はじまりの朝
(——ここ、どこ?)
とある秋の日の日曜日。
とある県立高校の音楽室で、1人の少女が立ち尽くしていた。
(私、どうしてここにいるんだろう……?)
少女は首をかしげる。
少女は、何故自分がここにいるのかを知らない。気がついた時には、すでにここにいた。それに……。
(ここにいる人たち、みんな、知らない……)
少女は辺りをきょろきょろと見回した。
部屋のあちこちに人がいる。少女と同じくらいの年代で、女の人の方が多いだろうか。
しかし、知っている人はどこにもいない。不思議なほどいない。
そこにいる人々は、全員が楽しそうに話していた。
しかし、その楽しげな雰囲気は、脆かった。
何かがあれば、割れて壊れてしまいそうな、そんな、触れることのできないような、そんな雰囲気だった。
だからだろうか。
(誰も、私に気付かない……)
そう。誰も少女がそこにいることに気付かないのだ。
誰も少女のことを視界に入れないし、誰かと少女の目が合うこともない。もちろん誰も少女に近寄らないし、話しかけてもこない。
少女にとって、それはありがたいことだった。
少女はこの部屋の中にいる人を誰一人として知らない。そんな状況で話しかけられても、応えられない。
——キイッ。
軋むような音がして、扉が開く。
女の人が、部屋に入ってきた。
(——ああ、また知らない人)
少女は、またしてもがっかりした。
何故ここにいるのかすら分からない今、一人顔見知りの人がいれば少し気持ちが変わるだろうに。
いつになったら顔見知りの人が来るのだろう?
今この部屋の中に入って来た女の人は、部屋の中の脆い空気に気付かなかった。そしてもちろん、少女の存在にも。
「楓ちゃん、おはよう! あれ? 咲希ちゃんは?」
女の人の発した、何故か場違いに聞こえるほどの明るい声。
それは、その場を凍り付かせ、脆い空気を壊すのには十分すぎる一言だった。
時が止まり、音が消える。
楓ちゃんと呼ばれた女の子は、涙を目に溜めて、首を振る。
女の人は、はっとしたような顔になって、
「……そうだよね、そうだったんだよね……ごめんね、楓ちゃん。みんなも……ごめん」
しおしおと俯き、呟いた。
(どういうこと? 一体、何があったの?)
少女はますます訳が分からなくなった。
きっと、ここにいる人たちはお互いに顔見知りなのだろう。しかし、何故こんなのも脆い空気なのか。
仲が悪いのか? いや、そうではない気がする。その証拠じゃないけど、消えた音は、また少しずつ、戻ってき始めていた。
ならば、何かがあったのだろうか。
先程の女の人の会話に出てきた"さきちゃん"とは何者なのか。
どうして女の人は"かえでちゃん"に謝ったのか。
そして、何故自分はここにいるのか。何故顔見知りがいないのか。
少女の疑問は尽きなかった。
——キイッ
扉が軋んだ音を立てて開く。
「おはよー」
誰かがその人に気付いたのか、声をかけた。
今度は、男の人。やはり、少女の知らない人。
男の人は笑顔で「うん、おはよ」などと言っていた。
が、次の瞬間。
(——な、何?)
少女は狼狽えた。
男の人の目が、少女を捉えたのだ。
少女は今、初めて誰かと目が合った。
存在に、気付かれたのだ。
男の人の表情から、突然笑みが消えた。
男の人の時が、数秒止まる。
やがて、時はゆっくりと動き出し……男の人は、右手で、左手の甲を、強く、つねる。
ちゃんと痛かったのだろう、男の人は顔を歪めた。
「どしたの、凛?」
「ん? ……ああ、なんでもない」
男の人のことを見ていた人がいたのだろうか、誰かがそんな声をかけていた。
男の人の名は、"凛"というらしい。
凛と呼ばれた男の人は、元の笑顔に戻って他の人に笑いかけ、時計をちらりと見ると、「ああ、もう時間だね」と言った。
笑顔のまま、重たいため息を、ひとつ。何故か、あの少女の方を、ちらりと見ながら。
彼は荷物を机に置き、前に立つ。そして不意に、パンパン、と2度手を叩き、叫んだ。
「ミーティングします!」
ここは、音楽室。そして今日は、日曜日。ここに集まっていたのは、吹奏楽部員だった。もちろん、少女はそのことを知らない。
始まった部活始まりのミーティング。凛と呼ばれた彼は部長なのか、ミーティングは凛が前に立って進めていた。しかし、少女はその場の状況に追いつくことができないまま、ただそれを眺めている。
凛がパートごとに出欠をとる。1人だけ遅刻してくる人がいるという報告があったのみだ。
ただ……ひとりだけ、全員いる、と言いながら泣きだした人がいた。
「全員いるよ。うん、全員……」
その女の人は泣き崩れ、隣にいた人がただひたすら彼女の背を撫でた。
泣き崩れた女の人は、先程場違いなほどの明るい声を出して、部屋の中の空気をぶち壊した張本人であったことに、少女は気付いていた。
出欠確認が終わった瞬間、今までのぎこちない空気が、より一層硬くなった。そんな中、凛は先程よりも硬い表情で、真剣な声で話し始める。
「——えっと……まず、お話ししなければならないことがあります」
その瞬間、部屋の温度が、一度下がった。
キンと冷えた細い細い糸が、どこまでもピンと張りつめているかのようだった。そしてその糸は、これ以上ない緊張感と静けさを、冷たさを放っているのだ。
その糸に触れたのは、凛だった。
「咲希ちゃんが……内川咲希さんが、亡くなりました」
——糸が、弾けた。
何かが、崩れ去った。
そこに、張りぼての平穏はもう、無かった。
凛が話を持ち出したということは、その内川咲希という子はきっと、この部活の部員だったのだろう。
凛の話によると、その内川咲希という子は線路に落ちた女の子を助けようとしたのだという。線路に落ちてしまった女の子は無事だったが、彼女が代わりに電車に轢かれて……という話だった。
しかし、糸が弾けた今、凛の話をまともに聞けていたのは、状況の読めていないあの少女ぐらいだった。あの少女は、そう。凛の話に出てきた人のことも知らなかったのだ。
そんな状況の中、ミーティングは終わった。
ミーティングが終わり、多くの人が部屋の外に出て行った。残っているのは、凛と数人の部員、そしてあの少女だけ。その部員たちは基礎練の準備をしようと、音楽室の後ろの方にある扉の三つのうち、向かって右の扉に入っていった。
全員が扉の向こうに消えた時、突然、凛が動いた。
凛は少女に近付いてくる。
そして。
「——ついてきて」
少女にそう囁き、腕を掴んだ。
「……へっ⁈」
(やっぱり気付かれてたんだ……っていうか、なんで私腕掴まれてんの?)
少女が混乱しているうちにも凛は歩いて行ってしまう。少女は当然引っ張られ、よろめいた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
仕方なく付いて行きながらも、抗議をした。相手が見知らぬ人なので、ちょっと遠慮したような声量ではあったが。
「……あっ! ごめんね! つ、つい……」
それでも凛の耳に届いたようで、彼は慌てたようにパッと手を離す。無意識のうちに少女は一歩後ろに下がっていた。
「俺ったらなにしてるんだろ……ごめんね、本当に。部屋の外で、2人で話したかっただけなんだけど……ついてきてもらっても、いいかな?」
「……分かりました」
やけに馴れ馴れしく話してくるなあ、と思いつつも、少女は凛の後を追いかけ、部屋の外に出た。
近くの階段の踊り場まで出ると、凛は誰もいないことを確認してから、再び口を開いた。
「——咲希ちゃん、咲希ちゃんだよね?」
「……えっ?」
——あれ、さきちゃんは?
——さきちゃんが……うちかわさきさんが、亡くなりました。
少女はどこかで聞いた名だと思ったが、それは当然のことだった。それはさっき、女の人が言っていた名前であり、昨日の夜、人身事故に遭って亡くなったという子の名前であったからだ。
(私が、さき?)
違う、と少女は思った。
(違う、そんな訳はない。私はさきじゃない)
ぶるぶると首を振る。
「私は……さきじゃないです」
「……?」
凛は戸惑いの表情を浮かべ、やがて、ゆるりと首を振った。
「ねえ。咲希ちゃんじゃないなら、誰なの?」
「私は……」
不意に、少女は固まった。
(私は……)
「咲希ちゃん、でしょ?」
追い討ちをかけるような、凛の声。
強く首を振る少女。
(私は……!)
その目に涙と戸惑いを湛えながら。
「私は……誰なんでしょう?」
少女はぽつりと呟いた。
「私は……誰なんでしょう?」
凛は、少女が目に涙を溜めているのを見た。いや、溜めていない。最早もう、こぼれている。
「えっ、ちょ、泣かないでよ……」
(俺、もしかしたら咲希ちゃんのこと、問い詰め過ぎちゃった?)
目の前にいるのは、間違いなく後輩だと思った。昨日亡くなったはずの、彼女だと思った。彼女の魂がここにいるのだと思った。
(けど咲希ちゃんは否定したから、思わずきつく訊いちゃったかも……いや)
凛の頭の中に、ふと蘇った少女の声。
『私は……誰なんでしょう?』
(もしかして……)
凛の頭の中に、とある考えが浮かぶ。
——信じたくない。
その考えが、ただの空想であってほしい。
訊かなければならない。
聞かなければならない。
訊きたい。
聞きたい。
訊きたくない。
聞きたくない。
言葉を発するために息を吸おうとしても、うまく吸えない。ヒュッと音がする。それでもかろうじて息を吸って、言葉に変える。
「ねえ……俺のこと、誰か、分かる?」
声が、震える。
この一言を発するのが、恐ろしかった。
(なに言ってるんですかって言ってよ……頼むから、凛先輩じゃないですかって言って、笑いとばしてよ、ね? お願いだから……)
しかし、凛のその願いも、少女の俯いたまま無言で首を振る行動に砕かれた。
(そっか……)
凛は、悲しそうな、困ったような、そんな声で呟くように一言、
「俺は、凛。髙橋凛だよ」
(——咲希ちゃん、記憶を失ってるんだ)
「俺は、凛。髙橋凛だよ」
「……髙橋、凛さん」
少女はゆっくりと繰り返す。
貼り付けたような笑顔で、凛は言う。
「そう。俺は高校2年生で、吹奏楽部に所属してるんだ。一応部長でね。ファゴットって楽器を吹いてるんだけど、ファゴットって知ってる?」
「……知らないです」
「そっかあ。あとで見せてあげるよ」
こんな感じの背が高い楽器でね、と言ってファゴットの高さを手で指し示しながら、凛は笑う。つられて少女も笑った。
凛は笑顔のまま、続けた。
「あなたの名前は、内川咲希だよ」
(……えっ?)
「……内川、咲希?」
"咲希"と呼ばれた少女は、戸惑いを隠せない。
「そう」
凛は、笑顔で言う。
「でも、そのさきっていう人は、亡くなったんじゃ——」
「咲希ちゃん。咲希ちゃんは、確かに亡くなった。俺の目の前で、電車に轢かれて。それは間違いないよ」
笑顔のままなのに、凛のその目は笑っていない。真剣そのものだ。
「だけど、確かに目の前にいるのは咲希ちゃんだよ。ねえ……気付いてない?」
その言葉に、少女は首を傾げた。何に? と言うかのように。
凛は困ったように、一言。
「咲希ちゃんの姿は……今の時点では、俺以外の人には見えていないよ」
「えっ」
凛の言葉に驚きつつも、納得した。
存在に気付かれなかった理由。それは、あの脆く壊れやすいあの空気のせいではなく、自分の姿が他の人に見えなかったから。そう考えれば納得がいく。
「多分……魂なんだろうね。咲希ちゃんの。この部活の中で霊感が強いのは、俺とあっこぐらいだからさ。それと……咲希ちゃんは多分、記憶を失っているんだと思う」
凛の言葉に、少女は少し考え、うなづいた。
「——多分、そうだと思います」
(……自分の名前すら、分からないんだもん)
半ば諦めたような気持ちで、もういいや、と思った。もう認めよう、と。
(私は咲希なんだ。私の名前は、内川咲希。そして……私は死んでいる。ただの、魂なんだ)
そして、もう一度確認のために尋ねる。
「……私の名前は内川咲希で」
「うん」
「私は昨日、人身事故で死んでいて」
「……そう」
「だから私は魂で、他の人には見えてない」
「……そうだよ」
淡々と話し続ける凛は、少し前の慌てふためいていた凛とは別人に見えた。
さっきの慌てやすい凛はどこへ行ってしまったのか。もはや何かが凛の頭の中で外れてしまっているようにも思える。
「咲希ちゃんは、高校1年生だった。咲希ちゃんも吹奏楽部に所属していて、バリトンサックスっていう楽器を吹いてたんだよ」
(——すいそうがくぶ? ばりとんさっくす?)
咲希の頭の中には「?」がたくさん浮かんでいた。
「あ、あの、すいそうがくぶって……?」
「……吹奏楽部は、管楽器——管に息を入れて音を出す楽器と、打楽器、つまりは叩いて音を出す楽器、あとはコントラバスかな。弦を弾いたりして音を出す楽器を使って、いろんな曲を演奏する部活なんだ。バリトンサックスっていうのは、管楽器に属する楽器でね、低い音が出るんだ」
咲希はうなづいた。
「——そう、これだよ。バリトンサックス」
凛はスマホで画像検索をかけ、バリトンサックスの画像を咲希に見せた。
(これを……吹いていた?)
咲希は食い入るように画面を見つめた。記憶のかけらがどこかにありそうな気がして。
しかし、何も思い出せない。
ただ、何か、音が聞こえるような……。
タントンタントン……。
聞こえたのは、誰かが階段を上る音だった。
タントンタントン……。
「——ミーティング、終わっちゃったかな……」
不意に、女の人の声がした、気がした。慌ただしく階段をかける音とともに。近くの階段の、下から。それにいち早く気付いたのは咲希だった。咲希は階段の下を覗き込んだ。凛も気づいたのか、咲希の隣で下を覗く。
やはり、咲希の知らない人だった。
いや、咲希が忘れた人、とでも言うべきか……。
「あっこ!」
凛は階段をかける女の人を"あっこ"と呼んだ。呼ばれた彼女は不意に顔を上げる。
セミロングくらいのハーフアップにされた髪の毛はこげ茶色。顔の輪郭はすっとしていて、大人っぽい。
「——ああ、凛だね!」
彼女はペースを変えることなく階段を上り、「おはよう」と言った。
彼女の目は咲希を捉えてはいない。
『咲希ちゃんの姿は……今の時点では、俺以外の人には見えていないよ』
凛の言葉が、咲希の頭の中に響き、心の中にスッと染み渡る。その冷たさは、氷のようだった。
しかし、不意に"あっこ"の目が、咲希を捉える。
「あ、凛だけじゃなくて咲希ちゃんもいたんだね! ごめんごめん」
"あっこ"の言葉に、咲希はどきりとした。それと同時に、氷のような冷たさは消える。
(——この人、私がここにいるのが、分かってる?)
"あっこ"は不意に、息を飲んだ。
「咲希ちゃん……」
「あっこ……じつはね、咲希ちゃんは昨日、電車の人身事故で亡くなって……」
凛が"あっこ"にそう説明すると、
「……そっか。——なんか咲希ちゃんを見た時、生身の人間とは違うな……って思って」
"あっこ"はそう言って首を傾げ、
「……でも、それでも、なんかいつもと様子が違う気が……」
ポツリとそう呟いた。
「あのね、あっこ。咲希ちゃんは……記憶を、失くしていて……」
「……そうだったんだ」
しゅんとする"あっこ"を、咲希は見つめる。
改めて正面から見ても、大人っぽい。
少し垂れ目で涙袋があり、輪郭はすっとしていて、こげ茶と黒の間ぐらいの色の髪の毛はセミロングくらい。背はそこまで高くはないけど、大人っぽさと可愛らしさが同居しているような人だ。
そんな"あっこ"が不意ににこりと笑い、咲希の方を向く。
「咲希ちゃん、うちの名前は中村顕子。みんなには"あっこ"って呼ばれてるよ。高校2年生だから、凛と同い年だね。咲希ちゃんの1個上。担当楽器はフルートだよ」
このぐらいの銀色の楽器でね、と顕子が手で長さを示すと、その手の間に銀色の笛が見えた、気がした。
思わず、咲希は目をこする。
その次の瞬間には笛は消え去っていたけれど、透明な川のような、鳥の鳴き声のような音色が聞こえてきた。
「……この音って……」
「そう、これがフルートの音」
顕子はそう言って、微笑んだ。
「さっき、銀色の笛が見えた? あれがフルートだよ」
「はい、見えました。でも、どうして……」
戸惑う咲希に、いたずらっ子ぽい笑みを浮かべた顕子は、堂々と言った。
「うちは不思議な力を使えるんだ。後でちゃんと説明するけど、お母さんが妖の類いみたいなものだからね。その血を引き継いでるからこんなことができると思っといて」
顕子の言葉に、咲希は声が出ない。しかし、どうにかうなづくことはできたようで、カクカクと2、3回首を動かしていた。
「他にもいろんなことが出来るよ。例えばね……」
顕子は言いながら空を掴み、フルートをいとも簡単に取り出して見せた。
今度は幻ではない。本物だ。
それを見た凛はそちらを指差し、
「あっこずるい!」
「たまにはいいでしょ、部長さん?」
歌うように答えた顕子に、凛は「はいはい。僕はあっこみたいなことは出来ないからさ、楽器を出してくるよ」とだけ言って、立ち去った。
「拗ねなくたっていいでしょ、もう! ……ていうか、楽器出してなかったんだー」と顕子は凛に向かって言い、その次の瞬間には、「あっ、そうだ」と言って咲希の方を向く。
「咲希ちゃん、おいで!」
顕子の目線は真っ直ぐに咲希の方を向いていて、彼女の手はおいで、と咲希を呼んでいる。
そのことが何故か、嬉しかった。
「——はい!」
咲希は元気よく答え、顕子の後をついていった。
昨年投稿させていただいた「霧の思い出〜Requiem」の改稿版となります。
設定や内容を大幅に変えましたので、前に「霧の思い出〜Requiem」を読んでくださった方もぜひ読んでみてください。
また、「霧の思い出〜Requiem」を読んだことのない方は是非、この小説のアナザーストーリーとして読んでみてください。




