出会いなおし
不意に、顕子が口を挟む。
「——自己紹介は済んだかな。それでね、咲希ちゃんもいるんだし、咲希ちゃんと一緒に楽器を吹くのはどうかなって思って。だけど咲希ちゃん、運指も忘れちゃったみたいだから教えてあげてよ」
「りょーっ!」
顕子の頼みを湧真があっさりと承諾したのは、きっと、湧真も咲希と楽器を吹きたいからなのだろう。そして楽器を手にした今、咲希もこの楽器に興味が湧き始め、吹いてみたいと思い始めていた。なので湧真はにこにこと笑いながら咲希に吹き方を説明し、咲希も楽しそうに練習をした。
ある程度咲希が楽器を吹けるようになったところで、顕子が「よーし!」と言った。
「じゃあ、吹いてみよっか!」
「そうしよー」
「はい!」
吹くのは、さっき湧真が一人で吹いていたのと同じフレーズ。
全員が楽器を構え、お互いの顔を見る。そして、湧真が合図を出し、吹き始めた。
おどおどした感じは否めないが優しく鳴る、咲希の低音。
どこまでも豊かに歌い上げる、湧真の対旋律。
そしてその上で滑らかに踊る、顕子の旋律。
咲希はなんとも言えない気分だった。
不思議と懐かしい感じがする。でも何も思い出せない。心地いい。ずっとこの中にいたい。でも、いずれ曲は終わる。時間は止まることはない。
気付いた時には、そのフレーズは終わっていた。
自然と、お互いに顔を見合わせていた。
微笑みが、ついついこぼれた。
B棟二階、二年二組の教室。
「楓ちゃん……」
「……咲希がいないと、寂しいですね」
そこには、二人の少女がいた。
一人は、茶髪でセミロングの髪をひとまとめにして結んでいる女の人。今日の朝、場違いな明るい声を出して空気をぶち壊した、あの人だ。
一人は、焦げ茶色のショートの髪を内側に巻いている、楓ちゃんと呼ばれた女の人。今日の朝、セミロングの女の人に声をかけられ、泣き出してしまった子だ。
二人とも、椅子に座って微動だにしない。
二人とも首にストラップをかけていた。
しかし、ストラップにあるフックの先には、何もなかった。
楽器は少し離れた机の上に置かれたままで、冷え切ってしまっている。
他の部屋からは音が聞こえるのに、この部屋だけが無音だった。
そう。この二人が、残りのサックス奏者だ。
外からは湧真がテナーサックスを吹く音が聞こえてくる。
「湧真……よく吹けるよね」
「湧真先輩のことですから……逆に吹いてないと、落ち着かないんじゃないですかね」
「……そうかもね」
セミロングの女の人の方が、高校二年生。
ショートの女の人の方が、高校一年生。
二人とも、練習しなければならないと分かっていながら、練習する気になれずにいた。
「……」
「……」
二人とも、ほとんど話さない。
心の中で、どうしようもない事実を思い返すばかりで。かえらない思い出を考えるだけで。
それに先に気付いたのは、ショートの女の人——楓だった。
(——バリサクの音?)
楓は耳を澄ませた。
かすかに聞こえた気がした。聞こえるはずのない音が、聞こえた気がした。
でもすぐに聞こえなくなって、
(……気のせいか)
と考え直した。
しかしその直後、また聞こえた。
かすかで、でもさっきよりも長い音。
(やっぱバリサクの音だよ!)
しかし、音はもう聞こえなくなっていた。
(……でも、空耳かなあ)
思わずため息をつく。
(だってバリサク奏者は咲希だけだし……他の人がバリサクを吹いてるわけでもないだろうし、空耳だよ、きっと。そうだよ。咲希の事ばかり考えてるから空耳が聞こえたんだよ)
一人でそう納得した直後、再び思考の渦に飲み込まれた。
音が、旋律が、聞こえた。
湧真のテナーサックス、顕子のフルート。
そして……咲希のバリトンサックス。
三つの楽器がそれぞれのフレーズを吹く。
その音を、たしかに二人は聞いた。
セミロングの女の人が不意に、はじかれたように立ち上がり、教室を飛び出した。
「琴音先輩!」
楓が慌ててそのあとを追う。
二人の向かう先は、同じ場所だ。
「もう一回吹きましょう!」
咲希が、叫んでいた。
湧真と顕子は面食らったような表情を見せたが、すぐに微笑んで「いいよー」「もう一回吹こう!」と同意した。
三人は再び楽器を構える。
息を吸って……「湧真っ!」
かん高い声に遮られた。
思いっきり息を吸い込んでいた湧真は、思わず咳き込んだ。振り返ると、そこにいたのは、あのセミロングの女の人。
「ゲホ、ゴホッ……琴音かあ。どうしたのさ?」
「どうしたのさ? じゃないよっ! なんでよ! なんでこんな事になってるわけ⁈」
「ちょ、待って……は、話が読めないんだけど」
鬼気迫る表情で詰め寄るセミロングの女の人——琴音に、うろたえる湧真。湧真には、何が何だか分からない。
「だからっ! なんでバリの音が聞こえるの! さっき、聞こえたんだよ! フルートとテナーとバリで曲を吹いてんのが! ねえ、なんでよっ……!」
いつの間にか、琴音の後ろには楓がいる。楓も琴音と同じ疑問を抱えていた。
「な、なんでって……咲希ちゃん、いるから」
「は?」
「え?」
見事に琴音と楓の声がハモった。
「あっこが三人で吹こうっていって……俺もみんなで吹きたかったし……咲希ちゃんも、吹きたそうだったから……」
湧真の声は、どんどんしぼんでいく。
「あー……湧真は一旦黙っててね。
——琴音と楓ちゃん。実はね、咲希ちゃんが……っていうか、咲希ちゃんの魂が、今ここにいるの。急に言われてもって思うかもしれないけど、本当のことなんだ。ただ、記憶は失ってしまってるみたいなんだけど……」
三人の様子を見かねたのか、顕子が口を挟む。
「というわけで、目閉じて」
ポンポンと調子よく説明をする顕子。琴音と楓は驚きすぎて、半ば放心状態だった。そのせいなのか、顕子の言うことを素直に聞いて目を閉じる。
顕子はさっき湧真にしたように二人の頭に触れ、「もう開けていいよー」と言った。
二人は恐る恐る目を開けて……咲希を、見た。
「咲希ちゃん……!」
「咲希……?」
琴音は突然咲希に駆け寄るなり、抱きついた。もちろん、咲希が驚きと戸惑いの声をあげたのは、言うまでもない。
「……会いたかった。すごく、すごく」
「え、あ、あの……苦しいです」
咲希の声で、自分がきつく咲希を抱きしめていた事に気付いた琴音は、「わっ! ご、ごめんっ!」とあたふたとしながら咲希を離す。
「ごめんね。つい、嬉しくて」
「いえ、大丈夫です……。あの、お名前は……?」
その咲希の一言で、琴音の頭の中に顕子の言葉が蘇る。
『——ただ、記憶は失ってしまってるみたいなんだけど……』
咲希は、その人の寂しそうな微笑みを見た。
「うちはね、野上琴音。咲希ちゃんの、一個上だよ」
「あと、琴音はアルトサックスを吹いてて、サックスパートのパートリーダーだよ」
琴音の自己紹介に、顕子の補足が入る。
「よろしくお願いします」
咲希は精一杯笑った。その目が笑っていないのを、顕子は見ていた。
「うん、よろしくね」
琴音も笑った。さっきの微笑みよりもさらに寂しそうに見えたのを、咲希は見逃さなかった。
「……本当に、咲希?」
その声に、全員がその声の方を向いた。
——楓だった。
「な、なんで?」
そう問いかけた湧真の声は、震えている。
「幻かも、って思った?」
顕子の問いかけには答えにくそうにしていたが、しばらく迷って、「はい」と答えた。
「先輩なら……出来ますよね?」
「出来るけどやってないよ。それやっても意味ないでしょ? それに、咲希ちゃんはうちが来る前に凛に会ってるし」
咲希はうなづいた。
「ミーティング……が始まる前に、もういました。浅沼さんも、あなたも、野上さんも、それから……髙橋さんも、見ました」
知らない人ばっかりだなぁって思ってたら、私が記憶を失くしてて、と言って、咲希は苦笑いする。
「野上さんが私のことを呼んだのも、ミーティングで泣いていたのも、見てました。あなたが野上さんに声をかけられて泣いていたのも。髙橋さんが私を見た瞬間、信じられない、って感じで私を見たり、手をつねっていたり、そのあと、浅沼さんが高橋さんに向かってどうしたの、って言ったり……」
その言葉は、最後まで発せられることがなかった。
喉が不自然に締まって、話せなくなったのだ。
頰が冷たかったのは、気のせいだろうか。
「……ごめん。疑ってごめん、咲希。だから、もう泣かないで」
楓の言葉で、ようやく咲希は泣いていたのだと気付いた。頰が冷たかったのは、涙のせいだったのだ。慌てて目をゴシゴシとこする咲希を見た楓は、おもわず笑ってしまう。
「もう、すぐ泣くのは変わんないんだから。目をこすったらかゆくなるよ。はい、ハンカチ。使って」
「あ、ありがとうございます……」
「それと、うちは西野楓。楓ちゃん、って咲希はうちのことを呼んでたから、できればそう呼んでほしいな。咲希と同い年。だからタメ語で話してね? 敬語使われるの、違和感ハンパないからさ。うちも琴音先輩と同じく、アルトサックス吹いてるんだ。よろしく」
楓の表情は、さきほどまでの表情からは想像が出来ないほど明るい笑顔だった。
「……よろしくね、楓ちゃん」
つられて、咲希も自然と笑った。
「——そうだ! 楽器取ってくる」
楓は不意に、ポンっと手を叩いて言った。
「え、なんで?」
「咲希と楽器吹きたいからに決まってるでしょ!」
すぐ戻るから、と言って、楓はタタタッ、と駆けていく。
「——ダメだなぁ、うち……」
思わず、琴音が呟く。その声に、全員がそちらを振り向いたが、琴音は気付かない。
「うちが一番しっかりしてなきゃいけないのに、こんな頼りないってなぁ……」
ぽた、としずくが落ちた。
「……あの」
思わず咲希は、楓から借りたハンカチを渡す。
「……ありがとね、咲希ちゃん」
咲希は無言で微笑み、首を振った。
琴音が涙を拭っていると、楓が戻ってきた。なぜか、アルトサックスを二台持っている。一台はストラップにかかっていて、もう一台は手持ちだ。
「これ、先輩の楽器です」
「あ……ありがと、楓ちゃん」
楓は琴音に楽器を手渡してから自分の楽器を手に取り、唐突に音を出し始めた。それを聞いた琴音や湧真も音を出し始める。
「音出しだよ」
唐突に楽器を吹き出した三人に驚き、なぜ楽器を吹き出したのかと疑問に思った咲希の心に答えたのは、顕子だ。
「しばらく楽器を吹いてなかったからね。突然吹くのと慣れてから吹くのとじゃ、全然違うでしょ?」
確かに、と納得した咲希も、音出しを始める。
「……中村さんは、音、出さないんですか?」
「ん? 四人で吹いたほうがいいかなーって思って。うちだけ楽器違うし、仲間はずれだよ?」
ある程度音を出して慣れてきたところで、全員が吹くのをやめた。
湧真が吹くところを琴音と楓に説明した。そして、
「じゃあ、いくよ」
そう言ったあと、湧真が合図を出して演奏は始まった。
旋律が、フルートからアルトサックスに変わったことにより、滑らかさよりも柔らかさが勝るようになる。その裏ではテナーサックスが豊かに対旋律を歌い上げ、それを優しいバリトンサックスの低音が支えた。
全ての音域を、同じ音色のサックスが溶かして繋げる。
顕子と湧真、咲希の三人で吹いた時よりも、サックスの四人で吹いた時の方が、音楽が自分の中に染み渡っていく気さえした。
間違い無く、四人は今、一つになっていた。
フレーズが、終わった。
全員が、心地よさげな笑みを浮かべていた。さっきまで本当に笑うことをしなかった琴音でさえ、微笑んでいる。
咲希は、琴音の笑顔を初めて見た気がした。
「……野上さん。笑顔の方が、素敵です」
咲希は思わず、口にした。
琴音は驚いたように咲希を見ると、
「……うん、そうだね!」
と言って、満面の笑みを浮かべた。
「——さて、咲希ちゃん。これで、サックスパートのみんなと出会いなおせたね」
顕子の言葉に、咲希は「……はい!」と目一杯の笑みを見せた。




