駄菓子屋アイス
子供の頃、どうしても不思議で堪らなかったのが、駄菓子屋にあるアイスの箱だった。狭い店内に入らず、入口の横に置いてある、色々なアイスの入った蓋の透明なボックス。
何が不思議かというと、堂々と外に置いてあるのに誰も中身を盗まないこと、ではない。実際当時は、近所の悪ガキがよく何本かくすねてきては仲間に自慢していたものだ。
それはともかく私が知りたかったのは、皆が寝静まった夜中、アレがどうしているかだった。
小学三年生頃のことだ。夜、こっそり家出をした時に一度見たことがある。その時はアレは緑がかったシートを被せられ、周りと同じように真っ暗くしんとしていて、全くただの箱にしか見えなかった。
(あれ、じゃあ中身はどこに行っちゃったんだろう。あんな沢山のアイス、夜になる度に冷蔵庫に戻してるのかしらん)
ボックス自体に冷蔵庫の役目があることなど微塵も思いつかなかったのだ。それに、アイスはこんな不気味な人通りのない夜中に外に出しておくべき物ではない、とも感じていた。
その時から私は、夜中のアレの蓋を開けてみたいと考え始めたのだ。
まずは仲間を集めることにした。大冒険の大事業だ。皆、私のこの疑問をぶつけたら共鳴してくれるに違いないと自信満々だった。
しかし、その期待は見事に裏切られた。頭の悪い子供だったから、怪談調に脚色もせずそのまま語ったのもいけなかったのかも知れない。
「何言うとん、あの箱が冷蔵庫になっとんじゃが。なあー、かぁくんがアホなこと言よおるでぇ」
隣の席の、学年で二番目に頭の良かった友達が大声で私の失敗を触れ回り、私は屈辱と羞恥に涙をこらえながら教室を飛び出した。後ろから皆の笑い声が追いかけてきた。
その中に、私が密かに思いを寄せていた子の声が混じっていることに気づくと、もう学校にいることすら辛くなり空手のまま校門を出た。
泣きたい衝動を振り落とすように、ずんずんと歩いた。そのうち駄菓子屋の前を通りかかり、アイス箱が目に入る。
「……畜生」
若さ故の過ちは認め難い、という誰だかの言葉通り、私の怒りはそいつに向かった。足早に近寄ると、周囲の確認もせずに中のアイスをごっそり鷲掴みにし、蓋を閉めるのもそこそこに全速力で逃げ出したのだ。
それが私にとっての、生まれて初めての泥棒だった。
私はアイスを胸に抱き締め、その冷たさに心臓を締め付けられながら滅茶苦茶に走った。ようやく止まったのは、家からも随分離れた町外れの竹林にたどり着いたときだ。
息を切らしながら竹の狭い隙間を縫って、小さな秘密基地にも似た座れるだけの空間を見つけると、激しく脈打つ心臓からアイスを引き離した。
少し、わくわくもしながらだ。
が、それはすぐ落胆に変わった。当然の話だが、アイスはどれもこれもべちゃべちゃに溶けてしまっていたのだ。包みの隙間から染み出した青色がシャツにしっかり塗られていた。
(どうしよう、バレる)
とても情けない、どうしようもない気分で私は立ちすくんだ。突然自分が酷く矮小な人間に感じられた。そうなると涙も出ず、ひたすら途方に暮れながら、食べられなくなったアイスが地面に漏れて広がっていくのをただ見ているだけである。
虚しい時間がどのくらい続いたか、暫くしてゆっくりと我に返った私は、近くの小川でシャツを洗うことを思いついた。冷たい水にアイスのしみを擦りながら、私は皮肉な気分すら感じつつ、母親にどう言い訳するか脳内でシミュレーションしていた。
夕方になって帰宅すると、案の条母親からきつく叱られた。どうして学校を出たりしたの、と一時間は詰問と説教が続いたと思う。当の私がアイスの件だけを心配していたので、それが母親には不真面目な態度と映ったのかも知れない。
「そんな怠けるなら晩御飯も食べんでええな、部屋に戻っとりんさい!」
とうとう夕飯抜きにされてしまった。
私は大人しく部屋に戻ると漫画でも読もうと本棚に手を伸ばしたが、空きっ腹に勝てるはずもなく、やがて寝転がってぼんやりと天井のシミを見つめだした。
下からは父と母の声が聞こえていた。静かなところだったので、外から虫の鳴き声もしていた。私は、息を殺しながら溜息をついた。
(明日、学校行きたくないなあ)
と、その時だ。
「かぁくん」
外からだ。小さな声だったがはっきり届いた。私は驚いて飛び上がった。慌てて窓際に駆け寄り、声のした方を見下ろす。
前の道に、街灯に淡く照らされて女の子が立っている。暗がりだったが、それが誰だか一目で分かり、私の心臓は俄に早鐘を打ちだした。
その子は私が顔を出すと、「しいっ」と一本指を立て、降りてこいと言うように手招きした。私の方は何が何だか分からない。とにかく親に見つかる前にと思い、一階の屋根に出ると、近くの木に飛び移って脱出した。
「何だよ」
家からある程度離れたところで無愛想を装い尋ねると、彼女は目を輝かせて、
「駄菓子屋行くんよ!学校で言うとったやん」
意気揚々とそう答えた。私は耳を疑った。教室では一人も私に味方する者など居なかったではないか。
どういうことかと尋ねると、彼女は興味があるのを皆の前では隠していたのだという。
「だって大勢で行ってもつまらんもん」
だそうだ。
私は既にアイスの箱に関してはかなり冷めていたのだが、彼女と二人きりで夜の冒険、というシチュエーションに釣られてついて行くことにした。
それから彼女に一方的に喋らせたまま暫く――この時間が私には随分長く感じられた――歩いて、私たちは駄菓子屋にたどり着いた。
箱は、やはりビニールシートを被せられて打ち捨てられたように佇んでいる。
私が躊躇していると、彼女が焦れて押し退けるようにして前に出た。
「早うせんと見つかるで」
そうして素早くシートを最小限持ち上げると、手探りで蓋を押し開ける。その真面目くさった様子を、私は呆気に取られて眺めていた。いつも教室で女子グループと「うふふ」なんてやっている彼女からは想像もつかない姿だった。
「かぁくん!何かある」
「えっ」
潜めた声に呼ばれ、私は急いで駆け寄った。彼女は肩まで箱に腕を埋めて奥の方を探っている。
「なにが…」
「分かんない。何か柔らかいもの。……っ、駄目だ取れんよ」
彼女は中の物を引っ張り出そうととうとう両手を突っ込んで力み始めた。その様子を見ていると、ついさっき一瞬盛り上がった私の気持ちは急速に萎んでいった。
馬鹿馬鹿しい。帰りたいな。
彼女はウンだのエイだのと言いながら、女子らしさの欠片もない格好でもがいている。何だかゴミ箱に挟まった犬みたいだな、と私は思った。
その時だ。
「何しよるんじゃあっ」
ぱっと扉の磨り硝子の向こうで明かりがついた。
彼女が箱に埋めていた頭をびくりと擡げるより先に、私はさっと身を翻して一目散に駆け出した。勢い良く玄関を開けたおばちゃんのだみ声が背中から腹に響く。振り向きもせずに私は逃げた。
命からがら家の前まで来ると、足を止め、細心の注意を払い、出たときと同じ方法で部屋に入った。ガラス窓に肘をぶつけて肝を冷やした。急いで布団に潜り込んだが、心臓が体いっぱいに広がったようで、汗があとからあとから流れ出てとても眠れなかった。
布団を握りしめながら私はただ、この一件が嫌な形で発展しないことをひたすら祈っていたのだった。
翌朝、教室に彼女は居なかった。昨日の今日でバツが悪かった私は思わずほっとしたが、その夕方、彼女の母親が家に尋ねてきた時から事態は俄然深刻になった。
彼女がどこにもいない、という。
母親によれば、朝起こしに行ったときからいなかったのだそうだ。
(昨日からだ)
と私は思った。そのことを言えば、彼女の足取りが少しは分かる。
が、結局言い出せなかった。夜中にこっそり家を出て、駄菓子屋に悪戯に行ったなんて誰にも知られたくなかった。
それに、悪いのは彼女だ。私は誘われて仕方なく行ったのだ。彼女だって、逃げ遅れてバレたために気まずいだけで、すぐに出て来る。
そう思った。
だが、彼女は見つからなかった。
そうして私が二十歳になった現在まで、行方知れずのままだ。これだけ長いこと姿を消しているのだから、私のせいでないことは明白である。そう自分に言い聞かせながらも、大学に入ってからは地元に帰るのをなんとなく避けていた。
今回帰省したのは、成人式はどうしても地元で、と母に説得されたからだ。
到着してから少し町を歩いてみたが、たった二年で随分様子が変わっていた。古い日本家屋が減り、道路の舗装が新しくなり、薄暗い小店が建ち並んでいた通りでは三階建てのビルが建築されている。あの駄菓子屋も、今はない。
二年ぶりに帰った家では、若干肉の弛んだ母が待っていた…と、こんなことを書いているのが見つかればまた叱られてしまうが。
成人式は恙なく終了した。つい最近同窓会で見た友人たちの顔を幾らか見かけた。彼女の姿は、やはりない。尋ねてみると、覚えている人が意外に少ない。あの時私をからかった学年二位の秀才などは、なにやら感づいたらしく私に意味ありげな笑みを向けてきたが、駄菓子屋の一件までは察していないようだった。
その日の夕方、母から、駄菓子屋のおばちゃんが半年ほど前に亡くなったという話を聞いた。
おばちゃんと母は仲が良かった。亡くなる直前までお喋りをしていたという。その際、私のことも話したと聞いてどきりとした。
「あんた、小学校んとき泥棒に入ったんじゃってな」
息が詰まった。ならば、おばちゃんは知っていたということになる。私は手が震えるのを抑えながら、訊いてみた。
「その時誰が一緒にいたとか、言ってた?」
母はしかし、かぶりを振った。
「いいや、あんた一人じゃ言わりょうたで」
「ええっ」
思わず頓狂な声を出していた。そんなはずはない、彼女が逃げ遅れたのは確かだし、引き戸のすぐ側にいたのだから気付かれないはずはない。
「あの…他には?」
母が眉間に皺を寄せる。
「他の子供とか…」
「お店の周り探したけんどおらんかったいうて。何、共犯おったんか?」
「い、いや」
あの時。おばちゃんの声がする、彼女がびくりとして、私が逃げる。背後で引き戸が開く。
この時点で、彼女はおばちゃんの目の届かない位置にいたというのだろうか。しかしアイス箱の陰等に隠れても、そのあと見つからないはずはない。どうやって逃げたのだろうか。
ふっと思いついて、私は母にこう尋ねた。
「それ、何盗まれたって?」
母はますます不思議そうに首を捻った。
「あんた忘れたんか。何も取りゃせんかったじゃろ。店の前までしか行かんだったけえ」
「あ、ああ。じゃあ箱は空だったんだ」
「箱?」
「ほら外の、アイス入れてた奴」
すると母が心底呆れかえった様子でこう言った。
「ほんま忘れん坊じゃなあ。アイスの箱やこ元々ありゃせんがな」
今度は、声も出せなかった。
「夜はまるごと中に仕舞うとるんじゃて」
「そ…」
そんな筈はない!と怒鳴りかけて、やめた。母は、私の様子に不審の色を強めている。このままだと面倒な話になりかねない、と思った。
「そうか。何か最近忘れっぽくて」
と笑ってみせると、
「昔からじゃろうがね」
と母も納得したようだった。
だが、私はやはり納得できなかった。私たちが見たのは確かにアイスの箱で、彼女はその中の「何か柔らかいもの」に触れたのだ。しかし、ならば、なぜ?どこへ?
あの駄菓子屋は今では別の家族の住まいになっている。アイスの箱も、もう処分されたろう。尤も、今調べたとしてもどうにもならないだろうが。
もしかしたら、あの時私の方が消えるはずだったのではないだろうか。
シャツに染みた青い色と、土の匂い、竹の葉を透かしていた日光の白さを、私は今でも忘れられない。
拙文、読んで下さってありがとうございます。因みに未だに夜、あの箱がどうしているのか知りません。もしご存じの方がいらっしゃれば教えて頂けませんでしょうか…。




