理想と現実の狭間
「咲希、一緒に楽器吹こうよ」
部活の時間、終わりのミーティングが始まる前の音楽室。
そう言ってきたのは、昨日のトロンボーンを持っていた少女だった。
「……いいよ。でも、私この曲しか吹けないよ?」
咲希が少女に見せたのは、日曜日に咲希がサックス奏者の人と吹いた曲の楽譜。
「どれ? ……ああ、それ? いいよ。うち、その曲好きだもん」
最初っから吹こうか、という少女の誘いに、咲希はいいよ、と答える。楽譜の読み方や指の動かし方は、もう覚えた。
少女が合図を出して、曲を吹き始める。
しかし、二人はすぐに物足りなさを感じることとなる。その理由は単純。
メロディーラインがなかったからだ。
サックスは低音と高音とその間の中低音と呼ばれる音がだいたい揃っているから、日曜日のように四人で吹いたとしても曲として成り立つ。
しかし、今は二人。咲希が吹くのは低音の動き。少女が吹くのは対旋律の動き。つまり、メロディーがない。つまり、曲として成り立っていなかった。
それでもまあ、楽しいからいいか——。
二人がそう思った、その時。
突然、メロディーが重なってきた。
顕子がフルートを吹いている。
その音色の上から、ふふ、といたずらっ子ぽく笑う声が聞こえた気がした。
——もう、メロディーがいないと曲にならないでしょ、二人とも?
——高音域なら任せて。
フルートの音色は、顕子の表情は、そう言っている。語りかけてきている。
——三人だけで吹くなんてずるいよ!
——うちらも混ぜて!
私たちを放って置くなと言わんばかりに、音が混ざりこんでくる。吹いていなかったサックス奏者やトロンボーン奏者、さらにはフルート奏者も楽器を吹き始めてきたのだ。
音楽室の中には、驚きと戸惑いと、興味の声が広がっていく。
——うちも吹きたい!
——楽しそう! 混ぜて!
一人、また一人と、楽器を構え、共に音を奏で始める。
ホルンやユーホニアムが柔らかい音で混ざり合ってくる。柔らかく優しいこの曲にはぴったりの音だ。ますます曲は優しさを増していく。
かと思えば、ストリングベースやチューバ、ファゴットにバスクラリネットがさりげなく混ざってきて、咲希一人で頼りなかった低音を支えてくれる。咲希はその低く安定した音が他の音たちを優しく、でもしっかりと包んでいくのを聞いた。
突然、今までになかった華やかさが増えたと思ったら、トランペットが混ざってきていた。
私たちも、と言うようにクラリネットが混ざってきて、それにオーボエも便乗した。
そして、必要な楽器を出してくるのに手間取ったパーカッションが最後に入り、二人から始まった音は、吹奏楽部全員で奏でる一つの曲になる。
音出しもなしに始めたせいで、楽器が冷えてしまっている。そのせいで音程はあまり良くない。指揮者がいないので、テンポを決めるのは吹いている人の息づかい、そして動き。それゆえに、テンポが揺れる。
それでも、全員がひとつになって、曲を奏でていた。
その心地よさに、咲希は目を閉じていた。
目を閉じているけれど、目の裏には景色が見える。
縦長の音楽室を横に使い、扇型のように座っている自分たち。合奏をする時の隊形だ。先頭の真ん中には、指揮をしている人がいる。その人の顔は逆光で見えにくいが、咲希には分かった。その人が自分がかえってきた日曜日からいままで学校に来ていない、外部講師の先生だということが。そして、その人が普段、この曲の指揮を振っている人だと言うことも。
今は立って吹いているけれど、座って、いつものように吹いている気がした。
曲が、終わった。
咲希はそっと目を開けた。
(——帰ってきたんだ)
目の前が、ぼやけた。
目をこすれば、仲間たちの笑顔が見える。それと共に、笑い声がフェードインしてくる。凛が前に立ち、時間過ぎちゃったからミーティングするよ、と言っている。
(変わらない日常だ)
その光景を、知っている。
(全部……思い出したよ)
土曜日の黄昏時。
部活帰りの、その時のことだった。
たまたま一緒にいた凛と咲希が駅のホームに着いたその時、小さな女の子がホームから転落するのを見た。電光掲示板は、もうすぐ電車が来ることを知らせている。
『!』
——助けなきゃ!
走った。
——邪魔!
鞄が重たくて、人のいないところに投げた。
『咲希ちゃん⁉︎』
凛が咲希の名を呼んだ。
ホームから線路に降りて、女の子をホームにあげた。大丈夫だよ、と言いながら。
そして自分もホームに上がろうとして。
『咲希ちゃん!』
凛が咲希の名を叫んだ、その時。
響き渡る、凄まじいブレーキの音。
そして感じたことのない痛みと衝撃。
途切れる意識。
……咲希は電車に轢かれたのだった。
ふと気がつくと、咲希は花の咲き乱れる場所にいた。初めて訪れた場所なのに、不思議と行くべき場所がわかっていた。
その場所は、花畑と死の国を隔てる大きな川。
そしてその先にある、死の国——。
「あなたは、心残りはありませんか?」
鈴のような声がして、振り返ると、そこには白いワンピースの少女がいた。
「あなたは……?」
「私はこの川の渡し守の、中村聡美です」
聡美は顕子によく似ていた。容姿も、声も。苗字ももちろん同じだ。ただ、顕子に兄弟姉妹、ましてや双子がいたとは知らなかった咲希は、
——あっこ先輩に似てる……。
それだけしか思わなかった。
それよりも気になる疑問があった咲希は、それを素直に聡美に尋ねてみる。
「……渡し舟の、船頭さんですか?」
渡し守。それは渡し舟の船頭を指す言葉。なのに、彼女は船頭には見えない。
それは咲希にとって大きな疑問だった。
「いえ……正確には、渡し守は渡し舟の船頭を指すのですが、この地では船頭と渡し守は別物として扱われています。船頭は渡し舟の船頭を務めます。川の渡し守は川と花畑を見守るような仕事ですかね。間違ってやってきた生者が川を渡らないようにしたり、現世に帰したり。あとは船に乗る死者の案内もしますよ。そして、今あなたに声をかけたのも、仕事の一環です」
納得した咲希はうなづきつつも、自分に声をかけたのも仕事とはどう言うことかとさらに疑問に思った。
聡美はそれを知ってか知らずか、微笑んだ。
「もし心残りがあるならば、現世に戻ることが出来ますよ。一週間という限られた時間ではありますがね。もちろん、このまま死の国に向かっても構いません」
思わず、咲希は目を見開いた。
「……本当ですか」
「はい」
聡美はうなづいた。そして、言った。
どうなさいますか、内川さん? と。
「——戻らせてください!」
咲希は、叫んでいた。
全ての始まりは、ここだったのだ。
「今から、ここから現世に向かって道を作ります。その時に内川さんの記憶が必要となりますが、現世に戻った後、ちゃんと記憶は戻りますのでご安心ください」
そう言われても、ほんの少しだけは怖かった。
——もしも記憶が、戻らなかったら?
「はい……分かりました」
——でも私は戻りたい。伝えなきゃいけないことがある。記憶が戻らなかったら、取り戻せばいい……!
咲希は、覚悟を決めた。
「……では、戻りたいところを強く思い浮かべてもらえますか?」
そう言われて咲希が思い浮かべたのは、音楽室。
音楽室を思い浮かべた理由は単純。
音楽室に行けば、きっと顕子がいるからだ。
顕子は学校一霊感があると言われており、不思議な力も使える。顕子以外に頼れる人は、他にいないと判断したのだった。
聡美が、道を作った。
「この道を歩いて行ってください。一週間後に、帰りの道をこちらからかけます。こちらに戻るときには、『花畑に戻る』と念じてください。そうすれば、道が現れるでしょう」
「分かりました」
咲希は歩いた。長い道を、ひたすら歩いた。
少しずつ、現世が近づいてくる。
少しずつ、見慣れた場所が近づいてくる。
あと少し、あと少し……。
「あっ」
咲希は、思わず声を上げた。
「道が……」
あと少しで音楽室に着く、というところで道が切れていた。校舎の壁から一メートルほど離れたところで、道は切れている。おそらく花畑と聡美の力が失われてきてしまった結果、道が途切れてしまったのだが、そんなことを咲希が知っているわけもない。
ここから助走をつけて思い切り飛べば、ギリギリ着きそうな距離。でも、失敗もあり得そうな距離だった。
「どうしよう……」
そこでしばらく考えていたが、他に解決方法もなく、咲希は再び覚悟を決める。
——皆に会うためには、こうするしかない……!
「——えいっ!」
助走をつけ、思い切り踏み切り、壁をすり抜け、そして……。
とん、と足が床につき、咲希は音楽室に降り立った。そして不意に辺りを見回して、心の中で、呟く。
——ここ、どこ?
そう。咲希は無事に音楽室に辿り着いたが、全ての記憶を失ったのだった。
「——えっと、何か連絡ある人ー?」
凛の声で、我に返る咲希。
音楽室ではそのとき、部活終わりのミーティング中だった。ちょうどいいタイミングだ、と咲希は手を挙げる。数人がすでにぱらぱらと手を挙げていて、咲希が指されたのは、一番最後だった。
「はい、咲希ちゃん」
深呼吸。
「えっと」
思わず、微笑む。
「記憶が戻りました」
しばしの沈黙。
そして、湧き上がる歓喜の声。
「よかった! 咲希、思い出したんだね!」
近くにいた楓が咲希に飛びついてくる。
「わっ、楓ちゃん! びっくりしたよ!」
よかったね、と言いながら湧真が咲希の肩をぽんっと叩き、琴音は嬉しすぎたのか、涙を一筋流していた。
騒がしい音楽室の中で、凛が我に返ったように手を叩き、ミーティングを終わらせる。
しかし、ミーティングが終わり、楽器を片付け始めても、部員の喜びは消えることがなかった。
しかし、嬉しい反面、咲希は同時に寂しさも抱えていた。
戻ってきた記憶は、現実を突きつけてきたのだ。
自分が一体なんなのかを。
自分が現世に戻った目的を。
そして、二日後には死の国に逝くことを。
楽器を片付けた咲希は、よかったね、と言ってくれる部員たちに礼を言って笑いながら、その場を逃げるように去る。
ブレスレットを投げ外した。今の自分を、他の誰にも見られたくなかったから。
歩いていたその足は、だんだんと駆け足になり、そして咲希は走り出す。
一人になりたくて。他の人には見られたくなくて。
だから隠れて。一人きりになって。そして。
溢れてくるものを、もう、隠せなかった。
「……戻りたくないよ……!」
花畑になんか、戻りたくない。
ずっと、たくさんの人とここで過ごしていたい。
家族と一緒に過ごしていたい。
クラスメイトと笑いあいたい。
部活の仲間と演奏していたい。
大切なものとさよならをするのなんて、嫌だ。
ずっと、ここにいたい。
初めて、自分は死にたくなかったことに気付いた。
まだまだ死ぬつもりではなかった。
だけど。でも。
もう、死んでしまった——。
死ぬ前も死んだ後も、優しくしてくれたクラスメイト。そして、部活の仲間。
こんなに大切なものが身近にあるなんて、生きているときは気付かなかった。
もう、何も失いたくなかった。
「——もう! こんなところにいたんだね、咲希ちゃん」
振り返る。
「しかもブレスレットも外しちゃって……新しいとはいえ、あまりにも付け外ししてると、また昨日みたいに壊れちゃうんだからね?」
顕子だった。
「ほら、帰ろう! ……なんで、泣いてるの?」
「……ただの、わがままなんです……。ここに、ずっといたかったなって、ただ、それだけで……」
「……うん。それで?」
「……こんなに大切な人が、こんなに大切なものが、近くにあったのに……全然、生きているときは、気付かなくて。今になって、ようやく……」
「うんうん」
「……もう、失いたくないって……わがままなこと、考えてしまいました」
「でも、わがままだなって思っても、失くしたくないって思ったんだよね?」
「……はい」
泣きじゃくる咲希に、顕子は一瞬顔を歪ませて、
「……咲希ちゃん。きついこと言うけど、ちゃんと聞いててね」
真剣な声で、語りだす。
「ここにいようと思ったら、ずっとここにいることも可能だよ。死の国に帰らなくても、別に怒られやしないんだ」
でも、と顕子は続ける。
「その代わり、生まれ変わることもないけどね。死者の時は二度と動きだすことはないから、咲希ちゃんはこの先も高校一年生のまま。クラスメイトやうちらは一年ごとに歳をとるにも関わらずね。それってどう言うことが分かる? 咲希ちゃんは、どんどん過去に置き去りにされていくことになるってことだよ」
「……過去に、置き去りに?」
「そう。みんなが成長するなか、咲希ちゃんだけは高一のまま。みんなはいずれ部活を引退して、受験して、大学に行く。そしていつかは社会人になる。そうなったら咲希ちゃんはどうするの? 一人で時が止まったまま、ここで永遠にさすらい続けるぐらいしか道はないよ? 花畑に行くための道は、土曜日にしか現れないからね。土曜日に戻らないと、咲希ちゃんはいずれそうなるんだよ」
「……そんなこと、私には……出来ない」
「……咲希ちゃん。どっちを選ぶ?」
顕子だって、咲希に死の国になんか行って欲しくない。それはクラスメイトも部活の仲間も、家族も同じ。皆、咲希がいなくなるのは嫌なのだ。
しかし、少し立ち止まって咲希のことを考えると、それはかえって咲希を不幸にするかもしれない。
だから、現実を見せた。
顕子にできることは、それしかない。
「……ちゃんと、戻ります。花畑に。死の国に、逝きます」
顕子は、うなづいた。それでいいんだよ、と呟いた。
それは果たして咲希への言葉なのか、それとも自分への言葉なのか。
それを知る者はいないだろう。




