第3話【煌めく闇を分かつ帯】
「あー、えっと、あのー」
カワチは動揺し、九割九分の語彙を失ってしまった。しかし白衣の男性はジッとカワチ見つめるのみ。口どころか瞼さえも動いていない。
「あっ、そうだ。私の前方不注意により、衝突してしまったこと、心より謝罪致します」
語彙を取り戻したカワチはおもむろに立ち上がり、手を床に対し垂直に下ろして、ほぼ完璧なお辞儀で謝罪した。しかし彼はビクともしない。
――もしかして言語が通じないのか?
「Ah……Sorry. It was my fault for not looking ahead」
なぜ英語なら通じると。勿論彼は動かない。
――マジかよ。もしかして俺は殺されるのか? え、ここで!?
カワチはそう思いながら頭を少し動かして彼の様子を見た。しかし、ヤスリにかけたように霞んだ青白い淡光を放つ髪や、それに似合わぬほどの光沢を持つ白衣は、その位置で決定されたように停止している。
「え、あ、土下座、いたしましょうか」
カワチは恐る恐る正座をし、両手を前についた。その時、
「え? あぁ、ごめん。考え事をしていた」
「……は?」
接続の悪い機械が突然動き出したように、男性はカワチと同じ高さにしゃがみ込んだ。
「もしかして君? 試練を突破した新人というのは。立って、少し案内をしてあげよう。さっきは君の今後とかについて考えてたんだ。いやー、ごめんねホント」
直角二等辺三角形に近しい体勢をしているカワチに、彼は手を差し伸べた。
「ん?」
カワチは先程とはまた別の違和感を覚えた。手を包む感覚がやけに広い。よく見ると、小指の辺りがやけに肥大化してるのが見受けられた。手袋越しとは言え、右手も左手も同様の形状をしていたのだ。好奇心が刺激されたカワチは、無意識に彼の手を観察していた。
「……そんなに気になるかい?」
いつの間にか無礼を働いているということに気がついたヘリオスは、反射的に身を震わせた。
「へっ!?、あっ、いや、申し訳ありません……」
「別に構わないよ、ここでは君の体も珍しいからね。どのくらい似ているのか実験してみたいぐらいだ」
白衣を着ているためか、ヘリオスにとってその言葉はあまり冗談に聞こえなかった。
「自己紹介がまだだったね。私の通名はアフィン。ここ、天の川支部の総長を務めている。よろしく、君は?」
アフィンは、仄かに不慣れさが混じる笑みを浮かべながら言った。
「あぁ、カワチ――じゃなくてヘリオスです。よろしくお願いします」
カワチは、唯一朧気に覚えていた"ヘリオス"を通名として選んだようだ。では、私も今後は彼のことをヘリオスと呼称しよう。
彼の名前を把握したアフィンは、どこからともなく現れた金属製の箱をヘリオスに差し出した。
「これは翻訳機。コンタクトレンズ型とイヤホン型とスピーカー型があるから全て着けてして欲しい。これはこうで――」
アフィンは箱を開け、一つ一つ説明しながら渡していく。ヘリオスは、言われた通りにそれぞれ目、耳、口に装着した。
「これって失くしたらどうなるんですか? スピーカー型とか特に小さいですし、今頬と歯茎の間に挟んでるんですけど今にも落ち――あ、取れた」
ヘリオスは、米粒ほどの翻訳機をまじまじと見つめている。
「まぁ、慣れかな。いざとなれば爆弾にもなるし」
とんでもないものを渡されたと、ヘリオスは絶句し立ち尽くした。
「あぁ、ごめん。冗談だよ。そこまで真に受けるとは思わなかった。そんな物、まきびしにすらならないよ」
ヘリオスはそれを聞いて胸を撫で下ろした。
軽い挨拶を済ませたところで、アフィンは一歩下がり廊下へと出る。
「ではヘリオス、立ち話は疲れるだろう。この基地の廊下は長いから、続きは歩きながら話そうか。その方が時間の節約にもなるだろう」
と言って、どこへ案内するのかを示すように体の向きを変えた。
廊下は無機質で簡素な構造をしている。ヘリオスの左側には、合計五つの扉が整列しており、右を見れば、飾られることを拒むかのような白い壁が彼を圧迫していた。
アフィンの服装も相まってまるで研究所のようだ、といった浅い感想しかヘリオスの頭に浮かばなかった。それほどまでに特徴がないということだ。
「そういえば総長ってあれですよね。あれの、あのあれとかあれに出てきたやつですよね」
ヘリオスは言われた通りにできる偉い子だ。だが、正確な意思疎通を図る為には、もう少し覚える必要が――
「あぁ、目を通してくれていたのか。助かるよ、少しでも頭に入っていれば説明も円滑に進むだろう。ま、時が来れば流れで説明するから、今はその状態でもいいけどね」
分かるものなんだな。
廊下の半ば辺りまで進んだだろうか。だが道中は、ただただ二人の足音が響くだけだった。
相手の趣味趣向も不明な完全なる初対面であることや、引き算極まった廊下という最悪の条件が、絶望的なまでに噛み合った結果だろう。だがそれでももう少し話題はあるはずだが。
アフィンにとってはこの状況がよくある事なのか、横にいるヘリオスの事を気にせず淡々と歩いている。
それに対しヘリオスは、興味を一切湧かせないかのように規則正しく並ぶ扉の郡れを、取ってつけたような関心溢れる目で眺めていた。
そんな中、遂にアフィンが口を開いた。痺れを切らしたという訳では無いようだが。
「これは好奇心で聞くんだが、どこの星生まれなんだ?」
「あぁ、地球ですね」
「チキューか。太陽系における八つの惑星の一つだということは知っている。あと大まかな情勢もね。君の星と交流する日が楽しみだな」
せいぜい二、三十メートルであろう廊下を、体感百メートルほど進んだところで、ようやく果ての扉へと到着した。
「さて、ヘリオス。改めて君の入隊を歓迎しよう。ようこそ、天の川支部へ」
扉が開くと、幻想的な空間がヘリオスに向かって流れ出した。彼はその空間に絡め取られ、そのまま大部屋の中へと誘われてゆく。
十脚の椅子に囲まれた長机の上には、単調な壁からは想像もつかないほど色鮮やかな天井が拡がっていた。
空間から滴るように煌めく無数の星々。希薄ながらも包容力のあるような星雲。それらを分かつのは、墨筆の如き荒さと温かさを持つ黒い帯、天の川だ。
カワチは、眼球を天井から吊り下げられているのかと思わせるほど、一度も首の角度を変えずに上を眺めていた。小学生が遊べるほどの広さを持つ部屋も相まってこその行動だろう。彼は天を見つめたまま流れるように前へと進んでいた。
それが原因となり――
「あっ、ヘリオス! 前! 止まれ!」
ヘリオスはアフィンの方向を振り向いた瞬間、何かにつまづき転んでしまった。アフィンの制止が仇となってしまったようだ。
「うーん、痛みがないって言うのは変な感じだな。なんか床柔らかいし」
アフィンが急いで駆け寄り、ヘリオスを起こした。
「しっかりと前を見ろ、ヘリオス。今そこに…… あれ?」
「何か置いてあったんですか?」
しかしアフィンは曖昧な回答しかせず、髪を煌々と輝かせながら周囲を探している。何も無いはずの背後にさえ、目線を配りつつ。
「おかしいな。この辺にいたはずなんだが」
アフィンは天井を凝視している。だが、彼は足元から声が聞こえるにもかかわらず、下だけは頑なに見なかった。
「テーメェーよーーーー、おうおう」
アフィンの腰骨の高さをギリギリ超える程度の少年が、アフィンに向かって唸っている。
「あれー」
だが、アフィンはわざと目線を外すように、彼と反対の方向を見つめていた。終いに、アフィンは彼から発散するように離れていってしまった。アフィンに向かって真っ直ぐ飛んでいくような、少年の鋭い舌打ちが辺りに響く。
針金が入っているのか、線分のように真っ直ぐ伸びきった袖をアフィンに向けた。
「死ねオラァ!」
少年はどこからともなく、柄の両端に刃が備え付けられた鎌を取りだし、アフィンに向かって投げつけた。
鎌はおもむろに曲線を描きながらも、アフィンに追従するように空間を走る。
「ぐわー」
回転する鎌は、アフィンの背を浅く削り取り、青白く発光する断面を露出させた。アフィンは木にさえも成り切れないような演技力でゆっくりと膝をつき、うつ伏せになった。
「しゃオラァ! うぉあああ!」
ジャージを着た少年は全身で喜びを表現している。ヘリオスはその様子を困惑の眼差しで眺めていた。
体いっぱいの歓喜を全て出し切ったのか、少年は溜息をつき、ヘリオスと目を合わさる。
「お前もだな? お前も俺を身長をバカにしたな? 俺にぶつかった挙句クッションにしたよな? お?」
仄暗く赤い縮毛の奥から、三つの目が覗く。右目に左目に上目、それぞれが独立して動き、ヘリオスを観察していた。
「いや、それは上の景色に見とれていたからで…… えっと、ハハ、ごめん」
「何笑ってんじゃてめぇ」
妙に笑いが込み上げてくる剣幕に、ヘリオスは別の意味で圧倒されていた。少年は、ヘリオスの胸ぐら――ではなく裾を掴んだ。針金が無くなっているのか、袖は魂の抜けたように柔らかくなっている。
「まぁまぁ、喧嘩はやめて仲良くしようか二人とも」
「うるせぇ事の発端が」
いつの間にかそばに居たアフィンが、ヘリオスと少年の肩を掴み宥めた。ヘリオスに関しては一方的に巻き込まれただけだが。
投げられた鎌は既に少年の手に戻ってきており、今にもアフィンに切りかからんとしている。
「でこの子誰なんですか? あっ――」
「"子"言うな」
切っ先の方向がヘリオスに向いた。流れるように子供扱いしたヘリオスに非がある故、当然のことだが。
「あぁ、この子はゼセル。私は仕事があるから次はこの子に案内を任せて――」
ヘリオスはその光景に目を見開いた。なんと、彼の首が少年ゼセルによって落とされてしまったのだ。出会った時に見せた笑顔からは、想像もできないような笑顔のまま。ここぞとばかりに子供扱いしたアフィンである為、仕方の無いことではあるが。
ゼセルはアフィンの髪を掴んで持ち上げた。彼の首の断面に刃の先を近づけ、呟く。
「詫び」
「最新PC」
「許す」
穏やかに笑ったゼセルは彼の頭を床に叩きつけた。己が身より低い位置にアフィンの頭が来たためか、彼の口角は高らかに上がっていた。
アフィンは、透明の液体をボタボタと垂らしている粘土状の頭をすくい上げ、丁寧に首の断面へと置いた。
「じゃあ、案内なゼセルが引き継ぐから、彼でも解決できないことがあったら呼んでくれ」
彼は、元の形状へと再生した顔に不器用な笑顔を浮かべた。ヘリオスは彼の頭が再生するさまを、さも昆虫の轢死体を見るかのような目で見つめていた。
「おい今正にそれ――あいつマジで総長なのかよ」
アフィンは瞬きよりも素早い速度で消失。それを見送ったゼセルは大きく溜息をつき、自身の身体を投げつけるように椅子へと座った。
「俺はただの倉庫番だってのによォ、二十億以上と先輩なのによォ! あー、もっと強請るか。叩いたら何かしら出てくるだろ」
彼は背もたれを大きく傾け、風呂上がりに按摩機でくつろぐ老人のように脱力していた。