Re-Born
まただ。何度同じ思いをしなくてはいけないのか?いったい何人目だ。俺が入社してから...。
俺の名前は小泉洋一(29歳)。名乗るほどの者でもないが、是非とも話を聞いて欲しい。出身は新潟県新潟市、ド田舎とまではいかないが、地方都市と言う表現が適切かも。まあ、そんなこっちゃどうでもいいわけで。
こう見えても、っていうか、俺の姿はみんなには見えないから、いい加減な発言だな。言いたいのは、俺は地頭が良くって、あんまし勉強しなくても県内有数の進学校に進んだ。いわゆる、のみこみのいいタイプ。要領も良く、皆が教師に叱られても俺だけ逃げられたことも多かった。その為か、いじめにもあった。だが大学は都内の有名大学に入り、ゼミの教授に気に入られて大手通信会社ITJに就職出来た。ITJと言えばバブル時にはトヨタに次いで学生が就職したい企業ランキングで2位だった。今ではアメリカの圧力で分社化されたが、未だに力があり、政治力も健在だ。そんな優良企業に就職し、毎日が順調に過ぎていったのは、入社後1年くらいだ。まず、ぶち当たった壁は信じられない事に学歴だった。のし上がるには、日本一のあの国立じゃなきゃいけない。又は、例のコネ、政治力だ。たまに、俺クラスの大学卒で幹部までになる猛者もいるが例外中の例外。だいたい良くて部長クラスで終了だ。
一見順調そうに見えなくもない俺の悩みは入社してからの自死や突然死の人数の多さだ。会社自体が大企業で人数も多いが、あまりにも呆気なく人が死ぬ。俺は自分でも思うが、けっして気が強い方ではない。地頭と要領がいいだけだ。親父もお袋も優秀ではない。
だいたい、お袋は地元の高校卒だ。裕福な家庭でもなく、兄弟二人で、兄の俺だけ大卒だ。弟は地元で就職し、23で結婚し、子供も二人いる。そういう意味では弟は大したものだ。俺よりはるかに立派だ。
幼い頃は親父の仕事の為、関東圏を転々とした。東京、千葉、長野、地元新潟に戻れたのは、高校の時だった。一番住みやすかったのは、意外に東京だった。逆は、そのほかの地方全部だ。
人間というものは俺が言うのも変だが、いやな生き物だ。いじめが起きるのはある意味仕方が無いのかも。高校まで転校続きの俺は、いじめの恰好な標的だった。東京は生まれてから小学1年までだからかいじめには会った記憶無い。その後中学一年からの2年間だけ東京の学校に通ったが、東京人はことのほかドライで他人を干渉しないというルールが校内でも暗黙の了解だった。弟もいじめにあっていたかは定かではないが、聞いた記憶が無い。あいつは昔っから可愛げがあり、人好きするタイプだった。我が家のような転勤族のはピッタリだったのかもしれない。小学2年から5年までは長野に住んでいた。長野と言えば自然豊かで住みやすいイメージを持つ方も多いとは思いうが、想像以上に厳しい小学校時代を過ごすこととなった。いじめだ。長野県は新幹線も出来てから首都圏も近く長野市内しか住んでいない俺は長野の方言を聴いた事が無かった。言葉もはっきりしていて、新潟出身の両親は相当きつかったらしい。当時は親父の会社の社宅に住んでいたがそこでも自死や突然死もあった。一番悲惨だったのは子供に手をかけ自ら死を選んだ母親の話だ。俺の住んでいた103号室の隣の出来事だった。俺らが入居する1年くらい前の出来事だったので直接は知らないが、いつもその部屋だけ入居が無かったから不信に思ったお袋が父親から聞いて知った時の衝撃ったら…。「こんなところ出ていきたい!」お袋泣いていた。同じ社宅に住んでいる母親同士の交流もほとんどなくお袋はかなり孤独だった。いっつも一人で俺と博の世話をしていた。話し相手や助け合いなんてなーんにも無かった。お袋の引っ込み思案の性格も関係していたのかも知れないが。そんな感じで俺は長野にはいい感じを持っていない。悲惨な小学校時代だった。一度は社宅の共同倉庫に近くの北越中学の生徒がいじめっ子から逃げて隠れていた。見つけた社宅の人間はかなり驚いたらしい。が。その事件でいじめが発覚しその生徒は死なずに済んだ。その後、出張で度々長野に来たがそのたびにつらい思い出が嫌でもよみがえってきた。
ITJでは「飛んだ」と言う隠語が当たり前のようにまかり通っている。「飛んだ」の説明は避けさせてくれ。察してほしい。同僚、斎藤からのラインで知った。野上と言う、俺の席の向かえに座っていたらしい人がやったらしいが、ワンフロアーに100人はいるから名前を聞いても顔すら知らない。俺は投資顧問の部署だから直接お客との接点はない。逆に俺たちは証券会社の上客だ。故に、厄介なもめごとは無いが、一日でかなりの額面動かす日もある。損はさせられないからある程度の責任がのしかかってくるがそんなこっちゃ知らん!だいたい相場なんてものは宝くじと同じ程度。ITJクラスの組織だとまずは損をすることは無い。インサイダー取引とまでは言えないが、大手の証券会社が付いている。その分一般のお客は損するって計算になる。これも世の常。いつもだと、そんな感じでやり過ごしているが今回の「飛んだ」には若干参った。それでも当たり前のように明日はやって来て仕事に向かっていたが、調子が悪い。満員の通勤電車の吊革につかまっていると突然の吐き気と動悸に見舞われた。途中の駅で下車し、トイレに駆け込み、もどしはしなかったが鏡に写った己が姿に愕然とした。顔色が青く生気もなくとてもじゃないが生きている人間には見えない。まるで、幽霊にでもあったような顔をしていた。段々と足取りも重くなりとうとう自力では動けない状態になった。額に手を当てたが、発熱もしていない。気力が湧かない。おかしい。気づくと俺はスマホで体調不良を直属の上司に伝えていた。何とはなしに、気が向く方に足が勝手に俺を運んでいた。
気が付くと、足が長野新幹線のホームに向かっていた。自分で気持ちのコントロールが出来ない。どうしようもない感情があふれてくる。なぜ、あの時にあんな思いをしなくてはいけなかったのか。車内は意外と空いていた。前の席には母親と小さな子供が座っていた。盛んに母親は子供が騒ぐ事を心配して、落ち着きが無い。男の子だからか。いつの間にか、俺と弟の博そしてお袋との姿を重ねていた。俺はおとなしい方だったが博は少し騒がしいやんちゃだった。以前にも語ったが小学2年から5年まで親父の仕事で長野に住んでいた。鮮明な記憶はないが、長野に住んでいた時期は良い思い出が無い。なにせ転勤続きでそれは子供にとっても大変な負担になっていた。仲良くしていた同級生も何人かはいたが名前すら思い出せない。そういえば、高橋っていう嫌味な奴がいたな。たまに一緒に遊んだがなんでも自分の思う通りにならないとすぐ不機嫌になった。そのくらいしか友達いなかったような。そんなことを考えながら俺は駅前から路線バスに乗っていた。いったいどこに行くつもりなのか自分でも全く分からない。気の向くままバスに乗り続けNAB通りでバスを乗り換えた。NAB通りは地方のテレ部局がある通りだ。そこから俺が住んでいた朝沼と言うバス停で降りた。ここで小学2年から4年間過ごした。社宅に住んでいた。記憶をたどりながら向かうと影も形もない。おそらく無くなったのだ。そこは真新しい住宅地となっていて色とりどりの新築の家が建っていた。少し残念な気持ちになっていた。なんとなく久しぶりにお袋の声が聞きたくなった。気づくと電話していた。
「久しぶり、元気だった、今、俺、長野にいるんだ。」
「母ちゃんは元気だったよ。突然でびっくりしたよ。出張かい。」
「ああ、そうなんだ」嘘をついた。
「そうかい。長野かい。長野はいい所だったよね。」
「え、お袋長野で随分苦労したじゃないか。言葉もキツイって言ってたし。」
「なに言ってんだい!長野で、いろんな人にお世話になったんだよ。母ちゃんが口下手なのを察してくれて、いろんな人にお前と博の世話も手伝ってもらったんだよ。一度母ちゃんが博をおぶってお前と買いものに行ったとき倒れたんだ。その時、たまたま近くにいた人が病院まで自分の車で連れて行ってくれたんだ。タクシーでいいのに心配だって言ってくれて。ありがたかったよ。あ、それとよく遊びに来てくれた、高橋君知ってるだろ。あの子にも随分世話になったよ。学校でお前がいじめられない様に俺が守ってあげますってお前がいない時に小声で母ちゃんによく言ってたよ。あの子父親がいなかったからお前を兄弟みたいに思うって。お前が傷つかない様に母ちゃんにだけ言ってくれてたんだ。あんないい子いないよ。もし住所分かったら訪ねてくれないか。」
お袋の声が涙ぐんでいたのが分かった。俺は完全に勘違いしていた。
「高橋君、住所調べて行ってみるよ。」
「そうかい、きっとあの子も喜ぶよ。」
「母ちゃん、俺元気出てきたよ!」
「え、お前なにかあったのかい。」
「いいや、なんとなく」俺は誤魔化した。
「じゃ、また、今度休みもらって帰るよ。」
「忙しいんだろ。無理しなくていいよ。」
「うん、また電話かけるわ。」
自然と、身体全体から力が湧いてきた。次第と目の前が明るくなり、開けていくような感覚になった。
よーし!また頑張るぞー!
気が付くと、ひとり事を言っていた。
終わり