奏でる者
顕子は咲希と、階段を降りる。
「……あの、中村さん」
咲希に呼び掛けられた顕子は、思わずハッとした。
(中村さん……そっか……)
「なあに?」
「バリトンサックスって、どんな楽器なんですか?」
——普段とは違う呼び方。そして、昨日までは自分で吹いていた楽器について訊かれたこと。
顕子は、改めて咲希が記憶をなくしたことを突きつけられた気がした。
「髙橋さんが画像を見せてくださったんですけど、あまりピンとこなくて……」
「うーん……」
でも、顕子はなんともないふりをする。
(だって、変に気を使うよりもいつも通りに接したいし、その方が咲希ちゃんも多分、気が楽だよね)
「あっ、いいものがあるよ」
顕子は足を止めてスマホを取り出し、そして……。
咲希は隣にいる顕子に問いかけた。
「バリトンサックスって、どんな楽器なんですか? 髙橋さんが画像を見せてくださったんですけど、あまりピンとこなくて……」
「うーん……あっ、いいものがあるよ」
顕子は足を止めてスマホを取り出し、なにやらいじり始めた。そして「あ、あった!」というと、画面を一回ポンっと押した。
「わぁ……!」
思わず咲希は声をあげる。
艶やかな旋律が、スマホから流れ出していた。それに絡みつくのは、柔らかに歌い上げられる対旋律。それを支えるのは、優しく豊かな低音だ。
高い音と少し低い音、そして低い音がそれぞれ役割を取り替えながら一つの曲を作り上げる。
その演奏はお世辞にもとてもいいとは言えないかもしれない。不思議なことに途中でプツリと音が切れる瞬間があるし(奏者全員の息継ぎのタイミングがかぶるとこうなってしまう、と顕子が説明してくれた)、ちょっと間違えたのかな、という響きのところもある。でも、しっくりくるものがあった。そう、この感覚を言葉にするなら……。
「……懐かしい、です」
「思い出した?」
首を振る。いつのまにか音楽は止まっていた。そこで咲希は、聞いていて感じた疑問を投げかける。
「あの、これ、全部同じ種類の楽器なんですか?」
「うーん、まあ、そうとも言えるし、そうでないとも言えるかな。全部サックスってくくりには入ってるけど、音の高さが違うの」
顕子はスマホを再びいじり、画像を見せた。さっき凛が見せた画像に似ているけれど、少し違う。
「これがアルトサックス。今の音源だと、メロディーをいっぱい吹いてる高めの音だね」
顕子はスマホの画面をスクロールさせて、別の画像を出す。アルトサックスに似ているが、微妙に違う。
「これはテナーサックス。少し低めの音が聞こえたでしょ? メロディーの後ろで動いてるやつ。それはこの楽器で吹いてる」
咲希はうなづいた。顕子はスマホにロックをかける。
「バリトンサックスはさっき画像を見たって言ってたから分かるよね? 一番低い、全部の音を支えている音だよ。『バリサク』とか『バリ』なんて略されることが多いかな。ちなみにさっきのバリの音、咲希ちゃんが吹いてた音だよ?」
「えっ⁉︎」
咲希は思わず耳をすます。さっきの低音を思い出そうとする。
(さっきの音が、自分の吹いた音)
しかしもちろん、音が聞こえてくるわけでもないし、うまく思い出せない。
なので仕方なく、また質問を始める。
「これ、三人で演奏してるんですか?」
「ううん、四人だよ。アルトを吹いてるのが二人なんだ。テナーとバリは一人ずつ。だから、四人」
咲希がそうなのか、とうなづいていると、顕子は二階で階段を降りるのをやめた。
「こっちだよ、咲希ちゃん」
この学校には、四つの棟がある。
正門から見て一番近い、三階建ての棟がA棟。
A棟の向こう側にある、三階建ての棟がB棟。
B棟の向こう側にある、二階建ての棟がC棟。
一番奥の、音楽室がある五階建ての棟がD棟。
そして、全ての棟が、二階にある渡り廊下で一直線につながっている。但し、B棟とC棟を繋ぐ渡り廊下だけ、屋根がない。廊下というよりかは、コンクリートと錆び付いた柵でできた、まっすぐな橋のようなものなのだろうか。
その渡り廊下で、一人でテナーサックスを吹いている男の人がいる。
深く、深く、息を吸う。
柔らかに、優しく、それでいて力強く、伸びやかに遠くまで、音を飛ばしていく。
息が足りなくなって、また深く吸う。
そして、歌い上げる。
彼の得意とする吹き方が、優しく柔らかに、そして豊かに「歌い上げる」吹き方だった。
曲のとあるワンフレーズを吹くと、一度吹くのをやめる。
いつも、自分と同級生一人、後輩二人——今では一人だが——が練習場所として使っている教室からは、未だに音が聞こえない。
(気持ちはわかるけど)
彼はふと考える。
(咲希ちゃんがいなくなったのが寂しいのは分かるけど、でも、立ち止まっているわけにもいかないよ)
サックスを担当しているのは、全員で四人。そのうち一人が、昨日死んだ咲希だった。今、ここでサックスを吹いている彼もそのうちの一人。残りの二人は、サックス奏者に割り当てられた練習部屋で楽器も吹かずに——吹く気になれずにいるようだった。
彼は再び、楽器を構える。
息を深く吸う。
そして、吹く。切なく、優しいフレーズを。
どこまでも届くように。どこまでも響くように。
(でも、まあ俺も寂しいよ)
不意に喉が閉まる。音が止む。
喉が閉まっては、いい音が出ない。
深呼吸。
すぅっ、はぁっ。すぅっ、はぁっ。
再び楽器を構え、深く吸う。そして、吹く。優しく、伸びやかに、歌う。
(——もし、叶うことなら)
彼は楽器で歌いながら、そっと願う。
(叶うことなら、この音が咲希ちゃんのところまで、届くといいな)
咲希と顕子は、D棟を抜けてC棟にいた。
顕子が、不意に声をあげる。
「……あ、湧真だ」
「?」
「ほら、そこの渡り廊下でテナー吹いてる人だよ。浅沼湧真。咲希ちゃんの、一個上」
言われてみると、確かにそこには男の人がいた。さっき画像で顕子に見せられた、テナーサックスを吹いているようだった。
タタッ、と顕子は軽やかに走り出す。咲希は慌てて追いかける。
「おはよう、湧真。今日は一段と音が出てるね」
「おはよ、あっこ。なんか今日は思いっきり吹きたい気分でさ。部屋の中だと響いちゃうし、思い切って外に出てみたんだ」
顕子の声に、湧真は吹くのをやめ、ははは、とわざとらしく湧真は笑う。
そして。
「……あとはね。教室、吹きづらい雰囲気でさ」
すっと表情を曇らせて、小さな声でつぶやいた。
「あー、そうだよね……」
顕子は自分が思ったよりも暗い声を発していた。
思わず、顕子も咲希も、顔を曇らせる。特に咲希の気持ちは、重たい。
「……なんかごめんね? よーし、もっかい吹こう」
その場にわだかまる暗い雰囲気を吹き飛ばそうとしたのか、湧真は明るく言い、息を深く吸って、さっきと同じフレーズを再び吹いた。
「やっぱ湧真って楽器上手いよねえ。ちょっと羨ましいな」
「俺はあっこも上手いと思うんだけどなぁ。でも、そう言われると嬉しいよ」
顕子は湧真が吹き終わった後に呟くように言い、湧真は本当に嬉しいのか、笑って答えた。
「あ、そうだ」
不意に何か思いついたのか、顕子がいたずらっ子ぽく笑う。
「一人で吹くのもいいけどさ、」
そして、ぱちりと指を鳴らした。
「……どうせなら三人で吹かない?」
顕子が楽しそうに言った。しかし、それは独り言のようで、湧真にも咲希にも、はっきりとは聞こえていない。
咲希は、気付いた時には楽器を手にしていた。首からは太い紐——後で聞いたことだったが、それは「ストラップ」というものだった——がかかっていて、その紐の先につくフックが楽器につく小さな輪にかかり、楽器を支えている。
突然現れた楽器に驚きながらも、咲希は目の前にいる湧真の真似をして、楽器を構えてみる。それはストラップがないと持てないだろうと思うほどにずっしりとして重い。ひんやりとした金属の冷たさが伝わってくる。そしてそれが不思議と、懐かしかった。
楽譜が咲希の目の前をひらひらと踊り、浮かんだ。楽譜には沢山の書き込みがなされていて、タイトルの由来や、ここは豊かに、などといった演奏する上での注意点なども書き込まれている。
顕子が咲希に近寄り、楽譜のとあるところを指差し、ここから吹くよ、と言った。
「どうせなら楽器、吹いてみたいでしょ?」
「え、ええっ⁉︎ で、でも……私、吹き方が分かりません」
咲希がまごまごしていると、
「……あっこ、何してんの?」
湧真の、声だった。
「……あっこ、何してんの?」
(また霊の類と話してるのかなあ)
湧真の目には、咲希はもちろん、咲希の持っている楽器や目の前をひらめく楽譜も見えていなかった。なので、突然何もない、誰もいない場所に話しかけ始めた顕子に首を傾げたのだ。
湧真は、顕子が時たま霊の類と話すことがあるのは知っていた。いや、顕子が霊の類と話せるのは、部内だけでなく学校内でも有名な話である。しかしそうだとしても、やはり自分に見えない存在と話しているのは不思議な感じがした。
その"霊の類"が咲希の魂であることを、湧真は知らない。
「ああ、ごめんごめん」
ついうっかり、と顕子は笑った。
「あ、そうだ。ちょっとお願いがあるんだけど」
ちょっとだけ目を閉じて、と顕子に言われた湧真は「何する気?」と問いながらも、目を閉じた。決して悪いことをされるのではないことを、湧真は知っている。
湧真の頭にぽんと手を乗せられる。そしてすぐに、その手は退けられた。
それだけだった。
「もういいよ、目、開けてみて」
湧真は恐る恐る目を開けて——。
(まさか)
目を疑った。
「——咲希ちゃん」
思わず、その名を呼ぶ。
湧真の目に、咲希の姿が見えるようになっていたのだった。
バリサクを持った咲希は、戸惑ったようにぺこりと一礼した。
「……こんにちは」
その咲希の言葉は普段と全く同じなのに、なぜか違和感を感じて、湧真は首を傾げた。
「……咲希ちゃん?」
笑顔なのに無言で、顕子が湧真の手を握る。その瞬間、情報が雪崩のように頭の中に流れ込んできた。
「——咲希ちゃん。記憶が、ないんだね」
「……はい」
どうして説明しなくてもそれが分かったのか、と言いたげな表情をしてみせた咲希に、顕子が「うちが教えたよ」と説明してくれた。
湧真は無意識のうちに、頭の片隅で、心のどこかで、笑顔を意識しなければと思っていた。
そして、笑顔で。
「僕は湧真。浅沼湧真だよ。このテナーサックスを吹いてる、咲希ちゃんの一個上。よろしくね」
「あ、よろしくお願いします」




