未来への想い出
午後は凛が朝予告した通り、合奏の時間となった。
今日の合奏で指揮を振るのは、学生指揮者。学指揮とも言われ、指導をする講師や先生がいない時に指導をしたり、校内発表や定期演奏会などで指揮を振ったりする部員のことだ。
前に立ったのは、顕子だった。
皆で合奏開始の号令をかけ、全員が椅子に座った後、顕子は話し出す。
「えーっと、今日は、十一月のショッピングモールでの演奏で吹く曲のうち、ポップスの二曲とアンコール曲をやります」
顕子は咲希が過ごす最後の日だからとはいえ、特別なことなどするつもりはなかった。そして、咲希もそれを望んでいた。そのため、顕子は普段どおりに合奏を始め、曲の練習をした。
やがて音楽室からは、最近流行りの明るく弾けるような曲が流れ出した。そして顕子の指導の声と、それに対する返事の声が聞こえてくる。そして吹いて、止められて、指導が入って、また吹いて。時折休憩を挟み、曲を変えて、合奏は続いた。
時間はあっという間に過ぎ、合奏が終わる時間になった。合奏の終わりの号令をかけてすぐ、ミーティングが始まった。
出欠を再び確認し、連絡事項と明日の予定。
「何か連絡ある人ー」
凛がそう言って、何人かが連絡事項を伝えた後、咲希が手を挙げた。
「はい、咲希ちゃん」
「……えっと」
咲希は寂しそうに笑った。
「これから、私は花畑に戻って、死の国に行きます」
その瞬間、時間が止まったかと思えるほどの静けさが訪れた。
「私が花畑に戻りたいって念じたら、道が現れるそうです」
「……本当に、逝っちゃうの?」
誰かが、問いかけた。
「はい」
咲希はうなづき、そして、念じた。
花畑に戻ります、と。
その時、顕子は声を聞いた気がした。
『ごめんね……やっぱり、渡せなかった』
(……さっちゃん?)
「道が……現れない」
「えっ……?」
咲希の言葉に、部員がざわめく。
「花畑に戻るって念じたのに……どうして?」
「……戻れないなら、戻らなくても良くない?」
「良くないんです! 戻らないと……永遠に私はここにい続けることになります。皆さんが卒業しても、大人になっても、私は高一のままで、一人ぼっちで……その先の未来には、きっと永遠の孤独が待っています」
咲希のその言葉に、その必死さに、部員は何も言えなくなる。
「……どうしよう……」
咲希がぽつりと呟く声が、音楽室に虚しく広がる。
顕子は今朝の夢を思い出す。
(あれは夢……さっちゃんの見せた、正夢)
道が渡せないかもしれない、そう泣きそうな声で言った双子の妹の声が、やけに耳にこびりついていた。
(さっきの声は……空耳じゃなかったのかも)
咲希が花畑に戻りたいと願った時、顕子の耳に届いた聡美の言葉は、きっと、本当に顕子の耳に聞こえた声だったのだろう。
(……なんとかしないと)
すでに時間は夕方と言っていい時間。
日はゆっくりと落ち始めている。
(黄昏時——逢う魔が時だ。不思議な力が、一番強く働く時間。……なんとかなるかもしれない)
顕子は朝から考えていた。
万が一花畑から道が渡せなかった時、咲希を花畑に返す方法を。
(——向こうが道を渡せないなら、こちらから渡してあげればいい)
そのためには、部員の皆の協力が必要だった。
「——よし! みんな、最後の演奏をしよう!」
「えっ⁉︎」
顕子の言葉に、部員が驚いて思わず叫ぶ。
「曲はね——」
そんな部員の驚きをよそにして、顕子は演奏する曲のタイトルを口にした。
それは十一月にショッピングモールで演奏する予定の曲のうちの一つで、学生指揮者ではなく顧問の先生が指揮を振る予定の吹奏楽曲だ。
そしてそれは、咲希が好きな曲で、午前中にもサックス奏者の四人が渡り廊下で吹いていた曲。
「でもあっこ、この曲の指揮振れるの?」
凛の問いに顕子はあっけらかんとして、
「えっ? 振れるわけないでしょ? だからうちは最初の合図しか出さないよ」
顕子の手にはすでに、フルートをがあった。
その顕子の言葉にざわつく音楽室。
「ほら、一昨日みたいな感じでやればいいんだよ。大丈夫! 一昨日は出来たんだから」
顕子はそう言って笑い、ほらほら、と他の人にも楽器を構えるように促した。
合奏は終わったはずなのに。指揮者がいないのに。今はミーティングの途中なのに。咲希の帰る道が現れないこの時に悠長なことを。そう文句を言いつつしぶしぶと楽器を構える部員に、顕子は一言。
「……最後だからね。悔いのないように、想いを込めて吹こうね」
その言葉に、その表情に、心を動かされた。
顕子の表情は、部員には後悔したくないという思いが伝わってくる表情に見えた。
しかし、本当は顕子は懇願していたことに、祈っていたことには、誰も気付かなかった。
顕子が合図を出し、優しいメロディーが奏でられる。
徐々に増えていく音。豊かになっていく曲。
さりげなく曲を盛り上げていく打楽器の音が聞こえる。
歌う中低音。その上で踊る高音。それを支える低音。
メロディーは様々な楽器に受け継がれて奏でられていく。
音は表す。そして伝える。
今までありがとう、とそれは歌った。
今までごめんね、とそれは奏でた。
大好きだよ、とそれは流れた。
そして、それは思い出を語る。
あんなことがあったよね。
こんなことがあったよね。
楽しかったよ。
嬉しかったよ。
悲しかったな。
辛かったな。
今となっては全てがいい思い出。
本当に幸せだったよ。
ありがとう。
思い出を込めて。想いを込めて。
そして曲は進んでいく。
終わってほしくない。
でも、もう終わってしまう……。
優しく柔らかで、豊かな音が、最後の和音を奏でた。
そして、それと同時に……道が現れた。
咲希の、目の前に。
「咲希……逝っちゃうの?」
楓が、ぽつりと呟く。
「うん……逝くよ」
咲希はそう返すと、音楽室全体を見渡した。
「……今まで、本当にありがとうございました。皆さんに出会えて、本当に嬉しかったです。迷惑ばかりかけたかと思います。ごめんなさい。沢山の幸せを、ありがとうございました。
そして……さようなら」
楽器を、足元に置いた。
そして、道を歩き始める。
花畑へと続く道を。
「——咲希ちゃん、またね!」
誰かが叫んだ。
それを皮切りに、部員が叫び出す。
「咲希! 今までありがとう!」
「うちらも楽しかったよ! すっごく!」
咲希は振り返らなかった。ただただ一人で、その道を歩いていく。その表情は、誰にも読めない。
それが部員にとって忘れられない、未来へと続いていく思い出になったことは間違いないだろう。
咲希は歩く。ひたすら歩く。花畑まで。
後ろから声が聞こえたが、振り返らなかった。
振り返ったらきっと、立ち止まってしまう。
立ち止まってしまったら、もう二度と歩けない気がした。そんなのはダメだ。
だから振り返る代わりに、言葉を紡いだ。
一番身近だった家族へ。いくら言っても言い足りないからこそ、短くまとめた。
「みんな、ありがとう。大好き」
大切な親友へ。もしかしたら、今頃泣いているかもしれない、と思った。
「泣かないで、春菜。また会えるよ。だからその時まで、ね?」
クラスメイトへ。今はみんなてんでバラバラのところにいるのだろう。
「クラスのみんな。今まで、ありがとね。本当に楽しかった」
部活のメンバーへ。始まりと終わりの時に、一緒にいてくれた人たち。
「みなさん、楽しくて幸せな毎日を、ありがとうございました」
街がどんどん離れていく。
現世を離れ、そして、花畑へ。
沢山の思い出と想いを胸に抱えながら。
咲希は寂しさと満ち足りた気持ちの両方を感じながら、旅立っていった。
Memory——思い出。記憶。




