ゆるふわ百合監禁~片想いをこじらせて監禁したら両想いだった件~
「ねえ、わたしのことどれくらい好き?」
「どれくらいって……」
椋子が柚乃を自室に監禁して早数日。
六畳の部屋は整然としており無駄な物がない。ちらほらと目につく鮮やかな色のクッションたちは椋子の趣味で集めたもので、寂しい夜は抱き枕の役割も果たしていた。
ともすれば一般的だと錯覚するような室内にある唯一の違和感は、拘束されて自由を奪われた女性がいること。
成人しながらも幼さを残した身長と体型。短めの髪は自分では気に入っているものの、年齢誤認に拍車をかけている一因になっていることは気付いていない。
身分証を提示しなければ大学生には一見思えない彼女――柚乃は手枷、足枷、首輪によって全身を支配されている。
日常は一瞬で容易に変化する。一度変わってしまえばもう戻れない。過去への道は消え去り、新たな循環が始まる。
そう。何度も繰り返された問答が、再び上演されるのだ。
「ちゃんと言ってよ。その可愛い声で、好きだよって」
「……んっ」
耳元で囁く声は、心を含めた全身を震わせる。思わず零れた甘い声は、精神の動揺を更に増幅させる。物言わず俯くことしかできなかった。
声の主に困惑の表情を向けて抵抗の意思を示すも、結局は無意味。その程度で怯むのならば、このような生活を始めることすらなかっただろう。
だが、無意味ではあっても無駄ではなかった。下がった眉は心の奥底に眠る嗜虐心を刺激するのに十分過ぎる材料となったのだから。
「照れてる顔も可愛いけど、そろそろ言ってほしいな。それとも好きなのはわたしだけ?」
目を細めて問われ、反射的に背筋が伸びる。
睨むとまでは言えない視線だけで、どちらが主導権を握っているかを理解させたのだ。
「……好き」
追い詰めれば言葉が自然に出てくる。
監禁生活初日が終わる頃にはそうなっていた。だからこそ、こうした倒錯に浸れるのである。
「ちゃんと、どれくらい好きか言って」
「誰にも渡したくない! 私だけの柚乃でいてくれなきゃやだ! 私のことだけ見ててほしいの……」
椋子が俯いていた顔を勢いよく上げると、長髪が両者の世界を一瞬だけ断ち切った。
監禁者である椋子が叫んだ思いの丈を受け止め、拘束されたまま柚乃は満足気に微笑んだ。
「そっかそっか……わたしのこと、監禁しちゃうくらい好きなんだ?」
「そうだよ、ずっと一緒にいたいんだもん……」
椋子の潤んだ瞳を、柚乃は恍惚の表情で見つめていた。様々な視点から眺めようと首の角度を変えるたび、首輪から伸びた鎖がジャラリと音を立てる。
抱き締めるどころか今すぐにでも押し倒したくなっている柚乃だが、後手に拘束されているので叶わぬ願いであった。
しかし残念だとは思っていない。欲望が叶えられずに抑圧されている不完全燃焼な現状も、愛する椋子が与えてくれたものと考えれば最上級の褒美なのだから。
日中でも濃緑のカーテンは閉じられたまま。陽光すら二人の世界には入り込めない。
「うん、ずっと一緒だよ。だってわたし、椋子に監禁されてるんだもん」
「柚乃、どこにも行かないでね」
にじり寄る椋子。その瞳は暗く、しかし輝きにも満ちている。
椋子が楽しみの時間を始めるのだ、と柚乃はすぐに察した。同時に満ちる多幸感は全身を弛緩させ、椋子のことしか考えられなくさせる。
幸福な脳裏に幾度となく思い返されるのは、決まって始まりの時。
二人が出会った頃のことではない。この監禁生活が始まるきっかけとなった時のことである。
関係が一変した転換の瞬間。そこが二人の新たな幕開けとなったのだ。
――――――――
「かんぱーい!」
「いやーテスト終わったし、やっと夏休み満喫だね!」
カツン、とサワー入りの缶をぶつけ合う。
簡素なカーペットの上、机を挟んで椋子と柚乃は試験の疲れを労い合った。
高校時代から気心の知れた関係の二人は同じ大学に通い、機会があればこうしてどちらかの部屋に集まって同じ時間を過ごしている。
今日の舞台は椋子の部屋。何度も訪れている柚乃にとっては第二の自室とも呼べる場所だ。
その気持ちは態度にも色濃く出ており、楽な部屋着でくつろぐ二人の姿からは緊張など微塵も感じない。
「どうだった? 総論の試験」
「一応は書けたつもりだけど、採点厳しいって言ってたから……柚乃はどうだったの?」
「わたしは完璧。手応えもあったし、フル単余裕かな」
ぐい、と缶を呷る柚乃。炭酸の刺激とライムの爽快な喉越しが、彼女から幸せな吐息を引き出す。
幼い外見の彼女は年齢確認を求められることを不本意ながらも自覚しているので、人目を気にせずに済む宅飲みを好んでいた。二十歳になったばかりではあるが柚乃は酒好きなのである。
「言ってくれるじゃない。この天才ちびっ子がー」
「ちょ、ちょっと椋子ったら」
椋子は身を乗り出して、柚乃の頭を無遠慮にぐしぐしと撫でまわした。身長の高い椋子にとって机程度は障害物にもならない。
柚乃も言葉では抗議の意思を示すものの、既にアルコールが回っているのかされるがままである。セットに時間をかけたショートヘアが乱れるのも厭わないようだ。
「もう……それよりさ、夏休みどうする? 過ぎた過去よりこれからの未来っしょ」
「夏休みかぁ……どうしよ」
「考えてなかったの? 椋子なら試験問題解きながら旅行の計画を練り上げてるもんだとばかり」
「普段ならそうだけど、今回は他のことで頭がいっぱいでさ」
「ふーん、何をそんなに考えてたのやら」
答えを求める色を持っていない疑問はアルコールと共に流されていく。柚乃が新たな缶を開ける音がカシュッと響いた。
「おっ、いい飲みっぷりだね」
「こんなに甘いんだからジュースみたいなもんでしょ。どんどん持ってこーい」
「ふっふっふ、そう言うと思って買い込んであるよ。じゃんじゃん飲むといいさ!」
机の脇に並べられた控えの缶たち。これもまだ一部であり、更なるベンチメンバーが冷蔵庫で出番を待っている。
「にしてもさ、こういう打ち上げって大学生っぽいよね。お酒が入ってると特にそんな感じする」
柚乃はテーブルに肘をつき、そんな感慨を口にした。既に缶の中身は半分ほど飲み終えており、手の中で揺らせばサワーが跳ねて炭酸が弾ける音がする。
「打ち上げって……二人しかいないけど」
「それがいいんじゃん。わたしたちっぽくてさ」
「私たちっぽい?」
「そ。アワースタイル。飲んでるのはサワーだけど」
「柚乃もう酔ってるの?」
話に花が咲き、時は露に消える。楽しい時間は急速に思い出へと変わっていくのが世の常。
夜は当然のごとく更けていった。
「ふあぁ……っ、ねむぅ」
「うわ、もう日付変わるじゃん。柚乃、今日も泊まってくでしょ?」
「そーするぅ」
「床で寝ないの。ほら、ベッド行って」
肩を貸すと、柚乃は遠慮なく体重を預けてきた。椋子は一瞬だけ目を見開いたものの、何も言わず柚乃の腰に手を回した。
ベッドへ横たえると、互いの手は当然とばかりに繋がれる。重なる二つの手を見下ろしながら、椋子は流れ落ちそうな自身の髪をそっと耳の後ろへかき上げた。
「ありがとー。椋子のベッド寝心地いいから好き」
「そう? 安物なんだけどね」
「なんでだろ、椋子がいつも使ってるからかな」
問い掛けではない単なる呟き。椋子もそれを理解しているので声はかけず、代わりに薄手の毛布をかけてやった。
間もなく柚乃は無防備な寝顔を晒し、安らかな呼吸を続けるようになる。
「まったく、柚乃は寝つきがいいんだから」
優しく微笑んだのは数秒。
柚乃の頭を撫でながら、次第に笑みの色が変わっていく。
「そっか、そんなに寝心地いいんだ……よかった。今日からここが柚乃の家になるんだから……」
これもまた、単なる呟きである。
しかしそこに含まれているのは疑問ではなく決意。
過去と決別し、新たな領域へ踏み出すという真夜中の宣言。
これからの未来を想像し、椋子は三日月のように口元を歪めたのだった。
――――――――
「……んむぅっ」
目覚めた柚乃が最初に感じたのは右頬の圧迫感だった。寝返りの果てに辿り着いた横臥は多少無理な体勢だったらしい。
そんな柚乃が目を開けると、視界いっぱいに椋子の顔があった。
同じベッドで添い寝したことや寝顔を覗き込まれていた現状に動揺はしない。二人にとっては日常茶飯事なのである。
そう、そこまでは日常。
しかし既に二人は非日常へと踏み込んでいた。
「おはよ、柚乃」
「んぅ……おは」
言葉が途切れたのは柚乃が異変を感じ取ったからである。
全身の自由がきかない。起き上がろうにも四肢が動かないのだ。
「……えっ、何これ、えっ?」
体を動かそうと入れた力が行き場を失い、わずかな痛みと多大な疑問を生み出す。
両手は後方で拘束され、両脚は足首同士が繋がれている。革製の拘束具は、柚乃の皮膚に痛みではなく圧迫感を常に与え続ける。
カーテンで遮りきれない陽光が薄暗い部屋を染め、椋子が握る鎖に淡い反射を生む。それが伸びる先は柚乃の喉元、これもまた覚えのない首輪だった。
「ああそれ? 柚乃が寝てる間につけちゃった」
「つけちゃったって……椋子が?」
「そうだよぉ。これでもう逃げられないねぇ……」
じっとりと、まとわりつくような椋子の声色。朝のこもった暖かさを持った部屋に、それは滲むように溶けていく。
柚乃の瞳は揺れる。困惑、動揺、疑問。突然の現状を理解するにはまだ遠い。
だから問い掛けた。
「椋子、なんでこんなこと……」
「なんでって、そんなの決まってるじゃん」
薄暗い室内でもわかるほどに表情を緩め、椋子は握った鎖に頬擦りをしながら告げた。
「柚乃のことが好きだからだよ」
「えっ……好き、って?」
眠気は遥か遠くへ過ぎ去った。
あるのは、突然突きつけられた現実と愛情。
柚乃の困惑する瞳に間近で向き合い、椋子は自らの行為を正当化する。
「そう。好きだからこうやって繋いで、拘束して、監禁したの。これで柚乃はずぅっと私だけのものだよぉ……うふふ」
「そ、そんな……」
柚乃の思考は困惑に染まる。
突然の変化。しかも自身の意思ではなく、強制的に日常は塗り替えられた。
考えが洪水のように押し寄せてパンクするのも無理はない。異常事態に鳴り響く警鐘のごとく、心臓は過剰な脈動を訴える。
だが。
次第にその鼓動は別の色を帯び始めた。
柚乃の脳内も、いつしか乱雑さを通り越して理路整然の一歩手前まで迫っている。
足りないピースを埋めるため。
あるいはもどかしい距離を詰めるため。
短い質問を、柚乃は口にする。
「ほんと、なの?」
「わからない? 冗談でこんなことするわけないじゃん。閉じ込めちゃえばずっと一緒だもん。これで他の男に近付くこともでき」
「そっか……嬉しいな」
椋子の言葉に被せるように柚乃は呟き。
生まれた静寂の間に言葉を差し込んだ。
「わたしも、好きだよ」
「えっ」
「椋子のことが好きなの」
「えっ?」
間隙を縫うように柚乃は自らの想いを並べ立てる。
心の内で秘め続けてきた恋愛感情を。
「ずっと椋子のことが好きだった。こんなに好きって想いを抱えて苦しかったの、わたしだけかなぁって悩んでたんだけど……椋子も同じだったんだね。すごく嬉しい。監禁したくなるほどわたしのこと本気で好きだなんて幸せすぎてどうにかなっちゃいそう。ねえ椋子、これからわたしにどんなことしてくれ」
「いやいやいや待って待って!」
不意打ちとはまさにこのことだろう。
椋子はベッドから転げ落ちるようにして立ち上がり、フローリングのひんやりした肌触りを足裏で感じる。
その程度の冷たさで瞬間沸騰した心が落ち着くはずもなく、両の掌を柚乃に向けて頬を真っ赤に染め、視線を無秩序に泳がせてしまう。
意趣返しというつもりはないのだろうが、今度は椋子が言葉を遮る形になった。
「え、待って。ちょっと考えを整理させて」
柚乃の告白は想定外すぎた。
唐突過ぎて受け止められないのか、椋子は落ち着きなく呻いたり頬に触れたりと忙しい。
特に意味もなく手櫛で耳の辺りの髪を整えながら、再度椋子は柚乃と向き合う。見下ろす形になっている関係上、先ほどよりも距離は遠ざかっているが今はそれが好都合でもあった。
「今、好きって言った? 私のことを? 柚乃が?」
「うん。好きだよ椋子。愛してる」
「いやだから待ってってば!」
「椋子が質問したんじゃん」
握られていた鎖は既に手から離れており、床で微妙な輝きを発してなけなしの自己主張をしていた。
「だ、だって先週の日曜! 私見たんだから!」
椋子は叫ぶ。
脈絡など気にする余裕もなく、心の中に抱え続けた黒い霧を放出した。
「なんかイケメンと駅前で楽しそうにデートしてたじゃん! ランチの後にショッピングまでしちゃって! 何よあれ彼氏でしょ!」
「日曜……? あー、あれ弟」
「えっ」
霧は一瞬で晴れた。
同時に椋子の表情も強い風に吹き飛ばされたようで、真顔で首を傾げることしかできなかった。
「てかよく見てるね。声かけてくれればよかったのに」
「……だって、そんなの無理だよ! 柚乃が彼氏と一緒だって思ったら悲しくなっちゃって」
「だから弟だってば。もし椋子と会ってたらあんなの道端に置いてくよ。正直帰りたいなって思ってたし」
再び生まれたしばしの静寂。
カーテンの隙間から忍び込んだ太陽光が強さを増し、部屋の明度を高めていく。
「でもでも! なんかプレゼント買ってはしゃいでたじゃん! おしゃれな宝石っぽいのがついたネックレスなんて買っちゃってさ! なんなのあれ!」
「あー、あれ弟が彼女に誕生日プレゼントしたいらしくて選ぶの手伝ってあげただけ。ランチおごるからって頭下げられて仕方なくね」
「えっ」
天使が通る、とはフランスのことわざであり一同が黙り込むことを表す。
先ほどから二人の間には目に見えない様々なものが定期的に通り過ぎている。
「見てたなら思い出せるだろうけど、はしゃいでたのって弟の方だったでしょ? なんか付き合って初めての記念日だとか言って張り切っちゃってさ。話がどんどんノロケになってウザくなってたから、わたしは愛想笑いしかしてなかったと思うけど」
話しながら柚乃はもぞもぞと動いてベッドの縁に足を下ろし、その勢いを利用して上体を起こした。寝起きは悪い方であるが、一度覚醒すればすぐに体を動かせるのが柚乃の性質である。
結果、椋子と柚乃は最初とほぼ同じ目線で見つめ合うことになった。それでも柚乃は多少の上目遣いをする格好となり、椋子の心を一層かき乱してしまう。
「ねえ椋子、日曜はずっと後つけてたの?」
「う、うん」
「もしかして前からそういうことしてた?」
「うん」
「そんなにわたしのことが好きなの?」
「……うん」
伏せられて潤む瞳と、見開かれて輝く瞳。
椋子と柚乃は非対称な顔色を滲ませつつも、その根底にある恋慕の情は同じであった。
「弟を彼氏だと見間違えて、わたしが取られちゃうって思ったんだ?」
「だって、柚乃がどこか行っちゃいそうで……そんなの耐えられなくて……」
言葉を浴びるたび、柚乃は体をくねらせる。
もちろんそれは体が拘束された不自由に起因するものではなく、精神の奥底を揺さぶられたことによる興奮の一種である。
「わたしはどこにも行かないよ」
「……ほんとに? 私、柚乃のことつけ回してたんだよ? 嫌だって思わないの?」
「全然。だって、それだけ愛されてるってことだもん。好きな人から愛されたら嬉しいに決まってるよ。わたし、ずっと前から椋子に愛されてたってことでしょ」
「柚乃……」
怯えるような瞳は監禁の張本人とは思えない弱々しさに揺れている。数分前まで余裕たっぷりに笑みを浮かべていた椋子の華麗ではない大変身である。
それでも監禁という一線を超えるだけの精神力は根底にあるらしい。
視線を柚乃に合わせ、現状把握に努めようと問い掛ける。
「柚乃は……本当に私のことが好きなの?」
「好きだよ」
返事に迷いはなかった。
続けて収まりきらない想いが言葉となって溢れ出す。
「わたしね、好きな人からはいっぱい愛を与えてほしくなっちゃうの。それこそ重過ぎるくらい。変かもしれないって自覚はあるけど止められないんだよね。でも好きになったら一途だよ。ずっとずっと前から、それこそ椋子に会ってすぐ自分の恋心に気付いたくらい」
迸る感情も湧き上がる言葉も、止める理由など何一つ存在しない。
既にこの場は非日常。朝日と共に二人の関係は塗り替えられたのだから。
「でも、なかなか言い出せなくて、それなら親友として近くにいようって決めて、大学も同じところにしてさ。自分で言うのもなんだけど、うまくやれてたなって思う。そんな時に監禁しちゃうくらい好きだって気持ちぶつけられたら、さ……もう抑えられない。ううん、抑えなくていいよね? わたしのこと好きって言ってくれたもんね?」
小首を傾げ、熱っぽい視線を向けられる。
椋子は抗うこともできず、まるで前世からそうなるべきだと定められていたように頷いた。
「ねえ、ずっと一緒にいてくれるんでしょ? わたしの全部、何もかも、椋子の思い通りだよ? わたしのこと好きにしていいんだよ?」
「柚乃……本当に私のこと好きなんだね」
「最初にそう言ったじゃん」
その言葉が終わる瞬間、椋子は柚乃を抱き締めた。弱気だった椋子の瞳は晴れており、微笑すら浮かべている。薄暗さを感じるものではなく、爽快で前向きな笑みを。
柚乃は拘束されたまま抱擁を享受する。手枷によって抱き返すことはできないが、代わりに背中へ回された椋子の手と繋がることで気持ちを伝えた。
「あーあ……わたしも弟のことバカにできないなあ。こりゃノロケたくなる気持ちもわかるよ」
「誰かに話すのはダメ。そういう思い出は私と柚乃だけのものなの」
「言わないよ。気持ちがわかるってだけ」
激情は過ぎ去り、あるのは心地良い時間。
囁くような会話は直接互いの鼓膜へ届けられ、細やかな感情を綿密に伝え合う。
「はぁ……好きな人の前で自由を奪われて、何されても抵抗できないんだって考えたら、わたし……」
「ドキドキしちゃうの?」
「させたのはそっちじゃん……てか、椋子もこういうの好きなんでしょ? だからこれ」
顎を上げてくいくいと動かせば、床に投げ出されたままの鎖がカチャカチャと鳴る。
「わたしにつけたんでしょ」
抱き合ったままなので小さな動きではあったが、それでも音を立てたのは鎖の自己主張という補正があったのかもしれない。
「そうだよ。だって柚乃を逃がしたくないんだもん。こうするしかないじゃん」
「心配性なんだから。わたしが椋子から逃げるわけないのに」
触れ合う手は指まで絡め、新たな拘束を互いに負わせる。
言葉もなく、一切が入り込む隙間さえ許さぬように密着し続ける二人。
永遠に続いても不思議ではない抱擁だったが、状況を動かす言葉を柚乃が発した。
「椋子、喉渇いた。何か飲みたいんだけど」
「あ、うん。ちょっと待っててね」
拘束されているからといって主導権を持つことまでもが奪われているわけではない。
椋子は冷蔵庫へ向かい、麦茶の入ったペットボトルを手に戻ってきた。これは柚乃が好んで飲む銘柄であり、監禁での長期生活を想定してあらかじめ用意していた物である。
「はい、飲める?」
両手が使えない柚乃の体を支え、飲み口を絶妙な角度で維持する椋子。その眼差しは真剣そのもので、柚乃の唇と嚥下するたびに動く顎から首筋へ向けられている。
それにより柚乃は麦茶を零すことなく飲め、椋子は愛する人の動作を見守れる。誰も損をしない一石二鳥である。
飲み終えれば、すかさず椋子は柚乃の口元を拭う。そのハンカチを後で舐めるか頬擦りするか真空パックで保存するかの選択に迫られていた椋子だったのだが。
「口移しでもよかったのになぁ」
「えっ」
唐突な言葉に素の声と表情を出してしまった。
「わたし、監禁されてるんだから物みたいに扱っていいのに。椋子の好きにされたい」
「柚乃は物じゃないよ。とっても可愛い女の子。それにね、さっきからずっと私の好きにしてるつもりなんだけど」
ハンカチをとりあえずポケットに避難させた椋子は、その長い指を柚乃の首へと伸ばす。革の首輪に触れると、直接指がなぞったわけでもないのに柚乃は小さく体を震わせた。
最初は恍惚による震えだったのだろう。
それが予兆となったのか、呼び水となったのか。
次第に動きは両膝をすり合わせるものに変わっていた。
「ん? 柚乃、どうかした?」
「……トイレ行きたい」
「あっ、じゃあこれ外すね」
椋子は柚乃の足枷に手を伸ばした。当然それは跪く格好となり、その頭頂部を柚乃は不思議な感覚で見つめる。
「外しちゃうんだ」
「逃げないんでしょ?」
続いて解放の手は柚乃の後方へ。しっかりした拘束ながらも着脱は容易らしく、あっという間に柚乃の四肢は自由を取り戻した。
両手をプラプラと揺らしながら柚乃は手首に拘束の痕跡が残っていないか確認したが、特に何も見つけられず少しだけ落胆した。
「でも、これはそのままね」
チェーンを拾い上げ、軽く引く。
首元の圧迫感が急激な満足と興奮を生み、柚乃の気落ちしかけた心は即時右肩上がりとなった。
「てか普通にトイレ行かせてくれるんだ」
「えっ、だって行きたいって言ったじゃん」
「そうなんだけど……まあいいや」
柚乃の考えを見透かすことはできぬまま。
椋子はチェーンを引き、柚乃を向かうべき場所へと導いたのだった。
――――――――
事が済んだ後、一時的に柚乃の四肢が自由になったということもあり着替えをすることにした。いつまでも寝起きでシワになった服のままでは健康で文化的な監禁生活は送れないのである。
二人が着るワンピースは色やサイズこそ違うが同型であり、いつか一緒に着られたらと椋子が用意していたものである。
椋子の目前で着替えるという行為、注がれる視線、同じものを身にまとっている事実、いずれも柚乃の心を高ぶらせたのだが、椋子もまた興奮していたのでそのことには気付かなかった。
ちなみに柚乃の着替えや身辺の小物などは椋子の部屋に以前から常備してある。
もちろん柚乃の部屋にも椋子の私物が同じように置いてあり、それらはこのように突発的な宿泊滞在に対応するため自然発生的に行われるようになった習慣である。
一連の行動を済ませると再び手枷と足枷が装着された。当然ながら柚乃は抵抗せず、自ら手足を椋子へ差し出すほどだった。
「で、椋子はわたしを監禁して何をしたかったの?」
奇妙な対面の再開である。
柚乃が座るのは涼しげな背もたれのメッシュチェア。
しっかりしたヘッドレストにリクライニング、座面は低反発でオットマンまで備えた逸品である。
惜しむべき点はアームレストが役目を果たしていないところか。柚乃の両手は後方で拘束されているのだから。背中と椅子に挟まれている形になるが、その圧迫感さえも柚乃には心地良かった。
「何って……柚乃を私だけのものにしたくて、ずっとそばに置いときたくて、お世話もしてあげたくて」
椋子は柚乃と向かい合う形でベッドに腰掛けている。背もたれもなければ座る位置も低い。
監禁の実行者と対象者で待遇のズレが感じられるが、それはどちらかの意思というわけではなく無意識での結果である。
「監禁自体が目的ってことね。うん、悪くない」
「あ、あと!」
言葉に合わせて迫る椋子。柚乃もわずかに肩を震わせて驚いた様子。
「柚乃を、ずっと眺めていたい」
「わたしを?」
「拘束されて、身動きとれなくなった柚乃を観察したいの。私だけが見られる柚乃をこの目に焼き付けたい」
遠慮なくぶつけられる欲望。
それが柚乃にとっては堪らなく嬉しかった。愛する人に求められているのだから無理もない。
「いいよ。いっぱい見て……」
だから、無条件肯定も当然の結論なのである。
許しをもらった椋子は言葉なく立ち上がり、柚乃へと一歩踏み出した。
「……」
何度目かもわからない沈黙。
静寂がもたらす透明な音の中、椋子は愛する人の姿を瞳に映す。
耳の形、起伏が生む陰影、震えるまつ毛、白い首筋、身じろぎする肩、慎ましい胸。
そこから視線は上へと戻り、唇でしばしの静止を挟み、柚乃と目を合わせた。
執拗な観察を受け、その視線に愛撫されたような錯覚に陥った柚乃。そんな状況で見つめられたら感情は容易に決壊して洪水が発生するのも当然である。
じれったく、もどかしい。けれど、それもまた悦びとなるのだった。
「見てるだけでいいの?」
「うん、柚乃とっても綺麗で可愛い」
「椋子……」
呼びかけに答えるように椋子の両手が動き、椅子の背もたれを掴んだ。行動を極限まで制限する新たな拘束に柚乃の意識は既に色付き始めている。
副産物として得られた急接近もそれに拍車をかける。互いの脚は今も膝や脛などが柔らかな衝突を繰り返し、素肌同士が溶け合いそうな感覚が広がっている。
おそらく、そうやって繋がった部分から気持ちが流れ込んだのだろう。
真夏を体現したような熱視線をそのままに、椋子は愛する人へ愛ゆえの言葉をかけた。
「ねえ、柚乃……私ばっかりじゃなくて、柚乃はしてほしいことないの? 柚乃が望むなら私なんだってするよ?」
ぼやけた意識ではセキュリティが機能せず、言葉は柚乃の奥深くまで突き刺さる。
「わたし、わたしは……」
遮るものがないから、柚乃も秘めた欲望を素直に吐き出せた。
「いっぱい、好きって言ってほしい。わたしね、さっきも言ったけど好きな人にはたくさん愛されたいの。こうやって拘束して閉じ込めちゃうのが愛の形だってのはわかってるし嬉しいんだけど、言葉にもしてほしいの……わがまま?」
「ううん、そんな柚乃も好き」
「ん、もっと言って」
「好き、好き、ずっと離さないよ」
椋子の囁きが鼓膜を通り抜けるたび、柚乃の脳内は新たな色に塗り替えられていく。
染められた色を可視化するなら、それはきっと見ているだけで甘さを覚えそうな淡い桃色。
その秘められた色を見届けるように、椋子は柚乃の蕩けた表情を観察し続けるのだった。
――――――――
監禁と告白の激動を経て。
二人は奇妙な同居を続けていた。
形式上は監禁されている柚乃の一切は、実行者である椋子に握られている。
起床から就寝まで、日常生活すべてが椋子の思うがままであった。だが先の顛末からも想像できるように、柚乃の行動は完全に制限されているわけでもなく、むしろ自由も多かった。
そんな中、特に椋子がこだわったのは着替えとメイクであった。
自分の理想を形にするため気持ちは張り切りを見せており、秘密裏に用意しておいた衣類を着せ替え人形のごとく柚乃に与えた。
それに合わせたメイクを行うのも椋子の手。動作に迷いがないのは、もちろん以前からイメージトレーニングを欠かさずにいたからである。
椋子のスマートフォンには隠し撮りした柚乃の画像が多数保存されており、編集ソフトで思うままのメイクを施したものも数十枚では収まらない。
それらの行為を、柚乃もまた喜んで受け入れた。与えられる愛を拒むはずもない。
高校時代の制服を出された時も、驚きはしたが懐かしさの方が勝っており自分から進んで着たほどである。気持ちがそちらへ向いていたせいか、なぜ柚乃の制服を椋子が持っていたのかを疑問に思うことはなかった。
邪魔者が入り込む余地などない二人だけの世界。
そんな非日常に溺れている椋子と柚乃であるが、いつまでも部屋に閉じこもっているというわけにもいかない現実が立ちはだかる。
その問題に直面したのは監禁開始の翌日だった。
しかし難航や困難の欠片すらそこにはない。
あったのは数秒の戸惑いだけ。
「……んー?」
拘束を解かれ、渡された服に着替えた柚乃。ここまでは朝の日常である。
違っていたのは、着替え終わってもそのまま自由の身であるということ。首輪まで外されて喪失感を覚えた柚乃は、椋子の着替えを見ることで心の隙間を埋めた。
「椋子、なんでわたしの拘束外しちゃうの?」
「え、だって買い物行くから。これつけてたら外歩けないでしょ」
納得できる当然で正論の言葉だった。
柚乃はテーブルの端に置かれた首輪を手に取り、どうすれば鎖を取り外せるのか手元でカチャカチャと試行錯誤する。
「閉じ込めておくんじゃなかったの?」
「そうだよ。一緒にいられるようにね。だから出かけるのも一緒。離れたら意味ないもん」
「あー……はいはい、なるほど。わたしはこの部屋じゃなくて椋子自身に閉じ込められてるってことか」
「……そう、だね」
「椋子、照れてる」
「だって柚乃が恥ずかしいこと言うから」
「じゃあ違うの?」
「違わないけどさ」
会話の途中で鎖が首輪から外れた。
鎖は床に放り出すことなくテーブルへと戻され、柚乃は首輪を自ら装着する。
「でも、これは付けておきたいな。わたしが椋子のものっていう証になるから」
「なくても柚乃は私のものだけど」
きょとん、としたのは一瞬。
すぐに柚乃の頬は赤く染まった。それは決して首輪の圧迫感によるものだけではない。
「椋子も恥ずかしいこと言ってるじゃん」
「違うの?」
「違わない」
「ふふ、さっきのお返し」
首輪はシンプルな革製品。チョーカーと言い張ることができなくもない。
どちらにしろ、他者の目など二人は気にしない。互いにどう思っているかが最重要事項なのだから。
「はい、鎖の代わりにちゃんと繋いでね」
「もちろん。帰ってくるまで離さないから」
「帰ってからも離してほしくないんだけど」
「うん、そしたらまた拘束してあげる」
「やった、嬉しい」
繋いだままの手は不自由を生むが、それを選ぶのもまた二人の自由なのである。
「そうだ、ついでに柚乃の部屋に寄ろっか。持ってきたい物とかあるでしょ」
「いいの? 優しすぎじゃない? そんなところも好きだけど」
「……いきなり好きっていうの禁止」
「なんでさー」
「なんでも」
まだ玄関にいる二人には真夏の日差しが届いていない。
けれど既に体は熱くなっているのだった。
――――――――
監禁生活を通じ、着実に二人の関係は深く確固たるものへと変わっていった。好きだという言葉を交わして愛も確かめ合っている。
しかし、決定的な言葉は一度も出ていない。
具体的に言うならば、付き合おうという交際宣言が。
柚乃も次第にその事実と直面して考えるようになった。常に監禁トリップ状態ではあっても、頭の片隅に冷静な部分は存在しているのである。
「椋子、わたしちょっと思ったんだけどね」
「なーに?」
いつしか日々の恒例となった外出を済ませ、椋子の部屋へと帰ってきたある日のこと。
これが一般的なカップルであればデートの思い出話に花を咲かせるのであろうが、お察しの通りこの二人にとっては一般的という概念は通用しない。
「わたしたちさ、付き合ってるってことでいいんだよね?」
「えっ?」
足枷をつけ終えたばかりの椋子が顔を上げた。ベッドに腰掛けている柚乃の方が上といういつもの二人である。
「そういう恋人宣言みたいなこと、してないなーって思って」
「あー……そっか」
椋子の困惑はわかりやすく、柚乃につけるべき手枷が椋子の手中でフニフニと弄ばれているのを見ても明らかである。
「椋子の愛が本物だってのはわかってるよ。監禁しちゃうくらいわたしのことが好きだって。けどさ、やっぱり決定的な言葉がほしい気持ちもあるんだよね」
「あの、それはつまり?」
「恋人になれ、って言ってほしい。あ、妻になれでもいいよ」
「命令口調なのが気になる……私そういうのピンとこないんだよね」
「椋子の好きなように言ってほしいの。わたしをどうしたいのか」
「私がしたいこと……」
そう呟くと、椋子はとりあえず今したいことである手枷の装着に取り掛かった。慣れた手つきで数秒とかからず柚乃の四肢は自由を失う。
ちなみに首輪は常に柚乃の首につけられているが、鎖は外出のため取り外されている。もちろん床に打ち捨てられてはおらず、テーブルの片隅で二人の行方を見守っている。
「好きなんでしょ? 監禁しちゃうくらい。でもそれだけでいいの? わたしのこと、全部自分のものにしたいって思わない?」
「思ってるよ。当たり前じゃん」
「いいよ。わたしは椋子のこと好きだから」
「私も好き」
「一緒だね。それで、どうしたいの?」
小首を傾げて見つめられ。
視線に絡め取られながらも椋子は決心を固めた。
「柚乃……私の恋人になって!」
「……うん」
「うぅ、顔あっつい……」
手をヒラヒラさせて自身になけなしの風を送りながら、椋子もベッドに腰掛けた。
その場所はもちろん柚乃の隣。柚乃は手こそ伸ばせないが、動かせる部位は意外と多い。隣に座る恋人の肩に体を預けるくらいは造作もないのである。
「ゆ、柚乃?」
「椋子、好き」
「……今、好きとか言われたら私」
間近でぶつかり合う視線。
そこに伝わるべき感情が含まれていたから、もう言葉は必要なかった。
傾いた柚乃の体を抱き寄せ、肩に手を置く。重なっていた視線が離れても、見つめている先は同じ。
そう、互いの唇である。
「……やば、ドキドキする」
「てか順番めちゃくちゃじゃん。お風呂とかトイレまで一緒に入ったのに、ドキドキって今更?」
「あう、それは」
「ま、いいか。これがわたしたちのスタイルってことでさ。どう考えても普通じゃないでしょ」
「普通じゃなくていいの?」
「いいよ。椋子のものになれるなら普通なんていらない。椋子がいてくれたらそれでいい」
「アワースタイルってやつ?」
「そういうこと」
椋子の頬が緩む。同時に緊張も和らいだのだろう。目を合わせても体が固まらない。
そっと頬を撫でれば柚乃の体が震え、唇がわずかに開かれる。
後戻りの道など最初からどこにもなかったのだ。監禁生活が始まるずっと前から。
「柚乃」
「ん」
だから二人は突き進む。互いを求め、愛を確かめ合うために。
重なった唇から伝わる感触が感情となり、熱情となり、荒れ狂う波となる。
ついばむような軽いキスを繰り返しているように傍目からは映るだろう。
それでいい。内面の真実は二人だけが理解し、通じ合っていればいいのだから。
「……もっと」
「うん……」
椋子が柚乃を抱いているとはいえ、キスによって力が抜けていく中では拘束された体を支え続けるのも難しい。
いつしか椋子は柚乃をベッドへ押し倒していた。無意識なのか愛ゆえか、後手に拘束された柚乃が苦しくないよう体勢を調整して。
「柚乃……好き、好きぃ」
「もっと……もっとしてぇ」
スイッチが入った二人を止めるものは存在しない。果てしなく愛を確かめ合うばかり。
深い繋がりを求め、どこまでも二人は突き進むのだった。
――――――――
「ただいま」
仕事を終えて自宅の戸を開けた椋子を迎えるのは、ほのかな調味料の香り。甘辛い味を想像させる匂いは椋子の空腹感を刺激する。
そして、もう一つ本能に訴えかけるものが目の前に。
「おかえり。もうすぐご飯できるよ」
エプロン姿で微笑む柚乃。菜箸を持つその手にかつての拘束具は存在せず、首と両脚も当然ながら自由である。手枷や足枷、首輪と鎖はクローゼットの中で数日ぶりに使われるのを待っている。
監禁生活によって人生が一変してから数年。今の柚乃が身につける拘束具は、とても小さく大切な一つだけになっていた。
「やった。着替えてくるね」
奥の部屋に移動し、着こなして様になったスーツを脱いでいく。髪をまとめていたヘアゴムは就職してからつけるようになったものだが未だ慣れないようで、外すだけで一気に開放感が増した気分になった。
身支度を進める手に光るのは、どんな時も外さないと誓った絆の証明。
人はその指輪に誓いを込めるが、椋子と柚乃にとっては心と運命を縛る究極の拘束具となっていたのである。
「柚乃ぉ、まだぁ?」
着替えを終えた椋子の声色は退屈さを隠そうとしていない。料理の仕上げをしている柚乃に後ろから抱き付いて、どう見ても構ってほしいという雰囲気を全開にしている。
「もうちょっとだから」
作業を妨害されても嫌悪の顔など見せないのが柚乃という女性である。大仰な拘束具が外れても、柚乃の精神は変わらず支配を欲しているのでマイナスの感情など存在しない。
「そうじゃなくて、おかえりのキスは?」
「……それなら、すぐできるよ」
もちろん求められるまでもなく柚乃も接触を欲していたのは言うまでもない。
柚乃が振り返り、二人は向かい合う。
手を繋ぎ、指を絡め。
薬指の生涯消えない拘束具を確かめて。
「……ん、んっ」
「あっ、んむ」
重なった唇はそう簡単に離れない。
啄ばむような動きは貪欲に唇をはむものへと変わり、荒い息継ぎに合わせて舌が伸ばされる。
遠慮がちに様子を見ていたのは最初だけ。絡み合う水音はどちらがという限定的なものではなく、二人だからこそ奏でられる愛の旋律。
誓い合った関係を証明する口付けは、すぐに終わる様子が欠片も感じられない。
二人の未来に待っているのは互いの心を縛り合い、解放など存在しない永遠の監禁生活。
炊飯器から吹き出す蒸気の向こうで、指輪がキラリと輝いた。