大切なものは、心の中に
「ね、そうでしょ! さきねえ、ここにいたでしょ?」
さっくんと呼ばれた少年は飛び跳ねんばかりに喜び、他の人も驚きと喜びの混ざった声を上げていた。さっきまで号泣していた両親らしき人は、今はまた違った意味で泣いていた。
「咲希……会いに来て、くれたの?」
母親らしき人は、泣きながら笑っていた。
咲希はうなづいた。
「ただ……会いに来るには、代償が必要で」
母親らしき人の笑みが、凍りつく。
他の人たちも、一気に黙り込んだ。
「代償って……」
誰かが、呟くのが聞こえる。
自分で話していて、声が震えるのが分かる。
「……それは、私の生前の記憶全てでした」
——母親らしき人が、崩折れた。
その背に父親らしき人が手を添えて、2人で泣いていた。
少年が、掠れた声でまくし立てる。
「じゃあさきねえ、僕のことも覚えてないの? だからさっき、いつもみたいに咲渡って呼ばずに、さっくんって呼んだの? 姫ちゃんが僕のこと、さっくんって呼んだから? さきねえって呼んでも誰それって顔したのも、覚えてなかったからなの?」
「……そうだよ」
咲希には、そうとしか答えられなかった。
「ひめのことも、覚えてない?」
そう聞いて来たのは、さっき少年に『咲希ちゃんは死んじゃったんだよ!』と叫んだ彼女。咲希はうなづく。申し訳なくて、思わず視線が下がる。
(咲希ちゃん……)
俯く従姉妹を目の前にした少女は、何とかして従姉妹に顔を上げて欲しかった。俯かないでほしかった。
従姉妹が悲しんでいるところを、見たくない。
(どうしよう……咲希ちゃん……)
考えた。
考えて考えて、考えた。
(そうだ!)
「……なら咲希ちゃん、教えてあげるよ!」
思いついたと同時に、叫んでいた。
その声に、咲希の目線がぱっと上がる。
「忘れちゃったなら、また覚えればいいでしょ?」
するっと言葉が口から溢れてきて、その言葉に少女は心の中でうんうんとうなづいていた。
(そうだよ! 忘れちゃったなら、また覚えればいいんだよ!)
少女は一人一人指差しながら、説明を始めた。いつもなら人を指差すと怒られるけれど、少女はそんなことなど忘れていたし、大人たちは注意する気になんてなれなかった。
「この人が咲希ちゃんのお父さん。さっきお通夜の最後にお話ししてたでしょ? で、この人が咲希ちゃんのお母さん」
少女の叔父と叔母を指差すと、従姉妹は小声で「やっぱり」と呟いていた。もしかしたら何となく勘づいていたのかもしれない。
「こっちが咲希ちゃんの弟の咲渡。私たちはさっくんって呼んでるけど、咲希ちゃんは咲渡って呼んでたよ」
「そう。僕は内川咲渡。咲希ねえの4つ下の弟だよ。今は小6」
従兄弟の補足も入り、従姉妹はうん、とうなづいた。
「ひめの名前は、姫美っていうの。咲希ちゃんの従姉妹で、今は小学校3年生。だからえっと……」
「……7つ下じゃないの?」
「あ、そうだねさっくん。咲希ちゃんの7つ下」
自分の自己紹介も無事に済ませた少女。姫美はそのあと一気に自分の父親と母親——つまりは咲希の伯父と伯母にあたる2人と祖父母の紹介をした。
「こっちにいるのがひめのお父さんとお母さん。だから咲希ちゃんの伯父さん伯母さんだよ。で、こっちにいるのがおじいちゃんとおばあちゃん」
最後に姫美は申し訳ない思いに駆られながら、
「他の人は……ごめんね、ひめは分かんないんだ」
と締めくくった。姫美は咲希の父親の兄の娘のため、父方の血縁関係しか分からなかったのだ。
「ありがとう、えっと……姫ちゃん」
従姉妹に礼を言われ、姫美は照れくさそうに笑って、首を振った。
咲希は不意に、違和感を覚えた。
(——姫ちゃん、かぁ……)
「じゃあ、姫ちゃんの続きは僕がするよ。と言っても、母方の皆さんだけだけど」
そう言ったのは、咲渡だ。
(僕が全部説明したほうが早いじゃないか、もう。僕なら父方の説明も母方の説明もできるのに……でも、言い出しっぺは姫ちゃんだし、いっか、そのくらい)
咲渡は心の中では半ば拗ねていたが、姫美よりも年長者だし、そもそも自分が姉に親戚関係を教えようと思わなかったのが悪かったのだからとぐっと我慢して。
「こっちにいるのがお母さんのお兄さんで、その隣にいるのが奥さん。たしかお母さんの義理の妹だったと思うけど」
そう紹介された2人は小さくうなづいてみせた。
「そこにいる車椅子の人が、母方のおばあちゃん。じいじは……今、入院中。悪い病気で、今病室から出られないんだって」
「……そっか」
姉の悲しそうに呟く声が聞こえた、気がした。
でも、それも一瞬。
「ありがとう、咲渡……」
姉はすっと目を閉じた。声に漂う迷いの響きを纏わせて。
その響きを振り払いながらゆっくりと開く目。
「……うん、咲渡も」
迷いは消えないが、さっきとはまた違う響きだった。
「ありがとう、咲渡……」
咲渡くん、と呼びかけて、
(……いや)
咲希は、ふっと目を閉じる。
(咲渡くんじゃなくて、私の弟の、咲渡……か)
そんなことを考えて、目を開く。
「……うん、咲渡も」
そういったあとに残ったものは、
(……なんだろう、これ……)
目の前の少女に向かって「姫ちゃん」と言ったときと、同じ違和感だった。
考える。
違和感の正体を探る。
さっきよりもきつく、目を閉じる。
なにかを見逃している気がするのだ。
(変なの……私、この人たちを知らないのに)
そう思った途端、
(……違う)
心が叫ぶ。
(知らない響きじゃない。私はこの響きを知ってる)
ハッとした。
その瞬間、目からさっきと同じ違和感が飛び込んでくる。そしてそれは、確信に変わる。
「——みんなのことを、私は、知ってる」
(そうだよ! 私はこの人たちを知ってるんだ!)
「私……みんなのこと、思い出してきたかも……!」
その咲希の言葉に、その場にいた家族の表情が一気に明るくなる。
咲希は溢れ出す思いを、そのまま口にした。
「みんなのこと、大好き……みんなと過ごせて、本当に良かった……!」
想いは止まらない。次々と溢れ出して、口からだけじゃ足りないと言わんばかりに、目からも溢れ出していた。熱い。火傷しそうなぐらい、その想いは熱い。
「お父さん、お母さん……2人がいたから、私は今まで生きてこれた……本当に、ありがとう」
咲希の両親は、もううなづきながら泣くことしかできなかった。でも、2人とも笑っていた。
「咲渡、咲希ねえは咲渡のこと、大好きだからね。もちろん、姫ちゃんも」
「僕も! 咲希ねえのこと、ずっと大好きだよ!」
「ひめもだからね!」
2人が咲希に飛びついてくる。咲希はそれを受け止めながら微笑み、撫でてもう一度「2人とも、大好き」と呟いた。
名残惜しそうに2人を引き剥がすと、
「皆さんのことも、もちろん大好きです。今まで迷惑かけてばかりでごめんなさい。本当に今まで、ありがとうございました」
咲希は、そう言って頭を下げた。
そして、頭を上げて一言。
「そして……また、いつか」
さよならなんて言葉は思い浮かばなかった。
また、いつか。
それが一番ふさわしい言葉に思えた。
咲希は笑う。不思議と明るい表情で。
その理由は、咲希すら分からない。
「——咲希ちゃん、もういい?」
不意に咲希の家族でない声が聞こえた。
咲希はブレスレットをしまい、振り返る。そして、顕子に向かってうなづいてみせた。
「咲希ねえ……?」
呟くような、周りのすすり泣きの声に掻き消されそうな咲渡の声に、咲希は弟に向き直って、しいっ、と唇に人差し指をあてた。
「探し物を見つけに行かなきゃ。他にも会いたい人がいるからね。だから、もうさよならだよ」
咲渡はコクリと頷いた。寂しそうな笑みを浮かべて。咲希は咲渡がうなづいたのを確認して、顕子の方に歩み寄る。
しかし、不意に立ち止まる。
「……あ、でももし時間が余ったら……」
咲希は振り返って付け足した。
「また、会いに行くから」
パアッと咲渡の表情が明るくなった。
弟が嬉しそうな笑顔を見せたのを見るなり、咲希は顕子に駆け寄る。そして、「もう大丈夫です」とささやいた。
「そう? なら帰ろっか」
「はい!」
そして2人は、家路につく。
「咲希……」
「……会いに来て、くれたんだね」
その場に残された遺族たちは、温かな涙を流していた。
「……もっと、ここにいればよかったのに」
少し寂しそうに呟いた姫美に、
「自分が焼かれるところを見たくないんじゃない? 一緒にいたら、ほら、明日には自分が焼かれるところを見ることになるんだよ? 姫ちゃんはそんなの、見たくないでしょ?」
姫美の母親がそう言ってなだめていた。しかし、姫美は「でも、でも」と言って聞かなかった。
「……他にも会いたい人が、いるんだって」
ぶっきらぼうに答えたのは、咲渡だ。
「本当はここにいたいんじゃないの。でも、僕らに会いに来たみたいに、会いたい人が他にもいるって言ってた。だから、失くした記憶を探しながら、会いに行くんじゃない」
そう言いながら、咲渡は心の中で問いかける。
(別に、これは言ったっていいよね、さきねえ)
もうこの場にはいない姉に。
咲渡は思い出していた。
生きている時と同じ、いたずらっ子のような笑み。その三日月型の口に当てられた、生きている人のものと明らかに違う、青白い指。
あの仕草は、立ち去ろうとする姉に「行かないで」と言おうとしたのを止めるためのものだったのだと分かっていた。多分だけど、今止められたら、もうここから離れられないと姉は考えたから。本当は、家族と離れるのがさみしかったから。多分、ここにいる誰よりも、きっと。
だけど、他に会いたい人がいるから立ち去るということを他の人に言わないで、と口止めされたような、そんな気分にもなっていた。だから確認せずにはいられなかった。たとえ、返事がないと分かっていても……。
「……そっかあ……」
そう言ったのは、咲希の母親だった。
「時間があったら、また会いに来るって」
咲渡の言葉に、姫美が「ひめのところにも来るといいなあ」と呟いた。
「……でも、また咲希ちゃんに会えるかどうかは分からない。もしかしたら時間がなくなって、会いに来ないかもしれないよ?」
そう言ったのは姫美の母親。その言葉に、咲希の父親が首を振る。
「でも……そうだとしても、もう二度と、会えないかも知れなくても、きっと咲希はいつまでも、心の中で生きてる。それで充分な気がしないか? 少し……寂しいけどな」
「……心の、中で……」
誰かが呟く。ある人は胸に手を当てて、ある人は握っていた手をさらに握りしめる。
そしてみんな、温かな何かが胸の中に宿った気がして、微笑んだ。
少し冷たいけれど、不思議と温かい感情が、その場にいる人全員を包んでいた……。
Even if——たとえ……だとしても。




