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不思議の店の桂 後


 どちらかといえば紅茶派のかつらであったが、せっかく出してもらったコーヒーに手を付けないというのは失礼にあたるのではと思い、口にする。

 コーヒーを飲む時にはたっぷりの砂糖と、大量のミルクを投入するのだが、この時の桂はブラックで。

 その理由は芳醇な香りが美味しそうに思え、余計なものを投入すると、それが壊れてしまいそうなきがしたからだった。

 人生初のブラックコーヒーを。

 口の中に一瞬苦さが、そして酸味、最後にちょっとだけ残る甘味。

 コーヒーってこんな味だったんだ、意外と美味しいと桂は思う。

 が、このカップに注がれているコーヒーを全部ブラックで飲み切る自信はなく、いつもよりも少なめの砂糖と、それからミルクを投入することに。

 コーヒーを飲みながら猫と遊ぶ。

 カップの中のコーヒーが三分の一になった頃、桂はイスから立ち上がった。

 遊び相手猫がテーブルの上から飛び降りて何処かに行ってしまい、手持ち無沙汰になってしまったからだった。

 立ち並ぶ大量の本棚を見て回る。

 一冊の文庫本が目に留まった。それは別の古書店で見つけた、あの文庫本だった。

 女の人は自由に読んで構わないと言っていた。

 その言葉に桂は甘えることにした。

 席に持って行き、読む。

 幼児向け番組のキャラクターがちょっとだけ凶悪な顔で表紙に描かれているか、読み進めて理解した。

 こういうお話だったんだ。

 どうしよう買っていこうかな? ああ、でもさっきのお店では結構な高値が付いていたし、もしかしたらこのお店でも。

 そんなことを思いながら桂は値段を確認する。

 裏表紙には百円と印字されたシールが。

 即座に購入していくことを決定。

 そして他にも何か面白そうな本はないかと、また席を立つ。

 聞いたこともないような出版社の、見たこともないようなタイトルの小説が目に入る。

 手にとって中を読んでみる。

 高校生の男女二人の主人公。それぞれの一人称で綴られた青春小説。

 ちょっと面白かった。もう少し読み進めたいと思った。

 せっかくだからこれも購入していこうかな。

 そう思いながら、桂は裏表紙に書かれているはずの値段を確認する。

 さっきの文庫本とは違い、この本にはシールが貼られていなかった。

 ということは、定価なのだろうか。

 ハードカバーだから、それなりの値段。

 やっぱり止めておこうかな、そう思いながら桂が本を元の場所に戻そうとしたら、その横には続巻が二冊。

 つまり、最低でも三巻は刊行されている小説。

 やはり買わないで正解なのかもしれない。

 そう思うのだが、後ろ髪を引かれるような気分に。

 一期一会という言葉が、唐突に桂の頭に浮かんでくる。

 この機会を逃せば、二度とこの小説には巡り合わないかもしれない。そうなれば、この高校生の主人公二人がどんな風になっていくのか永遠に分からない。

 それはちょっと寂しいし、それに残念だ。

 この二人が紡ぐ物語を読んでみたい。

 桂は一度戻した本を再び本棚から取り出し、その際残りの二冊も手にして、飲みかけのコーヒーカップのある場所へと。

 だけど、まだ購入するとは決心していなかった。

 どうしようかと、心が揺れていた。

 残りのコーヒーを口に含み、それから持ってきた本を開く。

 続きを。

 高校生の話なのだから、授業の描写も。

 私もこんな風に朗読を授業に取り入れてみようかな。でも、この先生と違って演劇経験はないし、役者の彼女というだけだし。

 そんなことを考えながらも桂は読み進める。

 上手い文章じゃない、教師という観点からみれば悪文も多々あるが、それでも先へと読み進みたい魅力のようなものが、この小説の中にはあった。

 ちょっとのつもりだったのに、いつの間にか桂は読むことに集中していく。

 主人公二人の距離が徐々に近付いていく。

 それなのに突然……。

 先の展開がすごく気になってくる。

 次へと、桂がページを捲ろうとした時、

「お待たせしましたー、ありましたよー」

 と、間延びした声が。

 女の人が倉庫から桂の探していた本を見つけ出し、戻ってきた。

 長年探し求めていた本がようやく手に入る、嬉しいことのはずなのに、桂の今の心境は残念だった。

 その理由は、本人も自覚しているが、もう少しこの読みかけの小説の世界に浸っていたい。

 それでもそんな気持ちを取り繕って、

「ありがとうございます」

 と、礼を言う。

 読みかけの小説に未練を残して、女の人から持ってきてもらった本を受け取る。

 平成初期に販売された本のはずなのに、凄く状態が良い、新品といっても差し支えないくらい綺麗だった。

「これ頂きます、それとこっちの文庫も」

 桂は持ってきてもらった小説を買うことに、そして同時にあの文庫本も。

「はい、ありがとうございます。……それで、そちらの三冊はどうします?」

 女の人は、テーブルの上に置かれた桂の読みかけの小説を、その続刊を見ながら桂に訊ねた。

 面白い小説だけど、まだ買うという決心がついてはいなかった。

 社会人だから五千円以上の出費は痛くはないけど、一度にそれだけのお金を本につぎ込む勇気が。

 だけど、この先また読めるとは限らないし。

 それに買うと決めた方の小説の値段も聞いていないし。

「あの……おいくらですか?」

 桂が訊く。

「えっとですねー。こっちが定価で、それは百円、それからそちらの本は三冊で千円ですから……」

「これ、三冊で千円なんですかー」

 店の雰囲気のそぐわないような大声を桂は上げてしまう。

 それくらい驚いたのだった。てっきり定価×三冊分の値段と思っていたから。

「あれ、中に価格の書いた紙が挟んでありませんでしたかー」

 全然気が付かなかった。そんな紙があったならすぐに気が付くはずだよなと思いつつ、桂は本を開く。

 栞代わりに挟んでいた紙に三冊分の価格がしっかりと記載されていた。

 どうしてこれを見逃していたんだろ、と反省しつつ、

「じゃあ、これも一緒にお願いします」

 嬉々とした声と共に、桂はテーブルの三冊の小説を手にして言う。

「はーい。それじゃー、お客さんはこの本に呼ばれてここに来たと思いますからサービスして、全部で二千円ですー」

 かなり安い金額だった。

「あのそれじゃ安すぎませんか。それにコーヒーのお代も」

「いいんですよー、それもサービスです。ここにはめったにお客さんは来ませんからー」

 それならなおのことちゃんとした金額を取らないと経営が成り立たないのではと思いながらも、せっかくの好意を無下にしてしまうのも。

「それじゃ、これで」

 財布から野口英世を二枚を取り出して支払う。

「はい、ありがとうございましたー。今袋に入れますからね」

 丁寧に紙袋に入れられ、手渡される。

 ハードカバー四冊、文庫本一冊。

 それなりの重量だったが、桂には気にならなかった。

 その重さこそが幸せの証のように思えたから。

 けど、いつまでも幸せな気分に浸ってはいられなかった。

 ふと、大事なことを思い出す。

「あの、ここは何処ですか?」

 なんとなく導かれるように歩いて来て、現在地が分からない。

「それなら心配はいりません、あの子が帰り道を案内してくれますからー」

 誰だろうと思いながら女の人の視線の方向に桂は目をやった。

 そこには片目の猫が。

「……猫がですか?」

 疑問の音が口から漏れ出てしまう。

 見かけよりも低い音で一声泣くと猫はスタスタと店から出ていこうとした。

 本当に大丈夫なのだろうかと思いつつも、桂は荷物をもって追いかける。

 が、その脚が止まった。

 そして反転して、

「ありがとうございました。また、私の好きな人を連れて来ますから」

 と、お礼を述べて会釈する。

「ええ。でもそれよりもー、早く行かないと行ってしまうわよ」

 その言葉に、桂は下げていた頭を上げ、同時に振り返ると、猫の姿は昇降機の中へと消えようとしていた。

 慌てて追いかける。

 閉まりかけていた昇降機へと桂は飛び乗った。

 そんな桂の背中に、

「ええ、縁があったらまた会いしましょう」

 女の人の小さな声が投げかけられたが、桂には聞こえるはずもなかった。


 猫が先頭に立って歩く。桂が後に続く。

 何処をどう通ったのか、桂には見当もつかなかった。

 気が付いたらいつの間にか白山通りへと出ていた。

 ここまで来れば、もう道に迷うことはない。桂は安心し、そして案内してくれた片目の猫に、ちゃんと言葉が通じるかどうか分からないけど、それでも想いは伝わるはずと思い礼を言おうとしたが、その姿は消えていた。

 周囲を見渡しても、いない。

 なんとなくだけど、案内が済んであのお店に、女の人のもとへと帰っていたんだと桂は思った。

 さあ、自分も帰らないと。

 桂は携帯電話を取り出し、美月に連絡を。

 そして目的の、とその他にも数冊の本も入手したことを告げた。


 一方、美月はどうしていたかというと。

 桂と別れた後、虱潰しに古書店と軒先、及び沿道の棚を捜索していた。

 しかしながら、全く見つからない。

 それでも熱心に桂の探す本を。

 美月の願いは、桂の幸せな顔を見ること。

 だが、その途中でそうもいかない事情が美月に降りかかる。

 データが近辺に突如出現した。

 そんなことよりも探すことを優先したいと気持ちが美月の中に多少あったが、しかしながらデータを回収することは左手のクロノグラフモゲタンとの約束であり、また対処しないで放っておくと周囲に甚大な被害が、それが建物だけで済めばいいのだが人的被害が出る可能性は高い。

 人の命と、探し物の本。

 どちらが重要なのかは考えるまでもなかった。

 美月はサイクリストに似たような姿に変身して、データの回収に向かう。

 向かいながら、自分一人で行くのではなく同行している麻実に応援を頼めば良かったかもと一瞬思うが、すぐに思い直す。

 先月回収に赴いた時には「手伝いはするけど、あたしはあの子達を倒さないわよ。だってその方があたしにお得だもん」と言われた。

 きっと今頃は別れ際に言ってように、自らの目的を楽しむことを優先するだろう。

 データの出現場所は神田神保町から、少し離れた水道橋、いやもっと正確に表記するならば東京ドームシティだった。

 野球の試合こそ催されていないが、多数のアトラクションや施設があり、隣接する後楽園ホールではボクシングの試合が行われている。

 急がないと、多くの人が巻き込まれてしまう。

 美月は空間を跳躍して跳んだ。


 東京ドームシティで美月は計らずとも戦隊ヒーローとの共演を果たしてしまうのだが、アクションジャンルにあるまじき暴挙であるが、その仔細は割愛させてもらうことにする。

 ともかく、どうにかこうにかして美月は無事データを回収。

 その際、ヒーローショーのお客さんから多大な拍手を頂いたのだが、これは別のお話。


 その後神田神保町に舞い戻り、人目のつかない所で変身を解いたところ、桂から連絡が。

 無事合流し、まだ読子ビルを探している麻実を迎えに行った。

 幸せそうに手を繋ぎながら。



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