勉強会
昔、夏休みの課題は八月の末、つまり間際になるまで全然手をつけなかった。
そして連日徹夜で、その手をつけていない課題をどうにかこうにか片づけて二学期を向かえていた。
これが稲葉志郎の学生時代だった。
同じ轍を二度と踏まない。
少女として二度目の中学生活を送る伊庭美月、かつての稲葉志郎、は夏休み前に念密に計画を立て出された課題に対処しようと目論んでいた。
十数年ぶりの夏休みの課題、懐かしを覚えながらも、出された大量の課題を目の前にすると辟易してしまう。
だが、計画通りに実行すれば八月の末には余裕をもって終わるはず。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
計画に破綻が生じてしまった。
夏休み当初は、計画通りに、いや計画以上の速度で夏休みの課題を片付けていった。二度目の中学生ということもあるし、それに傍には現役教師の桂という頼もしい存在も。
なのに、計画が狂ったのは。
そう、それは思いもかけずに長逗留してしまった里帰りに理由があった。
日帰り、もしくは一泊で帰る予定に当初はなっていた。
一週間も滞在することに。
当然ながら夏休みの課題なんか持っていっていない。
それに加えて、帰ってからも所用があったり、桂の世話をしたりと割かし忙しい日々を送っていた。
その結果がトータルで約十日分の遅れ。
これは本腰を入れて取り組まないと美月が思った矢先、知恵達から勉強会をして課題を片付けようと誘われた。
この申し出は魅力的だった。
一人では時間がかかってしまうが、分散すれば労力は少なく済む。
だが、課題を丸写しでいいのか? 全てできなくとも一人で解くことに意味があるのでは、と大人な考えが美月の中に。
それに勉強会にはリスクがある。
年頃の娘たちが集まるのだ。三人寄れば文殊の知恵ではなく、只単に姦しいだけになってしまい、結果課題が進展せずに終わることも十分に考えられる。
しばし考えた後、美月はこの提案を受け入れた。
芳しくない結果に終わっても別に構わない。久し振りに年下の友人達に会いたい。それに遠くに引っ越した美人の近況も直に会って伝えたかったし。
というわけで、知恵、文、靖子、そして美月の四人での勉強会が決まったのだった。
予想外と言っては失礼かもしれないが、勉強会は捗った。
参加者全員根が真面目だったのか、課題は期限までに提出しなくてはいけないというある種の強迫観念のようなものに囚われていて、必死に自分の分担に取り組んでいた。
美月も遅れていた分を取り戻していく。
だが、いつまでも集中力が続くわけではない。
合間にはお喋りも。
その話題は、会っていない間に何処に行っていたか。
知恵は関西に帰省し、文はコミケに、靖子は家族旅行で四国に。
そして美月はもちろん三重へと帰省。
「そういえば美月ちゃん、美人に会ったんやてな」
「…うん」
美月は実は美人に会ったことは内緒にしておいて、今日は話して驚かせようと密かに企んでいたのだが、どうやら先に漏洩していたみだいだった。
「二人で紙芝居を観たんだってねー」
「けどまー、珍しいの観たな。そんなん何処でやっとたん?」
「うん、四日市のショッピングセンターで」
「そんな場所で紙芝居の上演なんかしているの?」
「すごく面白かったよ」
「えー、あたしはパスかな。なんか紙芝居って子供っぽくない」
「いやいや、古き良き大衆文化の一つやで。テレビの無い時代の娯楽やで。黄金バットを始めてとして色んなヒーロー。それにあの水木先生も元は紙芝居作家やしな」
「やっぱりパス。古臭いのもねー」
「私は美月ちゃんと一緒なら、どんな作品でも楽しめるわ。ああ、一緒に観たかったな」
溜息交じりで己の願望に口にした靖子に、
「じゃあ、観る?」
と、美月が言う。
「はー、それどういうこと?」
「実は観ていただけじゃなくて、僕たちも上演に参加したんだ。その時の様子を録画してもらっていて、それを編集してDVDにして送ってもらった」
あの後、美月と美人は「演ってみる」と、紙芝居の人に誘われて急遽参加した。
その際、興味のあった美月は二つ返事で承諾したが、美人は尻込みしてしまい、せっかくの機会を逃してしまうのは美人のこれから演劇人生においてプラスになるはず体験をみすみす逃すのは勿体ないと思った美月は、しばし思案し、ならば一緒にしようと持ちかけた。
ということで、二人で紙芝居の上演を。
女子中学生が紙芝居を上演するというので、紙芝居の人は知り合いに連絡を取り録画機材を持ってこさせ、撮ることに。
「観る、絶対に観たい」
靖子が食いついた。
「おもろそうやなー」
と、知恵。
「みんなが観るのなら、別にいいかな。それに美人の顔も久し振りに見れるし」
かくして、上演会と相成った。
美月自身も観るのは初めてだった。
というのも、普段から客観的な視点での芝居を一応心掛けて、さらには美人にもそう指導したものの、己の演技を観るのはあまり好きではなく、粗ばかりを見つけてしまい、自己嫌悪に落ちてしまう傾向にあった。
というわけで、届いてから今まで封さえ開けてはいなかった。
ならば、そのまま封印しておけばと考えるかもしれないが、美人のことがあり、ある意味恥を忍んでみんなに披露を。
案の定、欠点が目についた。
もう少し、紙芝居の人のような演技ができているとは上演中は思っていたけど、いざ観ていると足元にも及ばない。
まず声が出ていない。
それに一緒に上演している美人のフォローも今一だ。
上演前に、紙芝居は二人でするよりも一人でしたほうは楽と、紙芝居の人に言われていた。
それが如実に画面に現れていた。
自分ではもっと大きく動いて芝居をしていたつもりなのに、小さな芝居。
そして最大の欠点は、間の悪さ。
舞台慣れしていない美人の間が悪いのはしょうがない。しかし、美月は紙芝居の上演は初めての経験だがそれなりに芝居の経験がある。にもかかわらず、客観視してみると間の取り方が下手だ。
我ながら嫌になるくらい。
もしこれが一人での観覧だったら即座にDVDを消して未来永劫封印してしまいくらいの出来栄えだった。
そんな状態だったが、他に観る人間がいるので我慢する。
美月にとって苦行ともいえる時間がようやく終わった。
ただ観ているだけだったのに、疲労困憊に。
「おもろかったで。そやけど、意外と煩い場所で上演したんやな」
「ううん、凄く下手だよ」
「美月ちゃんの声がきちんと聞こえたけど、美人のは所々小さくて聞こえなかったし」
「でもずっと画面が固定されていて美月ちゃんの可愛い顔をアップで見られなかったのは残念ですわ。でも、さすが美月ちゃん。美人さんはずっと下を向いて何かを読んでいるようでしたけど、美月ちゃんは内容を完璧に覚えて正面を見て上演していた」
画面がずっと固定されていたのには理由があった。それは撮影者の演出を加えないということ。テレビのようにある特定の部分をクローズアップするということは、演者の考えとは違う第三者の意図が加味されるもの。観る者の意識を阻害するものであった。
そしてもう一つ。美月があたかも上演している紙芝居を全て暗記しているかのように映っているのには理由があった。それはモゲタンの力を借り、脳内にスクリプトを出してもらい、それを見ながら演じていた
言うなればズルであるが、これは内密に。
「それじゃもう切るよ」
まだまだ課題は残っている。いつまでもDVDを観ているわけにはいかない。
「あれ、でもまだ続きがるみたいだよ」
あの日の上演は美月と美人ので終了だったはずなのに、映像はまだ続いていた。
画面に出てきたのは、紙芝居の人。
「これが例の紙芝居の人か。なんか昭和のハンサムって感じの人やな」
知恵の言葉に、美月は思わずなるほどと心の中で感嘆符を。
イケメンというのとは違うなと会った当初から思っていたが、言い得て妙だ。
「あたしはパスかな」
「私も濃いのはちょっと苦手かな」
どうやら平成の女子中学生には受けが悪い顔のようだった。
「それでこの人上手いの?」
「うん、すごいよ」
凄いとしか言えない自分の表現力を嘆かわしく思いながらも、実際に凄いのだからしょうがないと思いながら美月は答える。
「美月ちゃんがそんな言うなんてちょっと興味がありますわね」
「……じゃあ、観てみる」
「観る、みたい」
というわけで、DVD鑑賞延長戦へ。
「……すごかったー」
「……美月ちゃんの言う通りだった」
「……こんな迫力あるとは思わなんだー」
上演していたのは『阿漕浦』という題名の紙芝居。
これは美月も観るのは初めての作品だった。
しかし、題材そのものは実家近くの民話で、幼いころから慣れ親しんでいるものを、主人公を変更しアレンジしたものだった。
そんな美月でも圧倒された。
先の映像を同じように、画面は引きで固定されていて、その左端に紙芝居の画をワイプ。
それなのに画面越しからでも、恐怖に苛まれて徐々に狂っていく男の芝居が痛ましく、そして怖く、もの悲しかった。
「さっきの美月ちゃんの言葉の意味がよう分かったわ。あれ、謙遜して言ってる思たけど、これ観たらまだまだと感じるのも無理はないわ」
「ほんと、すごいねー」
「生はもっとすごいよ」
「ああ、いつか美月ちゃんと二人で観に行きたいわ」
「これさ、美人もこの人のような紙芝居をいつかするんかな?」
「それは分からない。…でも、また観に来たいと言っていたから、もしかしたら将来この人のところに弟子入りして紙芝居に携わるようになるかも。……そうなってくれると嬉しいなって思っている」
本当は自分が一緒に紙芝居をしたいと思っていたくらいだった。
「そっか、美人も頑張ろうとしているんだ」
「私達も負けてはいられませんわ」
「そやな、そんじゃいっちょがんばろか。まずは目の前の課題をこなさんと」
「でもさ、その前にちょっと休憩したいよ。あんな凄いの観て疲れちゃった」
「そうですね、何か甘いものでも食べてリフレッシュしたいような気分ですわ」
「それじゃお餅でも食べる?」
土産として大量の永餅を持たされていた。
「いや、お餅もええけどやっぱりここはスイーツやろ、というわけでコンビニにスイーツ買いに行こか」
「賛成―」
ということで、全員で近くにコンビニに。
みんなが部屋を出て、美月が鍵を。
話しながらエレベーターを待つ。下から上がってきたエレベーターの中にはスーツ姿の男性と妙齢の女性。
二人は美月たちの階で降りる。
美月は二軒隣の部屋が先月から空室であることを思い出した。
そして今のはおそらく内覧であろうと想像した。
しかし、このマンションは単身の若者向けの物件であり、先程の女性が借りるのには些かばかり歳をとっているのでは、と失礼なことを考えてしまう。
〈おそらく、先の女性の子供が部屋を借りるのでは〉
左手のモゲタンが美月の脳内に。
なるほどと合点がいく。
とはいえ、近所付き合いが希薄な昨今。どんな住人が引越してこようがあまり関係ないと美月は思った。
コンビニでスイーツを物色し、それを食べ、再び課題に取り組んだ。
予想以上の成果が。
有意義な夏休みの一日だった。




