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過去と現在を繋ぐ石段

作者: 内藤伸夫


 久し振りに病院を抜け出した。抜け出したと言えば大げさになるが、実際は、担当医師の許可をもらって自宅外出許可を得たのだ。

 自宅までの道は、なんとなく遠く、そして懐かしく感じられた。

 玄関のドアを開けて、何かしらいつもとは違った様子が窺がえた。家の中は相変わらず散らかったままなのだが、その散らかり方がいつもとは違う。とっさに大声を出した。

「だれかいるだろう?」

 すると、押入れの中からワァーという悲鳴にも似た素っ頓狂な声が聞こえてきた。その男を無理やり押し入れから引きずり出すと、その男は、「旦那、家をちょっと借りていただけです。何も触っちゃいねー。助けてください」とか細い声で言った。

 思い切り殴ってやろうかとふと思ったのだが、やめておいた。ずっと家を開けっ放しにしているより誰かが家に居た方がいい。そのほうが、家が傷まないとと聞いたことがあるからだ。

「お前、少し臭いな。シャワーでも浴びろ!話はそれからだ」おれは唐突にそう言った。

「シャワーってなんですか?」

「シャワーと言えばシャワーだ。まッ、風呂に入れってことだな」

「どうやって風呂に入るんですか?薪も何にもありゃーしねえってのに」

「薪―?何言ってんだこいつ?・・・・・・先ずここのボイラーのスイッチを上に上げて、五分間ぐらい待つ。そしたら湯が沸くから、そこのボディーシャンプーを使って体を洗うんだ。着替えは箪笥から出してやる。とりあえずジャージにTシャツでいいだろう。おい、分かったか?」

 その男は、すごすごと浴室へ入っていった。

 二十分ばかりしてその男は浴室から出てきた。俺はバスタオルをその男に放り投げ、体を乾かすように指示し、ジャージとTシャツの方を指差した。

 毛むくじゃらのその男は、筋骨隆々とした体躯をしていて逞しそうに見えた。

「旦那、お湯を浴びるのは久し振りです。さっぱりしました。ありがとうごぜえます」


ここに来て、俺は事態の異変に気づき始めた。ここは俺の居た家じゃない。見掛けは何も変わらずに薄汚れたままだが、この男は俺が住んでいた周りの人間とは少し違う。少し、知恵遅れには見えたが、生活をやっていけないほどのものではない。どちらかといえば、精神科に入院している自分のほうが生活破綻者である。

 俺はふと左手にはめられた腕時計を見た。一九六二年四月とそこには表示されていた。俺が生まれる一ヶ月前の日付だ。「ここは過去の場所か」俺はため息をついた。しばらく病院から外に出ていなかった俺は、時間に対しての感覚が麻痺している。精神病院と娑婆世界の時間は決して同じものではないのだ。たとえ、テレビや新聞で世の中の情報をキャッチしていたとしても・・・・・・。

 そういえば、病院から家を歩いて帰る途中、少しずつ懐かしい風景に出くわした。向精神薬を服用中の俺にとっては、また幻覚の一種だろう位に事を考えていたのだが、どうも時間を遡ったらしい。それでも自分が生まれる前の月に居るとはどういうことであろう。

 俺は、確かめるようにその男に言った。

「おい、今昭和三十七年だよな。ヒロヒト、失敬、昭和天皇が在位中だよな。おい、答えろよ」

「あっ、ハイ、昭和天皇様がいらっしゃいます。すこぶる元気です」

 やはり俺は時空を超えたのか。それでも家の造りは前と変わらぬままだ。風呂は、薪で焚く五右衛門風呂ではなくて灯油ボイラー式の風呂だし、改築も施されたままだ。どうも、俺の自宅だけが現在のままで、それ以外のことが昭和の時代に戻ったらしい。果てさてどうしたものか!そういえば、両親が居ない。親父は、十五年程前にがんで他界し、お袋は、老人施設に入居したままだ。

「旦那、パンツがないよー」と出し抜けにその男は言った

「あっ、パンツか。パンツは新しいのがこの箪笥の一番上にあったはずだが・・・・・・ほらあった。お前には少し大きすぎるかもしれないが我慢してくれ。なんと言っても俺の体重は百キロあるんだからな。70キロぐらいのお前には大きすぎて当然だ。ところで、腹が減っていないか?コンビニで幕の内二つを買って来てくれないか?」

「旦那、コンビ二って何ですか?そんな言葉聞いたことがねえよ」

 ああ、そうか、この時代にコンビには無いのか?この家には電子レンジも湯沸しポットもあるのに、一歩外に出たら何も無い。平成の世で味わえる科学の恩恵は受けられないのか。科学の恩恵といえば、携帯電話もそのひとつだ。俺は早速病院に電話をしてみた。電話は通じた。事務のK子が「○○病院ですー」と元気な声を出す。俺は、「あっ、すみません」といって言葉に窮した。仕方なく、「病棟の看護師さんに伝言お願いします。何の異常もないし、大丈夫ですと」と言って電話を切った。これで電話回線が生きている保証は付いた。ということは、俺は、この昭和の時代から平成の時代に抜け出す出口もあるということだと思った。

「旦那、コンビニって?」とその男は懇願するかの尋ねた。

「あっ、そうだな。まあそれはいい。カップ麺なら前に買ったやつがあるだろう。それにさば缶もあるはずだ。・・・・・・ほら、あった!」

 俺はなんとなく救われたような思いがした。そう言えば、冷蔵庫は使えるのか?俺は、冷蔵庫のドアをゆっくりと開けると、そこにアサヒのスーパードライが五本ほど入っていた。

「おい、これ飲むぞ!一本ずつ。本当はいけないんだけどな。担当の先生が口やかましくって・・・・・・飲酒厳禁なんだ。まあ、この際いいだろう。こんな非常時でもあるんだから」

 俺は、350缶のイージーオープンエンド開けて、その男に缶ビールを渡した。男は大事そうに両手で抱えて少しずつ喉を潤すように飲み始めた。俺は一気にビールを飲み干すと、外に出てみることにした。

 もうもうと煙が立ち込めていた。庭先で、隣のおばさんらしき人が、物を燃やしてるのだ。

「すみません、困りますよ。こんなところで火を燃やすなんて」

「何言っているんだい。いつものことじゃないかい。見たこともない男からそんな事いわれる筋合いじゃないね!」

 俺は、そっちこそ何言ってるんだよ、おばさん、俺だよ、と言い返そうとしたが、その言葉を丸のみした。その代わりに、「じゃあ、もう少しそっちの奥のほうで燃やしてもらえませんか?お願いします」とだけ言って、家の中へ入ろうとした。そのとき、今は懐かしい井戸のポンプを見つけた。うれしさとびっくりしたのとで、戸惑った俺は,すぐさま、カタコトカタコトという音とともにポンプをこぎ出した。水がどっと湧き出てくる。手で水をすくって顔を洗い水を飲んでみた。おいしかった。こんなに美味しい水は飲んだためしが無い。いや幼い頃はあったかもしれないが・・・・・・それにしても美味しくて冷たい。俺はただの水に酔いしれていたのだが、家の中から呼び声がした。

「旦那さん、旦那さん」

 俺は勝手口から家に入ってみると男は申し訳なさそうにカップラーメンとさば缶をそっと差し出した。

「すまんが、俺、もう一本だけ飲ませてくれ」と言ってスーパードライを飲み干した。

「美味い!」

 俺が飛びぬけて大きな声を出したものだから、その男は吃驚してしり込みした。

「別に驚くことはない。昔からビールを飲んで美味しく感じたときには、大きな声で『美味い』って叫ぶ癖があるのさ」俺はそう言ってやおら胸ポケットからマイルドセブンを取り出してタバコに火を点けた。

 タバコも美味しい。何かしら今まで吸って来たタバコとは違った味がした。ひとり思いに耽っているとその男はもの欲しそうな顔をした。多分、タバコが吸いたいのだろう。一本差し出すと、どこからか小さなマッチを持ってきて美味そうに吸った

「旦那、ありがてえ。こんな美味しいタバコが吸えるなんて」と言いながら「でも、旦那もいけねえ。こう何ヶ月も家を留守にするなんて・・・・・・。家の中は散らかりっぱなしだし,庭の草もぼうぼうと来てりゃー、誰も居ねえもんだと思うのが普通だよ。まッ、勝手に上がりこんだあっしに言える事じゃありませんがね」とにたにた笑いながら咳をした。


 ところで、もうそろそろ外出時間も終わる時間だ。あと1時間半しかない。さあどうする?どうやって、現在(平成の世)に戻るかだ。考えろ。考えろ。ん~。

 そこで俺は、家に居ても名案が浮かんでこないので外を散歩することにした。

「おい、俺は今から外に散歩に行く。冷蔵庫のビールはお前が飲んでもいいぞ。好きなときに飲め」

「へえー、それはありがてい。旦那、本当にありがとうごぜえますだ。恩にきやす」


俺は町内をぐるっと一周してみた。ざっと40分はかかった。懐かしい光景ばかりだ。あァ。あのタバコ屋があるぞ。あのおばさん元気にしているかな。俺はそのタバコ屋の軒先をチラッと覗き込んだ。まだ若い。それもその筈、50年も昔のことだからなぁ。思わず、そのおばさん、いや、お嬢さんに声を掛けようとしたがやめた。今の俺を見てもわかる筈もない。50年と言えば、相当昔の話だ。それに、俺はまだ生まれても来ていない。どだい無理な話だ。話しがややこしくなるだけだ。よし、どこに行こうか。公園にでも行ってみよう。その公園は、一見すると平成の世のままだが、ジャングルジムも滑り台も無い。いたって素朴な公園だ。ふとブランコが目に入り、とりあえず乗ってみることにした。俺は勢いをつけてブランコを漕いだ。ふーん。何かいい案が浮かばないかなぁ~。平成の世に帰るには、・・・・・・。そうだ、昔も今も(昭和の時代も)平成の世も変わらず同じ光景のある場所に行けばいいんじゃないか!神社仏閣なら同じ建物、同じ光景の筈だ。近くの妙蓮寺に行ってみよう。ところがだ。平成の世では本堂は新築されていたのを思い出した。だった。こんな古色蒼然とした建物ではない。俺は妙蓮寺を後にした。今度は、八万大菩薩を祭る由緒正しい神社に行ってみることにした。鳥居を通って見ると今も昔も変わらぬ百段はある石段が目の前に現れた。ここだ。今立っているところが過去。階段を上り終えたところが多分未来だろう。ここが平成の世に帰ることができる場所の筈だ。でもそれだけでは駄目だ。どうしよう。向精神薬を多量に飲んでみたらどうだろう。すぐさま、セカンドバックから、コントミンとリスペリドンを取り出し飲み下した。禊に使う竜の形をした口から溢れる水を柄杓を使って飲み干した。ビールを飲んだせいもあって、二十分もすると眠気が生じてきた。俺は、すぐさま、意識を失わないうちに携帯電話で病院に電話を掛けた。

「○○病院です。ご用件はなんでしょうか」と事務のK子が応対した。

「すみません、立花です。ちょっと調子が悪くなって薬を飲みすぎました。もう立ち上がることができません。八幡様の神社の石段に座っています。済みませんが、迎えに来てもらえませんか。お願いします」。

 そう告げると俺は電話を切った。余計なことを言わずに済むのと、眠気が急に襲ってきたからだ。俺は階段の上のほうで横に臥した。そのまま眠ってしまったのだ。


目が覚めるとそこは病院の保護観察室の中だった。天井の隅にカメラが据えてある。まだボッーとして目をしば付かせた。すると担当の看護師やって来て、開口一番、俺を攻め始めた。

「立花さん、困りますね。そんなに薬をいっぺんに飲むなんて。それに、アルコールを飲んでいるようですね。アルコール類は厳禁の筈ですよ。でも、・・・大丈夫です。まだ寝ぼけてるみたいですが、脈拍も体温も正常です。しばらくは外出禁止になるでしょう。ところで、それにしても少し白髪が増えたように見えますね。どうしてでしょう・・・・・・」

 俺は筒井康隆の『家族八景』と『七瀬ふたたび』を思い出した。その小説に出てくる或る女性は、タイムスリップするたびごとに歳をとっていたはずだ。やはり、俺にも類似の現象が起こったのか。それに衝撃的な出来事だったしな。まぁ、少し白髪が増えたぐらいはたいしたことじゃない。無事に平成の世に帰れただけでもありがたい。


 しばらくして、俺の主治医の医師がやって来た。こっぴどく叱責を受けた。一見して顔の表情は穏やかだが、目だけはぎろりと睨みつけるようだった。俺はただ首を縦に振るだけで黙り込んでいた。俺が経験した話しをたとえしても信じてもらえる筈は無い。仕方の無いことだ。ん~。俺は心の中で呟いた。これで元通りの生活を送ることが出来る。本当に良かった。あの神社には感謝しなければならない。いつか分からないが今度外出許可が出たならお礼参りをしよう。南無八幡大菩薩様、ありがとうございます。俺はもう一眠りすることにした。それから二時間、何の夢も見ずに眠り続けることが出来た。あの男も懐かしい風景も夢には出ては来なかった。



                             

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