片桐優香1 昨日
気が付くと15時を過ぎていた。どうやら4時間近く座り込んでいたようだ。目の周りを拭う。ここ最近は泣いてばかりだ。鏡で見ると目の周りが腫れている。もし何か聞かれた時は花粉で誤魔化せるだろうか。
手首がジンジンと痛む。殴られたことはあっても殴ったことはない。殴り方なんて知らない。手を痛めたのだろう。仕事に響くだろうか?我慢出来ない痛みではないから大丈夫だろう。
もし、寝る時も痛いようであれば、湿布を貼り、痛み止めでも飲もう。
詩織さんは大丈夫だろうか。腫れなければいいけれど。昼はとっくに過ぎているのに空腹は感じない。昨日の夜も食欲が無く、夕食は軽く済ませた。
朝もインスタントスープを飲んだだけだから胃には殆ど何も入っていないはずだけど何も食べる気がしない。
けれど、明日は仕事だ。休む訳にも仕事場で倒れる訳にもいかない。
目についた食パンにジャムを塗りトーストで焼く。いい匂いのはずなのに今日は良く分からない。ゆっくりと口に押し込みながら無理矢理食べる。
咀嚼する気力はないし、何かが喉を通っていく感触も今は不快だ。ろくにかまずに呑み込んでしまう。昨日の事、そして午前中の出来事が頭の中でグルグルと回っている。
麗華は私ではなくて詩織さんを選んだ。これまでの事を考えれば当然だ。私だってわかっている。わかっているけれど、わかっていたつもりだったけれど心が痛む。
麗華は死んだ事は自分がすべて悪いと言っていた。麗華がそういうのであればその通りなのだろう。
麗華は詩織さんには何もするなと言っていた。その約束を守ろうとした。けれど、怒りを抑える事が出来なかった。詩織さんは出来る限り誠実に話していてくれたと思う。
勿論、一人で全てしたとは思えない。紗月さんが一緒に来ていたし、紗月さんは麗華を見えているようだから関わっているのだろう。
死体の処理には裏社会の何かが関わっているのだと思う。私の血筋も元々裏に関わっていたらしいからそういう世界があることは知っている。私自身幽霊が見えるので、人ならざるものがいる事も知っている。
詩織さんか紗月さんどちらが裏社会と繋がりがあるのかはわからない。けれど、詩織さんがこの話をする事で不利益があることも推測できる。
それでも、話をしに来てくれた。その事は感謝するべきなのかもしれない。頭では分かっているけれど、感情が追い付かない。
麗華が昨日訪ねてきた時心から驚いた。嬉しかった。本当にもう一度会いに来てくれるとは思っていなかった。言う事は全て聞こうと思った。
「会いに来てくれたの?」
「いやまあ、用事があって…。やっぱり見えていたんだ」
「そう。見えていたわ」
「生まれつきなの?」
「そう」
「話してくれた事なかったよね?」
「誰にも言った事ない。母さんは、見えないことがコンプレックスで家を飛び出たらしいから。子どもの頃、一度幽霊を見ていたら、まさか見えているのって詰め寄られた。それからずっと隠していた。人が見えない物を見えていて良かった事なんてなかったし。これが初めて良かった事」
「あっそう。まあいいや。来た用事を済ませるわ」
もっと色んな話をしたいけれど、麗華はそうではないようだ。今は合わせよう。
「用事って何?」
「明日、紗月と詩織が訪ねてくる。詩織とはあった事ないはずだけど、知っていたよね?」
「わかるから大丈夫だよ。修学旅行で一緒に写っていた子でしょ?たまに話も聞いていたし」
本当はもう少し詳しく知っている。私よりもずっと大切な人だってことも。
「そう。それで明日話をしに来るけれど、何を聞いても信じないふりをして。それから、何も行動を起こさないで」
「何の話?」
「知る必要ある?」
「知らなければどんな反応をするか分からないよ。変な反応して大丈夫なの?」
「…私を殺したって告白をしに来る」
「それは本当なの?」
「そう。でも私が死んだのは全部私が悪いの!詩織は何も悪くない!だから信じないふりをして」
「詩織さんがあなたを殺したのね」
「私のせいだから詩織は悪くない!」
麗華がここまで感情を荒げる事は珍しい。詩織さん絡みだからだろう。きっと私の為にここまで感情的になる事はない。
「わかった、わかったから。落ち着いて。でも何でその話をしに来るの?あなたは行方不明扱いだから誰にもばれていないのでしょ?」
「あなたの為。詩織には姿を見せていないし、幽霊もいるとは思っていない。だから、あなたが一生私の帰りを待ち続けると思っている」
「なるほどね」
「言っておくけど、これは詩織の優しさだからね。許しを求めて自分の罪の意識を軽くしようとしている訳じゃない」
「そう。紗月さんも来るのよね?なんで?」
「そう。紗月は私の件に関わっているというかいないというか難しい立場なんだけど、事情は知っている。私が話している。付き添い」
「麗華、紗月さんには姿を見せているのよね?」
「うん。まあ、あの子も霊感あるみたいで私の事見えたみたいなんだよね」
「そう。本当に?」
「疑っているの?」
「そう言う訳じゃないけど、今まで見える人おばあちゃん以外あった事ないから少し話して見たいかなって」
正直疑っている。幽霊に成った麗華に協力するなんて普通じゃありえない。絶対に何かあるはずだ。共犯ではないか。そう思う。
「何もないから」
「いやでも」
「ない!何も!」
この様子ではこれ以上聞いても何も答えないだろう。麗華は頑固だから一度話さないと決めたら絶対に話さない。元の話を進めた方がよさそうだ。
けれど、麗華が訪ねて来てくれてお願いまでしている。麗華の頼みだから勿論聞くつもりだけれど、このチャンスで一つだけ聞いて欲しい願い事がある。駄目で元々だ。やるだけやってみよう。
「兎に角その話を聞いても本気にしなければいいのね」
「そう。その通り」
「条件出してもいい?」
「は?条件」
「そう。言う通りにする代わりにお願い聞いて欲しい」
「何?」
明らかに嫌そうな顔をしているけれどここで引くわけには行かない。
「たまにでいいから会いに来て欲しい。顔を見せるだけでもいいから」
正直断られると思う。麗華は私の顔など見たくないはずだ。
「え?それが頼み?」
「そうだよ」
「まあいいけど」
「本当にいいの」
あっさりといいと言われ驚く。
「まあそのくらいならいいよ。どのくらいで帰るかはわかんないけど」
帰る。まだこの家を帰る場所だと認識してくれている。そう知って嬉しくなる。
「それは麗華が来たいと思った時だけでいいから」
「わかった。じゃあもう行くから」
もう帰るの?まだ話をしたい。そう伝えたい。けれど、伝えても答えてはくれないだろう。せめて少しでも気を引いて話をしたい。
「そうだ、私離婚したの」
「え?そうなの?なんで?あんだけ冷めきっていたのに全然そんな素振りなかったじゃん」
「あなたの行方不明がきっかけ。何も心配していなくて喧嘩になった」
「でしょうね。むしろ不良娘が居なくなって喜んでいたでしょ」
「…そんな事ないよ」
「嘘だね。まあ、離婚した方が良かったよ」
「そうね。ごめんね。もっと早く離婚した方が良かったよね」
「別にいいよ。…そうだカクテル・ミュージックってわかるよね。この前少し話したやつ」
「勿論、詳しくはないけどね。紗月さんが教えてくれたから」
あの後、私なりに調べアプリも入れてみた。麗華の作った曲を聞きたかったからだ。勿論、どれがそうなのかはわからなかった。正直声のない音だけの音楽がどうして流行っているのかよくわからなかった。
「私のアカウントあげる」
「え?」
「私それでそこそこ人気なんだよね。だから多少の広告収入入ってくるから。私の口座と繋がってる。好きに使っていいから。本当に少ししかないからね期待しないで。法律では違反だけれど、行方不明扱いだからいいでしょ」
「ありがとう」
違う。もっと伝えなきゃいけないことがあるのに。麗華はアカウントを伝えると今度こそ出て行こうとしている。何故私はいつも言わなきゃいけない事を言えない?
「じゃあね…。別に嫌いじゃなかったよお母さんの事」
そう言って麗華は出て行った。
もっと話をしたい。どんなことでもいい。責められても、どれほど恨みを言われてもいい。もっと声を聞いていたい。何故引き止めない?何故愛していると伝えない?もっと話したいと言えない?そう自分を責める。けれど、同時に引き留める権利は無いと思う自分もいる。
涙が出ている。嫌いじゃなかったそう言われた。その上お母さんと呼ばれた。そう呼ばれたのは何時振りだろう。それだけでもう全てが良くなった。
片桐優香の心情編です。これについては書くか悩みましたが、3人の物語には必要だと思いました。お付き合いいただければ幸いです。




