10-黒写本の夜会
――――王都の深夜、グランディール邸の密室。
扉には防音と封印結界が張られ、蝋燭の炎だけが部屋の輪郭を照らしていた。
レイラは机に広げられた一枚の書状を見下ろし、目を細めていた。
「……これ、わたくしの戸籍記録ですわよね?」
「正確には、王都中央登記院に保管されている写しの写し。信頼筋から入手しました」
セインが指先で示すのは、出生欄の右下──
母:エルザ=グランディール(死亡)
父:不明
生年:王暦XXX年……《抹消線処理済》
「……おかしいですわ。わたくし、父の名を記載していたはず。亡き父の名前は「ルディ」──」
「そう。だが、今の記録では記載そのものがなかったことにされている」
「つまり……私という人間の根が、ゆっくりと消されていってる……?」
レイラの声に、微かに震えが宿る。
セインは頷いた。
「これは、情報改ざんの常套手段。実在しながら、存在しなかったことにする。
そしてこの記録改変は、通常の王政機構では到底不可能な領域に踏み込んでいる。
間違いなく──エイビスの仕業だ」
レイラは拳を握った。
名誉でも、地位でもない。
存在を消されるということは、世界そのものから拒絶されることに等しい。
「やられる前に、やり返すだけですわ。
記録が消される前に、わたくし自身が歴史を刻めばいい」
「そのために、ひとつ提案があります」
セインが静かに広げた地図の中央には──
王都南地区・第三層「旧史料保管庫」
通称《夜会の間》
「ここは、王家直属の写本管理部門。
通常の貴族は立ち入れず、公式記録の原文が保管されている。
そして、黒写本も、ここにあるはずです」
「……夜の王宮の下に、そんな場所が……」
「誰も気づきません。表の宮廷から遠く離れ、記録という名の影だけが眠っている」
レイラは一瞬だけ黙し──そして、口元に静かに笑みを浮かべた。
「わたくし、初めてですわ。自分が何者かを取り返すために、盗みに入るなんて」
「盗むのではありません。奪われたものを、取り戻すだけです」
セインが差し出したのは、古い鍵。
「これを渡した人物は、かつて王家の記録係だった老人です。
処刑を免れる代わりに、沈黙を選びました。
だが、今だけは言った。本当の歴史を取り戻してくれと」
レイラはそれを受け取り、そっとドレスの内ポケットへ忍ばせた。
「……夜の仮面舞踏会ですわね。わたくしとあなたの、ふたりきりの」
「その仮面の下で、嘘を暴きましょう」
月が雲間から顔を覗かせた。
そしてその夜、ふたりの影は王都南部へと向かう。
存在を奪う記録に挑むための、たったふたりの記録奪還作戦が始まる──




