文化祭 当日編
開演の時間が近付くにつれて美月の緊張感は強くなっていった。
長年演劇の世界にいた。これまでの芝居人生で数多くの緊張を経験してきた。しかしながら、これほどの緊張が身体を襲うのは初めて。
これから行う舞台に立つわけではないのに。
身体は緊張して強張っているが、脳は冷静だった。
何故、これほどの緊張をしているのか考えてみる。
が、その答えを見つけられない。
〈それはおそらく、キミが他のクラスメイトとは異なる立ち位置にいるからではないのか〉
左手のクロノグラフモゲタンが美月の脳内に発言する。
「……はあ?」
モゲタンとの会話は声に出す必要はない、のだがこの時は思わず声が出てしまう。
(どういうことだよ?)
再度疑問の声を。今度は外に出さずに脳内で。
〈言うなれば、巣立ちを見送る親鳥のようなものだ。キミは彼等彼女等の保護者とまでは言わないが、それに近いような心境だったのではないだろうか〉
美月はこのモゲタンの言葉に納得してしまう。
自分ではこれまで全然気が付かなかったけど、言われてみれば確かにそうだ。
口をできるだけ挟まずに見守っていた。
仮に失敗したとしても、すぐには笑えないかもしれないけど、十年後二十年後には楽しい思い出の一ページになるはず。
見た目は同年代でも、実年齢は十以上も上。
人生経験もそれなりに積み重ねてきた。
成功も、それ以上の失敗も。
けど、できうるなら成功させてあげたい。
あれだけ一丸になって頑張っていたのだから。
やはりこれは保護者の観点なのだろうかと美月は思ってしまう。
思いながら、芝居を始めた頃にお世話になった演出家や学校の顧問も、こんな気分で緊張していたのだろうかと考えてしまった。
考えていたら、少しだけ緊張が治まった。
緊張しているのは美月だけではなかった。
フック船長役の麻実も美月同様に、いやそれ以上に緊張していた。
普段は軽口をたたいてる彼女の口が、上演の時間が近付いていくにつれて段々と重くなっていく。
重たくなっていくが、その口が閉じるということはなかった。
話すのを止めた途端完全に緊張に呑み込まれてしまう、そんな強迫観念のようなものが麻実に中にあった。
誰かと喋っていないと緊張で押しつぶされそうだった。
麻実は話し相手を求めた。
そこに美月が。
「シロ、どうしよ。あたし、ものすごく緊張してる」
美月の傍へと飛んでいき、小さな身体に縋りつき、それから泣き言を。
「大丈夫だよ。僕もさっきまで緊張していたけど、今はもう治まったから」
諭すように優しい声で言う。
普段の二人きりの時に使用する俺ではなく、僕、を使ったのはもしかしてクラスメイトが偶然聞いてしまうかもしれない可能性を考慮してだった。
それくらい冷静な判断ができるのは美月が完全に緊張から解き放たれたからであり。緊張が消えた理由は、自分よりもはるかに状態の酷い人間を目の当りにしたからだった。
「でも、頭の中が真っ白になって台詞を間違ったり、とんだらどうしようー」
「間違っても大丈夫。それに台詞がとんでしまっても袖にプロンプターの係の子がいるから問題ないよ」
「でも……」
フック船長の衣装を着た麻実は小刻みに震えていた。
「……あたしのせいで舞台を壊してしまったら。……せっかくクラスのみんなで頑張って作ったのに。……そうだシロ、今かからあたしと交替してよ。シロなら急な代役でも見事にこなせるでしょ」
「無理だよ。だって衣装合わないもん」
衣装は役者に合わせて作ってある。それでも多少は融通はきくが美月と麻実とでは体格差が大きい。
「だったら……」
「緊張するのは悪いことじゃないから」
「……そうなの?」
「うん、そう。でも、今の麻実さんは少しだけ緊張しすぎだから、それを解いて舞台に上がろう」
適度の緊張感は演技に良い影響を与える。そのことを美月はよく知っている。
しかし、し過ぎでは駄目なことも。
「……うん」
「じゃあまずは、ベタだけど人の文字を書いて呑み込んでみる」
「それはもう、やった」
「それなら今度は深呼吸を」
横並びになって大きく深呼吸を。
「どう?」
「駄目みたい」
「それじゃ……。あ、この方法は無理か」
昔、劇団の先輩の教えてもらった方法を口に出そうとしたが、寸前で引っ込める。
というのも、その方法は縮み上がった○○袋を自分の手で引き伸ばすというもので、麻実はもちろんのこと、美月に身体にもその引き伸ばす箇所が存在していない。
ならば、他の方法はと考える脳内に一つのアイデアが。
美月は少々強引に麻実の頭を両手が抱え、自分の小さな胸へと押し付ける。
落ち着いた鼓動を感じると気持ちが落ち着く、というのを何かで読んだか聞いた記憶が。それに桂の胸に抱かれている時にそういう実感もあるし。
しばしの間抱き合うような格好に。
「……シロってもしかして着けていないの」
柔らかな感触を感じて、ボソッと麻実が言う。
「平気?」
窮屈さを嫌い、ブラを着けていないのは紛れもない事実だが、それはこの際関係のないことなのであえて言葉を無視して、緊張について訊く。
「……うん、大丈夫。……ありがとね、シロ」
「どういたしまして」
「それじゃ舞台の上で暴れてくるかな。暴れすぎてピーターパンをコテンパンにやっつけちゃうかも」
「それはダメ」
「冗談よ。シロってホント真面目なんだから」
「舞台に関しては手抜きはしないから。あ、後で思い切りダメ出しするからね」
「それは勘弁してよー。あたしはシロみたいな本当の役者じゃないんだから」
その声にはもう緊張感がなくなっていた。
二人は顔を見合わせ自然に笑みがこぼれてくる。
笑い合う。
が、急にその笑いが止まった。
二人の脳内にデータの出現を告げる警告音が鳴り響く。
「シロ、これって」
「うん、出た。それに近いと思う」
「……行くの?」
「行くのは僕だけで。麻実さんは舞台に」
麻実を一人残して、美月は駆け出した。
「何だ? 猫か?」
サイクリストを模した姿に変身、データが発する信号の発生場所へと急行し、そこでデータと思われる物体を見た瞬間に発した言葉が今のものだった。
その姿は大きさこそ違えど、猫そのもののように美月には映った。
〈違うぞ、あれは猫ではなく、山猫だ〉
「同じものじゃないのか。野生、というか山に住み着いているのが山猫だろ?」
〈いや、違うぞ。そもそも属からして異なるし、さらに言えば骨格にも明確な差異がある〉
そう説明されても美月には違いが分からないのだが、モゲタンが言っていることなどでおそらくそれが正しいのだろう。
違いについて深く考えないことにした。
そんな美月の思考は、違い、ではなく別ことへと移行する。
そういえば舞台の候補に宮沢賢治の『注文の多い料理店』も入っていたな。
あれの上演でも面白かったんじゃないのだろうか、と。
〈目の前のデータに集中しろ。対象が移動するぞ〉
山猫型のデータは美月の姿を見るやいなや逃げ出そうとした。
「追うぞ」
そう言うと美月は慌てて山猫の後を追った。
山猫の姿をしているだけあってデータの動きは敏捷だった。
なかなか捕まえられない。
電信柱や周囲の建物の上を巧みに利用して跳び回っている。
美月の追撃を見事に躱していく。
自由自在に、さらにはトリッキーに動き回る相手では、空間移動を使用し先回りして捕まえるというわけにはいかない。
どうしても後の手になってしまう。運動と反応の速度、両方共美月の方は勝っているのに。
それでも美月は懸命に追いかける。
何度か、もう少し、あと一歩という、惜しいところまで。
なのに、寸でのところで逃げられてしまう。
「どうして捕まらないんだ」
ついつい苛立ちまじりの声が出てしまう。
〈集中しろ〉
「してるだろ」
〈キミの中に迷いがある。僅かにだが動きが鈍くなっている。そのために捕まえることがでない〉
モゲタンの指摘に美月は、はっとした。
気が付かなかったけど、たしかに迷いが生じていた。
その迷いとは、素早くデータを回収して戻ること。
急いで戻るということは舞台を観ること、見守ること。
自分よりも酷い緊張状態だった麻実を目撃したことによって和らいではいたが、やはり無事成功するか心配だ。ハラハラしすぎて最後まで観ることは不可能なんじゃ、だったらこのまま退治にてこずり舞台が終わった頃に戻ればそんな心配とは無縁なのでは。
早く帰らないと、けど帰りたくないような、二律背反だった。
そんな裏腹な気持ちが動きに精彩を欠けさせていた。
気持ちというのは、身体に直結しているものである。
「ヨシ」
両手で頬を強く叩き決心する。
どんな結果になろうと舞台をちゃんと観る。
それが大人の、一応だけど、義務だ。
気合を入れ直して、美月は山猫型のデータを追った。
そのスピードは確実に先程までよりも速くなっていた。
間に合った。
といっても、最初から全て通しで観ることは流石に叶わなかったが、それでも終盤クライマックスのシーンまでには余裕で。
美月がいないことが不安だったのだろうか、麻実の芝居とアクションは稽古中よりも小さく見栄えもあまり良くなかった。
しかし、美月が戻ってきたことを知ると、麻実は美月の信号をキャッチできるから、先程までの精彩のない動きは一変する。
アクションにはキレが出て、さらには調子に乗ってアドリブまで。
これにピーターパン役の生徒も最初戸惑っていたが、上手く対処する。
そんな麻実を、まるで親が観に来てハシャグ子供みたいだなと美月は思った。
ともかく無事に、大きな失敗をすることなく、美月が観た範囲だが、終了。
上演後の興奮が残っているのか、麻実は美月の姿を見つけると近付き、
「ふふん、シロがいなくても平気だったもんね」
と、言う。
「じゃあ、家に帰ってから細かいダメ出しをするけど。いい?」
「そんなの問題ないわよ」
胸を張って麻実は答えた。
その後、
「稲葉くん、もう止めて上げて」
桂が懇願するまで、美月の淡々とした口調の細かいダメ出しが続いた。
その間ずっと麻実は涙目だった。




