窓の外で
次の日の朝。
目を覚ましても、ベッドから出ないで、私は昨日のことを考えていました。
ぜんぶ夢で見たことのような気もするし……でも、本当のことなんだよね……。
つらいことがあったけれど、でもみんな優しくしてくれた。ずっと一緒にいてくれた。
それに……ハルが、なんだかますますかっこよくなった気がする……。
昨日なんて、ハルの言葉に、照れてしまったし……。
……残ったものが、悲しい思い出だけじゃないことが嬉しかったです。
そんなことを考えながら、私はおふとんにくるまっていました。
そのとき、ドアをノックする音がして……ハルかな、って思いました。
「失礼いたします」
そういって入ってきたのは、ミスティでした。
「あら、ハルは?」
「ハル様は、朝早いうちからお出かけですよ。クルコレノフさんとフィクスへ行くとおっしゃっておられました」
「あ、そっか」
そういえば、昨日の夜、ハルがそんなこと言ってたなあって思って。
私は、ベッドから出て身支度を整えて、鏡の前で左のほおにかかる髪をリボンでまとめました。
これから、ずっと、この髪型にしようって思って。
そうして、食事の支度をしているミスティを見て、少し違和感を覚えました。
「はい?」
私の視線に気付いたミスティが、私に笑いかけてくれます。
「ねえ、ミスティ、なにかあったの?」
「いいえ?」
「そう……?」
それなら、どうして、そんなふうに笑ってるんだろう?
なんだか、そのまま涙が頬を伝ってもおかしくないような、そんな笑顔でした。
食事を終えて、私が牛乳を飲んでいるとき、ミスティはなんでもないことのように、言いました。
「リーゼロッテ様」
「ん?」
「私、振られてしまいました」
「えっ?」
「それだけ、心に留めておいてください……」
うつむいたミスティは、もう何も聞かないでください、って言ってるように見えました。
私が、ミスティのこと応援するって言ったから、つらいけど言っておかなきゃって思ったんだと思います。
真面目なミスティらしいな、って思いました。
手早く食事の後片付けをして、ミスティは、私の部屋を後にしました。
一人になると、口元がむずむずして、ちょっと笑ってしまいました。
ミスティ、ちゃんと自分の気持ち伝えたんだ、えらいよ。
でも、どうして、そこであきらめるの?
もっと、しあわせになろうとしていいのに。
ミスティみたいなかわいい人が報われないなんて、嘘。
だって私は読んだ本では、みんなしあわせになったんだよ。
花嫁衣裳でトートン先生の隣に立って、結ばれて嬉しくて、ぽろぽろ泣いてるかわいいミスティ。
そんな光景が、私の頭をよぎって。
そうなればいいし、そうなってほしい。
うん、しょうがないから、私がなんとかしてあげよう。
きっとミスティ……よろこぶよ。
……私は、ミスティの言ったことを、そんなに深刻に受け止めていませんでした。
なんとかなるって、思っていました。
午後になってから、私は図書室へ行きました。
思ったとおり、トートン先生は一人でいて、窓際に立って窓の外を見ていました。
そうして、私の足音に振り向いて、
「リーゼロッテ様。ごきげんいかがですか?」
「ええ。こんにちは、トートン先生」
「そろそろ、授業には出られそうですか?」
「はい……あの……はい。あと少し、くらい」
「はは……そうですか。補講もいたしますので、心配しなくてもすぐに取り返せますよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
そう言いながら、私は先生の隣に立って、窓の外を見ました。
二階の右端にある図書室の窓からは、色づいた裏庭の木々と、その木々の枝の間から、落葉の舞う芝生が見えていました。
私は、トートン先生に分からないように静かに深呼吸して……。
「先生、覚えていらっしゃいますか? 私がいつかここで、先生は結婚されないんですか、って聞いたこと」
「ええ……」
「あの……先生。差し出がましいようですが、私、先生はそろそろ身を固められるのがいいと思うんです。ここに腰を落ち着けられて、ずっと……ヒンメル家の大切なお客様としていていただければ……私、とっても嬉しいですし、ハルだってよろこびますよ。ヒンメル家にとっても、それはとても名誉なことですわ」
午前中いっぱいかけて考えた、私の殺し文句。
トートン先生は、何も言いませんでした。
だから、私は最後まで言ってしまおうって思って。
「先生。私、ミスティはとってもかわいいひとだと思います。私が男だったら……きっとほっときませんよ。それにもし……家柄が違うことをお気になさっているのでしたら、私、ミスティを養女にしてもいいって思っているんです。だから……一度、真剣に考えてくれませんか? ミスティのこと」
そう言って、私はトートン先生の顔を見ました。
先生は、いつものあのおだやかな優しい笑顔で私を見て、
「私は、もう終わった人間です。誰かをしあわせにするなんて、できませんよ」
そう言いました。
わたしは、きょとんとしてしまいました。
どうして……先生はそんなこと言うんだろう? だって、先生は……。
「でも、先生は、私たちに授業をしてくださっていますし……。それに、ご本だって……私、よく分かりませんけど、でも、きっと、きっと、その『世界を良い方向へ変えていくもの』なんですよね? ですから、先生はちゃんと誰かをしあわせにできるんですよ」
「生きているうちは……せめて良い種を蒔きたいですからね……。出来ることをするだけです。そして……それだけです。
リーゼロッテ様、私はあなた方の成長にかかわることができること、とても光栄に思っています。
あなた方の成長にかかわることができるのが、うれしい。
こんな私でも、何かすることができる。
そして、教えられることがなくなれば、ただ立ち去るだけでいい。
本は……用がないなら、誰も読まないでしょう。
この押し付けがましくないところが気に入っています。
……私はもう、終わった人間です。
なにをしようと、それは余生です。
自分で自分を殺すことを『許されなかった』。
だから……
私は死ぬまでの間の暇つぶしがしたいんです」
「わかりません……。そんな変なこと、言わないでください……」
はじめてトートン先生のお話の意味が分からなくて、戸惑いました。
「リーゼロッテ様、この世界には『今』より『思い出』を選ぶ者もいます。ですから、どうか……」
『ほっといてください』
先生の飲み込んだ言葉が、なぜか分かってしまいました。
私は、次の言葉を見つけることが出来なくて。
もうミスティの気持ちが受け入れられることはないんだって、分かりました。
沈黙が苦しくて、でもなにを言えばいいのか分からなくて。
私は先生にお辞儀をして、図書室を出ようとしていました。