小指の約束
「なあ、浅野」
「ん? なんだ?」
「……神条の話、信じてるのか?」
放課後の、たわいもない会話。浅野と呼ばれたのは、クラスのリーダー格の男子。
「……俺の中ではまだ、信じきれてないとこはあるかもなー」
「あ、やっぱ?」
「ああ。でも、俺はせめて、クラスメイトのことぐらいは信じたいと思ったんだよな」
「だからあの時……神条が明日の七時間目を使わせてくださいって言った時、あんなことを?」
「そうだな……多分、そうだろうな」
その会話は、放課後の教室の喧騒の中に紛れていく。
春菜の話に戸惑っていたのは、もちろん男子だけではなかった。
「……ねえ、どう思う?」
「春菜の話?」
「うんうん」
「どうだろうねぇ」
「うちは、最初は嘘だって思ったけど……」
「けど?」
「……途中からさ、どうも嘘には思えなくなったんだよねえ」
「ほうほう」
「佐藤先生も見たって言ってたし、実際ぼんやりしてたのは事実だし」
「あー、確かに」
「それにさあ、絶対咲希を連れてくるって言ってるし。咲希がいなかったら、そんなこと言えるわけないでしょ?」
「うん、それもそうだね。佳苗の話聞いてたら、うちも春菜のこと信じようって思えてきた。ありがとね、佳苗」
「いや、うちも話してたら自分が何考えてるか分かったし。ありがと、風香」
二人の会話は、騒がしい廊下の喧騒の中に紛れていく。
春菜の話は、一年一組の吹奏楽部員にも波紋を広げた。
「春菜、あっこ先輩の名前を出したよね?」
「うんうん」
「ってことはさ、あっこ先輩は咲希がいること、知ってたのかな?」
「……知らないわけがないよね」
「だよねえ」
「ってことはさ、あっこ先輩に本当かどうか聞けばいいんじゃない?」
「確かに!」
音楽室に向かう道で、吹奏楽部員たちは偶然にも顕子と合流する。
「やっほー! 今日も元気だねえ」
「あっ、先輩!」
「……あの、咲希が学校にいるって聞いたんですけど……本当にいるんですか?」
「ん? いるよー。今日の朝は一緒に来たし、間違いないよ。どうして?」
「……クラスの子が、咲希を見たって言ってたので、本当かなって、気になって」
「そっかそっか。確かにそれは気になるよねえ」
顕子はそう言って笑っていたが、不意にそっと目を細める。
「……本当だよ。会いたければサックスの所に行けば会えるんじゃないかな。日曜日の部活にもいたし、今日も来るみたい」
どうする? 会いにいく? と、言われた……ような気がした。
試されているような気がした。いや、もうそれを通り越して、面白がっているかのようにも……思えなくはなかった。
「……今はいいです」
「どうして?」
「……明日、会えますから」
「……そうだよね」
そう言い合う後輩たちの考えを、顕子が少しだけすくい取ってみれば、あるクラスメイトのささやかな計画が思い浮かぶ。
(咲希ちゃんに話す必要はなさそうかな)
そう判断した顕子は、ただただ微笑んで後輩たちを見守るだけだった。
そして生徒だけでなく、先生も。
「……本当に良かったんですか、佐藤先生?」
「大丈夫ですよ、穴澤先生。私たちが自分の受け持つ生徒を信じられなくてどうします?」
「……そうですね。それにここで信じないなんて言ったら、佐藤先生のことも疑うことになりますもんね」
「ふふ、そうなりますねえ」
「私は生徒たちを信じますよ。そして、佐藤先生のことも」
「そう言っていただけると嬉しいですね」
職員室に向かいながら交わされた会話は、誰にも聞かれることがなかった。
「春菜」
「なあに?」
「あの話……本当?」
「本当だよ。嘘であんな話できないでしょ。本当に怖かったんだから!」
「そうだけどさあ……疑ってるわけじゃないよ。ただ、訊きたくなっちゃっただけ」
「……気持ちは分かるよ。でも、明日もきっと、咲希は来るから。約束したの。明日も、今日と同じ場所で会おうねって」
「そっか。でもさ、もし咲希が教室に行きたくないって言ったら?」
「それはうちもすっごく考えた。嫌がるかもしれないって」
「うんうん」
「でもね、うちは咲希を信じることにした。約束したんだよ。咲希は絶対に記憶を思い出してみせるよって言った。だから、来るよ」
春菜は右の小指を見つめていた。
冷たい右手の小指を絡められた、その小指を。




