ドキドキ、新生活 6
月曜日の朝、桂は慌しく仕事へと向う準備をしていた。最愛の人が行方不明になりショックでずっと休んでいた。今日から復帰ということになる。泣きはらしていた瞳はまだ少し赤かったが、愛らしい頬はもとの弾力を取り戻しつつあった。
「それじゃ、私は仕事に行くから。えっと、お昼はお金を置いていくから適当に買って食べておいて。それからこないだ買ったチェストが今日届くから受け取りお願いね。……あ、暇だったら部屋の本を読んでいいからね、ゲームも自由にしていいから。美月ちゃんの好みにあうかどうかは分からないけど。後は……」
急いでいるはずなのに桂の足は一向に前へと進みそうになかった。仕事に行くと自ら決めたものの美月を一人残していくのが心配だったからだ。
「……遅刻するよ」
急いでいるのにもかかわらず桂は美月の長い髪を三つ編みに結い、服を選んでいた。本日の衣装はユルフワなワンピース。おまけにレギンス。男であった美月にはこれを着用する意味が分からない。拒否をしようとしたが、「駄目よ、美月ちゃん無意識に大股になる癖があるから。パンツ見えちゃうから」そう言われ強制的に着用を。
美月の言葉に桂は自分の時計を見る。出ないと電車に間に合わない、遅刻確定になってしまう。
「それじゃ、いってきます。何かあったら携帯に連絡してー」
騒々しい音とともに出かける桂の後姿を美月は玄関で見送った。
後は荷物が届くまで美月には何もすることがなかった。端的に言えば暇であった。こんな暇な時間は久しくなかった。志郎であった頃は毎日アルバイトと稽古があった。この身になってからはすることが無かった。
朝の日課はすでに全て済ませていた。
突如、昔公演の手伝いをしたバレエのことを思い出す。そこで教えてもらった基礎練習を思い出しながら身体を動かす。まずは基本ポジション。あの時は股関節が硬くて取れなかったポジションも今なら簡単にできる。調子にのってフェッテまでする。以前はバランスが取れずに上手く回れなかったが、この少女の身体は綺麗に回転した。それも何回転も、ついでに目もまったく回らない。いつまでも回り続ける独楽のようだった。
またすることもなく退屈になった。手持ち無沙汰からテレビの電源を入れる。秋葉原の件が報道されていた。反射的に電源を落とす。それを観ると罪悪感を刺激された。だから遠ざけた。
退屈を紛らわせるために美月が選んだのは読書だった。
バイトと稽古、たまにエキストラの仕事。最近では読書はすっかりとご無沙汰だった。
本棚に並んだ書籍の中ら手にしたのは一冊の文庫本。
岩波版の『ロミオとジュリエット』
手に触れた途端ある記憶が蘇ってきた。
付き合い始めた当初、桂が役者の彼女になったのだからと言って購入したもの。しかし、新劇、つまり海外の作品にはあまり興味が無いことを伝えるとしょぼんとした顔になった。
それがすごく愛らしかった。
時間はある、有体に言えば暇だ。
読んでみる。
翻訳自体が古いから、文章がすごく読みにくい、こんなの台詞で言うのは難しいなと思いながらも読み続ける。
意外と面白かった。暇つぶしのつもりのはずだったのに。
そうこうしているうちにチャイムが鳴った。どうやら配達品が届いたらしい。
配達員は美月を子供だと判断して中まで運ぶと言ってくれたが丁重に断る。外見は少女だが力は成人男子を遥かに凌駕している。それに部屋の中には桂の脱ぎ散らかしていったパジャマもある。それを見せたくない。隠してから入れればと思うかもしれないが、他の男を中に入れたくない、嫉妬のようなものがあった。
これで予定は全て終了したことになる。本当になにもすることはない。
面白かったけど慣れないことをするのはけっこう疲れる。読書を再開するような気分にもなれなかった。
「暇だ。退屈だ」
〈それならどうだ。気晴らしのために出かけないか。もしかしたらデータの手がかりを運良く掴めるかもしれない〉
美月はモゲタンの提案に乗った。しかしデータを探すために外に出るのではなかった。
レトルトのご飯をお握りにする。それから空のペットボトルにお茶を入れて、桂から貰ったお古のリュックに詰める。
陽気は良かったが気温はまだ低い。デニムの上着を羽織る。
この家に来てから初めて一人で外へと出た。
この辺りの地理には疎かった。
何度も足を踏み入れているのに駅周辺と桂のマンションの周囲しか知らなかった。路地裏で古本屋を発見する。その向うには感じの良い呑み屋。さらに大人の本屋まで発見するが、さすがにこの幼い少女の外見で立ち入るのは不可能。
散策をして気が付いたことがあった。平日だというのに子供の姿を多く見かける。すぐに合点がいった。今は春休みなのだ。学業から離れて久しいから分からなかった。
考え事をしながら歩いていると中学校を発見する。グランドからは部活中の生徒たちの元気な声がこだましていた。
もう少ししたら学校が始まる。どう見ても義務教育期間の少女が毎日家にいたら近所の人に奇異な目で見られないか。桂に迷惑をかけてしまうのではないのか。
〈大丈夫だ、心配するな。ワタシの力でその件もなんとかしよう。君には余計な心配で協力に支障をきたしてもらっては困るからな〉
美月の思考を読んでモゲタンが言った。
「……助かります」
素直に感謝した。どのような非合法手段で問題を解決するのか美月には分からないがモゲタンに委ねた。任せることに慣れてしまっていた。
一つの懸案が片付いたところで身体が空腹を訴えた。学校には無断に侵入するわけにはいかないから近くの公園で手製の弁当で遅めの昼食をとる。強烈な春風が吹いてせっかく桂に丁寧の結ってもらった髪が乱れる。自分で直そうにも髪の毛をいじる経験が無い。当然上手くいかない。結果、ほどけてしまう。
「邪魔だな。なあ、この髪は短くすることは可能か?」
〈切ることによって短くすることは可能だ。だがワタシが操作して長さを調整することは不可能だ〉
「そっか……後で桂に相談するか」
目にかかる前髪を払いのけながら美月は言った
夕方、桂から帰宅の電話があった。
夕飯の仕度に取りかかる。同居するようになってからの食事はコンビ二の弁当か外食しかなかった。マンションの裏手で発見したスーパーでうどんを二玉と鶏肉、かき揚げのお惣菜、それからお米。桂から貰ったお金で支払った。あまり使用していない炊飯器でご飯を炊く。それから雪平鍋に水を張り沸騰させ、そこに鶏肉とダシの素を入れ、醤油、味を確認しながら砂糖、塩。味を整えたところで桂が帰宅する。
「ただいまー。あれ、いい匂いがする」
「おかえり、着替えてきて。すぐにできるから」
桂が着替えている間にうどんを雪平鍋の中に投入して茹でる。丼に移しスーパーで買ってきた天婦羅を乗せ完成する。
「すごーい。美月ちゃんが自分で作ったの」
美月は肯くだけだった。別に自慢するようなことでもない、簡単な調理だった。
「それじゃ、いただきます」
うどんを一口、それから汁に口をつけた桂の目から一筋の涙が零れ落ちた。
「……この味。……稲葉君のと同じ味だ」
外見は違うが中身は同じ存在、味付けの好みも一緒。昔、桂が風をこじらせて寝込んだことがあった。その時同じようにうどんを作った。その味を彼女の舌は憶えていた。
「……桂……さん」
ふと名前を呼んでしまう。しかし年下の体で呼び捨てはおかしいと途中で思い、慌てて、「さん」を追加する。
けど、声をかけても何と言って慰めればいいのか分からなかった。
「……こんなんで泣いてたら笑われちゃうよね……美月ちゃんと一緒に暮らすんだからしっかりすると決めたのに……食べよ食べよ、早くしないと伸びちゃうね」
桂は涙を拭ってうどんをすすり始めた。
2022/12/10
かしわという言い方は関西、中部、九州で使用されている方言で全国区ではないと最近しって少々修正を。