第7話【初めての惑星旅】
「何ですか? 急に」
ヘリオスは一歩後方へさがりながら尋ねた。
死体に置いてきたか、不都合な記憶を忘れていたヘリオス。それが舞い戻ってきた為、霧が彼の精神を覆ってしまっているのだろう。
「この部屋で何者かに襲われたと聞いてね。だからここに居ては中々安心できないだろう。だから経験も兼ねて少し外の世界を歩くといい。護衛もつけた方がいいな」
その一言と共に、アフィンの仮面のような笑顔が崩れた。そして、そのまま何も言わず彼は倉庫へと入っていってしまった。
ヘリオスは彼の言葉が届いていないかの如く、さっきまでアフィンのいた空間を眺めている。寧ろ、目の前の空気を見ていると言った方が正しいであろう。
彼は突然蘇った過去について考えていた。なぜ急に戻ったのか。いや、彼にとってはなぜ今まで忘れることが出来ていたのかが不思議だった。
掻き出しても掻き出しても湧き出てくる汚泥のような記憶。胸の中央が窪んでいく、下腹部に杭が刺さってくる。ヘリオスは痛覚は無いが、反射からか両腕で腹を覆った。そのまま前屈みになり、瓦礫で足を滑らせ転んだ。
暗然。
ヘリオスはもう動くことは出来ないだろう。彼の精神は溢れ出る汚泥に溺れてしまったのだ。このままでは役割に支障をきたしてしまう。
「え?」
驚愕。
気がつけば、彼の顔をアズマが覗き込んでいる。冷たく青い瞳孔、決して下がることの無い目尻。抑圧するような眼でヘリオスの瞳を見つめている。
中身が黒く汚染したヘリオスは、この束縛から解放されることを彼女に望んでいる。だが臆したか、それを決して口に出すことはなく、かと言って目は決して離さず訴えている。
だが、アズマが発したのは無慈悲な一言だった。
「拍子抜けだな」
動揺。
その追い打ちにより、ヘリオスは目を激しく泳がせている。再起不能に近しい状態、機械仕掛けの神と名乗るからにはそれを解決してくれると信じたのだろう。
「試験を突破したのであれば、せいぜい軽い思い出程度に片付けていると考えていたんだが。まぁいい、序盤も序盤で君に脱落されては私としても困る。記憶に霧をかけるぐらいはしてやろう」
アズマはヘリオスの額に手をかざした。すると彼の背後に、頭程度の大きさをした歯車を基礎に回転する歯車装置が出現した。その様は
歯車の上にさらに小さな歯車が複数個と噛み合いながら載り、その上にさらに小さな歯車が、とフラクタルのように組み合わさっている。
「過去を腐敗させるな」
その一言と共に一部の歯車の速度が遅くなっていく。凍えたように蹲っていたヘリオスは、その歯車の減速と並行して眠るような穏やかさへと変化した。
「――スさん? ヘリオスさん? なぜ寝れてるんですか?」
スノウの声によって、ヘリオスは目を覚ました。血液が原因となる失神、生命現象である就寝、それらとは無縁であるにも拘わらず彼は意識を失っていた。それどころか自身が何をしていたのかさえも忘れている。
「え? 確かカロリックさんを引き摺ってて…… ごめん、思い出そうとしたら道に迷うような感覚がするから説明できないかも」
スノウは何も理解していないような雑な返事をしてその話題を流した。彼女には本題があったからである。
「それよりゼセルさんからクリースを案内してやって欲しいと頼まれたんですよ」
ヘリオスは意識が完全に回復していないのか、彼女の言葉を聞き返した。
「クリース、僕の故郷です。最近に契約した星ですので、文化も薄れず残っているからこの世界を勉強するのに丁度いいだろうってゼセルさんが。テンション上がってきた」
スノウは腕を小刻みに振りながら、上擦った声でもう一度説明した。
「でも俺まだ通信機の使い方分からないんだけど」
スノウは遂に足踏みまでし始めている。その気になればヘリオスも置いていく気なのだろう。
「そんなの僕がいるからいいんですよ。さぁ行きましょう。クリースは危険すぎて案内できる人が恒護ぐらいしかいないんですよね。それもクリースが契約したすぐに全い――ほぼ全員引き連れて行ったもので久しぶりなんですよね」
スノウはヘリオスの手を強く握り、話しかけながらずいずいと進んでいく。心の準備が出来ていないヘリオスはまるで彼女の腕を振りほどけない。それは走行する列車に繋がれたに等しかった。
書斎、環境調査室、トレーニングルームを通り過ぎ、廊下の最果てに到着した。経済管理室というあまりにも仰々しい名前の書かれた扉を、スノウは構いもせず開いた。
「えっちょっ」
幸い中に誰もいないようだ。スノウが何かのスイッチを押した瞬間目の前の空間が円状に歪み始める。
「一瞬しか開かないので急いで!」
スノウはヘリオスをその穴に投げ入れた。それに続いてスノウ自身もその穴に飛び込んだ。彼女の着地音が響き渡ると同時にその穴も消失した。
ヘリオスは宝石の如く磨かれた床へと沈み込むように横たわっている。スノウは彼を起こしながら言った。
「ここは天の川支部が運営する星間銀行『散光星雲』のクリース支店です。僕にはあまりよく分かりませんが」
複数のスイッチが立ち並ぶ小部屋は、先程の経済管理室と似ている。瞬間移動には特定の仕組みを採用しているからだろう。
二人が外へと出ると、スノウと似たような仮面を付けた職員が忙しなく働いている。向こうの機械を操作し、手前の棚に書類を仕分ける。奥の窓口で対応しては、急いで書類を取りに行く。
それらが織り成す音楽を浴びながら、彼女らは待合室に出た。昼白色に照らされた壁や床、それに希釈され拡散するように滲む赤色光。供給源は磨りガラスでできた扉のようだ。
二つに裂けたガラスは彼らを外の世界へと招待する。膜に通したように赤く染まり上がる背の低い建物。看板が一切なく、石が切り出されたように平坦な大通り。相変わらず仮面をつけて行き交う人々。そして何より目を引くのが、天上に存在する真っ赤な球体。
「あれはクリースの主星である恒星スノーです。こっちは上げ調子ですが、僕のは下げ調子なので注意してください」
呆然と口を開けながら天を見ているヘリオスに、スノウが説明した。言葉が出ないのか、ヘリオスは口を開けたままスノウを見つめる。それを相槌と受け取ったスノウは説明を続けた。
「そしてクリースは天の川銀河で唯一、赤色巨星を主星に持ちながら知的生命体の存在する惑星らしいです」
スノウは自身の胸を叩きながら誇らしげに語る。恐らく誰かの受け売りだろう。
赤色巨星は生命が生まれるには寿命が短い。太陽のような主系列星から派生しても、その過程でハビタブルゾーンは移動し、本来存在していた生命体も滅びてしまう。
そんな常識が今目の前で覆されたヘリオスは、滑稽にも口を開けるしかできなかった。
取り憑かれたように眺めていたヘリオスの胸に突然声が響き渡り、それによって彼は我に返った。
『ヘリオスさん、ヘリオスさん。クリースに到着しましたね。では、アイスクリーン通信技術の使用許可を権利会社に申請致しましたので、少々お待ちください』
「誰からですか?」
スノウは、唐突に現れたローゼンの声に驚いた彼を嘲笑うように質問した。
「……ローゼンさんだったよ。アイスクリーム通信技術とか何とか言ってたけどそれって?」
「アイスクリーン通信技術というのはクリース限定で使えるVRの携帯電話みたいな、イマイチ仕組み理解してないですけどなんかそんな感じです。使えるまで少し待ちましょうか」
そんな感じと理解したヘリオスは雑な返事をする。楽しもうにも楽しめない新品の画用紙のような風景を、ヘリオスは眺めていた。
「こんなものばっかりだな」
左を向けど右を向けど、上を向けど下を向けど、変わるのは雲と周辺を通過する人のみである。それに疲れたヘリオスは壁にもたれようと端によった。
手続きが長くなるのは仕方がない。こんなことで文句を垂れても惨めになるのみ。そう考えながらヘリオスは浮かぶ雲の形が何に似ているか考える遊びでもしようと上を向いた。
だがそのような事をしなくてもよくなったのだ。ヘリオスはもう一度右を向き、左を向いた。下も見た。そしてもう一度右を見た。今度は凝視だ。
顔は見えないが、確実にスノウは彼の反応を見て笑みを浮かべている。
そう、彼の視界には色とりどりの看板や装飾、恐らく有名人を起用したと思われる美容品の広告、流行っているであろう漫画のキャラクターを刻印したマンホールの蓋。かくれんぼが終結したかのように、突然賑やかになった景色にヘリオスは圧倒されていた。