第3話 「幻想に潜む試練」
門に足を踏み入れた瞬間、世界が揺れたような気がした。
地面が沈み込むような錯覚。いや、違う。次の瞬間には、足元の感触すら曖昧になる。
筆記試験が最初のはずなのに、目の前に広がるのは教室ではなかった。
いきなり実技か?それとも、試験の段取りが変わった?
だが、そんな理屈が通用する状況ではなかった。
重く閉ざされた空気。辺りを包むのは深い霧と、無音の空間。まるで、世界から音が失われたかのようだった。
「……ここは、どこだ?」
自然と口から漏れる独り言。誰も答えない。
気づけば、さっきまで隣にいたリィナの姿もない。
列を成して入場したはずの他の生徒たちも、どこにもいなかった。
一人きりで、訳のわからない空間に放り出された。
ただの試験なはずがない。これは──
(……試されてる?)
脳裏をよぎった直感に、思考が加速する。
今、俺の視界には、穏やかな森が広がっている。
小鳥のさえずり、木漏れ日、そよ風、草花の香り。
あまりに整いすぎた“自然”に違和感があった。
「これは……魔術か?」
作り込まれた理想郷。だが、作為の匂いがする。
視界の端で、光が揺れる。手を伸ばせば届きそうな距離に── 透明な羽を持つ、小さな妖精のようなものが、ふわりと舞っていた。
幻想。これは、間違いなく幻想だ。
見た目には完璧に思えるこの空間も、“現実”の手応えに欠けている。どこか空疎で、触れれば崩れそうな儚さを纏っていた。
ふと、頭の奥がずきんと痛む。
……何かが、胸の奥でざわついた。
“違う”と、内なる何かが警鐘を鳴らしている。
「これは試験だ。……なら、目的があるはずだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
ここは幻想の空間。ならば、試験として設けられた『目的』がある。
だが、目の前にあるのは、平穏そのものだ。
敵も、罠も、仕掛けもない。ただの心地よい自然。
これは、何を試しているのか──
(……逆に、この平穏が“罠”か?)
戦闘や知識を試すのではなく、“精神”を試す試験。
現実逃避の甘美な夢。ここで何もせず、ただ安息に身を任せれば、永遠に現実へ戻れない。
──この試験の正体は“幻想”による精神干渉。
「面倒な仕掛けだな……」
だが、確信が持てた。
この空間は俺にとって、戦闘以上に厄介な“敵”だ。
心を癒やす自然、優しさに満ちた空間、
そして──
「……レオン?」
聞き覚えのある声が、背後から届いた。
振り返ると、そこには確かにいた。
リィナ・シュトラーデ。
上品な身のこなし、長い金糸の髪、翡翠の瞳。
いつもの、見慣れた彼女の姿。
だが──
「どうして……ここに?」
俺は問う。
彼女がここにいるはずがない。最初から、いなかったのだから。
「何言ってるの?レオン。ずっと、ここにいたじゃない」
笑顔。懐かしい表情。
だが、その声が、どこか平坦で、感情が希薄だった。
(これは……“リィナじゃない”)
偽りだ。作られた存在。
この空間に仕掛けられた“試練”の一環。
俺の記憶をトレースして、理想の存在を具現化した──幻影。
彼女は、微笑みながら手を差し伸べてくる。
「ここにいて、レオン。もう、戦わなくていいの。疲れたでしょう?」
甘い誘惑。
弱さに縋れば、どれだけ楽になるか知っている。
この世界は優しい。誰も否定しない。誰も戦わない。
けれど、それは“偽物”だ。
「悪いけど──俺は、まだ進むって決めたんだ」
彼女の手を振り払い、一歩、後ろに下がる。
その瞬間、世界が軋んだ。
空がひび割れ、地が崩れ、木々が黒い煙となって空へ昇っていく。
「レオン……どうして……?」
声が揺らぐ。表情が崩れる。
そして、彼女の姿もまた、砂のように風にさらわれ、掻き消えた。
──幻想は、終わった。
霧が晴れ、真の“試験空間”が露になる。
その中心に、淡く光る魔方陣が浮かび、俺を包み込んでいく。
足元の重力が反転したかのように、身体が宙へ浮き──
次の瞬間、視界が暗転した。
(これで……第一試験は突破、ってことでいいのか?)
誰にともなく問いながら、意識が遠のいていった。
──だが、この時まだ、俺は知らない。
この“幻想”の試練が、ただの序章に過ぎなかったことを──
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(……暗い)
視界が完全に閉ざされ、音も、匂いも、風すら感じない。まるで、世界そのものが消えてしまったかのような虚無。
(いや……違う、これは──)
再び、地が存在を主張するように、ゆっくりと感覚が戻ってきた。柔らかな土の感触と、鼻をかすめる草の匂い。耳には、かすかに葉擦れの音と、小鳥のさえずり。
(戻ってきた……?)
目を開くと、そこは学園敷地内の中央庭園──**通称『試験の円環』**と呼ばれる場所だった。空は澄み、陽光が煌めき、魔力を帯びた風がゆるやかに吹いている。まるで試練の厳しさなど、最初から存在しなかったかのように。
「……終了時刻、確認。個別試験空間より帰還を確認。参加者ナンバー309、レオン・アルヴァレスト──第一試練、通過と認定」
冷ややかな女性の声が響いた。
視線を向ければ、そこには試験監督を務める魔法官が数名、魔導板に視線を落としながらこちらの様子を淡々と記録している。
(……やっぱり、俺だけじゃない。これ、何人も体験してるんだな)
あの幻想。あの幻影。心の奥底に潜む“甘え”や“執着”を形にして、進む者を試す。あれが、魔法適正の第一関門──精神耐性と意思強度を計る“幻影審査”。
不意に、視界の端で人影が動いた。誰かが、俺より一足早く試練を終えていたらしい。淡い光の中、見覚えのあるシルエットが立ち上がる。
(あれは……リィナ!)
黒曜石のような漆黒の髪に、端整な顔立ち。今は凛とした表情を浮かべ、静かに深呼吸している。
(……リィナも、何かと向き合ったのか?)
あの試練は、それぞれの“心”に根ざすものを対象にしてくる。誰もが同じ幻を見るわけじゃない。だからこそ──
彼女もまた、自分だけの“何か”を乗り越えたのだろう。
「レオン!」
彼女が俺に気づき、駆け寄ってくる。
「無事だったのね……よかった、本当に」
「まあな。ちょっと、変な夢を見せられたけど……俺は、俺だよ」
微笑み返すと、彼女もどこか安心したように頷いた。
その時──
「ふむ、ふむ。君たち、興味深いな。とても、実に!」
突然、割り込んできた声に振り向くと、そこには一人の男がいた。
灰色のローブに身を包み、眼鏡の奥の目が爛々と輝いている。見覚えがある──魔法学園教官、ガレウス准教授だ。主に魔術理論と応用魔法を担当する、変人で有名な人物。
「まったく、君たちみたいな素材が入ってくるとは……やはり、今年は当たり年だな!」
「えっと……俺たち、何かしました?」
「ふむ? いやいや、ちょっとした観察だよ。君たちの“魔力構造”が普通じゃないのは、見てすぐ分かる。……特に、君だ」
彼の視線が、真っすぐ俺に向けられる。どこか見透かすような、底知れぬまなざし。
「“進化”しようとしている。だが君自身は、それに気づいていない……か」
(進化……?)
何の話だ? 俺は特別な力なんて、何も──
いや、違う。昔からあったんだ。理由もわからず、魔術の初歩を覚える前から、火の玉を浮かせられたことがあった。
(……あれは、偶然じゃなかった?)
「まあ、気にするな。いずれ君も自覚するだろう。良くも悪くも、特別なんだよ、レオン・アルヴァレスト君」
ガレウス准教授はニヤリと笑うと、踵を返して去っていった。
「……今の、どういう意味だったのかな」
「さあ。でも、特別って言われると……ちょっとプレッシャーかもね」
リィナはそう言って微笑んだが、彼女の横顔には、どこか不安の色も浮かんでいた。
(“進化”? “特別”?)
その意味は、まだ分からない。
けれど──何かが動き始めている。それだけは、はっきりと感じられた。
──こうして、第一の試練は終わり、第二試験──“筆記試験”の幕が、静かに上がろうとしていた。