不思議の店の桂 前
前回出番のなかった桂がメインの話。
十一月三日、かつての明治節、文化の日。
桂は、神田神保町に来て早々ちょっとした後悔を。
神田古書街に来たのは、毎年催される古本祭りに、長年探している小説を見つけるためであり、そして一人ではなく、美月と麻実も同行していた。
後悔の理由は、美月と二人きりでのデートを麻実によって妨害されてしまった、二人だけで楽しみたいと強い意志をもっとハッキリと示せば良かった、ではなく本日の服装だった。
ダンガリーシャツにブラウン系のパンツを合わせ、そして長い時間を歩くことを想定してスニーカー。ここまでは靴がちょっとだけ残念であるが、まあそんなに悪くない。では何を後悔しているのかといえば、それは秋物のコートを羽織っていたことだった。
出がけの天気予報では、曇りで気温は先週と比べるとグッと下がるとあった。
それなのに神田神保町に着いてみると、雲はほとんどなく見事なまでの晴天。それに暦の上では秋なのに、秋とは思えないほどの日差し。当然気温も上がる。
コートを着ているのが暑かった。
当然脱ぐが、今度は手を塞いでしまって邪魔になる。
同じ邪魔になるのなら、日傘にしておけばよかったと思ってしまう。
しかしながら、祝日ということもあり、結構混雑ぶりをみせる中で日傘なんか指していたら迷惑、及び顰蹙を買うのではという、小市民的な発想も同時に。
日傘はともかく、コートが邪魔にならばコインロッカーに放り込むという手段があるのだが、こういう時に限って必要なものは見つけられない。それに折りたたんでコインロッカーに放り込むのは変な折り目が付いてしまい、皺になりそうなので心情的にはあまり入れたくなかった。
ならば、美月に持ってもらえば。
実をいうと後悔は一つではなかった。
着いてすぐに、美月、麻実と別れていた。
春の一度、神田神保町を訪れていた。その時は桂と美月が一緒になって古書店を巡り、目的の小説を探していたのだが見つからず、今回はその時の失敗を糧に、分散して効率よく店舗を回って探すという手段を。
まあ他に別れた理由として、
「あたし、読子ビルを探すの。それからファーブルと戦った場所も観たいし、他にも……」
という、桂の本を探す以外の目的が麻実にあったからであった。
人でごった返す、これはちょっと過剰な表現かもしれないが、それでも大勢の古書を求める人の波に流されながら、桂は一人でいることに心細さを覚えていた。
携帯電話で別行動中の美月に連絡を取り、一緒のまわって探そうかと桂は思ったが、すぐにその考えを放棄した。
別行動しているのは効率よく目的の本を探すため、言うなれば自分のためにしてくれていること、それを我儘で止めにしてしまうのは。
ちょっとだけ無理やりに気を奮い立たせて、古書巡り、本探しを。
どこの目当ての本が隠れているか分からない。
思いもよらぬところに目的の本があるかもしれない。
靖国通りの歩道沿いに所狭しと設置された本棚や平台に目を配らせながら桂は歩く。
もちろん、既存の古書店にも入店して探す。
そんなことをしなくともネットで簡単に購入できるのでは考える読者も多いと思うが、桂がこうして自らの足で本を探すのには理由があった。
その一つは、かつてネットでとある小説を購入したことがあった。しかし、それはひどく状態が悪く、最後まで読み進めることができなかった。
そのトラウマのようなものがあり、以後ネットで本を買うのを躊躇していた。
そしてもう一つ、書店に出かけると思わぬ偶然の出会いがあることが。
これは人ではなく、本。
目的の書籍とは全く違う本を手に取ってしまい、それを購入してしまうこともあった。
その際散財してしまい、財布の中身がピンチになってしまうのだが、偶然購入した本は大抵面白く、そんな些細なことは吹き飛ばしてしまうほどの充足感を得られる桂だった。
ともかく、桂は古書の本棚を巡る。
目的の本はハードカバーであったが、ソフトカバーの本にも、文庫にも、さらにはコミックスの単行本の棚もチェックする。
知恵に教えてもらった自分と同じ名前の主人公のマンガの単行本セットを発見したり、昔読んでいた児童文学作家が源氏物語を現代語訳に直した本が出ていることを知ったり、ネット上でお勧めされていた百合マンガを手にしたり、と色々。
その中でもとりわけ桂の印象に残ったのが、SF専門店で見つけた文庫本。
まず、そのタイトルに桂は目を引かれた。表題の横に社名のついたサブタイトルが。その社名に桂は聞き覚えがあった。美月、というか稲葉志郎、がエキストラの仕事をしている時に聞かされた番組制作会社の名前が。
本棚から抜き取ってみる。
表紙には小さい頃観ていた幼児向け番組の緑色マスコットキャラがちょっとだけ凶悪な顔で描かれている。
桂は疑問に思ってしまう。
どうして、このキャラがこの小説の表紙に描かれているのか? いやそれよりも、何故SF専門店にこの本が置かれているか?
幼児向け番組とSFでは何も接点がないような気が。
疑問に思いながらも、頭の片隅でこの本を購入しようか桂は迷う。
この文庫本を買っていったら美月がどんな反応を示すのか。驚いて、そして喜んでくるかもしれない。
でも、反対に何の反応も示さないということも想定される。
迷いながら桂は裏表紙を見て値段を確認する。
そこには定価の三倍以上のプレミア価格が記載されていた。
迷いが一気に吹き飛んだ。桂は文庫本を棚に戻し、そのまま店から出ていった。
靖国通りだけではなく、裏のすずらん通りにも。
しかし、いずれの店も空振りに終わってしまう。
目的の本はどの店にもない。
それでも諦めずに別の店に突入する。
そしてここにやっぱり無かったかという残念な気持ちで店から出ていく。
店を回り過ぎて、桂は今自分が何処にいるのか分からなくなっていた。
端的に言えば、迷子になっていた。
さあ、どうしよう? まだ探すのか? それとも今の迷子の状態から脱出すべく、とりあえず分かるところ、すずらん通り、いや靖国通りまで戻ろうか。
桂は思案する。
その時、ふと不思議な、そしてしばらく感じていなかった懐かしい感覚が桂の中に。
それは何かに呼ばれているような感覚だった。
こういう時は大抵目的の本を手にすることができる。
一度も入店したことのない書店でも、この感覚がある時は、店員さんに場所を聞かなくて自然に脚が目的の本のあるところまで歩いていく。
だけど、一つだけ違うことが。
これまでは店の中であったこと、それが今は外で。
どうしてだろう?
ついさっきまでの思案を忘却して、今度は疑問に思ったことについて思考を巡らす。
桂の出した結論は、古書祭りで街全体が本屋さんみたいな状態だから、だった。
そして、呼ばれていると感じている方向へと歩き出した。
呼ばれているような感覚に導かれるまま、桂は人の流れに逆らうように歩き、交差点を、横断歩道を通り、陸橋を渡り、それから川にかかる橋を越える。
さっきまでの好天はどこにいったのか、急に霧が立ち込めてきた。
そして肌寒くなってくる。
失敗と思っていたコートが役立つことに。
どれくらいの時間歩いたのか桂は分からなかった。
分からないまま、とある年代物のビルの中へと入っていた。
ビルの中に入っても桂の中の感覚は消えない。
消えるどころか、より強くなっているような気が。
自分がどんな経路でここまで来たのか桂は憶えていなかった。
それでも進む。
今何処にいるのか桂は全然分からない。何処かのビルの中にいるのは分かるが、現在地は何階なのか見当もつかない。
それどころか、自分が階段を上ったのか下りたのか、それさえも。
普通ならば、その時点で怖くなってしまい、戻ろうと考えるのだろうが、この時の桂の頭の中にはそんな思考は微塵もなかった。
ただ、呼ばれていると感じる方向に進むだけ。
チーン、と年代物の昇降機が降りる階に付いた合図のベルを鳴らす。
何時古めかしい昇降機に乗り込んだのか、自分が何階のフロアのボタンを押したのか、桂には記憶がない。
だが、降りた先こそが目的の場所という確信のようなものがあった。
桂が昇降機から降りる。
灯りの少ない、少し暗い場所だった。
目の前には山積みになっている書籍の数々。
看板らしきものは存在していないが、ここが書店であることは一目瞭然だった。
桂は書店、と思わしき、のドアを開ける。
木とスリガラスの古い造りなのに引っ掛かりもなくスーと開く。そして来客を知らせるベルの音が心地良く響く。
ベルが鳴ったのに誰も出てこなかった。
留守なのだろうか? 勝手に見てもいいのだろうか? 桂は入り口付近で立ち止まって、薄暗い奥に誰かいないかと目を凝らす。
「あらー、お客さん。いらっしゃいませー、今行きますからねー」
間延びしたような口調の声が聞こえた。
奥から何かが迫ってくるにが、この薄暗さに慣れ始めた桂の視界に。
店主が来るのだろうと桂は思った。
だが、次の瞬間その認識が誤りであることを知る。
「……ねこ」
そう、人ではなく猫が桂へと近付いてきている。
トラキジ模様で、尻尾は短く、そして一番の特徴は片目。
近付いてきたトラキジ猫が桂の足元にまとわりつく。
「お待たせしましたー」
また、声がした。
この場には猫と桂しかいない。
もしかしたら、この猫が店の主なのだろうか。
そんなことは絶対にないはずなのに、そう桂に思わせるような雰囲気が店の中に。
「あっ、……あの本を探しているんですけど」
足元にこの店の主と思われる猫に言う。
言いながら桂は、何当たり前のことを言っているんだろう、と思ってしまう。書店に来て、魚を求めるなんてことはないのに。
返事がない。
猫は足元で桂を見上げているだけ。
もしかして人の言葉は通じないのかな? あれ、でもさっきは日本語喋っていたような、そんなことを逡巡する。
「それで、どんな本をお探しなんですか?」
またまた声が。
この声は足元から、ではなく店の奥から。
奥から人が姿を見せる。出てきたのは桂よりも少々年嵩の女性。ノースリーブのニットにロングスカート、ショートカットで眠そうな目が特徴だった。
「きっ、木地雅英子という人の『氷の海のガレオン』という小説を探しているんですけど。あ、あの文庫本じゃなくて、というか文庫の方はもう持っているんですけど、それじゃなくて講談社から出ている初期の本で、図書館に所蔵していたのを読んだことがあったんですが、手元に置いておきたいと思って。それに文庫本には収録されていない短編もあるし……」
自らの勘違いに気が付き、赤面しながら早口で。そして恥ずかしさを払しょくしようと無意識に思ってしまうのか、言わなくてもいいような説明を多く付け足してしまう。
「あー、その本なら倉庫にあったと思いますよ」
まだまだ続きそうな桂の言葉を遮るように、女の人のマイペースな声が。
「……あるんですか?」
冷静さを取り戻しながら桂が問う。
「多分ですけど、あると思いますよー。ちょっと待ててくださいね、今見てきますからー。それであったら持ってきますからー」
そう言って女に人は店から出ていき、ついさっき桂が降りた昇降機に乗り込もうとした。
が、Uターンして店へと戻ってくる。
「ちょっとお待たせすると思いますのでコーヒーでも飲んでー、店の本を自由の読んで待っていてくださいー」
「あの、いいんですから、また出直してきますから」
そこまでしてもらうのは申し訳ないと思い桂が。
「いいんですよー、今コーヒーを出しますからー」
帰ろうとする桂の背中を強引に押してイスに座らせる。
のんびりした口調とは違い、手際の良いテキパキとした動きでカップにコーヒーを注ぎ、桂のいる机まで砂糖とミルクと一緒に運んでくれる。
コーヒーの良い香りが桂の鼻腔をくすぐった。
まだ出直すつもりでいた桂の意思が変わる。飲んでいる間、待っていようかなと。
「それじゃ行ってきますー。ああ、多分誰も来ないと思いますけど、お留守番お願いしますね」
女の人は、桂か、それともいつの間にか移動して机の上にいる猫に言ったのか、定かではないが、とにかくそう言い残すと、ドロップハンドルの小径車を押して昇降機の中へと消えていった。




