マーメイド ストライク
「えへへ、来ちゃった」
玄関のドアを開けると、そこには悪戯っぽい笑みを浮かべた、長い黒髪の少女が。
この少女は、同じような力を有している、あの人魚だった。
自分のところに来ることはすでに分かっていた。
同じ境遇の存在同士は、美月の場合は多少事情が異なるのだが、互いが接近すると認識することができる。
美月の脳内にも左手にはめたクロノグラフ、モゲタンからあの時の人魚が近付いてきているという信号を脳内に受けていた。
以前ならば玄関を開けることなく、警戒し、さらには用心して対応をしていただろう。
しかし、そうせず出迎えたのには理由が。
まずは相手が警戒する対象ではないこと。先のデータの回収の時には、一時的には争うことになったが、最終的は協力し事態を解決した。
いわば、信頼があった。
もう一つの理由は、その時の別れ際に「近いうちに会いに行くからー」、そう人魚が美月に残していった言葉。
変身によって姿形を変えることができる。
下半身が魚という人魚、それに少々扇情的な衣装で、現実世界ではまずお目にかかることがない銀髪。だが、顔立ちは十代の少女のものだった。
おそらく実年齢もそうだろうと予測していたが、まさにその通り。
学生だったら、夏休みの間に訪れるであろうと想定していた。
その想定がピタリと当たる。
「いらっしゃい。暑かったでしょ」
少女の服装は黒を基調にしたものだった。一言で言うと夏にはあまり相応しくないもの。
「別に暑くなんてないから」
そうかと美月は思い直した。力を行使すれば、外気温に関係なく快適に過ごすことができる能力を備え持っている。
「まあ、ともかく入って」
と言った後で美月は、これは自分の今の見た目が少女だからまだいいけど、以前の稲葉志郎のままだったらヤバイなと思ってしまう。家主である桂がいない隙に少女を部屋に連れ込もうとしている。立派な案件に。
しかしながら、そんな下心は一切持ち合わせてなんかいない。
それに中身はともかく、見た目は少女だしと思い直す。
「さあ」
思い直して、来客用のスリッパを出す。
「それはいいから」
少女も美月の正体を知っている。
警戒しているのだろうか、と考える。
「それよりもこれ」
そう言って手渡されたのは丁寧の包装された箱。
「お土産なんか別にいいのに。そんなことに気を使わなくても」
見た目は美月の方が年下なのだが、中身は遥かに一回りも上。
「それ引越し蕎麦だから」
「……へっ?」
「あたし、そこの部屋に引っ越したから」
美月を玄関から外へと連れ出し、少女は指さす
その方向には空室になっている部屋が。
「えー」
近所迷惑になるような大きな美月の驚きの声が廊下だけにとどまらず響き渡った。
「それじゃさっさと出かけるわよ。今日はすることが山のようにあるんだから」
いまだに驚いている美月に人魚の少女が。
「……あ、うん。……て、どこに行くの? いやそれよりもまず、僕は君の名前を知らないんだけど。一応これからご近所づきあいをするんだから、名前くらいは知っておいたほうがいいかも」
少女は大きく手を叩き、
「そういえばそうよね。あたしは志郎の名前どころかそれ以上のことも知っているから忘れていたけど、志郎はあたしのこと全然知らないだもんね」
見た目はでは年上だが、実年齢でははるかに年下の少女に呼び捨てで。
人によっては憤慨してしまうかもしれないが美月は怒る気はなかった。
それよりも呆気に取られているほうが大きかった。
「あたしの名前は八神麻実。よーく覚えておきなさいよ」
「分かった。八神さんね」
「ダメ。名前で呼ぶの」
「えっと……麻実……さん」
敬称について美月は判断に迷ってしまった。実際の歳は美月が上だが、見た目では下。そして選んだのがさっきの言葉。
「別に敬称なんかいらないのに。……まあいいわ、それよりも行くわよ」
途中の言葉はすごく小さな音で美月にも聞こえないような声だった。
「うん、分かった。この辺りのことは詳しくなったから任せておいて」
ほんの少し前までの疑問に美月は自己解決を。
新生活で必要な物の買い出しに付き合えと言っているのだろう。もしかしたら家電一式もここで新たに揃えるのかもしれない。引越してきたというわりにはトラックの音や搬入の騒がしさを耳にしていない。それに麻実の住む名古屋周辺から高い引っ越し代金を払って運ぶよりも、買った方が経済的かも。
美月はそう想像した。
「まずは市役所へ」
買い物ではないらしい。意外な場所が口から出てきた。
「ああ、転居届の提出に行くんだ」
意外としっかりした娘さんのようだ、美月はそんな感想を。
「はー、違うわよ。ああでも、出さないといけないことには変わりはないわね」
目的は違うらしい。
しかし、転居届の提出以外の理由で市役所の赴く理由を美月は思いつかない。
「じゃあ何しに?」
「それは志郎とおんなじ中学に通うためよ」
「はー」
本日二度目の驚きの声が。
「中学生っていう年齢じゃないよね」
十代の少女だが、どう見ても中学生とは思えない。特に、胸の部分が。
もちろんこんなことは思っても絶対に口には出さないが。
「十六歳よ」
見た目通りの年齢だった。
「その年齢で中学に入れるの?」
高校や大学、あるいは専門学校等で年上の同級生というのは聞いたことがあるが、中学では聞いたことがない。
「さー」
「さー、って」
「あたしさ、小さい頃からずっと病院にいて学校にまともに通わずに中学を卒業しちゃったんだ。それで高校にはいかずに高認を取って大学に行こうとしていたんだけど、それならもう一度中学からやり直したほうが良いかなって思って」
「高認って?」
「えっとね、なんか説明が面倒なんだよね」
〈高等学校卒業程度認定試験の略だ。大検が名称を変えた〉
大検ならば知っていた。紙芝居の人が、自分は高校中退で大学検定試験に個人の力で合格し、それから進学したと愉快そうに話していた。
「いいよ、もう分かったから」
「あっ、モゲタンに教えてもらったんだ。それでね、その子の力を借りたいの。志郎の時みたいにさ、チョコチョコと色んなことを操作して、あたしをアンタと同じ中学二年生にしてくれないかな」
「義務教育を受ける年齢を過ぎているのに、そんなこと可能なのか?」
〈ちょっと待て、文科省のデータベースにアクセスしてみる。その間に一つ補足を、君は義務教育を少し誤解している。受ける義務ではなく、受けさせる義務だ。終わった。夜間中学名ならば可能のようだが、通常に中学に入り直すという実例の報告はない〉
「えっと、……難しいみたいだ。今までそんなケースないんだって」
実例がないということはほぼ不可能。だが、それを伝えるのは酷と考え、美月はやや言葉を濁して返答した。
「じゃあ、あたしが栄えある第一号になるんだ」
美月の意図は理解してもらえなかった。
「そう意味じゃ……」
「行くわよ。まあ、ダメだったらダメだったで高認を取ればいいだけだから」
八神麻実は美月の手を引っ張ってエレベーターへと駆け出した。




