、保留ですわ。けれど、次に会ったとき、わたくしのほうから条件を出して差し上げます」
「楽しみにしています、レイラ嬢」
セインは軽く頭を下げ、踵を返した。その背中が門をくぐり、石畳の通りに溶けていくまで、レイラはその姿を目で追い続けた。
──味方と敵の間にのみある、名前のない距離。
それを歩む者たちだけが、世界の裏側にたどり着けるのだと、どこかで知っていた。